16.決着
麻里絵の中の松崎淑子が、晃を睨みつける。
だが、何事も起こらない。
今度は砂利の中に混じっていた大きめの石を指差した。
その石が、誰かが力いっぱい蹴り上げたかのように晃に向かって飛んだが、それは晃の直前で見えない壁に弾かれたように地面に落ち、転々と転がって止まった。
晃の中の誰かが、無駄だとでも言いたげに不敵に笑う。
効かない。自分の霊力が効かない。それは、彼女をして軽いパニックに陥らせるに十分だった。
「……あいにくだな。金縛りなんか、俺には効かない。念の力だって、このとおりこっちが勝る。いいか、てめえは俺を本気で怒らせた。絶対許さんから、そのつもりでいろ。この場で決着つけてやる」
その時彼女は見た。
力なく垂れ下がった義手の左腕とは別に、霊気で出来た左腕があった。自分を睨みつける眼のうち、左眼に重なるように、霊気の目があった。
けれど、それが何を意味するのか、混乱した彼女にはわからなかった。
「……誰なんだ。あんた、誰なんだよ……」
「そろそろわかってもおかしくないんじゃないか。こうして、闇の中でお互い相手の顔を見ながら対峙してるんだ。俺が生きている人間なわけがないだろう」
「……あんたも、幽霊なの?!」
「そういうことになるな。だが俺は、てめえみたいな悪霊じゃないぜ」
「あたしがどうして悪霊なのよっ」
「てめえ、一体何人殺した。“温めてもらう”といったって、生身の人間に出来ることじゃない。かなわぬ願いに執着して、何人殺したって言ってるんだ。それだけ無関係な人間手にかけておいて、よくもぬけぬけとそんなことが言えるなっ!」
そう言われ、松崎淑子は沈黙した。
晃が歩み寄ってくる。その顔は、普段の晃よりはるかに精悍に見えた。よく知らないものが見たら、他人の空似と思うだろう程に。
「……ここでだって、これだけの人間を傷付けた。しかも、晃まで手にかけようとしただろうが。絶対に許さんぞ」
「何様だよ、あんたは。あんただって、その晃とかいう子に憑依してるじゃないか。あたしとどれだけ違うっていうのよ。結局、同じようなもんじゃないの」
淑子が言い返す。だが、晃の中のものは、冷静な口調でこう言った。
「俺が憑依しているだって? てめえの目は節穴か。よく見ろよ。俺と晃の関係は、憑依なんかじゃない」
晃の体を取り巻く“気”が揺らめいた。
死せるものの気配と、生けるものの気配が渾然となった、まったく異質なものが融合した、異様な気配……
淑子の顔が、何かおぞましいものでも見たように歪んだ。自分の“視て”いるものが、とても信じられなかったらしい。
「気づいたようだな。俺は、晃に憑依しているんじゃない、“同化”しているんだ」
その言葉に、淑子が悲鳴じみた声を上げる。
「そ、そんなこと、出来るわけがないっ! 人間と幽霊が、同化するなんて……」
「出来るのさ。人間の側が死に掛けていて、なおかつ幽霊と同化することを承知し、受け入れればな。晃は実際に、俺を受け入れてくれたぜ」
それを聞いた淑子の顔が、驚愕を通り越して表情を失った。
「言っておくが、これは俺と晃だったから成立したことだ。俺たちは、二十年来のマブダチだったんだぜ。だから、受け入れてくれたんだ」
晃の中のものは、二十年前の出来事を話し始めた。
二十年前、若手鳶職人だった“彼”は、同僚と酒を飲んで帰る途中、信号無視をして突っ込んできた暴走車に撥ねられ、救急病院に運ばれた。けれどそのまま力尽き、息を引き取った。
そして、彼が息を引き取ったのとまさに同じ時刻、同じ病院の建物の中の分娩室で、晃は産まれた。その偶然が、二人を結びつけた。
