09.狂信者
ある日の夜、とある斎場にて通夜が行われていた。
それは、中堅商社の現役部長だった人物で、突然の急逝に大騒ぎとなったものだった。
「ねえ那美、あのセクハラ部長、まさかあんなにあっさり死んじゃうとは思わなかったよね」
出席した女子社員の一人が、同僚に話しかけていた。
「……そうね。でも、因果応報ってところじゃないの?」
那美と呼ばれた女性は、そう答えて薄く笑みを浮かべた。
前髪を眉のところで切り揃え、肩にかかるまで伸ばした髪を緩くひとまとめにし、黒い髪ゴムで止めている。
そして、前髪に隠れてほとんど見えないが、彼女の額には逆三角形の“印”が刻まれていた。無論のこと能力のないものは、そんな“印”が刻まれていること自体気づかないだろうが。
彼女、苅部那美は、今回通夜が行われている男のある意味一番の被害者と言ってもよかった。
相手の男は部下の女性たちに対して、コミュニケーションを取るという名目で卑猥な冗談を飛ばしたり、スキンシップを図ると称して肩を揉んだり背中をなでたりすることがよくあった。
しかも、本人はセクハラをしているという意識が全くなく、会社のほうも、男がなまじ優秀だったばっかりに注意し切れず、本人は自分の行為が完全にセクハラに値すると気が付かないまま、色々やらかしていた。
那美は、その男の秘書役だったばかりに、たびたびセクハラ行為の対象となっていた。
その男が突然会社で倒れ、そのままくも膜下出血で命を落としたのだ。
会社全体が騒然となったのは言うまでもない。
しかし、那美は“知って”いた。男がなぜ死んだのかを。
(虚影様、あの男の命運、多少は力を取り戻す足しになりましたでしょうか?)
(……まあ、ないよりまし、といったところじゃの。じゃが、昨今の人間、だいぶ長生きするようになりおった。五十に届く男の命運でも、それなりに喰らえたわい)
(それはよろしかったですね。調べが付きましたら、あなた様のご眷属の方々を迎えに行きましょう)
(楽しみにしておるぞ。儂が力を取り戻した暁には……そうじゃろう?)
(はい、どうかよろしくお願いいたします)
通夜の席には、当然男の家族も姿を見せていた。憔悴した様子の妻と、大学生と高校生の二人の息子たち。
他の参列者の中は、残された親子に労りの言葉をかけている者もいる。
だが、那美は全くと言っていいほど心が動かなかった。それどころか、自分にとっては大切な神である虚影の贄になったのだから、むしろ喜ばしい事だとすら感じていた。
ただ、目立たぬように一通りのことを済ませると、受け取った香典返しの品物を手に、会場を後にする。
今の彼女にとって、虚影が力を取り戻すことが第一だ。それ以外のことは、はっきり言って些末な出来事に過ぎない。
そんな自分の気を散らせてくるあの部長だった男、目障りになっていた。だから、虚影の贄に選んだ。それだけのことだ。
今務めている会社だとて、今の世の中生活するのに金が要るから、そのために仕事をしている場所に過ぎない。
那美は、自分が暮らす賃貸マンションに帰りつくと、エレベーターで六階まで上がり、自分の部屋へと足を向ける。
鍵を開け、中に入って明かりをつけると、シンプルなワンルームの部屋に似つかわしくない祭壇が設えられていた。大きさは、ちょっとしたテレビ台ほど。系統的には神道なのだろうが、神道なら嫌うはずのある種の“穢れ”のような気配を感じさせる。
那美は礼服を脱いで部屋着に着替え、その祭壇に向かうと、香典返しの中身を開け、入っていた海苔やお茶などを祭壇の上に乗せる。
そして、導かれるままに礼をし、柏手を打ち、何かを唱える。
