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ある異能者の備忘録  作者: 鷹沢綾乃
第一話 凍れる願い
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12.質問

 事務所に戻った後、結城が聞き込んできた情報に、和海と晃は互いに納得してうなずきあった。

 問題の斎場で、例のシフトに入っていた女性が、最近になって体調不良を理由にパートをやめ、斎場ではそれっきり冷気を感じることがなくなったというのだ。

 しかも、彼女の勤務時間は斎場が開く前の午前八時から午後四時まで。

 勤務シフトは水曜日から四日間連続勤務で、週に三日の休みというものだ。

 女性の名は『高岡麻里絵』といい、偶然にも悪霊の正体と思われる松崎淑子と一ヶ月違いの同い年で、葬儀の当日には受付を担当していたことが確認された。しかも、住所は例のマンションで、部屋番号で見る限り、件の五階の部屋の一室であるらしい。

 「これはまず間違いないんじゃないか。彼女が依り代と考えて」

 結城が、自分の顎に手を当てて唸った。双方の情報や現象を総合すると、依り代は彼女だとしか考えられなかった。今度の被害者は、自宅のあるマンションの中で魅入られたに違いない。

 「僕も、間違いないと思います。おそらく松崎淑子の霊体は、通夜の晩に自分のかつての恋人であり、自分を殺した相手である西尾のところにいった。しかし、“温めて欲しい”という願望は満たされなかった」

 晃は、大きく息を吐いて首を振った。

 「生きている人間にそうしろといっても、それはそもそも無理な相談ですが……。満たされなかった彼女は、自分の妄執に囚われ、この世に留まり続けることを選んだ。その際に、それをより容易にする“依り代”という存在に相応しい人物を見つけた。それが、高岡麻里絵さんだった……」

 晃の推理に、結城も和海もなるほどと納得した。

 「確かに、そう考えると、辻褄が合うな」

 結城がうなずくと、ここで、和海がふと疑問を漏らした。

 「確かに、彼女が依り代に相応しいと悪霊が考えても不思議はないわ。でも、何故彼女を選んだのかしら。資料によると、他にも三十そこそこの人がもうひとりいたし、その人も葬儀の当日に、会場で式の進行をしていたそうよ。どうしてその人じゃなくて、高岡さんのほうを選んだのかしらね。やっぱりたまたまだったのかな」

 すると、晃が結城に尋ねた。

 「所長、プライバシーに関わることで訊きにくいんですが、もしかして、高岡さんのほうが、家庭に問題を抱えていたのではありませんか」

 「何故、わかるんだ」

 結城が驚きを隠せないまま、晃の顔を見つめた。結城によると、高岡麻里絵の夫はパチンコ好きで、会社をサボってはパチンコに通いつめ、そのせいで仕事が長続きせず、本人があまり丈夫でない体をおしてパートに出ていたのだそうだ。

そのせいで夫婦喧嘩が絶えなかったようだと、いつも愚痴の聞き役に回っていた元同僚が証言してくれたという。

 「やはりそうでしたか。だから、依り代に選ばれてしまったんですよ」

 晃の言葉に、結城も和海も怪訝な表情になる。

 「どういうこと、それ」

 思わず問いかける和海に、晃は言った。

 「つまりそれは、負の感情です。怒り、妬み、嫉妬、憎悪などといった、人間のマイナス面の感情ですよ。それを、悪霊に嗅ぎつけられてしまったんです……」

 霊が憑依しようとする場合、やはり(くみ)しやすい相手を選ぶ。

 大抵の場合、いわゆる“波長が合う”相手を選ぶのだが、悪霊となった松崎淑子は、自分と同じく男運に恵まれなかった高岡麻里絵を選んだ。彼女の潜在意識の中に澱のように溜まっている鬱屈に、共感したのかもしれない。

 「潜在意識の中に、そういう鬱屈がある人は、憑依されたときに操られやすくなる傾向があるんです。無論本人は、自分の意思でそれをやっていると思っていますが、実は憑依している霊体が識域下で教唆していたりするんです。大抵の場合、何らかの形で鬱屈を晴らす方向に働きかけますからね」

