32.エピローグ
あれから、一週間ほどが過ぎた。すでに梅雨明けが発表され、夏本番のまぶしいほどの日差しが辺りに降り注ぐ。
まだ昼前ではあるが、すでに汗が噴き出すような暑さだ。
そんな中、晃はスポーツブランドのロゴが付いた紺のキャップを目深にかぶり、布のバッグを右肩にかけ、家の近所を歩いていた。
バッグの造りはA4サイズのトートだが、肩にかけられるように共布のベルトがついている。そのバッグから、幽体のアカネがちょこんと顔を出した。
(アカネ、そんなに大きく頭を出しちゃだめだ。お前のことが、“視える”人もいるんだから)
晃がたしなめると、アカネは素直に頭を引っ込める。
晃は、駅の近くにあるスーパーに買い物に行くことにしていた。
今までアカネには、サバの水煮缶やツナ缶などを一日一缶開けて、それを“食べ”させていた。もちろん実体がなくなるわけではないので、やはり味気ない状態にはなるが、晃自身が一人でそれを食べて片付けていた。
アカネは何も文句は言わないが、いつもそんなものばかり食べさせて、ちょっと申し訳なく思った晃が、何か食べたくなるようなものがあれば、と買い物に出てきたのだ。
生きている猫なら、食べてはいけない禁忌の食べ物などが存在するが、すでに物の怪と化しているアカネには、そういった禁忌は存在しないため、本人(?)が食べたいと思ったものを食べさせてあげたいと思っていた。
アカネは頭がいい。妖になった時に、頭の働きが人間とあまり変わらないほどになったようで、うまく幽体と実体化を使い分け、家人に見つからないように立ち回っている。
それだけに、アカネがやけに健気に思えて、何か気にいるような食べ物がないか、スーパーに見に行こうと出かけてきたのだ。
スーパーにやってくると、晃はゆっくりと店内を歩き回りながら、アカネに話しかける。
(アカネ、どんなものが食べたい? 食べたいものを、買ってあげるよ)
アカネに向かってそう話しかけると、アカネはバッグから少しだけ頭を出して、周りの様子を見た。どうやら物珍しいものがたくさんあるらしく、きょろきょろと辺りを見回している。
江戸時代の農村から、一気に現代の大型スーパーに飛び込んだら、すべてが珍しくてたまらないだろう。
あちこちゆっくりと回っていた晃に向かって、アカネが不意につぶやいた。
(あるじ様、あれ食べたい)
アカネが見つめている視線の先を確認して、晃は一瞬固まった。
そこは、スイーツの類が並んでいる棚だった。
(あれ食べたいの?)
思わず確認すると、アカネはうなずいて、目を輝かせながらバッグの中の尻尾をパタパタ動かした。
晃はそっと手を伸ばし、ふたが透明なプラケースの中に、二個一組で納められた『チョコレートケーキ』と書かれているケーキを手に取ってみた。ココア味のスポンジケーキの上に、チョコクリームで簡単なデコレーションがされているそのケーキは、晃も時々買って食べる割とお気に入りのケーキだった。
(これでいい?)
(うん、いい。食べてみたい。きれい)
まあ確かに、おそらくアカネにとって見たこともないし、見た目デコレーションがきれいだから、食べてみたくなったのだろう。
(ペットは飼い主に似るっていうが、こいつも甘いもの好きなのか……)
(遼さん、それ、そういう意味じゃないと思うんだけど……。そりゃ確かに、僕もスイーツ好きだけどさ)
何せ、自分で用意する朝食だと、十中八九蜂蜜たっぷりのバタートーストになる晃だ。あまり飲みつけていないアルコールより、断然甘いものに手が伸びる。
ちなみに、以前アルコール耐性の検査を受けたら、『アルコール分解酵素の働きが弱く、アセトアルデヒド分解酵素の働きは最強』という結果が出た。要は、少量ですぐ酔っぱらうが、後には残りにくいタイプということである。
それはさておき、他にも少々のものを専用のカゴに入れると、レジで精算し、帰宅の途に就いた。
道すがら、バッグの中でおとなしくしているアカネに、ちょっと話しかけてみる。
(アカネ、他にもいろいろ美味しそうなものがあったのに、本当にケーキでよかったの? あれ、甘いものだよ)
(いい。食べてみたくなった。見たことなかったから)
アカネ自身がそう言っているのだ。それに下手にキャットフードなど買ったなら、そのあとそれをどうするか、困っただろう。アカネが“食べて”しまったものは、本物の猫などは、見向きもしないものになっているはずだからだ。
匂いも風味もとんでいるキャットフードなど、野良猫だって食べはしない。
自室に戻った後、晃はさっそくケーキのふたを開け、バッグから出たアカネに差し出した。
アカネは、最初は匂いを嗅いでいたが、そのうち一口、さらに一口と“食べ”始め、どうやら口に合ったらしく、夢中になって“食べ”だした。
もちろん、ケーキ自体の形が崩れるわけではない。それでも、アカネの勢いは本当にケーキがなくなるのではないか、と思うほどの勢いだった。
どうやらアカネは、本当に甘いものが好きらしい。
笹丸に稲荷寿司を出しながら、晃は少々呆気にとられたようにアカネを見つめた。
(ふむ、本当に夢中で食べておるな。よほど気に入ったのであろうな)
(まさかと思ったんですけど、本当に甘いもの好きだったとは思いませんでした)
昼食として買ってきたサンドイッチをかじりながら、晃はふとあることに気づいて愕然となった。アカネが“食べた”あとのケーキ、あれはいったいどんな具合だ?
