16.儀式の始まり
街中にある、一見寺らしくない作りの建物である妙昌寺へ車が走り込んだのは、それからしばらくのことだった。
そこには、大ぶりな黒い傘を差した浅葱色の作務衣にサンダル姿の青年が、車を出迎えていた。車が止まり、ドアが開くと同時に手にした傘を差しだし、中を覗き込む。それで、青年が剃髪をしているとわかった。
「おやじ、電話で言ってた人って、その人かい?」
「そうだ、ことは一刻を争う。準備は出来ているか」
「ああ、もちろん出来ているよ。それにしても、すっげえイケメンだな。顔色がひどいからヤバイ状態だってすぐわかるけどさ」
よく見ると、青年と法引の顔立ちはどことなく似ていた。やはり、法引の息子らしい。
「和尚さん、この方は、息子さんですか?」
問いかけた結城に、法引はうなずく。
「息子の昭憲です。大学を卒業と同時に本山へ修行に行き、三か月の修行を終えて先日帰ってきたところなのですよ」
まず和海と結城が外に出て、座席を前に倒し、法引が晃を抱きかかえるようにして外に出ると、結城が素早く晃の脚を抱えた。そこに、昭憲が傘を差しかけ、晃が濡れないように配慮する。
「それで、儀式ってどのくらいかかるんですか?」
傍らの和海が問いかけると、法引は間髪入れず答えた。
「ぶっ続けで、一昼夜はかかるでしょうな。だから、昭憲にも来てもらったのです」
それを聞いた晃のほうが、内心まずいと思った。目を吊り上げた母智子の顔が浮かんだからである。
「……い……え……れん……ら……く……」
「え、何ですか?」
かろうじて聞こえた晃の声に、法引は思わず訊き返したが、すぐさまそれどころではないことを思い出した。
「早見さん、何か言いたいことがあるのはわかりますが、今は話さないでください。体力を温存しなければなりません」
その時、結城があっと声を上げた。
「そういえば、早見くんの母親は、ちょっと厄介な人だった。過保護で、息子と連絡がつかないと、すぐにヒステリックに大騒ぎするような人で……連絡しておいた方がいいかもしれません」
「なるほど、そういうことですか」
「早見くんを本堂まで運んだら、和尚さんはそのまま準備を進めてください。私は早見くんの家に、連絡を入れておきます」
結城の言葉に、法引はうなずいた。
「承知いたしました。とにかく、まずは早見さんを運びませんとな」
和海は濡れるのも構わずに先に本堂への階段を上がり、入り口の扉を開けていた。
そこへ、晃を抱えた法引と結城、そこに傘を差しかけている昭憲が到着する。
中に入り、横手から回り込んで奥の本堂へと進んでいく。法引と結城は、この場は仕方がないと雪駄や靴を乱暴に脱ぎ捨て、傘立てに傘をしまった昭憲が晃の靴を脱がせながら自分もサンダルを適当に脱ぎ、最後に和海が全員の履物をそろえて回ることになった。
本堂の中央には、およそ二畳分の大きさの布が広げられていた。異様なのはその布に、墨で経文が一面に びっしりと書かれていることだった。
布の四隅には燭台が置かれ、三十センチはある大きな和ろうそくに火が灯されていた。無論周囲のロールスクリーンはすべて降ろされ、曼荼羅図が現れている。布の四方の辺の真ん中に、それぞれ座布団が置かれ、その傍らにはやはりそれぞれ御鈴も置かれていた
「布の真ん中に、早見さんを寝かせてください」
法引の指示で、晃の体がわざと経文と交差するように横たえられる。
そこで、結城が晃に声をかけた。
「早見くん、家に連絡するのに、君の荷物の中にある携帯を使っても構わないかな?」
結城の問いかけに、晃は視線を合わせ、うなずく。それを確認し、結城は素早くその場を離れていった。
それを見送った和海は、溜め息をついてぽつりとつぶやいた。
「あのお母さん、苦手です。以前、目の前で晃くんと口論になった時は、どうしようかと……」
「ああ、なるほど……」
