13.説得
正午過ぎ、結城と和海を乗せた軽自動車は、近郊都市へと向かう高速道路をひた走っていた。後部座席には、誰も乗っていない。
運転席の和海は、ことさら不機嫌な様子で、助手席の結城を横目にひとりごちた。
「……どうして、今日に限って晃くんは一緒に来てくれないのかしら。所長と二人きりなんて、不安でもあるし、味も素っ気もないわ……」
それを聞きつけた結城が、苦笑と皮肉が入り混じった言葉を返す。
「おいおい、ずいぶんな言い草だな。早見くんが今現在同行していないのが、そんなに不服か」
和海は、それとなく視線を逸らした。
二人の車が走る下り線は、そう混んではいない。特に急なハンドル操作を要するものもない。そこで結城は、改めて鞄から取り出した資料を確認した。
そこには、ひとりの女性の住所が書かれている。高岡麻里絵が頼っていったであろう人物、『島木朋実』だ。すでにカーナビにも、住所は入力済みになっている。
結城たちが“高校時代の同級生”、おそらくは結婚後の姓に“島”がつく、名前が“トモちゃん”という情報から、調べ上げた人物だった。
事情を話して麻里絵の実家にまで赴き、学校の卒業者名簿まで調べ、何重にも確認した結果、この人に間違いないと確信したものだ。
調査した範囲では、他には、咄嗟に飛び込める友人や親戚といったものを、麻里絵は持っていなかった。
高岡との結婚に、両親はおろか親戚じゅうが反対したという経緯があり、それを押し切っての結婚だったため、夫婦がこういう状態になったあとでも、気軽に相談出来ない雰囲気になっていたようだ。
相談すれば、『それ見たことか』と謗られるのは目に見えていた。
だから、高校時代からの親友で、ずっと友人関係を続けていた島木朋実のところしか頼るところはない、とはっきり結論付けることが出来た。
「いくら悪霊に操られているとはいっても、完全に乗っ取って表の意識まで入れ替わっているならともかく、依り代本人が内心本気で嫌がっていることを強要するのは不可能だ。だから、消去法で消していって、こっちに来ているはずなんだ」
結城のつぶやきに、和海はちらりと視線を走らせると、大きく息を吐く。
今、車はその人の住む町へ向かっている。
だが、肝心の晃はどうしても抜けられない用事があるからと、夕方の電車でそちらへ向かうと言ってきた。
「これから、悪霊に対峙するかも知れないというのに、どうして晃くんがいないのかしら……」
「いい加減にしろ。来ないと言ったわけじゃないだろう。あとでちゃんと合流することになっているんだから、つべこべ言うのはやめなさい」
とうとう結城が説教をした。
和海は少しむくれ顔のまま、前方を睨みつけるようにしながら運転を続ける。
和海の不機嫌さの中に、実は不安が多分に混ざっているのは、結城もわかっていた。悪霊に対峙をするなら、当然昼間のほうが与しやすい。
だが、晃が合流するのを待っていたら暗くなってしまうかもしれない。それを一番恐れている。
夜闇の中では、霊たちこそ本領を発揮し、人間である自分たちはやはり不利になってしまうからだ。
結城も重々承知しているために、これ以上は強い言葉を出すことが出来なかった。気分を変えようと、話題を変えてみる。
「……しかし、車でも電車でも一時間半ほどの距離の郊外の田舎町なんて、いろいろな意味で隠れ家にはちょうどいいな。妻の千佳子の両親も、そういうところに住んでいるんだ」
「そういえば、そんなことを言ってましたね。田舎暮らしって、どうなんでしょうね」
「さあ。私は子供の頃からずっと都会暮らしで田舎は知らんから、想像もつかんね。今のところ、憧れる気持ちもない」
なんとなく話題が逸れていくのを感じた和海だったが、現実の不安から少しでも目を逸らしたくなって、そのまま話が続く。
「わたしはこれでも、子供の頃は親の故郷への里帰りで、結構田園地帯なんかに行ったんですよ。当時はもちろんお客様で、本当の暮らしぶりなんてわからないけど、それなりに楽しかった記憶があります」