 しかし、と、晃はさらに言葉を続ける。

 「これは、憑依した霊が、自分が生前出来なかった鬱憤晴らしを、代償行為としてその人にやらせているに過ぎないもので、本当の解決になっていない。場合によっては、依り代となった人が破滅する方向に誘導するものさえいる。性質が悪いのは、霊のほうでも“破滅させるつもりはない”のに、そういう方向に行ってしまうことがある。それが一番怖いんです……」

 今回のケースが、どういうことになっているのかはまだわからない。しかし、一刻も早く憑依した悪霊を祓わないと、大変なことになる。高岡麻里絵に取り憑いた霊は、まだ“温めてもらう”のを諦めていないはずだ。

 「彼女は、高岡麻里絵さんの夫に対する日頃の鬱屈を、交際相手に殺された上、“温めて”もらえなかった自分の鬱屈と重ねたのでしょう」

 晃はつぶやいた。

 それを聞いた結城も和海も、やりきれない思いに、思わず眉間にしわを寄せる。

 「もしそうだとしたら、余計な同情というか、自分と一緒にするなと言いたいところだな。勝手に思い入れて憑依した挙句、自分の妄執を暴走させている。まったくもって、始末に困るな」

 結城が、苦虫を噛み潰したような顔で溜め息をついた。

 「しかし、住所を確認するのに、少し時間を食ってしまったわね。工藤警部補に、確認を取ったりもしたし」

 言いながら、和海が壁に掛けられた時計を確認する。まもなく午後八時になろうとしていた。

 「どうする、今から行くか。コンビニ弁当でとりあえず夕飯は済ませたし」

 結城が二人の顔を見た。二人の反応は、正反対だった。

 「今から行くのは、ちょっと迷惑なんじゃないですか」

 そう言ったのは和海だった。

 ちょうど夕食時にかかる可能性があるし、食事が終わっていても、主婦なら後片付けというものがあるからだ。

 そういう忙しいときに、初対面の、しかも探偵と名乗る者が三人も、いきなり押しかけたらどう思われるだろうか。

 下手をしたら、話をする前にドアを閉められ門前払いを食う可能性さえある。

 さらに言うなら、今は夜だ。

 悪霊がいるとわかっているところに、暗くなってから乗り込むのは、どう考えても得策ではない。

 「今、パートを辞めて家にいるはずなんですから、明日の午前中にでも出かけたほうがいいのでは……」

 しかし、ここで晃が口を挟んだ。

 「僕は反対です。行くなら今すぐです。高岡さんに憑依している悪霊が、どういう動きに出るかわからない。今なら一気に尻尾を押さえられるかも知れないんです」

 さらに、晃はこう付け加えた。

 「それに、明日の午前中行くといっても、僕は必修科目があって大学に行っていて、こちらの仕事には一切関われません。お二人で行くというなら、僕は別に止めませんが」

 和海が口ごもった。さすがに、晃を欠いた状態で悪霊のところに乗り込むのも躊躇するものがあるようだ。

 結城は二人の顔を交互に見て、ゆっくりうなずいた。

 「今から行こう。これ以上遅い時間になると、さすがに問題になる。今ならまだ、そう非常識でもない時間だ」

 結城の決断に、二人も決意を固めた。

 そして、まるで示し合わせたように、三人同時に立ち上がる。

 結城を先頭に事務所を出ると、ガレージに止めてある車に皆で乗り込んだ。素早くカーナビを設定し、問題のマンションへ向けて車を発進させる。

 夕方に来たときに利用した駐車場に車を停めると、三人は慎重な足取りでマンションに向かった。

 しばらく歩いたとき、晃と和海がほとんど同時に異変に気づいた。霊気が感じられなくなっている。それに気づいたとき、晃の顔色が変わった。

 「しまった、逃げられた」

 「なんだって。どういうことなんだっ」

 結城が目を剥く。

 晃は、夕方に来たときには、冷たい邪気を孕んだ霊気が、まるで川のようにマンションの入り口から溢れ、近くの道路まで流れ出てきていたのだと言った。

 「今それが感じられないということは、その霊気の元凶である悪霊が、この場を離れたとしか考えられない。一番、恐れていた事態です」

 言いながら晃は、焦りの気持ちが噴き出してくるのをどうすることも出来なかった。

 「夕方ここに来たとき、悪霊に僕らの素性を気づかれたんだと思います。それで、逃げられた……」

 晃は唇を噛んだ。

 あと一歩のところだったというのに、先手を打たれて逃げられてしまった。その可能性もあると踏んで、その日のうちにやってきたのに、相手のほうが上手だったということになる。それが悔しい。