スイーツから甘みを取ったら、何が残る。
ほどなく、アカネはケーキを“食べ”終わり、晃のところへやってくると、胡坐をかいている膝の上に乗ってきた。
(あるじ様、美味しかった。これからずっと、あれ食べたい)
(……そうか、よかったなアカネ)
完全にケーキにハマったらしく、嬉しそうに晃を見上げながら尻尾をゆったりと振っている。
晃はというと、残ったケーキを手元に引き寄せ、一瞬どうしようかと考えた。しかし、これを実際に食べて片付けるのが『あるじ様』である晃の務めだ。
ケーキに手を付ける前に、すでに慣れている笹丸が“食べ”終えた稲荷寿司を口にする。
これはまあいい。味気ないが、まだ何とか食べられる。問題は次だ。
稲荷寿司を食べ終えた後、晃は恐る恐るケーキに手を伸ばした。ケーキを一切れ手に取ると、一口かじる。
(……)
想像以上だった。
チョコレートの香りも味も何もない。スポンジ部分もパサついていて、普段なら感じるココアの風味も全くない。甘みが完全に抜けている。
第一クリームに味も何もなく、ただねっちょりと口の中にまとわりつくだけ。
これはもう、不味いを通り越して食べ物なのかを一瞬疑うレベルだ。
(うわぁ、これ二切れか……。二個一組なのが、あだになってる……)
(晃、無理するなよ)
(でも、今まで残ったものを食べていて、ここで食べなかったらやっぱりダメだろう。アカネがこれから、こういうのを買うのを遠慮する)
(お前、変なところで根性あるっていうか、アカネに気を使うなあ。お前があるじなんだぞ?)
(それはそうなんだけど、アカネにはできるだけストレスをかけさせたくないんだ。今まで、つらい思いしかしてこなかった子だからね)
(ほんにそなたは優しいの。あのアカネが、すぐに懐くわけだ。ここに来た当初は、ずいぶん戸惑っておったが、そなたに甘えるうちにすっかり慣れたようだしの)
アカネがみている目の前で、いくら不味いからといってケーキを残したりしたら、本当にアカネが自粛してしまうかもしれない。あの子は、あれで結構気の優しい子だ。
一緒に過ごしてみて、改めてそれがわかった。
普段は家の中で、幽体で過ごしていることが多いアカネだが、一度だけ単独で外に出たことがあった。
慌てて様子を見に行ったら、家の裏手の路地の奥で、この春生まれたらしいまだ小さい猫に実体化して寄り添い、カラスの群れを威嚇していた。カラスたちはさすがに、その猫がただの猫ではないとわかるのだろう、手を出してこない。
そこに晃がやってきたものだから、カラスは飛び去っていた。
アカネは、自分が守った猫を優しく舐めて毛づくろいをしてやると、晃の元に戻ってきた。
あの時のことを思い出すたび、晃はアカネが本来は優しくて勇気のある子なのだという思いを強くした。それを、あれだけ歪ませたのは人間だ。
だからこそ、この手で護りたい。この子の優しさを。
晃は、飲み物でケーキの残骸をすべて喉の奥に流し込み、大きく息を吐くと、改めて自分の足の上に乗っているアカネを見つめる。
今は幽体のままなので、“左腕”を伸ばしてアカネの頭をなでた。
アカネは満足そうに目を細め、喉を鳴らしていたが、やがてあくびをすると、丸くなって目を閉じた。しばらく様子を見ていたが、本当に眠ってしまったらしい。
(すっかり安心してるみたいだな。こういう姿は、生きてる猫と変わらないんだがな)
(うん。こういうのを見てると、本当にかわいいなと思うよ。もう、化け猫の姿に戻ることがないように、僕が護ってあげないと。それが、“あるじ様”の責任だしね)
しかし、晃は知らなかった。
近い将来、アカネや笹丸をも巻き込んで、自分の運命の歯車が大きく回り始める出来事が起こるということを。
今の平穏が、つかの間のものであることを。
神ならぬ身、そのようなことに気づくはずもなかった……
これにて、第五話は終了です。今まで読んでいただいて、ありがとうございました。
次に、今更ながらの登場人物(人じゃないのも混ざっていますが)紹介を挟み、第六話の連載を開始したいと思います。
これまで通り、基本週一回のペースで更新したいと思っていますが、連載が飛んだら「詰まったんだ」と思ってください。
では、これからもよろしくお願いします。