29.心の絆
笹丸が、晃の顔を見ながら静かに話しかける。
(最後に、『名付け』をすることによって、有象無象の妖から、ひとつの個体として意味づけし、従属を固定することによって術が完成する。これで晃殿はこの猫のあるじ。しかし、アカネとはの。どこからこの名前を考えついたのかの?)
(目の色ですよ。この子の目の色は、夕日の色に似ているな、って思って。夕焼けの茜空から、“アカネ”です。女の子だから、ちょうどいいでしょう)
笹丸と会話しながら、晃は猫を押さえつけるのはやめ、地面に降り立った。そして、目の前の猫を見つめる。
(本当は、こんな乱暴な方法は取りたくなかったんだけどね。お前から奪った力は、返せるだけ返すよ。もう怖がらないで)
まだどこか怯えの色を宿し、毛を逆立てているアカネに向かって、晃はそっと手を伸ばし、その首筋を優しく抱きかかえた。
そして、自分の中に残る異質の力を猫の中に送り込む。猫が、驚いたような顔をして、晃を見つめた。
(それから、ずっと言おうと思っていた。アカネ、人間がひどいことをして、お前を化け猫にしてしまった。同じ人間として、言うよ。本当にごめんなさい)
猫が目を剥いた。おそらく、そんなことを言われるとは、思ってもみなかったに違いない。
(……痛かったよね。苦しかったよね。つらかったよね。ただ、毛の長い猫として生まれただけのお前を、化け物呼ばわりして苦しめ、傷つけ、命を奪ったんだから。許してくれとは言えないけど、少なくとも僕が生きている間は、僕がお前を護る。誰がなんと言おうと、護ってみせるから)
晃は、少しだけ体を離し、猫の顔を見つめる。猫は、まだどこか呆然としていたが、不意に何かを訴えかけるようなまなざしになった。
何が言いたいのか、と問いかけようとした途端、晃の体を衝撃が襲う。
(!?)
まるで、巨大な存在に殴りつけられるような衝撃だった。ぎょっとして猫の眼を見るが、猫は相変わらず何かを訴えかかるような、切なそうな目で晃を見つめているだけだ。
直後、同じような衝撃がまた襲ってくる。その時晃は気が付いた。
これは、この子が殺された時の記憶の追体験だ、と。
人間に捕まり、殴り殺された時の、一番凄惨な体験の記憶だ。
晃が猫から完全に離れれば、あるいはあるじとして『やめろ』と命じれば、これは止まるはずだ。だが、晃はあえて何もしなかった。
またも衝撃が来る。一回ごとに、体のどこかの骨が、砕けたのではないかと思うほどの衝撃だった。体に打撲傷が残っている晃にとって、それは現実の苦痛となって襲い掛かってくる。
これは、アカネが訴えかけているのだ。自分はこんなにつらく苦しい思いをしながら死んだのだ、と。
彼女をこんな目に合わせたのは、人間なのだ。だからきっと、知ってほしかったに違いない。
そして、先ほど自分が言った言葉が、ただ口先だけのものか、本当に信じるに値するものなのか、見極めたいと思っているのだろう。それほど、人間に対して、不信感を持っているに違いない。
自分は試されている。確かに術で従属がかかっているから、自分に逆らうことは出来ない。でも、心から信頼を置くのと、表面上おとなしくしているのは違う。
晃は、アカネに信頼してほしかった。自分があるじとして本当にふさわしいかはわからない。でも、信じるに値する存在なのだと感じてほしかった。
幾度も襲ってくる衝撃に、晃は耐えた。追体験だとわかっていても、全身の骨が砕けたのではないかと錯覚するほどの衝撃に、そして何より現実の痛みに、歯をくいしばって耐えた。
やがて、衝撃が襲ってこなくなると同時に、アカネがその体に似合わぬ小さな声で、呼びかけてきた。
(……あるじ様……)
(アカネ、許してくれるかい? すべての人間を許せなくても、少なくとも復讐はやめてくれるかい?)
