11.冷気
和海の運転する車は、助手席の結城を斎場の前に降ろした後、五人目の犠牲者が住んでいたマンションに向かっていた。
「……もう一回時系列を整理しましょう。今回犠牲になってしまったと思われる『中島賢吾』さんが出張に出かけたのは、一週間前なのは間違いないわよね」
「ええ、間違いないです」
工藤警部補から預かったコピー資料を確認しながら、晃が答える。
「それで、亡くなっているのが発見される前日、まっすぐ自宅に帰ってきた。帰宅時間は午後八時半頃。最寄り駅だとは思うけど、どの駅を使ったかも確認できるかしら」
「ええ、出来ます。マンションの最寄り駅近くのファミレスのレシートが、財布の中に残っていたそうです」
晃が、資料を再確認する。
「そこに刻印された時刻から見て、そこの駅を使ったのは間違いないでしょう。利用した航空機のチケットから逆算して、ファミレスに三十分ほど滞在して夕食を済ませてから帰宅したと推測されます。ちょうど、計算は合いますね」
それを聞き、和海は大きく息を吐いた。
「それじゃやっぱり、斎場の前を通るはずはないわね。地図で見ると、反対方向だものね」
二人はそのまま、しばらく無言で外を眺めていた。日はすっかり西に傾き、あたりは徐々に橙色の光に染まりつつあった。あと一時間あまりで、真っ暗になってしまうだろう。
「……もうすぐ“誰そ彼”時ですね。暗くなる前に、下見を終えておきたいところですが。暗くなると、直接関係ない存在も呼んでしまいますからね」
「脅かさないでよ。あ、建物が見えてきたわ」
カーナビに導かれるままにやってきたマンションの建物が見えたとき、二人の顔に緊張が走った。
マンション一階の出入り口から、まるで濁流のように、霊気とも邪気ともつかぬものが、川のように流れ出ているのに気がついたからだ。
「マンションの近くに車を止めないほうがいい。離れてください。車の中にあの邪気が溜まり込んだら、祓うのが大変な騒ぎになりますよ」
晃の警告に、和海は一旦車を通り過ぎさせ、車の流れが途絶えたところを見計らってUターンした。
そして、再びその前を通り過ぎた後、帰り道にあたる場所にあった駐車場に車を入れた。
車を停止させた後、和海は晃に先程“視た”もののことを尋ねる。
「……あの霊気の塊みたいな気配の流れ、どう思う」
「……悪霊本体がいるかもしれません。車で通り過ぎたとき、霊気の流れの中を横切りましたが、ひどく冷たく感じました。覚えているでしょう、事務所が襲われたときのこと。あの時感じた冷気にそっくりでしたよ」
それを聞き、和海は顔をしかめた。あのときのことを思い出したのだ。和海の動作が明らかに遅く、ためらいがちになる。
「小田切さん、あのときのことがトラウマになっていて近づけないなら、僕ひとりで調べてきますから、車の中で待っていてください」
晃がそう言った途端、和海は強く首を横に振り、それはだめだといった。
「いくら晃くんが図抜けた力の持ち主でも、あれだけの、邪気といえるものが溢れているところに、ひとりで行かせるわけにいかないわ。わたしも行く」
まるでむきになったような口調に、晃は首をかしげた。
しかし和海は、晃に考える時間を与えないかのように素早く助手席を倒すと、助手席側のドアを開け、自分も運転席側のドアを開けて車外へ出た。晃も慌てて外に出る。
「さあ、行きましょう」
自分から、問題のマンションへと歩いていく和海の後を追いながら、晃は複雑な思いに駆られた。
自分のことを案じてくれているのははっきりわかるが、意地になって自分が先に動いている気がする。どうしたというのか。
(そんなこと、決まってるだろう。多少なりとも、お前に気があるのさ)
(遼さん……)
(自分でもうすうす気づいてるはずだ。だけど、お前自身がすっかり引っ込み思案になっているせいで、気づかないふりをしているだけなんだ。わかるだろう。さっき工藤って人に言った言葉、そっくり返すぞ。『自分の心に嘘をつけるやつはいない』)
(……そりゃ、なんとなくわかってはいるさ。でも……)
(お前がためらう気持ちがあるのはよくわかる。それは、間違いなく俺のせいでもある。だからこそ、俺はお前に一歩前に踏み出して欲しいんだよ)
(遼さん、心配してくれる気持ちはうれしいけど、今そういうことは何も考えないことにする。これから、明らかに危険のあるところへ向かうんだから)
(……そうだな。気をつけていけ、晃)
改めて気を引き締めた晃が前方を見ると、決然とした足取りで歩いていく和海の後姿が見えた。晃はそれに遅れまいと歩調を速め、すぐ後ろにつく。
周囲の住宅地からは、買い物帰りの主婦と思われる女性たちが、三々五々路地から現れ、路地に消えていく。
立ち話をしている人の中には、和海や晃に目を留めて、何事か話をしている人もいる。
