28.従属
やっと、厄介なことをしてくる人間の若いオスをこちらの世界に引き込めた。これで、他の人間に邪魔されず、こいつを倒せる。猫はそう思っていた。
辺りは、元の世界とほとんど変わらない。ただ、動くものは猫と人間のオスだけだった。
誰もいない世界なら、自分の好きなようにいたぶれる。地面に降り立ちながら、猫がそう思ったとき、オスの足元に例の白狐の姿を認めた。
あいつ、紛れ込んできたのか。なら、あいつも食い尽くしてやる。
だが、相手が妙に落ち着いているのが解せない。まるで、予定通りといわんばかりの様子だ。おかしい。
その時、人間のオスが話しかけてきた。
(出来ればやり合いたくないんだ。少し話せないかな?)
何を言っているのだ、こいつは。人間が、何をいまさら。自分を追い詰め、殺したものの仲間が、何を言う。
余計に怒りが募った。
猫が、いよいよとどめを刺そうと考えたとき、目の前の人間に異変が起きた。
いきなり、気配が変わった。人と死霊の気配が混ざった、異様な気配が膨れ上がる。なんだと思う間もなく、いきなり人間が跳躍した。とても人間が飛びあがったとは思えないほどに軽々と、高々と、猫の頭上を飛び越えてその背に向かって左腕―肩から生えた半透明のもう一本の腕―を伸ばし、思いっきり叩いてきたのだ。
瞬間、猫は異様な感覚に思わず唸り声をあげた。
―体の力が抜ける! 力を奪われる!―
一気に力を奪われ、猫は自分の体が縮んだことを実感した。気づけば、纏っていたはずの瘴気もなくなっている。
なんだ、これは。なんだ、これは!?
人間のオスを見た。あれほどの高さに飛び上がったのに、何事もなかったかのように立って、自分のほうを見ている。
なんだ、こいつは?
改めて見てみると、その異様さは今まで見たこともなかった。その気配、半分は人間だが、もう半分は……死霊が変じた物の怪だった。
こいつは人間なんかじゃない。
人の姿をした化け物だ!!
自分は、とんでもない存在を引き込んでしまった。あいつは、この体を、この力を、“喰らった”のだ!!
瘴気でさえ、あいつに喰われた。あんな化け物、早くここから追い出さなければ。
猫は、半ば恐慌状態になりながら、“人の姿をした化け物”に向かって、鉤爪をむき出しにして前脚を叩きつけようとした。
だが、相手はただ立っているだけだというのに、はるか手前で鉤爪が弾き返される。
噛みつこうと大きく口を開けて躍りかかってみたが、やはりはるか手前で何か見えない壁にでもぶつかったかのように、体が弾き返された。
だめだ、全く歯が立たない。
相手の気が揺らめく。生と死の気配が入り混じる、得体のしれない気が膨れ上がってくるように感じた。
猫の中から、生きていた時以来、久しく感じていなかった不快な感情が湧き上がってくる。それは紛う事なき『恐怖』だった。
これ以上相手にしていたら、逆に喰らい尽くされてしまう。逃げなければ。
でも、どこへ逃げる?
ああ、宙だ。あいつの腕が届かない、高みへと逃げればいい。
猫は跳躍し、そのまま空中へと踏み出した。
宙を走って木々の梢を見下ろす位置まで、一気に駆け上がる。
人間なら、ここまでは追っては来られないはずだ。少しだけ安堵して、様子を見ようと振り返る。
なぜだ!? なぜ、同じ高さにあいつがいる?!
猫は、自分の眼が信じられなかった。自分と同じ高さの中空に、あの“人の姿をした化け物”がいたのだ。
あいつは飛べるのか!? 半分は人間のはずなのに!
驚きのあまり、猫は一瞬その場に硬直してしまった。それがある意味命とりとなる。
見る間に、近づいてくる。“人の姿をした化け物”が。
はっと気が付いて逃げようとしたときには、相手はすぐ目の前に迫っていた。
必死に距離を取ろうとしたが、間に合わない。
相手は素早く猫の真上に回り込むと、あの半透明の腕を猫の首の付け根に押し当て、ものすごい力で真下に押し込んでくる。
たちまちのうちに地上が迫る。逃れたくても、下に向かう圧力が強すぎて逃げられない。
猫はそのまま、地面に叩きつけられるように押さえ込まれてしまった……
(ふぅ、やっと押さえ込めた。何とかこのまま、下手に暴れないでおとなしくしてくれるといいんだけど)
(あーきーらーっ!! お前今、下に向かって加速しただろっ!!)
猫の上にのしかかるようにして、相手を押さえ込む晃に向かって、遼が怒鳴る。
(遼さん、何騒いで……あ、そう言えば遼さんは絶叫マシン苦手だったねえ)
(そういう問題じゃねーよ!! 自分まで地面に激突したら、どうするつもりだ!?)
(大丈夫だよ。ちゃんと加減して、直前に減速したんだし。それより、気が散って力が抜けるから、落ち着いてよ)
相手の化け猫は、縮んだとはいえ今だ牛ほどの大きさがある。能力を使って押さえ込んでいても、相手は逃れようともがいている。力が抜けると取り逃がしてしまうので、出来れば遼にも落ち着いてほしかったのだが、遼のほうもまだ騒いでいる。
(お前なぁ、怪我したらどうすんだ!? 垂直落下で加速しやがって! なんで変に肝が据わってるんだよ、お前は?! 化け猫の奴と違って、生身の体があるんだぞ……)
(わかってるよ。でも、あそこはああでもしなきゃ、逃げられてたよ?)
(そりゃそうかも知れんけど……)
そこへ、笹丸が駆け寄ってくる。
(そなたら、何を漫才をしておるのだ。第一つっこむのならば、生身の人間が宙を飛んで猫を追いかけていることにつっこむべきであろう。まあ、化け猫が自ら引き込んでくれたことは、幸運であったが)
(ええ。最初の予定では、こちらから化け猫を巻き込んで相手の異界に飛び込む算段でしたからね。猫のほうから仕掛けてくれたのは、運がいいと思います)
(そういうことよの。それより、術をかけるぞ。相手は、すっかり心を折られたようであるからの)
笹丸は、晃に押さえ込まれている化け猫の正面に立つと、その姿を変化させる。柴犬のようだったその大きさが、大型犬並みの大きさとなり、精悍な狐の姿となった。
笹丸の口から、祝詞のようにも聞こえる言葉が紡がれる。
意味ある言葉を聞き取ることが出来ないのは、やはり特殊な呪文のようなものだからか。
言葉が重なるごとに、何らかの力が晃と猫の間を繋いでいくのが感じられる。
やがて、その言葉が途切れたとき、笹丸が晃を促すように視線を向ける。晃はうなずくと、静かに口を開いた。
「僕、早見晃は、ここなる猫“アカネ”のあるじなり」
その刹那、猫と自分の間にはっきりとした絆が結ばれたことを感じた。これからは、自分がこの猫のあるじなのだ、と晃は改めて気を引き締めた。