18.それぞれの“ヲモイ”
その時、周囲の気配に気が付いたのか、晃がゆっくりと目を開けた。
「晃くん、気が付いたのね。大丈夫? 苦しくない?」
和海の問いかけに、晃は視線をそちらに向け、かすかに笑みを浮かべる。
「……小田切さん、心配かけてすみません。もう大丈夫だと思います……」
晃がそういうと、和海は激しく首を横に振る。
「心配かけただなんて、そんなこと言わないで。元はといえば、わたしのせいなんだもの、晃くんがこんなことになったのは。謝らなきゃいけないのはわたしのほうよ」
そのまま続けて謝ろうとする和海を、晃はわずかに首を振って制した。
「……僕は、誰にも謝ってほしくなんかないんです……。ただ、咄嗟に動いただけ。ただ、それだけだったんですから……」
そこまで言うと、晃は大きく息を吐き、つぶやいた。
「……なんだか、眠くなってきたんですけど、このまま寝ていいですか?」
「ああ、それは構いません。相当に体力を消耗しているはずですからな。ひとまず眠って、目覚めてから何か口に入れましょう」
法引の言葉に、晃は再び目を閉じ、ほどなく静かな寝息が聞こえ始めた。
それを見て、燭台を片付けながら寿栄が法引に声をかける。
「師匠、この人の下に敷きっぱなしの布、どうするんですか?」
「おそらく、そっと持ち上げれば目を覚まさないくらい、深く眠っているはず。下から布団を持ってきて、そちらに寝かせてからしまえばいい」
「了解です」
寿栄が布団を取りに本堂を出たのを見て、法引は今度は結城に声をかけた。
「結城さん、早見さんを布団に移す時、手伝いをお願いします」
「ええ、もちろんです」
その時、気が付くと法引の足元に笹丸がいた。
(法引殿。陣頭指揮は疲れたであろう。ゆっくり休まれよ)
(ああ、ありがとうございます。そして、浮遊霊に対処していただき、助かりました)
笹丸のほうから念話の回路を開いてくれれば話が出来る法引は、笹丸に礼を言った。
(それにしても、小田切嬢は、あれで落ち着いたかの。晃殿も気にしていたが)
(え!?)
(車の中で、少しだけ話をした。あのような状態であっても、小田切嬢の動揺の大きさを、ずいぶん案じておった。あのような有様では、隙が大きいからの)
(……早見さんが、ですか……)
意識もはっきりしていないように見えた晃が、それでも和海のことを案じていたということは、よほど不安定に見えていたのだろう。
実際、浄化の儀式に参加していなかったら、夜中に襲ってきた浮遊霊に取り憑かれた可能性さえあった。
笹丸自身はそれだけ言うと、また晃の近くに戻って様子を見守る体勢に戻る。
法引は、和海のもとへ行くと、何気なく笹丸からの伝言として、晃が案じていたことを告げた。すると、和海は一瞬目を見開き、聞き取れない声で何事かつぶやくと、晃のもとに座り込んだ。
法引は、ふと気になって改めて和海のほうを見た。いまだに晃の傍らに座って、晃の寝顔をどこか呆然と見つめている。これはもしかしたら……
無論、念話ならニュアンスは正確に伝わる。晃に他意はない。あくまでも、霊能者としての懸念を、笹丸に伝えただけだ。そして笹丸が、それを自分に伝えた。しかし和海のほうは、どうも怪しい方向に向かっている気がする。
(いわゆる『吊り橋効果』というやつなのですかねえ。これは、迂闊なことを言ってしまったかもしれませんな……)
寿栄が布団を運び上げてきた。それを見て、晃の体を持ち上げるため、法引は結城に声をかけた。
* * * * *
ソレは、ずっとずっと長い間、暗くて狭い世界に閉じ込められていた。
かつて、近隣の村々を荒らしまわり、幾人もの人間を死に追いやった。それゆえ、強力な術を持って封じられ、閉じ込められたのだ。
そして、何かのはずみでソレを封じていた世界が壊れ、再び外に出たとき、目の前にかつて自分を封じた者と同じ匂いを持つ者が、姿を現した。
だから、完全に思い出したのだ。
かつて人間が、自分に何をしたのか。どうして暴れまわることになったのか。そのわけを。
そして、再び怒りと哀しみがその心を支配し、自分を封じた者の血族に激しい恨みの念をぶつけずにはいられなくなった。
それなのに、邪魔が入った。
邪魔する者たちは、昔と同じく自分のことをこう呼んだ。
―『化け猫』と―
好きで化けて出てきたのではない。
辛くて、苦しくて、そうでもしなければ死んでも死にきれなかったからだ。
だから、余計に怒りがわいた。
その中でも、自分が封じられていたところに、自分が新たに得た力、“瘴気”をものともせずに入り込んだものがいたのが気に食わなかった。まだ若い、人間のオス。
そいつを、たまたま打ち倒せた。
でも、仲間が急いで運んでいったから、死んだかどうかわからない。
仲間の中にも、“強い”奴はいた。あいつが一緒だったから、殺せなかったかもしれない。
それでもいいか、と猫は思った。
あいつら一人ずつばらばらにして、一人ずつ襲ってやればいい。
一人ずつ襲えば、きっと殺せる。そうすれば、邪魔者はいなくなる。
邪魔者がいなくなれば、自分を封じた憎い者たちの血族へ、復讐が出来る。
今は邪魔な結界があるが、いつかあの結界を破ってやる。
あの一族、喰らえる奴ら、すべて喰らい尽くしてやる。
今、邪魔者たちは離れたところにいるようだ。
そこまで追いかけて行ってもいいが、どうせあいつらのことだ、また来るに違いない。その時に、あのオスがいれば、仕留め損ねたということだ。
いなければ、残りの奴らを仕留めることを考えればいい。
そういえば、あのオスの近くに白狐がいたが、あいつは何者だろう。
子狐のような姿だったが、持っている力はそこそこあるように見えた。あの白狐が、もしかしたら人間に力を貸すかもしれない。気に入らない。
なぜ、人間のそばにいる?
キツネなら、山にいるべきではないか?
白狐は普通のキツネとは違うのかもしれないが、人間のそばにいるのがわからない。
あいつも獣なら、同じ獣である自分の、この抑えようもない人間への怒りや恨み、絶望などが、多少はわかるはずなのではないか。
もしあいつが人間の味方をするようなら、あいつも喰らってやる。
つまりはこの世に、自分の本当の味方なんかいるわけがない。みんな、自分を滅ぼそうとするか、封じようとする者たちばかりだ。
そんなやつら、みんなみんな食い破ってやる。
邪魔者や、自分を封じた憎い一族を全部食い殺した後は、このあたりの人間を少しずつ殺す。人間に、自分が感じた苦しさや絶望を味わわせてやる。
自分は、ぼろ布のようになるまで打ち叩かれて殺された。だから、人間にも、同じ思いをさせてやる。
猫は、砥ぐ必要もなくなったその爪に、瘴気を纏わせ空を切り裂く。
目障りだった人間の若いオスを打ち倒した時の、あの一撃の再現だ。
これを使えば、人間はみな簡単に倒せる。猫はほくそ笑んだ。