「まあ、たまの里帰りじゃ、そうだろうなあ。結構、田舎で遊んだんじゃないか」
「朝早く起きて、カブトムシを取りに行ったこと、ありますよ。ちょっと年上の男の子のいとこと一緒に」
和海がかすかに笑った。結城も、つられて微笑んだ。その時。
「次ノ出口ヲ降リテクダサイ」
カーナビの声が進路変更を告げた。二人は、一気に現実に引き戻される。和海が、本線から分かれている出口の分岐へとハンドルを切った。
料金所を通って清算をしたあと、いよいよ一般道へと入っていく。周囲の景色はすっかりのどかな田舎町といった雰囲気になっていた。
道路は中央に白線が引かれているだけで、大型車同士ではすれ違うのが大変なほどの道幅しかない。それでも、時間が中途半端なせいか、対向車は少なかった。
道路の左右は、冬野菜の緑がある畑と、すでに取り入れが終わった土がむき出しの畑が、モザイク模様のように見え、所々に住宅が固まって建っていた。
「次ノ交差点ヲ右折シテクダサイ」
淡々と指示を続けるカーナビに、二人はいつしか無口になっていた。液晶画面に、目的地を示すフラッグが見え始める。もうすぐ目的地だ。
交差点を右折し、しばらく進むと、いくつかの住宅が固まっているところでカーナビが告げた。
「目的地ニ到着シマシタ。案内ヲ終了シマス」
和海が取りあえず車を止め、周囲を見回した。同じような雰囲気の家が、二百メートルほどの中に点在している。そして、カーナビが沈黙したこの場所から数十メートル以内に、島木朋実の家があるはずだった。
結城は時間を確認した。午後一時半をとっくに回っている。
「……昼食の時間は、もう過ぎてるな。普通なら在宅しているはずだが、農家ではわからんな。畑に出ている可能性がある。旦那が勤め人で、奥さんや親の世代が農業、というのも決して珍しくないからな」
「とにかく、車を止めておける場所を探しましょう」
和海は、道路の反対側にある、ちょうど車一台止めておけるほどの土が剥き出しの地面を見つけた。固めてあるらしく、車が入り込んでもびくともしない様子だ。
そこに車を入れると、和海はサイドブレーキを引いてエンジンを止め、キーを抜き取ってバッグのポケットにしまった。
二人は、ほとんど同時にドアを開け、外に出た。田園地帯特有の、どこか土の香りの混ざった風が、時折頬に吹き付けてくる。
「さて、まず『島木』宅を探さなければならない。このあたり一体の表札を確認するぞ」
結城がさっそく、車が止まったすぐ先の家の表札を見た。違う。和海も道路を横切り、向かいの家の表札を確認する。違う。
そうするうち、『島木』の表札がかかった家が見つかった。少し離れた家まで確認してみたが、幸い島木姓は一軒だけだった。
そこは、割と手入れをされた生垣に囲まれた住宅で、都会の基準ならかなりの規模だが、この辺ではそのくらいの規模の家は結構見かけられた。生垣に作られた入り口には、石の柱が左右に建てられ、そこに『島木』の表札が掛けられている。
生垣の奥に建てられた家は比較的新しく見えたが、玄関はドアではなくサッシ製の引き戸になっている。おそらく内部も、完全な和風建築だろう。元々建てられていた古い家の間取りを元に、建て直したのかも知れない。
家の脇には、グレーのミニバンが止まっている。
「昔からの集落だと、同じ姓の家が何軒もあったりするんだが、この辺はそうでもないようだ。バブルの置き土産のようなベッドタウン地域だし、あとから引っ越してきた人もいるんだろう。ここの家は、家の造りからいって古くから住んでいそうな雰囲気だが」
「でも、今気がついたんですが、どうやって話を持っていきますか。高岡麻里絵さんは、晃くんの話だと心の奥底を操られて、自分で意識せずに悪霊が望むような行動を取ってしまう状態だろうということですけど」
結城もさすがに考え込む。おそらく、麻里絵の夫がパチンコ好きのだらしない男だということは、島木朋実も知っているはずだ。だからこそ、飛び出してきた彼女の受け入れ先となったのだろう。
