31.和解
「……僕は、アカネに約束したんです……。少なくとも……僕が生きている限り、護るって……。この子が、ちゃんと……人間の世界で静かに過ごせるように……」
晃の腕の中にいる猫は、明らかに妖のものとわかる気を除けば、本当に生きている猫と見分けがつかないほどだった。それにつられるように、和海がそっと手を伸ばし、猫に触ろうとした。
その途端、猫は和海に向かって威嚇するように低く唸ると、晃の腕からさらに奥へと潜り込もうとする。
「ああ、嫌われた。この猫、晃くんにしか、心を開いていないのね」
和海が、少し残念そうに手を引っ込める。
「まあ、仕方ないだろうな。人間すべてを、許したわけじゃないんだろう。それでも、早見くんのことは、あるじと認めたわけだ。今のところは、それで充分だろうな」
結城が苦笑を浮かべる。法引も、軽く溜め息を吐きながら、何度もうなずいた。
「そうですな。少なくとも、早見さんに心を開いて、あるじと認めておとなしくしてくれていれば、それでいいわけですし」
しかし、このままでいるわけにもいかない。現実に晃は、歩くのもやっとなほど消耗してしまっている。それは偽装工作ではあるのだが、フラフラなのは本当のことだ。
和海がまたも、高坂家に事情を説明に行き、休ませてくれるよう頼むため先にこの場を離れ、結城と法引で晃を支えながら、三人で歩き出す。そのあとに笹丸が続いた。
高坂家に向かいながらも、晃は腕の中のアカネを離そうとはしなかった。
「アカネに……実際のところを見てもらおうと思うんです。自分が復讐しようとしていた相手が……本当はどういう人たちだったのかを……。復讐に凝り固まっていた時には見えなかったものが、きっとあると思うから……」
晃のつぶやきに、結城も法引もうなずく。
そして、高坂家に到着し、佳子が出迎えたのだが、一人服が薄汚れ、髪もボサボサになっている晃の姿に、佳子が驚く。
とにかく、と家に入れてもらい、玄関ではたけるだけ服の土汚れをはたき落とした後、入ってすぐの部屋にひとまず落ち着いた。
布団は、晃のほうから服が汚れていることを理由に辞退し、大きめのクッションにバスタオルを巻いたものに体を預けた。
「そういえば、かわいらしい猫ちゃんですね。どうしたんですか、その猫?」
佳子の問いかけに、晃は微苦笑を浮かべながら、訳ありなのだと答える。
「この子は、いわば人間にいらない存在として追い出されてしまった子です。こうしておとなしくしてますけど、本心では、まだ人間を許してはいないかもしれません」
今のアカネは、“視る”能力がないものでも、普通に猫として目に映るはずだ。能力がないものから見れば、まさか物の怪、妖の類とは到底思えないだろう。
「捨て猫なんですか? かわいそうに。こんなにかわいらしいのにねえ」
佳子はそう言って、猫を眺める。
アカネは不思議そうな顔をして、佳子を見上げた。
「ああそうだ、お伝えしなければならないことが。例の化け猫ですが、もう一族の方々を襲うことはありません。ですから、これ以降安心して日々の生活をなさってください」
晃の隣で様子を見ていた法引が、思い出したようにそう告げる。佳子は驚いたように目を見開いた。
「それって、つまり……」
「化け猫は、もうここには現れないということです。ここにいる早見さんが、全力を尽くして、始末をつけてくれました」
それを聞いた佳子は、改めて晃の様子を見、急に顔が陰った。
「……それで、こんな姿に……。本当に、申し訳ない。そして、ありがとうございました……」
頭を下げた佳子に、晃は内心苦笑しながら頭を上げてくださいと告げる。
「……僕は大丈夫です。休めば、何とかなりますから……」
当の化け猫だった存在を、今、腕の中に抱いているとは気づいていないだろう。そしてアカネは、自分の目の前で晃の身を気遣うこの人が、自分が復讐しようと狙っていた一族の一人だと、わかっているはずだ。わかっていてアカネは、ただじっと見つめるだけだった。
アカネは今、何を思うのだろう。
佳子が、家族に知らせるといってその場を離れると、晃は大きく息を吐いた。そして、腕の中のアカネを見る。
アカネは晃を見上げると、小さな声で一声鳴いた。
その時、部屋の外から人が近づいてくる気配があった。やがて、ゆっくりと部屋に入ってきたのは、杖で体を支えながら佳子に導かれるように進んできた博興だった。
博興は、晃のほうを見て、その腕に抱かれている猫に視線を向けた途端、一瞬その目が見開かれた。おそらく、猫の正体に気が付いたのだろう。
けれど、猫がおとなしく晃の腕の中にいる様子に、何か思うところがあったらしく、特に口を開くことはなかった。
法引が再度、先程と同じくすべての決着がついたことを報告すると、博興はゆっくりとうなずいた。
「申し訳ありませんが、早見さんが今この状態なので、もうしばらくここで休ませていただきたい。構いませんかな?」
法引の言葉に、博興は当然だといわんばかりに大きくうなずく。そして、佳子を促すと、おもむろに部屋を後にした。
「……博興さん、この猫が当の化け猫だって……気が付いたみたいですね」
晃がつぶやくと、法引も同意した。
「あの表情は、まず間違いないですな。それでも何も言わなかったところを見ると、あなたに預けたということなのでしょう。もう、これで終わりですよ、きっと」
晃は改めて、アカネの顔を覗き込む。すると、アカネがじっと見つめ返してきた。
(あるじ様、わたい、思った。あの人、わたいを封じた人じゃない)
(ああ、そうだよ。お前を封じた人は、四百年も昔のあの人の先祖だ)
(だから、もういい。わたいは、あるじ様と一緒にいられれば、いい)
(……そうか。ありがとう、アカネ)
アカネは、再び頬を晃の胸に擦り付ける。晃が、抱いている右腕を上手く動かして位置をずらし、指先で頭をなでてやると、ごろごろと喉を鳴らした。
生きている猫と変わらない様子のアカネの姿を見ていると、あるじとしての責任を感じる。この子を護らなければ、と改めて思う。
これからこの子は、自分の元で人間の世界で過ごすことになる。霊感のある者なら、この子の正体に気が付くだろう。
本性が物の怪、妖だと知って、冷静に対処できる者がどれだけいるだろう。迂闊に表には出せない。
まあ、実体化を解いて、人目に付きにくい幽体状態でいれば、まだ目立たないだろうけど。そこは、アカネ自身の選択に任せよう。
晃は、愛おしそうに目を細めた。