とにかく今は、儀式の準備を進めなくてはいけない。
「それはともかく、小田切さん、この儀式には、あなたも参加していただく必要があります」
「わたしもですか?」
「そうです」
法引は、今回の儀式は自身の寺の宗派の祈祷とは、違うものなのだと告げた。
「これは、わたくしが個人的に師事した、さる行者直伝の儀式です。この布も、師匠より受け継いだ特別なものです。そしてこの儀式は、昭憲に受け継ぎつつあります」
「だから、ここから先はおやじじゃなくて師匠になるんだな。だから、オレのことも昭憲じゃなくて法名で呼んで欲しい」
「そうだな、寿栄」
昭憲から寿栄に呼び方が変わった青年は、本尊の近くに行くと、供えられた供物の近くに置かれていた何かを持って戻ってきた。
それは、掌に載るほどの大きさの透明な水晶球だった。
法引はそれを受け取ると、晃の鳩尾あたりにそれを乗せ、晃自身の右手でそれを覆い隠すように押さえさせた。
「この水晶の球に瘴気を吸わせます。そのために、この水晶球に向かって、誰かが念をかけ続ける必要があります。一人ではとても一昼夜など持たないので、結城さんとあなたで交代してでも途切れることなく念を込め続けてください。よろしいですか?」
それを聞いた和海は、真剣な顔でうなずいた。
そして法引は、この布の意味も語った。
この布に書かれた経文と同じものを唱えると、この布の上に寝かされている者は結界の中に封じられることになる。結界の中では、中にいる者は深い眠りにつき、何かに取り憑かれているなら憑いているモノが表に出てきて、今回のように瘴気の毒に侵されているというのなら、毒が体を蝕むのが止まるという。
「ただし、これもまた読経が途切れると意味をなさなくなってしまいます。よって、寿栄の力が必要なのです」
法引が、寿栄を見る。寿栄はうなずいた。
「この法名を授かる前から、こっちの呪法のほうはいざというときのために師匠から少しずつ教わっていた。まさか、こんなに早く、実際に儀式をすることになるとは思わなかったけど。とにかく、儀式の最中は、結界の中にいる人は、仮死状態になってると思ってくれていいですよ。状態も悪くならないし、本人も苦痛を感じなくなるはずだから」
そこへ、結城が戻ってきた。
「何とか、連絡してきました。いや、色々追及されたんだが、なんとか誤魔化せた。まったく、過保護もあそこまで行くと逆にたいしたものだな、と」
晃本人が連絡してきたわけではないため、不審を抱いた智子がしつこく問い詰めたらしい。
とにかく、結城にも儀式での役割のことを説明すると、法引は自分も含めた四人をそれぞれ布の四方に配置した。法引自身は晃の足元、息子の寿栄は晃の頭上、結城は晃の右手側、和海は左手側だ。
「よいですかな。これからは、疲労を感じて休息を取ったり、用足しなどで場を離れるとき以外、儀式に参加し続けることになります。まず間違いなく、明日の朝まで。覚悟はよろしいですな?」
確かめるように全員の顔を見回す法引に、皆がうなずいた。そこに、笹丸がやってきて、布の脇、晃の顔が見えるあたりに座る。
「……白狐? なんでこんなところに……?」
寿栄が首をかしげると、法引が答える。
「あれは、早見さんの“ご友人”」
「え!? 友人?」
「詳しいことは、後で。儀式を始めます。もし、どうしてもあらかじめ打ち合わせてあった休憩時間以外で場を離れたくなったときは、御鈴を鳴らして知らせてください。特に、自分と同じ役割を担っている相手に。よろしいですな?」
全員がうなずく。
それを確認した法引が、大きく息を吐きだした。
それに気が付いたのだろう、今まで何とか目を開けていた晃が、全てを委ねるかのように目を閉じる。
それがきっかけであったかのように、法引と寿栄の読経が始まった。
念を込め始めながらも、結城が腕時計で現在時刻を確認する。午前十一時四十分を少し回っていた。