 「それで、悪霊は依り代を移ったのか、それとも依り代を操って逃げ出したのか、どちらだと思う」

 結城が問いかける。

 晃は、真顔のまま答えた。

 「どちらなのか、まだわかりません。ただ、依り代を移るのは、かなり大変です。新たに相応しい依り代が見つかるとは限りませんから。一度依り代を見つけて、それでこの世に留まったものは、強い力を持つ代わり、それから離れると急激に弱くなる。依り代の“精気”を利用していますから。相手だって、それに気づいてはいるでしょう」

 「ならば打つ手があるが……。とにかく、確認に行こう」

 結城が、早足でマンションに近づく。すぐ後ろに晃が続き、最後尾の和海は、一歩遅れて歩いていく。

 いくらマンションに近づいても、前に来たときとは比べ物にならないくらい霊気を感じない。まったく感じないということはないが、害意を感じる霊はいないのだ。

 「私は、ここに来たのが初めてだから、比較対照は出来ないが、相当に違うのか」

 結城が、背後の晃に尋ねる。

 「ええ。全然違います。夕方来たときは、さっきも言いましたが霊気が道路にまで溢れ出していました。それこそ、濁流か何かのように……。今は、まったく関係がない霊体が、そこらに浮遊しているだけです」

 「わたしも、感じられる気配が全然違います。あの時は、凍てついた霊気で凍えそうになったくらいでした。でも、今はそんなことはありません」

 和海も、はっきりとした違いを口にする。

 「なるほど。……とにかく到着だ」

 結城が、マンションの入り口で一旦立ち止まる。そして、三人でマンションを見上げた。

 目的の五階の部屋は、全室明かりがついている。少なくとも、誰かしらは部屋にいるようだ。

 三人は、入り口近くの管理人室を覗いてみる。明かりはついているが、奥で七十前後の男性が、イスに座ったまま居眠りをしているのが見えた。

 「……これでは、セキュリティもへったくれもないな……」

 結城が苦笑いする。こっそり入り込むのには都合がいいが、元警察官としては複雑なのだろう。

 「とにかく、今のうちに上に上がりましょう。早く事態を確認しなければ」

 晃が階段を指し示す。結城と和海がそれを見てうなずき、三人は階段を昇り始めた。

 階段はひっそりとしていた。

 踊り場と各階に設置された蛍光灯が、階段を照らしてはいるが、それは決して明るいといえるものではない。

 その明るくはない階段には、かすかに霊気の残滓が残っている。

 流れ落ちるほどだった大量の霊気が途絶えたあと、水が窪んだところに溜まって残るように、ところどころに霊気がこびりついているのだ。

 特に強いところは、感知能力が高いとは言えない結城でさえ、それを感じることが出来た。

 「……気味が悪いな。今でさえこうなんだから、君らが来たときにはさぞ凄かったんだろうな」

 「ええ、物凄かったですよ。わたしなんか、昇っている途中で体が凍えてきて、上には長く居られなかったですもの」

 和海が、注意深く辺りを見回しながら、答えた。

 やがて、三人は五階にやってきた。明るいとはいえない古ぼけた蛍光灯に照らされたそこには、幾体かの霊がいた。みな、悪霊本体に引きずられていたのであろう弱い霊体だと直感した。