那美自身は何の知識もない。ただ、虚影の指示に従って祭壇を設え、供え物をし、祝詞めいたものを唱えているだけだった。
祝詞のようなものに関しては、那美はただ無心に自分が“神”と信じる存在のことをひたすら思い浮かべていると、なぜか自然に口をついて出てくるのだ。彼女は、これも“神”の思し召しであると考えている。
虚影からは、真摯な祈りも“神”を力づけるものになると言われていた。それだけに、彼女は祈る。少しでも、虚影が力を取り戻せるように。
じっくりと祈りを捧げた後、那美はスマホを取り出し、何かを検索し始める。
ある程度検索が終わると、今度はバスルームでざっとシャワーを浴び、軽く髪を乾かし、パジャマに着替える。
ベッドサイドでもう一度何かを検索し、その後部屋の明かりを消して眠りについた。
しばらくして、真っ暗な中で那美が起き上がる。否、彼女は眠っているのだが、額の逆三角形の“印”が赤く光っている。そして、眠っていたはずの彼女は目を開ける。その眼は、異様な金色の光を帯びていた。
直後、部屋の片隅に靄のようなものが立ち上がる。それはやがて、ぼんやりとした人影となった。
人影はさらにその姿を変え、錦の衣をまとった銀髪黒肌の二本角の鬼の姿となる。鬼は、金色に目を光らせた那美の前に跪く。
『――様、参上仕りました。漸鬼めにございます』
『漸鬼か、久しいの。しかし、今はその名を呼ぶのはやめるのじゃ。また、他の者どもに気づかれると、面倒じゃからの』
彼女の口から、壮年の男の声が漏れる。
『では、何とお呼びすればよろしいですか?』
『この女が、目くらましにちょうどいい名をつけおった。【虚影】だそうじゃ』
虚影の声は、低く嗤った。
『では、以後そのようにお呼びいたします』
『うむ。ところで、わざわざおぬしがここに現れるとは、何があったのじゃ?』
『はい。実は、吉報がございます。ただいまこの世界には、今代の“贄の巫女”が存在するとか』
“贄の巫女”と聞き、那美の中の虚影が笑みを浮かべる。
『そうか。儂にも運というやつが巡ってきたようじゃの。巫女の力を手に入れられれば、儂は一気にあの者どもの鼻を明かせてやれるわい。楽しみじゃのう……』
そんな虚影に向かって、漸鬼が頭を下げる。
『これより、“贄の巫女”が今いずこにおるのか、どういう娘であるのか、手下どもを放って調べさせてまいります。では』
言い終えると、鬼の姿は再び靄となり、空気に溶け込むように消えた。
さて、と虚影は闇の中で再び嗤う。
今の自分は、神というにはあまりにも脆弱だ。長年の封印で、その力が衰えてしまったからだ。
だが、“贄の巫女”の霊力を喰らえば、一気に盛り返すことが出来る。自分を封印した者たちを、逆に封じることも可能となるかもしれない。
神は、人に崇められねばその力を失っていく。彼は長年の封印で、人々からその存在を忘れ去られ、力が極限まで衰えた状態にあった。
地上にわずかに残っていた眷属どもの手引きで、彼の力に比較的親和性の高い人物として選ばれたのが、この苅部那美だった。
彼女が、叶わぬ願いに悶々とし、挙句に狂気の縁を覗いていたことも、虚影には幸いした。
あとは、封印されていても影響を及ぼせる眷属どもの力を使い、夢にて接触を図った。
以前にも同様に接触を試みた人間はいたのだが、いずれも失敗し、封印をされたまま月日を過ごしていた。
けれど那美は、夢に反応して封印を破ったのだ。
ひとまず彼女の周辺で、彼女の想いをうまく誘導し、都合のいい行動をとらせればいい。
彼女の願いは、実は途轍もない。普通、神であるからこそ、まともには取り合わない外法な願いだ。だからこそ、使える娘なのだ。
虚影は、闇の中で哄笑した。