「……普通あり得ない偶然だろ。俺は、自分が幽霊になると同時に生まれた赤ん坊が、気になってしょうがなくなった。それで、あの世に行くのをやめて、その子の傍にいることにしたんだ。なんだか、自分の生まれ変わりみたいな、変な気持ちがしたんでな」
そして晃もまた、生まれた直後から“彼”の存在に気がついていて、笑いかけたりしてくれていた。
直接話が出来たわけではないが、お互いに何を考えているかなんとなくわかる、心の通う“友達”のようになっていたという。
人間と幽霊の、どこか不可思議な関係は、しかし三年前に重大な転機が来た。
「……三年前、晃は交通事故に遭った。そして、事故で死にかけた。実際、そのままでは本当に死ぬところだった。病院まで息が持ったこと自体、奇跡的だったくらいだ。……その事故の大元の原因を作ったのが、俺だったんだ」
当時を思い出したのか、晃の中の“彼”が、つらそうに顔を歪ませる。
「偶然晃以外の、いわゆる“視える”人間の前に姿を現しちまって。そいつがたまたま車に乗ったままでな、パニック状態になって車を暴走させて、他の車二台を巻き込んでの大事故に発展した。その事故に、自転車に乗って通りかかった晃がもろに巻き込まれちまった……」
“彼”は、苦悩の色を浮かべながら、さらに続ける。
「俺は罪滅ぼしに、俺の霊力で命を救おうとした。確かに普通は、幽霊の霊力を受け入れられる人間はいない。だが晃は、俺のことを信じ、受け入れてくれた……」
“彼”の霊力を持って晃の魂をその肉体に繋ぎ止め、死の淵から救い上げた結果の同化だったのだが、普通はそんな不自然な形での救命など、潜在意識のどこかが拒絶する。生きたいと思う本能を凌駕する、無意識の拒絶反応が起こるのが当たり前のことだ。だから、同化などということは通常起こりえないはずなのだ。その奇跡が、晃と“彼”の間で起きた。
そこまで話して、“彼”は改めて淑子を睨みつけた。
「本当なら、事故の原因を作った俺なんか、拒否したっておかしくない。そもそも幽霊なんて、受け付けないほうが普通だ。それなのに、あいつは俺を許してくれた。『大切な親友だ』と言ってくれた。それだけに、晃に手を出したてめえが許せないんだっ!」
晃の中の“彼”が身構える。
「俺が引導を渡してやる。二度と、こんな真似が出来ないようにしてやるからな」
それを聞き、不意に我に返ったように淑子が叫んだ。
「そんなこと、出来るわけがない。あたしのやりたいこと、誰にも邪魔させない。もちろん、あんたになんかっ!」
「忘れるな。俺たちは、人間でも幽霊でもない。両方の力が合わさって、人間でも幽霊でも持てない力を手にしたんだ。素直に成仏したほうが身の為だぞ」
それを聞いた淑子が、金切り声を上げて飛び掛ってくる。
それを軽々と受け流すと、“彼”は右腕一本で簡単に腕をねじ上げた。
「いい加減にしろ。これでも俺は、生きてる頃は散々喧嘩の修羅場はくぐって来たんだぜ。素人女に遅れを取るかよ」
淑子は憎悪の目で“彼”を振り返ると、口元に不意にかすかな笑みを浮かべる。けれど、次の瞬間には表情が凍りついた。
霊気で出来た左腕が、彼女の左肩にめり込んでいた。
そして、腕を戒めていた右腕を放すと、高岡麻里絵の体がそのまま崩れ落ちる。しかし、その空間には、左肩を掴まれたままの半透明の女が立ち尽くしていた。
愕然とした表情で、金縛りにあったように硬直している。
「……さっき言ったはずだ。俺たちは人間でも幽霊でもないと。逆に言えば、人間でもあり幽霊でもあるということだけどな。この左腕は、元々は俺の腕。幽霊の腕だ。幽霊が幽霊を捕まえることが出来て、何の不思議があるんだ」
“彼”は、淑子に向かってむしろ落ち着いた口調で告げた。