 ここを去った悪霊に、置き去りにされたのだろう。霊たちは皆、所在なげに佇んでいる。

 晃は、静かに進み出た。そして、低い声で呼びかけるようにつぶやく。

 「……つらかったでしょう。僕が手伝います。あの世へ行きましょう。成仏してください……」

 晃が、ゆっくりと両手を広げる。唇にかすかな笑みを浮かべ、霊たちに向かってゆっくりと歩み寄っていく。結城も和海も、息を潜めて見守るだけだ。

 霊たちの気配が、音もなく晃の周囲に集まってくる。皆、救いを求めてきているのが感じられた。霊たちが、晃の体に次々とすがりつく。

 わずかにひんやりとした気配を伴う霊気が、晃の体を覆いつくし、まるで霧の向こうにいるように霞み始めた。

 和海の顔に緊張が走る。不測の事態に陥ったら、すぐさま助けに入る構えだ。結城も、息を呑んで見つめている。

 そのときだった。

 晃が右腕を天に向かって差し上げ、その周囲の空間が、大きく歪んだように見えた刹那、晃にすがりついていた霊たちの気配が、たちまちのうちに消えていく。そして、静寂が残った。

 晃が振り返る。

 「みんな成仏してくれました。きっと、この世を漂い続けることに嫌気が差して、この世を去るきっかけを求めていたんでしょう。操っていた本体の支配からも逃れていましたし、素直に応じてくれましたよ」

 「……しかし、大丈夫なの、消耗していないの」

 和海が心配そうに、声をかける。

 「大丈夫です。抵抗する霊もいなかったので、たいして消耗はしていません。これで、残るは本体だけなんですが……」

 晃が向けた視線の先に、高岡麻里絵が住んでいるはずの部屋のドアがあった。晃はそこに近づくと、腕を伸ばせば届くくらいの位置に立ち、目を閉じてゆっくりと大きく深呼吸をした。

