26.顛末
微かに消毒薬特有の匂いがする。体が鉛のように重く、まともに身動きも出来ない。右腕を動かそうとした途端、肘の内側が鈍く痛んだ。鼻にも、変な異物感がある。自分はどうしてこんな状態に?
晃はしばらく頭がぼんやりしていたが、ふと遠隔で力を使い過ぎて、気が遠くなったのだということを思いだした。
何とか目を開けると、自分を覗き込んでいる顔があるのがわかった。
「気が付いたのか、早見。腕は動かさないほうがいいぞ」
雅人の声だ。次第に焦点が合ってくると、覗き込んでいる顔が雅人だと気づいた。
「腕に、点滴針が刺さってるんだよ。動かさないほうがいい。鼻にも、酸素のチューブがはまってるしな」
その言葉で、晃は今の状況が理解出来た。今自分は、病院のベッドにいる。
右手の指先には、クリップ状の何かが中指を挟むように取り付けられている。おそらくは心拍数を測るものだろう。
すでに義手と義眼は外されて、左眼の部分には眼帯が付けられていた。気を失う前に着ていた服は、身に着けていなかった。今着ているのは、検査着らしい薄いブルーの前合わせの服だ。
周囲は、左手側がカーテンで仕切られ、右手側は壁、足元側には窓があり、やはりカーテンが引かれている。カーテンの向こうは割と明るい。すでに、朝になっている?
「……川本か。今、何時だ?」
「目が覚めての第一声がそれかよ。今は、朝の七時だ。結局おれ、病院に泊まっちまったぜ」
「え!?」
それでやっと頭が冴えた。
「病院に泊まったって……どういうこと?」
晃が思わず問いかけると、雅人は頭を掻きながらベッドのすぐ脇に置かれていたパイプ椅子に座り、話し出した。
鬼が去った直後、化け猫が慌ててぎゃあぎゃあ騒ぎ出したと思ったら、万結花が猫の言葉を聞き取ったらしく、顔色を変えた。
「兄さん、早見さんが大変なの! 今のことで力を使いすぎて、気を失ってしまったみたい。猫さんが、戻れないって慌ててるの!」
「何!?」
確かに、切られた様子がないのに、いくらスマホに向かって叫んでも、一切の応答がない。
化け猫は、晃の意思でこちらに送り込まれている。晃の意識が途絶えたら、石の中にある霊術の道を通れなくなるはずだ。
雅人はすぐさま通話を切ると、咄嗟にアプリを立ち上げ、以前聞いていた住所をスマホに打ち込んでルートを検索、結果が表示されると同時に自分の部屋に取って返し、財布をジーンズの後ろポケットに押し込むと、そのまま家を飛び出した。
すると、背後からものすごい速さで何かが追いすがってきたかと思うと、それが背中に飛び乗ってくる。ぎょっとしたが、それが普通の猫サイズになったあの化け猫だと気が付いた。
猫は、帰る道がわからないのなら、わかっていそうな人にくっついていけばいいと考えたらしい。
雅人としても、猫にかまけている精神的な余裕がなく、そのまま最寄り駅まで走り続けた。
雅人の家と晃の家は、大学を挟んで正反対の位置にあった。そのせいで、どうしても小一時間かかってしまう。
電車を乗り継ぎ、最寄り駅に着いた途端、猫が背中から飛び降りると、まるで道案内をするかのように雅人の前方を走り出した。時折立ち止まっては、雅人が追いかけてきているのを確認しているから、間違いなく案内しているのだろう。
そして、『早見』という表札のかかった家に着くと、そこにも結界が張られていることに雅人は気づく。そういえば、午後に自分の家にやってきたとき、そんなことを言っていたな、と思い出した。
玄関の手前で、猫がまるで開けてくれと言わんばかりに鳴いている。雅人はインターホンを押すと、応対した中年女性に晃の大学での知り合いだと告げ、ドアを開けてもらって中に入った。雅人にくっついて猫も中に入ると、脱兎のごとく駆け出して二階へと向かう。
中年女性はそれに一切反応しないので、猫の存在に全く気が付いていないようだった。
雅人は、電話で話をしていて、急に応答がなくなったので心配して訪ねてきたと言い、その中年女性―晃の母智子である―とともに、二階へ上がった。少なくとも、嘘はついていない。