そうなると、そこへ彼女を名指しで訪ねていって、高岡麻里絵の事を訊いたのなら、露骨に警戒されるはずだ。かといって、悪霊がどうのこうのなどと言う話をしたら、別な意味で警戒されるに決まっている。
「……両親が心配して、連絡ぐらい取ってくれと言ってきた、ということにでもしておくか。そうすれば、まだ警戒は薄くなるかも知れん」
結城の考えに、和海も基本的には賛成した。
「ただ、島木さんのほうに、どれだけ事情を話しているかにもよりますね。それでも、まあ……夫に頼まれたというよりまだましかもしれませんね。それで行きますか」
和海の言葉に、結城もこの作戦で行こうと決める。結城はさらに言った。
「本人が在宅していることを祈ろう。こういう場合、アポを取っておくと、かえって相手が用意周到に理論武装することがある。いきなり訪ねていって、こちらのペースに巻き込んだほうが、うっかりしゃべってくれる可能性があるからな」
和海はうなずき、『島木』宅へと向かった。
生垣を通り抜け、玄関先に立つと、チャイムを鳴らす。奥からかすかな返事の声がすると、しばしの間があって引き戸が半ばまで開けられ、そこから三十前後の女性が顔を出した。黄色いポロシャツにジーンズ、ピンクのエプロンをしている。おそらく、島木朋実本人に違いない。
「どちら様でしょうか。セールスだったら、うちは何もかも間に合っていますので」
どこか警戒している様子がありありと伺える表情のまま、女性が問いかける。特に、おそらく近所が知り合いという雰囲気のこのあたりで、突然見ず知らずの人間が訪ねてくれば、そういう態度になるのも仕方がない。
「いえ、セールスではありません。突然訪ねてきた人間に対して、不審に思うのは当然ですね。私はこういうものです」
和海は名刺を差し出しながら、こう話を切り出した。
「実は、高岡麻里絵さんという方のご両親から頼まれまして、結婚して独立した娘が、その家を飛び出してしまったので、探して欲しいと」
「……それで」
「あなたは、島木朋実さんですね。あなたにお話を伺いたいと思いまして」
相手の女性が、名刺と和海の顔を交互に見比べながら、表情をより固くする。半信半疑なのか、それともな何か別な思いがあるのか。
「……あなた、探偵さんですか。本当に、ご両親からの依頼なのですか」
「そうです。それで、高校時代から親しかったというあなたなら、どこに行ったのか、ご存知なのではないか、と、こうして訪ねてきたというわけなのですが。何か、行き先に心当たりはありませんか。ご両親が、せめて連絡先だけでも教えて欲しいと、心配していらっしゃいます」
相手が微妙な動揺を見せていることが、気配でわかった。
「お願いします。急に姿を消してしまったことで、ご両親は狼狽していました。行方がわかる手がかりだけでも、何かご存知ではないでしょうか」
実際に両親に会い、本当に心配していることは知っているので、和海は決して嘘はついていない。そのため、和海はさらに畳み掛けた。
「どんな些細なことでもいいんです。何か、居場所のヒントになるようなことを、言っていませんでしたか」
朋実らしい女性は、うつむいたまま黙りこくる。和海はさらに続けた。
「離婚するにしろ、やり直すにしろ、逃げていては解決しません。ご両親を交えてしっかり話し合い、将来のことを今一度考える必要があります。そのためには、姿を消しているだけでは、どうしようもないはずでしょう。あなたは何か聞いていませんか。お願いします。心当たりを教えてください。きちんとした話し合いをするためにも」
和海は深々と頭を下げた。一呼吸するほどの間が空き、女性が答える。
「……彼女に直接連絡します。『両親に連絡しなさい』って……。それでいいでしょう。彼女、とても怖がっているんです。『絶対、自分を追いかけてくる人間が現れる』って。もし見つかったら、何をされるかわからないって……」
女性は、いくぶん申し訳なさそうな表情をしながら、それでも毅然として言った。