 一分ほども経っただろうか、晃が目を開けるやいなや、結城や和海に向き直り、真顔で言った。

 「ここには、高岡麻里絵さんらしい女性はいません。部屋の中にいるのは、男性ひとりだけです」

 それを聞き、二人は驚きのあまりしばらく言葉を失った。

 結城が何とか言葉を発したのは、十秒以上経ってからだった。

 「……何故、そんなことがわかるんだ。それに、本当に男ひとりしかいないのか」

 「ええ、いません。やはり、依り代である高岡麻里絵さんを操って、ここを逃げ出したんでしょう」

 「たいしたものよね。ただ家の前で精神統一するだけで、中の様子がわかるんだもの。本当に凄いわ」

 和海は何度もうなずきながら、感心しきりだった。けれど晃は、溜め息をつきながら首を横に振る。

 「そんな大したものじゃありませんよ。第一、遠隔透視能力はないに等しいんですから。それが使えれば、高岡さんがどこに行ったか、この場ですぐにわかるんですが……」

 晃はそう言って、再度溜め息をついた。

 「そんなことは、ここで言っていても仕方がない。取りあえず、中の人に話を聞こう。そうすれば、詳しい事情もわかるだろう」

 結城が目で合図をしてドアの死角に入り、晃もそれに習う。そして、和海が玄関のチャイムを鳴らした。

 一度、二度。

 そのまましばらく待ってみるが、中から応答する気配はない。和海は再度、チャイムを鳴らした。今度は、三度。

 それからまたしばしの時間が過ぎ、和海がもう一度チャイムを鳴らそうとしたとき、不意にドアノブが重い音をたて、ゆっくりとドアが開いた。

 人の顔がやっと見える程度の幅で開いた隙間から、三十絡みの男が和海を覗き込む。酒臭い息が、和海の顔にかかった。

 男は、酔って赤ら顔になっている顔をさらに露骨に歪め、和海の顔から足元までぶしつけに眺め回したあと、胡散臭そうに言った。

 「……なんだよ、姐ちゃん。何の用だ」

 酔っている者特有の、やけに荒っぽい口調だった。

 うんざりしながらも、表情だけは微笑を浮かべながら、和海は口を開いた。

 「はい、私はこちらの奥様に少々お話を伺いたいと思いまして、やってきたものなのですが……」

 それを聞き、相手はますます怪訝な顔になった。

 「なんだぁ、女房に話だと。てめえ、一体誰なんだよ。何しにきやがったんだ。ちゃんと答えろ」

 男の態度は、絡んでいるとしか見えない。

 和海は、酔っ払いを相手にする面倒さに内心辟易しながら、笑顔で答える。

 「ここのマンション内で起こった出来事に関して、奥様がそれをよく知っているという話を伺ったもので、一度詳しいことをお話出来ないかと、そう思いまして」

 「あんた、なんだ。警察か」

 「いえ、警察ではありません」

 和海は、名刺を差し出した。そこには“結城探偵事務所・小田切和海”と書かれている。男は不愉快さを露わにして、和海を睨みつけた。

 「探偵だと!? その女探偵さんが、女房に何を聞きに来たんだ」

 「それは、奥様にしか話すことは出来ません」

 微笑みを絶やさないようにしながらも、きっぱりと言い切った和海に、男は急にドアを開けて廊下に飛び出してきた。明らかに激昂している。

 「さてはてめえだな。女房をそそのかしやがったのはっ」

 男は興奮したまま和海に掴みかかった。

 咄嗟に逃げようとした和海だったが、相手は思いのほか素早かった。

 男の手が、和海のスーツの襟を掴んだとき、ドアの影から素早く現れた結城が、男の腕を掴んであっという間にねじ上げ、和海から引き離した。

 「乱暴は困るな。彼女は私の秘書でもあるんでね」

 男は、結城を振りほどこうとなおも暴れたが、和海を睨みつけようとして、その前に立ちはだかる晃と目が合った。

 「高岡忠之さんですね。僕達は、あなたの奥さんに用事があったのですが、奥さんは姿を消してしまったのですね。ならば、あなたに訊かなければならないことがあります。話を聞かせてくれますね」

 静かな、しかし毅然とした晃の言葉に、高岡は気圧されたらしく、急に押し黙っておとなしくなった。

 「では、部屋の中に入ろうか。こんなところで揉めていては、近所迷惑だ」

 結城は高岡の腕を掴んだまま玄関に入ると、男を前にして玄関を上がり、短い廊下を歩いてちょうど開いていた突き当りのドアの中に男を押し込むと、自分も入った。晃や和海も続いてはいる。

 中は、散らかった居間だった。

 ローテーブルが不自然な形に斜めに置かれている。焼酎の入った大型ペットボトルが床に直接置かれて、傍らに氷と焼酎が入ったグラスが、やはり床に直接置いてあった。

 その近くには、半分剥いた魚肉ソーセージが、齧りかけで転がしてある。どうやら、肴代わりに齧っていたものらしい。

 部屋の隅には、洗濯物らしい衣類が乱雑に放り出してある。その有様は、とても所帯持ちの家には見えなかった。

 結城が、呆れた声を出す。

 「ずいぶん散らかっているな。本当に奥さんがいたのか、お前さんは」

 「いたんだっ。でも……いなくなっちまったんだ……」

 高岡が肩を落とした。

 「いなくなったって、いついなくなったんだ」

 結城の問いかけに、高岡は力のない聞き取りにくい声で、話し始めた。

 妻である麻里絵が姿を消したのは、今日のことだった。

 少なくとも、午後一時過ぎまでは彼女が家にいたことを、高岡本人が目撃している。

 その後パチンコに行き、そして七時過ぎに負け気分を変えるのと、夕飯を食べるために帰ってきたときには、自宅はもぬけの殻になっていた。

 「……調べたら、現金とか、あいつ名義の貯金通帳とか、みんな無くなっていた。きっと着替えとかも持っていってると思う。実家にも電話してみたんだが、帰ってないし……」

 高岡の話が事実なら、晃がここを離れた午後五時半頃から午後七時過ぎまでのわずか一時間半ほどの間に、高岡麻里絵は姿を消したことになる。

 相当に慌てて出ていったらしく、タンスの引き出しから衣服がはみ出したまま閉められていたり、置手紙代わりの走り書きのメモが、居間のローテーブルの脇に落ちていたりしたという。メモには、『家を出ます。探さないでください』と書かれていたそうだ。