容姿に優れた晃と和海が、目立たないはずはないからだ。あからさまに指差して、驚いたような顔で話している人さえいた。
しかし、二人は周囲の眼などいちいち気になどしてはいられなかった。背筋に悪寒が走るほどの冷たい霊気が、ひたひたとマンションから流れ出て、押し寄せてくる。
その流れは、マンションに近づくにつれて強く深くなり、くるぶしからすね、膝、ももへと上がっていく。それはまるで、濁流を遡っていくかのようで、一歩一歩踏みしめるように歩いていかないと、押し戻されそうな気がするほどだ。
「晃くん、なんだか、マンションにたどり着く前に、体力を消耗してしまいそうよ。こんなにひどい霊気が溢れ出しているのに、周りの人は気づいてないのね」
「能力のない人では無理ですよ。感じる力がないんですから。霊感を持っている人なら、“嫌な感じ”がしているでしょうが」
晃は、和海を庇うように自分が前に出た。
追い抜くときに、和海の顔に戸惑いの色が浮かぶのを見たが、無視して歩いた。
晃は、こういう霊気に当たっても、消耗はほとんどしない。しかし和海は、どちらかといえば周囲の“気”から影響を受けやすい。現に、影響が出始めている。それに、疲れていると能力の感度が極端に落ちる傾向がある。晃は、その隙を突かれることを恐れた。
「小田切さん、僕が前にいれば、霊気に直接当たることも少なくなるから、体力が温存出来るでしょう。僕は平気ですから、そのまま僕の後ろを歩いてきてください」
和海は、晃を楯にする後ろめたさを多少感じながらも、その申し出を受け入れた。そうでなければ、マンションに近づくことも難しいと感じたからだった。
「そういえば、所長に連絡しておいたほうがいいかしら。まさか、マンションがこういう事態になっているなんて、わたしたちも来るまでわからなかったのだし」
「そうですね。万が一のときのために、状況報告は入れておいたほうがいいかもしれません。ただ、所長がこちらに来てしまわないよう、重々釘を刺しておく必要があるとは思いますけど」
結城の普段の行動のことを思い出した和海は、苦笑しながらスマホをバッグから取り出し、どこかの路地の入り口に立ち止まって、アドレスの中から結城の項を素早く押した。
「所長、今話せますか」
「なんだ、何かわかったのか。こっちは大丈夫だ。かなり興味深い話も聞けたし。で、何かあったか」
「……実は、こちらですが……もしかしたら、現場となったマンションに、本体がいるかもしれません」
「なんだってっ」
電話の向こうで、結城の声が裏返る。
和海は、努めて冷静に、状況を報告した。
溢れ出る霊気、それに逆らって歩く自分の消耗、やむなく晃に先頭に立ってもらっている現状など。そして最後に、こう付け加えた。
「現場の状況が状況なだけに、万一のことを考えると、所長にはそのままそこに待機してもらいたいんです。実戦向きでない所長が合流して、何かあったときが怖いので」
結城の声が、どこか憮然としたものに変わる。
「……わかった。待機していればいいんだな。その代わり、必ず迎えに来てくれよ。斎場の辺りにそのままいるから。骨を拾わせてくれるなよ」
「わかっていますよ、所長……」
和海は電話を切り、バッグにしまった。それを確認した晃が、再び歩き出す。和海もあとに続いた。
体の芯まで凍てつかせるような冷たい霊気は、冷凍庫の冷気にも似ていた。二人の心に、確信めいたものが芽生える。
“悪霊の本体はここにいる”と。
ようやくマンションの入り口までたどり着くと、中を覗き込む。
五階建てで、部屋数にして三十ほどあるらしい。管理人室と思われる受付には、人の姿は見えない。中央階段のほかには、建物の両端に非常階段があるが、霊気は中央階段と向かって左側の非常階段から溢れ出ている。その様は、階段という岩場を流れ落ちる滝のようだ。
「これはどういうことかしら、晃くん」
「……おそらく、中央階段と左側の非常階段の間のどこかの部屋に、本体がいるということでしょうね。どこから昇りますか。ルートは三つありますけど」
和海が考え込んだ。
霊気が溢れていない右側の階段を昇れば楽だが、いきなり非常階段を昇っていくのも、住人に見られたら不審を買う。
かといって、他の二箇所を昇るのは霊気を遡ることに他ならない。
(このマンション、築十数年ってとこだな。オートロックもないし、エレベーターも付いてないし、結構安普請だな)
(ああ、遼さんならそういうことはわかるよね。昔取った杵柄だものね)
そのとき、和海が決然と言った。
「やっぱり、正々堂々中央階段を登りましょう。初めは被害者の部屋を確認するつもりだったけど、やっぱりここは本体のほうを確認したほうがいいわ」