ドアをノックしても応答がないため、急いで開けた二人が見たものは、部屋の床にうつぶせに倒れ込んだまま、ピクリとも動かない晃の姿だった。
傍らでは、猫がパニックになったようにニャアニャア鳴きながら、目を覚まさせようとしているかのようにその顔を舐めていた。
次の瞬間には、今度は母親がパニック状態になり、息子に駆け寄るなり抱き起し、いくら揺さぶっても全く反応がないことに半狂乱になった。
あとは、雅人が救急車を呼び、母親が付き添うにはあまりに混乱しているということで、事情説明のために雅人も一緒に救急車に乗って病院まで行く羽目になった。
母親は病院でへたり込んで失神状態になってしまったため、そのまま処置室に担ぎ込まれ、晃と一緒に治療されることになった。
そして、帰るタイミングを失った雅人が、一応自分の自宅に連絡したうえで、流れで病院に泊まることになってしまったのだ……
「……悪いね、巻き込んで……」
そういう晃の顔色はまだ血の気がなく、紙のように白かった。
「何言ってんだよ。巻き込んだのは、おれたちのほうだろ。実際おれも、倒れてるお前を見て、血の気が引いたぜ。本当に、巻き込んで済まない」
雅人は立ち上がると、晃に向かって頭を下げた。
「……いや、いいんだ。もともと遠隔は苦手なんだ。だから、半ば覚悟の上だったよ。……ここまでとは、さすがに自分でも予想外だったけどね……」
晃は笑うが、その笑顔は明らかに力なく弱々しいものだった。
雅人は居たたまれない思いに駆られるが、それを察した晃はかぶりを振る。
「……自分でやると決めたことなんだ。妹さんのこと、必ず護るって……約束しただろう」
「……だけど……」
現実にこうして倒れ、入院することになった晃のことを思うと、雅人の心は揺れ動いていた。わかっていたつもりだったが、こんなにも身を削って戦っていたとは、思わなかったのだ。あの時、倒れている晃の蒼白の顔を見たときには、死んでしまったのではないかと、本当に肝をつぶした。
「……そんな顔しないでくれよ。自分では……納得してるんだから……。それより……アカネや母さんは、今どうしてる?」
「お前のお母さんは、やっぱり病院で一夜を過ごしてる。一時失神したからな。念のためってことで、病院のほうから一晩居ろって言われてた。今は二人とも緊急入院ってことで、後で正式に入院手続きすることになるだろうね。猫のほうは……ついてこようとして、部屋にいた白狐に止められてたのを“視た”。おそらく、まだ部屋にいるんじゃないかなあ」
母親のほうは、もうじきここに来ることになるだろう、と雅人は言った。
「これから医者の先生や看護師さんに、お前が気が付いたことを知らせてくるわ。一応、人に聞かせられない話は、このくらいだろ?」
「……そうだね……」
晃がうなずくと、雅人はパイプ椅子を片付け、カーテンを少しめくって外へ出ていった。
普通なら、付き添うのは親族のはずだが、母親が付き添える状態ではなかったのだろう。そして、母がそういう状態であるならば、父に連絡が行かないのは当然で、だから事情を知っている雅人が、病院にいたに違いない。さすがに今頃は、父にも連絡が行ったとは思うが。
(しかし、今回はマジで意識が飛んでたな。だからあの時、やめろって言ったんだがなあ。多少は落ち着いたか?)
(……うん、何とか。でも、あそこでやめてたら、どうなってたかわからないから、後悔はしてない。けど遠隔が苦手なのは、どうにも克服出来ないんだよなあ。それが出来れば、倒れることもなかったんだけど……)
(こればっかりは、得手不得手だからな。遠隔で力を使うと、普段の倍以上消耗する感じだな、俺の感覚では。今回は、確実にヤバい領域まで行ったよな)
(これからは、遠隔で力を使う場合には、気を付けないとね。今だって、だるくてまともに動けない。でも……)
(でも、どうした?)
(母さんのトラウマが、またひどくなったかも……)
(あー……)