 メモがなければ、空き巣に入られたとしか思えない状況だったらしい。

 「晃くんが来たことに警戒して、急いで出て行ったとすると、矛盾はないわ。でも、どこへ行ったのかしら……」

 高岡に聞こえないよう、和海がつぶやいた。

 結城はそれに気づかぬ風で、目の前で立ち尽くす高岡に非難めいた言葉を口にする。

 「まったく、だらしない男だな。嫁さんに逃げられて、それで自棄酒でも飲んでいたんだろう。おまけにこの散らかりよう、自棄を起こして暴れでもしたんだろう。情けない」

 その直後だった。高岡が再び興奮し始めたのだ。

 「なんだ、なんだよ。勝手に人ん家上がってきて、言いたい放題言いやがってっ」

 高岡が結城に掴みかかろうとする。咄嗟に身構えた結城だが、高岡の背後から晃が肩を掴んだのを見て、様子見に移った。

 「気に障ることをいってしまったのは、謝ります。ですが、こちらもまだ、あなたに訊かなければならないことがあるんです」

 晃が、高岡に向かって、その高ぶった心を静めようとするかのように、静かに問いかける。

 「奥さんである麻里絵さんがどこに行ったか、あなたに心当たりはないですか」

 高岡は興奮状態のまま振り返り、怒鳴り散らした。

 「うるせえ! 知ってりゃ俺が乗り込んで、連れ戻してくるっ! そんなこと、決まってるだろうが!!」

 「本当にそうですか? よく考えてください」

 晃が、相手の顔をじっと見つめる。すると、やはり何か感じるのか、高岡はひとまず口をつぐんだ。

 「これから僕が話すことは、あなたにとっては現実離れしていて馬鹿馬鹿しいと考えるだろう話です。それでも、ひとまず黙って話を聞いてください」

 晃は、高岡から視線を逸らさずに、まるで言い聞かせるように話し始めた。

 「あなたの奥さん、麻里絵さんは今、恐ろしい悪霊に取り憑かれています。その悪霊をうち祓い、麻里絵さんを救うために、僕達はここに来たのです。教えてください。麻里絵さんが姿を消したのは、僕達がここへやってくることを察知した悪霊が、麻里絵さんの意識を操って咄嗟に逃げ出したせいなのです。急に逃げ出したのなら、行き先は限られているはずです」

 晃は、高岡の瞳を覗き込むようにしながら、さらに言葉を続ける。

 「いきなり……電話の一本もしたでしょうが、それくらいで受け入れてくれるところなど、実家以外ではそうそうあるものではないことぐらい、誰でもわかるでしょう。あなたにも、心当たりがあるはずです。教えてください」

 しかし高岡は、明らかに信じていないとわかる眼で睨みつけるだけだった。

 晃はやむを得ず、さらにこう言った。

 「高岡さん、あなたの奥さんが、悪霊に取り憑かれたのは、あなたが原因だったのですよ。今回のこの事態を引き起こした根本原因は、あなたの生活態度なのですよ」

 それを聞いた高岡の顔が、真っ赤になる。

 「ちょっと待て、このガキ。黙って聞いてりゃいい気になってしゃべりくさりやがってっ! 俺がどういう生活しようと、俺の勝手だろうがっ!」

 一度興奮すると、一時は抑えてもすぐに頭に血が上るらしいこの男は、今度は完全に晃のほうに向き直った。

 それでも晃は、微動だにせず対峙する。

 「あなたのそういう態度が、奥さんの心に負の感情を生じさせ、悪霊に取りこまれる大きな原因になったんです。今、奥さんの心は、怪物に乗っ取られ、支配されているに等しいんですよ」