衝撃が激しすぎて、晃の額にはうっすらと脂汗が浮かんでいた。その汗に光る顔を、アカネが舌で舐める。
さすがに大きすぎるので、一回舐められただけでほぼ顔全体を舌が覆ってしまう。猫特有の、ざらりとした舌の感触は、多少痛かった。
(いてて……アカネ、もういいよ、わかったから。ありがとう)
晃は、改めてアカネの顔を見た。そこには、もう怯えの色はなかった。夕日に似たアカネの眼が、まっすぐに晃を見つめている。
やがて、アカネの体に変化があった。見る見るうちにその体が縮んでいき、本来の猫の大きさになったのだ。
こうしてみると、アカネは成猫にもなり切っていない小ぶりな猫だった。
(これが、お前の本来の大きさなんだね。かわいいよ)
晃はアカネを優しく抱き上げた。実体化しているせいか、生きている猫と大差がない。
ふさふさとした三毛の毛並みのアカネは、晃の目には本当にかわいい猫だった。
(ふぅむ、ひとまず落ち着いたようであるな。それにしても、こ奴が雌だということに、いつ気が付いたのだ?)
笹丸の問いかけに、晃は三毛だとわかった時に、と答えた。
(三毛の場合、ほとんどが女の子なんですよ。雄は探してもなかなか見つからないほど、珍しいんです。さっき、能力を使って触れたときの感触も女の子でしたしね)
(そういえば、そなたの“魂喰らい”の力、恐ろしいものがあるの。猫の瘴気をすべて喰らい尽くしたうえに、猫の大きさが半分以下になったからの。あの一撃で、猫の力の三分の二以上を喰らったとみたが。あれが全力か?)
(大体全力だと思います。自分でも、あそこまでの威力とは思いませんでしたけど)
(確かにな。あともう一回使ってたら、この猫消滅してたところだぜ)
遼の言葉に、晃はうなずく。
(うん、それは自分でも分かった。だから、もう使えないって思ったよ。消滅させたいわけじゃなかったからね)
笹丸は、いつの間にかまた、柴犬ほどの大きさに戻っていた。本人(?)曰く、この大きさのほうが、力を使わなくて楽なのだそうだ。
(それにしても、まさか飛ぶとはの。そなたはどこまで人外なのだ……)
(〈念動〉を使っただけですよ。今の状態なら、人一人の体重を支えて空中に飛ばすことくらい、簡単なんです。ここまで高く飛んだのは、さすがに初めてですけど)
(晃、絶対に人前でやるなよ)
(やるわけないだろ。第一、本気にならないとそこまでの力はないんだから)
晃もまた、遼の力を分離し、普段の姿に戻った。いつもなら、一瞬の虚脱感ののちに疲労感も感じるのだが、“魂喰らい”を使ったせいなのか、疲労感は感じなかった。
晃は改めて、自分の腕に抱いているアカネを見つめ、“左の手”で優しく頭を撫でた。アカネが目を細め、甘えるように頬を擦り付けてくる。
こんなにかわいい猫を、人間の身勝手さが化け猫に変えた。そう思うと、本当に罪深いのは人間のほうだと感じる。
(アカネ、もう一人ぼっちにはさせないからね)
猫は、あるじと定めた者の腕の中で、そのぬくもりを感じていた。
ずっとずっと欲しくて、それでも絶対に与えられることなどないと、諦めていたものだった。
この人なら、信じられる。猫はそう思った。
人間に対する不信感が、完全に消えたわけではない。それでも、この人だけは、自分を護ってくれる。そうはっきり確信が持てた。
自分が死んだときのことを、追体験として送り込んだ時には、きっと怒らせると思った。下手をしたら、あの恐ろしい力で喰い尽くされてしまうかもしれないと思った。
それでも、知ってほしかった。つらかった、痛かった、苦しかったあの思いを。
そして、この人はそれを受け止めてくれた。自分のほうから『許してくれるかい?』と問いかけてきてくれた。
少なくとも、この人の側にいる限り、人間を許せる気がする。
だからこの人のことを、心からあるじ様として慕うことが出来た。
あれほど恐ろしかった“人の姿をした化け物”は、誰よりも優しかった。
今、自分を包むぬくもりは、生まれて初めての安らぎを与えてくれる。すべてを委ねていいのだと、教えてくれる。
この人なら、本当に護ってくれる。今までどこにも居場所がなかった自分に、居場所を与えてくれる。素直にそう思えた。
猫はあるじ様の腕の中で、初めて幸せだと思った。