「あたしには、あなたがそういう乱暴なことをする人には見えない。でも、あなたに話したことで、取り返しのつかないことになってしまうことのほうが、あたしには怖い。失礼します」
和海が止めるまもなく、引き戸は閉められた。直後に鍵を掛けたらしい音までが聞こえた。和海は内心舌打ちした。
あの調子なら、彼女は、島木朋美は確実に高岡麻里絵の居場所を知っている。だが、ここまで口が堅いとは予想していなかった。
先程の口ぶりだと、麻里絵がここにやってきたとき、余程うまく言い訳を取り繕ったに違いない。
いや、言いくるめたのは麻里絵ではなかったのかもしれないと、和海は思った。言いくるめたのは、松崎淑子だ。彼女のほうだ。
自分を追いかけてくる人間がいること、もし見つかったら何をされるかわからないということ。
これは麻里絵とその夫にも当てはまらないことはないが、むしろ悪霊と自分たち、特に、悪霊を一度は撃退した晃との関係で当てはめたほうがすっきりする。
結城が調べた話では、二人は夫婦喧嘩が絶えない関係ではあったが、暴力沙汰まではいっていなかったという。
自分たちが訪ねたとき荒れていたのは、妻が急に姿を消してしまった精神的ショックから自棄になって酒を飲み、理性的判断が出来なくなっていたためと感じた。
晃の力に打ちのめされたあとの彼は、むしろ小心者の印象さえ受けた。
小心者が、自分より弱い立場のものに当たるというのはよくある話だが、暴力の話が出ていないこの場合は、松崎淑子本人だと考えたほうが自然に思える。
とにかく、いつまでも玄関先に突っ立っていてもどうしようもない。和海はひとまず結城の元に戻り、作戦を立て直すことにした。
結城もまた、和海から様子を聞いて苦笑いをすると同時に頭を掻いた。
「厄介だな。余程真に迫った訴え方をしたんだろうな。しかも、『両親が心配しているから連絡を』と言っても、『本人に連絡させる』と返されたらそれ以上追及するのは難しい。両親に連絡がつけば、それはそれで問題は一応解決する……」
「でもわたしたちは、本人に直接会わなければ意味がない。うまく逃げられてしまった。あと少しでしゃべってくれる気配があっただけに……悔しい」
連絡するといっても、電話での対応に終始されたら、家の外からでは何もわからない。隠れ家に固定電話が引かれていなくても、携帯電話さえ持っていれば、いくらでも連絡はつく。
「こういうときに、家の中の音が聞ける高感度指向性マイクや、電波を傍受する受信機なんかがあればいいのに」
思わずそう口に出した和海を、結城が渋い顔になってたしなめた。
「スパイ小説や映画の見すぎだ。大体、そういうものはうっかりすると法律違反になりかねんぞ」
「わかってますよ。言ってみただけ……」
和海は一瞬頬を膨らまし、思い出したように溜め息をつく。
そして二人は、やむなく車に戻り、今後のことを考えることにした。
再び和海が訪ねていっても、あの調子で突っぱねられるのは容易に想像出来る。だからといって結城が行けば、その容貌も相まって、相手を一段と警戒させることが、火を見るより明らかだ。
仕方なく、近所で見かけたものがいないか、実家から借りてきた麻里絵の写真を使って、聞き込みをしてみることにした。誰か姿を見たものがいれば、うまくすると足取りを辿れるかもしれない。
そう考えた二人だったが、半径一キロの範囲で聞き込みを行っても、それらしい人物を見かけたという人はいなかった。
高岡麻里絵は、島木朋美の手で完璧に近所の人の目からも隠され、匿われたことになる。こうなっては、お手上げだった。おそらく、移動はすべて車で行われたのだろう。
「……晃くん、早く来てくれないかしら」
和海の呟きにも、結城は何も言えなかった。手詰まり感が強くなってきた今となっては、晃に頼らざるを得ない。晃は、こういう状況でさえ、一気に変える力を持っている。
「とにかく、駅まで行ってみるか。早見くんからの連絡も、そのうちあるだろう」
和海も無言でうなずくと、車をUターンさせた。車の通りも少ない、旧道と思われる道をしばらく辿ると、ひなびた駅が見えてきた。