 晃が、どこかに怒気を秘めてそう言った直後だった。高岡はわめき散らしながら晃に掴みかかろうとした。

 背後の結城がそれを止めようとした刹那、不意に男が黙り込んだ。いや、固まったといったほうがよかった。

 結城も和海も、高岡の異変に気づくのに数瞬の時間がかかった。気づいたきっかけは、晃の言葉だった。

 「……高岡さん、僕は暴力は嫌いです。ですが、自分の身に降りかかった火の粉くらいは払いますよ……」

 横手から覗き込んだ二人の瞳に映った高岡は、先程までの怒りに満ちた気配は影もなく消えうせていた。顔色は紙のようで、冷や汗が滴り落ちている。

 そして、今にも殴りかかるか掴みかかるかしそうな不自然な姿勢のまま、ぴくりとも動かない。

 「……金縛り……そうなのか」

 結城が、かすれ声を漏らす。和海も、言葉を失って事態を見守るしかなくなっている。

 晃が、ことさら冷静な声で、さらに続けた。

 「本当はこんなことはしたくありませんよ、僕だって。でも、殴られたくはないですしね。それに、この状態なら、もう少し落ち着いて僕の話を聞けるでしょう」

 晃は、高岡の顔をじっと見つめたまま、語り続けた。高岡麻里絵が、何故悪霊に狙われ、その依り代と化してしまったのか、その推論を。

 すべては、パチンコ好きで仕事も長続きしなかった夫への不満が根底にあるのだということを。

 「あなたの奥さんが抱いていた、そういった負の感情を、悪霊に見込まれてしまったんです。救う手立てはただひとつ、行き先を突き止めて、憑依している悪霊を祓うこと。それには、あなたの情報が必要なんです。わかりますか」

 晃の口調は、平静だった。ゆっくりと、言い聞かせるように、高岡に向かって語りかける。

 「思い出してください。必ず、あなたの記憶のどこかに、行き先のヒントになるものがあるはずです。地名でもいい、人名でもいい、何かあるはずです。奥さんが懇意にし、頼りにしていた人が必ずいる。そこにいるはずです。今回僕たちは、あなたの奥さん……麻里絵さんに取り憑いた悪霊を祓うためにきたのですが、事態が事態です。悪霊を祓うことが出来たら、もう一度あなたと話し合うよう、説得もしましょう。出来ますよね、所長」

 晃に言われ、結城は我に返ったようにうなずいた。

 「ああ、そのくらいのことはやろう。勝手に家に押しかけてきたんだから、それくらいはサービスだ」

 高岡の目の中の光が変わったのを見て、晃は静かに微笑んだ。直後、高岡がひざから崩れるように座り込む。冷や汗が滴り落ちているその顔は、先程までとは別人のように憔悴して見えた。

 「……教えてください。何かありませんか、心当たりは」

 晃に促され、高岡はうつむいたまま途切れ途切れにこう言った。

 「……高校時代の同級生と、よく電話で話をしてたみたいだ……。俺はそいつがどこに住んでるのかは知らない……。はっきりとした名前も知らない……。けど、確か姓に『島』って字が入って……あいつが電話口で『トモちゃん』と言っているのを聞いたことがある……。俺が言えるのは……そのくらいだ。スマホで掛けてたから、電話番号も見たことはないぞ……」

 言い終わったあと、高岡は晃を見て、一瞬怯えたような目をしてさらに付け加えた。

「……あんた何者だ。人を金縛りにするなんて、あんた、本当に人間なのか……」

 晃はあくまでも静かに“人間ですよ”と答え、高岡に礼を言った。

 「これは、私の名刺だ。何かあったら、ここに電話すれば私に通じる」

 結城が名刺を渡すと、高岡は茫然としながらも受け取った。和海も、高岡を落ち着かせるような言葉を掛けている。

 (……金縛りは、ちとやりすぎだったかな。だが、あのまま殴られて、それを受け流せるような技量はお前にはないからな。まあ。やむを得んだろうな)

 (遼さんは喧嘩慣れしているかもしれないけど、僕は荒事の類はまったくだめだ。それを考えたら、咄嗟に金縛りにして相手を止めるしか、やりようがないよ。……出来れば、やりたくはなかったけど……)

 (そうだろうな……)

 その時、結城が告げた。

 「そろそろおいとましよう。帰って、行き先がどこかを調べなくてはならないからな」

和海と晃がうなずき、三人は踵を返して玄関に向かった。

 「おい、本当に女房を説得してくれるんだろうな」

 三人の背中に、高岡の声が飛ぶ。すると、晃が振り返った。途端に高岡は、怯えの色を隠せないままにあとずさる。

 「安心してください。約束は守ります」

 晃は、もう一度微笑んだ。

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