「依り代を捨てて逃げようと思ったんだろうが、そうはいかないぜ。こうして捕まえたからにはな」
“彼”が、右手に巻きつけたままにしてあったものを、淑子の眼前に突き出した。
彼女の視線が、それに吸い寄せられる。
それは、数本の細い金鎖を編んだような華奢なデザインの、女性物のゴールドのネックレスだった。
「……これに見覚えがあるはずだ。大事にしていた品だよな。確か、二十歳の誕生祝に、両親が贈ってくれたネックレスだ。到底忘れることなんか、出来ないはずだよな。だって、死んだそのときにも、身につけていたものだもんな」
淑子が、今度は怯えたような顔で、“彼”を見た。
その視線を受け止めるように、“彼”が続ける。
「……さっき言ったろ。引導を渡してやると。もう、成仏する必要さえない。ずっとこの世に留まり続けな。このネックレスの中にな……」
“彼”の言葉が終わらないうちに、ネックレスが青白い不可思議な輝きを放ち始める。
そして、その光に同調するかのように、淑子の体も青白く光り始めた。
それは完全に、彼女の意に反していることらしく、淑子は恐怖の叫びを上げた。
「う、嘘だ……。どうして……どうしてこんなことがっ」
淑子の姿が、次第に靄のようなものに変わっていく。恐怖のあまりの悲鳴も、次第に聞こえなくなった。
やがて、ネックレスの光に淑子が姿を変えた光る靄が吸い寄せられていき、遂にはネックレスの光に混ざり込み、吸い込まれるように消えていった。
ネックレスはその後もしばらく光っていたが、一分ほどでその光も消えた。
「……この中に、ずっといろ。両親がたっぷり、時間をかけて供養してくれるぜ。一応あんたは、元は被害者側だった。浄化して消し去っちまうのも、違うと思うからな……」
“彼”が、大きく息を吐いたとき、心の中から声がした。
(……もう、全部終わったあとなんだね、遼さん)
晃が、意識を取り戻したのだ。
(ああ。何もかもな。松崎淑子は、このネックレスの中だ)
(一番やりたくなかった『封印』か。結局、実力行使になってしまったんだね……)
(話し合いにもならなかったからな。第一、お前を直接狙ってきたんだぜ。こうするしかなかったよ)
晃の声が、すまなさそうに言った。
(一番大事なときに、何もかも遼さんに押し付けてしまった……。本当なら、対峙するのは僕のほうだったのに……)
(気にするな。俺も久しぶりに、体があるってのはこういうことかって思い出して、楽しかったぜ。たまに、ああやって暴れるのも悪くないさ。じゃあ、お前に体を返すぞ)
遼が笑い、一瞬めまいにも似たものが走ったその刹那、晃は体の感覚を取り戻した。途端に後頭部と背中が激しく疼く。
先程壁に叩きつけられて、いやというほどぶつけたところだ。思わず呻き声を上げそうになり、晃は咄嗟に歯を食いしばった。
この状態で取っ組み合いを演じていたのかと思うと、普段から『喧嘩慣れしている』と口にしていた遼のタフさを、今更ながら思い知らされる。
晃はつくづく、かなわないと思った。
呼吸が整うまで、しばらくの間じっとその場に立ち尽くしていた晃は、ふと、自分の右手に巻き付けられたままになっていたネックレスに目をやった。
松崎淑子の両親から、無理を言って借りてきた形見のネックレス。
この中の彼女は今、何を思っているのだろうか。この手の温もりは、彼女に届いているだろうか……
「これから僕が、責任を持ってあなたのご両親の元へ送り届けます。どうか、鎮まって下さい」
ネックレスの中の淑子に向かって、そう小声で告げると、痛む体をぎこちなく動かしながら、最後の後始末のために懐中電灯を拾いに行った。