30.偽装
晃が化け猫とともに姿を消してから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。とても長い時間に感じたが、実際はそう長い時間でもなかったかもしれない。
三人は、いまだ立ち尽くしたままどうすればいいのかと考え続けていた。
少なくとも笹丸は一緒だったはずだ。なら、もしかしたら『従属の術』を成功させているかもしれない。
「晃くんは、無事に帰ってきますよね?」
和海が、誰に言うともなくつぶやく。
「ああ、きっと帰って来るさ。帰ってくるとも」
結城の言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
法引は、黙って晃が化け猫とともに消えた方向を見据えていたが、木立の向こうに動く人影を見つけて思わず身を乗り出す。
「あ……あれは……早見さん!?」
その声に反応したのは、和海のほうが早かった。目を凝らして確認し、晃に間違いないと確信するや、そのまま走り出した。
「晃くん! 無事だったの!?」
それに一歩遅れて、結城と法引も駆け出した。
三人の目に映った晃は、髪は乱れ、服があちこち土で汚れ、よろよろと力なく歩いていた。
そして、駆け寄る三人に気づいたのか、こちらを見てわずかに笑みを浮かべると、そのままその場に膝から崩れ落ちる。
「早見くん、しっかりしろ。大丈夫か?」
途中で和海を追い越して先に到着した結城が、晃を抱きかかえて楽な体勢になるように体の向きを変える。
その時、晃の右腕、半袖から出ている手首と肘の間のところに、鉤爪の“傷跡”がついているのに結城は気づいた。いわゆる防御創といわれるタイプの傷で、自分自身をかばったときに付くものだ。
慌てて右腕の“傷”を確認するが、瘴気の毒が入っている様子ではないのに、ひとまずほっと安堵した。
それは法引や和海も同様で、血の気の引いた晃の顔を覗き込み、言葉をかける。
「晃くん、よかった。とにかく帰ってきてくれて、よかった」
「早見さん、生還してほっとしました。で、化け猫はどうなりました?」
晃は視線を後ろに走らせる。それにつられるようにそちらを見た三人は、一瞬息を飲んだ。
大型の洋犬ほどの大きさの猫が、のっそりとこちらに歩いてきていたからだ。その背中には、柴犬ほどの大きさの笹丸が乗っている。
「……大丈夫です。『従属の術』は、ちゃんとかかっています。あるじは……僕ですけど」
晃がそう告げると、法引が大きく溜め息を吐いた。
「結局そうなってしまいましたか……。それにしても、かなり無理をしたようですな。一人で化け猫を押さえ込んで、術をかけられる状態に持っていくのは、大変だったでしょう」
実際はそんなことはない。だが、自分の真の能力を探偵事務所の二人に知られないようにするためには、激闘だったと思わせる必要があった。法引とて、晃が本当に全力を出した時、どれほどの力を発揮するのか知らないのだ。
だから、今の晃の姿は、偽装工作をした結果である。
わざと服を汚し、アカネに頼んで傷跡を作り、最後にアカネに自分の力を注いで強化して、逆に自分は消耗した状態を作り、さらにアカネの作った異界を壊してこちらに戻ってきたのだ。
アカネにとっても、あるじ様である晃の元にいられるなら、ああいう異界などもう必要ではなかった。
しかし、結構良心が咎める。晃は内心、偽装をやりすぎたかな、と感じていた。
三人の反応が、思った以上に深刻な雰囲気だったからだ。
「この様子じゃ、本当に無理をしたんだな。前にも『一人では戦いたくない』と言っていたものな。かなりギリギリの状態だったんじゃないか?」
結城が話しかけてくる。答える前に、和海が口を開いた。
「ほんとに、生きて帰ってこられただけでも儲けものだと思うのに、ちゃんとやるべきことをしているなんて、晃くん、あなたって人は……」
(……今更、実はそうでもなかったなんて言えないよねえ。ちょっと消耗しすぎたかもなあ。もうちょっと、余力を残しておいてもよかったかも)
(それこそ今更だ。良心が咎めるって気持ちはわからんでもないが、あのまま帰ったら、実はお前がとんでもない力の持ち主だってバレバレになるだろ。それを防ぐための偽装だったじゃないか)
(そうなんだけどねえ……)
晃は、もう一度笑みを浮かべて見せると、自分を取り囲む三人の顔を順番に見まわし、つぶやくように言った。
「……とにかく、僕はこうして戻ってきました。……それでいいじゃないですか。それに、あの子もいい子ですよ……」
そして、視える者のみ“視える”鉤爪の痕が残ったままの右腕を伸ばし、猫を手招いた。
「……アカネ、こっちへおいで」
その声に引き寄せられるように、化け猫は晃の元へやってくると、皆が見ている目の前で、急に小さくなった。笹丸がそれに合わせて素早くその背から飛び降りる。
晃のところに駆け寄ってきたのは、本物の猫と見紛うほど実体化した、毛足の長い三毛猫だった。猫はそのまま、晃の手にじゃれついた。
それを見ていた三人は、あっけにとられて言葉が出てこなくなった。
晃はじゃれつく猫を優しく抱えると、自分の胸元に抱き寄せる。猫は嫌がりもせず、晃の腕の中で丸くなりながら甘えるように小さく鳴いた。
「……術がかかった後、説得したら……納得して本当の姿を見せてくれるようになりました……。これが、この子の本当の姿です。かわいいでしょう……」
晃の声に、皆我に返ったように猫を覗き込む。
「……これが、本当にあの化け猫!? 信じられない。こんなに小さい猫だったの?」
呆然とつぶやくと、和海が猫を見つめる。
「そういえば、さっきこの猫のことを“アカネ”と呼んでいたが、名前を付けたのか?」
結城の問いに、晃はうなずく。
「……ええ。術をかけるための最終手順として……あるじとなるものが名前を付けて、自分があるじであると宣言する必要があったんです。それで……“アカネ”と名付けました」
「“アカネ”とは、ずいぶん美しい名前ですが、どうしてこの名前にしたのですかな」
法引が問いかけると、晃は視線を落として胸元の猫を見つめる。
「この子の目が、夕日の色に見えたんですよ。それで、そこから夕焼けの茜空を連想して、アカネです」
晃はさらに、誰に言うともなく言葉を続ける。
「アカネは、ただ猫として……生きていたかった。それを押しつぶして化け猫にさせたのは……人間です。これは、昔の話じゃない気がします……。今でも、同じようなことは起こっていて……人間が妖を創り出してしまっているのかもしれない。そんな気がするんです……」
それを聞いて、皆押し黙った。あり得る話だ、と思ったからだ。