23.苛立ち
何本かの蝋燭だけがともる薄暗い部屋の中で、那美は床に座り込んだままうつむき、肩を震わせていた。
ほどなく、その口から呻くような声が漏れる。
「何なのよ、あいつ!! 何者なのよ!?」
彼女は、劉鬼が出くわしたという『女のような顔立ちをした若い男』のことを調べていた。劉鬼の配下が捕らえて手懐けたどこぞの浮遊霊を飛ばし、怪しい男を突き止めたのだが、素顔さえ割り出せず家に侵入することもかなわなかった。
ならばと今しがた、虚影によって与えられた権能を使って、怪しいと思った男の意識を無理矢理こちらの識域下の世界に引きずり込んだ。相手がちょうど眠りに落ちようとしていたところだったのも、幸いした。識域下では、夢を通じて相手の世界に繋げられるからだ。
だが、相手の力に翻弄された形で逃げられた。単純な力では、絶対こちらが上だったとわかるのに、キツネの力を借りたと思える相手は、瞬間的にこちらの力を退けるような力を発揮し、逃げ去ったのだ。
本人は『只の霊能者だ』と言っていたが、そんなはずはない。
劉鬼の攻撃を止め、化け猫を操り、虚影の権能の一部を受け継ぐ自分の力さえはねのけた。そんな奴が、“只の霊能者”であるはずがない。
(……思った以上に厄介な相手じゃな。キツネの力を借りていたのであろうことは間違いないのじゃろうが、本人の地力もまだ底が見えておらぬようじゃ)
(虚影様、あいつはいったい何者なんでしょうか?)
(依頼を受けたと言っておったから、あ奴が“贄の巫女”と思われるものがいる家に結界を張った中心人物とみてよかろう。あ奴が、巫女を守っておるのじゃろうな)
虚影は、那美に向かって告げる。
(あ奴は儂が知る限り、最強の霊能者じゃ。よもや今の世に、あれほどの力を持っておる者がいるとは、思わなんだわ)
今の自分は、まだ力が足りない。自分が力を取り戻せば、人間の霊能者などどうとでも出来る。だからこそ、一刻も早く他の有力配下を見つけ出し、封印を解いて復活させなければならない。
虚影は那美の中で、自分の計画に狂いを生じさせかねない存在の出現に、苛立ちを隠せなかった。
(何としても、我が配下の者どもを、復活させねば。そのためには、おぬしの力が必要となる。わかっておるじゃろうな)
(それももちろんやりますが、今一度、先程のようにあいつを識域下に引き込んで、今度こそ虚影様の“糧”に……)
(無理じゃ。あれほどの力を持つ者、自らを守る力も持っておるはず。おぬしが一度、“糧”にせんと動いたのじゃ。それに抗う手段を講じるはずじゃ。あ奴を甘く見るでない)
今回は、いわば相手の不意を突いたからすんなり成功したのだ。次からは、相手も警戒する。そう簡単にこちらの手には乗ってこないだろう。
(そこらにごまんといる、似非霊能者や凡庸な霊能者なら、いくらでもやりようはある。力づくでもう一度、識域下に引き込むことも可能じゃろう。じゃが、あ奴はだめじゃ。間違いなく、そうされないように防備を固めるはずじゃ。それでもこちらに来ることがあるならば、そのときは、そういう意思があるときじゃ)
虚影の言葉に、那美は唸る。
(……なら、無理に引き込もうとするのはやめましょう。どうすれば、あいつを黙らせることが出来ますか?)
(先ほど言ったはずじゃ。儂の配下を復活させよと。さすれば、配下たちが動いてくれるじゃろう。おぬしはうろたえず、自分がやらねばならぬことを、淡々と進めておればよいのじゃ)
虚影にそこまで言われれば、さすがに気持ちを切り替えるしかない。
だが、識域下の世界で対面した、白狐の姿をした男―声からすると、おそらく年若い―の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
虚影の権能の一部を受け継いでからは、すべてが自分の思い通りに動いた。
衰えたとはいえ、神の力だ。自分が世界の中心にいるような、他の者たちがすべて格下に見えるような、ある種の万能感。
しかしあの男は、そんな彼女に思い切り冷や水を浴びせたのである。
キツネの力を借り、素顔さえ隠して現れたうえに、自分の力を恐れなかったばかりか、逆にはねつけ、翻弄して去っていった。
あいつに力を貸しているキツネは、どういう存在なのだろう。キツネの手助けさえなくなれば、きっと打ち破って“糧”にしてやれるはずなのに。
キツネと言えば、稲荷神の神使という連想が働くが、あいつに力を貸していたキツネは、神使なのだろうか。
彼女は、自分が与えられた力を使いこなせていないということに、気づいていなかった。
力がなまじ強かったため、不完全でもある程度の力が揮えてしまっていたせいだ。
だから気づかない。キツネの力を借りたといっても、それが表面的であることに。
あの時、あの男に言われたこと―神の力を宿し続けると破滅する―が、事実だということに。
那美は考え続ける。自分を、虚影を邪魔するあの男をどうにかする方法を。
しかし、歳こそ若いが、あの男は霊能者としては相当な者だと認めなければならない。あの虚影が『最強』と言ったのだ。それは単純なパワーでの差ではない。何かが違う。
それが、“自分の持つ力を把握し、それを活かす能力がある”ということなのだが、経験が絶対的に不足している彼女は、そこまで考えが回らなかった。
そのうち考え疲れ、投げやりな気分に陥る。
もういい、すべては明日だ、明日考えよう。
ノロノロと立ち上がると、いったん部屋の明かりをつけて蝋燭をすべて消し、着替えると、改めてベッドにもぐりこんでからリモコンで明かりを消した。
それからしばらくたち、那美の体が闇の中で上体を起こした。
その眼は金色に光り、額の逆三角形の印がどこか禍々しく赤く光る。
(漸鬼、劉鬼、これへ!)
虚影の“言葉”に、素早く返事が返る。
(はっ! 漸鬼、ここに参上しております)
(劉鬼もここにおりまする)
虚影の前に、二体の鬼が、姿を現していた。
虚影は二体を満足げに見ると、口を開いた。
(おぬしらに訊く。あの霊能者の力、いかほどと思うのじゃ? 思うことを、そのまましゃべってよい)
それにまず口を開いたのは、劉鬼だった。
(まず、申し上げます。某が対峙した経験では、あの者、キツネの力など借りてはおりませんでした。それでも、この鉤爪を止めたのです。もちろん、真の意味で本気ではありませんでしたが、相手を弾き飛ばすつもりで、そのくらいは力を込めておりました)
虚影は、眉間にしわを寄せたまま、うなずく。
(では、キツネの力など借りずとも、おぬしの力に拮抗する力が出せるということ、か)
(その通りにございます)
虚影は、今度は漸鬼の顔を見る。
(吾も、あ奴は只者ではないと思います。妖どもを蹴散らし、劉鬼を押し戻したあの化け猫を、操っていたのが例の男だとすると、あ奴だけでも厄介な存在であるのに、同時にあの化け猫を相手にしなければならないとなると、全力を出しても下手をすれば相当に苦戦するかと)
それを聞き、虚影の眉間のしわがますます深くなる。
(ですが、あれだけの力を使い続ければ、そう長く持たないでしょう。長期戦に持ち込めばいいのです)
漸鬼の言葉に、虚影もうなずく。
(確かに、それは言えるじゃろうな。それにしても、厄介な奴が現れたものじゃのう)
それには、漸鬼も劉鬼も同意だとばかりに、渋い表情でうなずいた。