二人は深呼吸をして気持ちを落ち着けると、中央階段へと向かった。郵便などを入れておくボックスの前を通り過ぎ、管理人室を改めて覗くが、やはり人影はない。二人はそのまま階段を昇り始める。
最初の踊り場を過ぎたところで、空気が変わった。あの嫌な冷たい気配に満ちている。
和海は、ポルターガイストのときを思い出し、一瞬身震いしたが、自分の前で流れを遮るように歩く晃に、気持ちを奮い立たせた。
一階から二階へ上がっていくにつれて、空気はますます凍てつき、とても秋の気候とは思えないほどになってきた。
「……こんなに寒いのに、ここに住んでいる人は何も感じないのかしら」
「……ここまで状態がひどいと、霊感のある人はもちろん、霊感のない人でもただではすみませんよ。霊感のある人なら、絶えず寒気や吐き気などで、半分病人のような状態に陥ってしまうはずです。霊感のない人であっても、冷え性や重度の肩こりに悩まされることになるでしょう。小田切さん、体調はまだ大丈夫ですか。影響されてはいませんか」
「まだ大丈夫よ、今のところは。でも、早く済ませたいわね」
晃は、ちらりと後ろを振り返った。和海の顔色は、まだそう悪くはなかった。しかし、万全というには程遠い雰囲気も感じられる。
晃は前方に向き直り、再び階段を昇り始めた。
(あの姐ちゃん、どうもこういうのに弱いな。決して能力は低くないのに、外に発する能動的な力より、内に受け入れる受動能力のほうが高いんだな)
(だから、本当は絶えず自分より能力の強い人と組んで、自分が依り代になって霊を呼び込み、パートナーに祓ってもらうという方法を使ったほうが、安定して能力を使える気がするんだけど)
(だったら、お前がパートナーになればいいじゃないか。ちょうどいいだろう)
(……やぶ蛇だった……)
二人は、二階から三階へと上がっていく。霊気の流れは、ますます強くなりながら上の階へ続いている。
二人は無言で上の階を見上げ、手すりを掴んだ手で自分の体を引き上げるように、先に進んでいった。
「……そういえば、被害者が住んでいたのは何階でしたっけ」
「確か三階だったはずよ。でも、寄り道している余裕はないわね」
四階にたどり着いたが、霊気はまだ続いている。和海が、両手をこすり合わせ始めた。すでに、指先が血の気を失って白くなっている。晃は和海の体調を案じ、降りたほうがいいと言ったが、和海は霊気の元を確認するのだといって聞かなかった。
「しかし、これから行ったところで、そう簡単に本体が見つかるとは思えませんよ。おそらく誰かに憑依しているんでしょうが、それが誰かわからない限り、ごり押しは出来ません。依り代になってしまっている人に直接出くわせば、見極めることも出来るでしょうが、そうでなかったら難しい。今僕は、“この建物のどこかに間違いなくいる”ことをはっきり確認するために、来ているんです」
晃は和海に、戻るように言った。あとは自分がやるから、と。だが、和海は頑として聞かない。
遂には晃を追い越し、自分が先に五階へと上がってしまった。
晃が急いでそれを追うと、和海は五階に上がってすぐのところで、呆然と立ち尽くしていた。
空気が、肌に突き刺さってくるようだった。呼吸するたびに、肺から凍り付いていきそうにさえ感じられる。
五階は、霊気の濃密な靄のようなものが立ち込めている。決して見通しが効かないわけではないが、霊気の向こうの光景が歪んで見えるほどだ。
朱色の夕焼けの最後の残光が、どこかくすんだようにぼやけ、か細く寒々しい雰囲気にしか感じられない。
「やっぱりだめだ。どこが中心かさえわからない」
本体が引きずってきた幾つもの霊体の霊気が入り混じり、それが凍えるほどの冷気を伴って、五階の廊下全体に漂っている。それに引き寄せられたらしい霊の気配も感じる。
ここでこの霊たちを祓っていたら、すべて終わる頃にはこちらが消耗し尽くしてしまいかねない。それどころか、ぐずぐずしていたら、すがり付いてくる霊まで出てきそうな雰囲気だ。
その時、和海がつぶやくような声で告げた。
「……わたし、降りるわ。凍えそうで、耐えられない……」
いつの間にか和海の唇は紫色になり、両手で二の腕をこすったり、掌をこすり合わせたりしている。
「小田切さん、無理をしないでください。ここで無理をしたら、本当に影響されて体が冷え切ってしまう。早く降りてください。あとは、僕が確認しておきます」
晃の言葉にうなずくと、和海は今昇ってきた階段をゆっくりと降り始めた。その姿を見送ったあと、晃はもう一度廊下をじっくりと凝視した。
霊気が特に濃厚に溜まっているのは、中央階段から、表から見て向かって左と見えた非常階段の間の空間だ。その間の部屋は三室。
このどれかの部屋に、本体の悪霊に憑依された人物がいる。だが、ここでうかつに訪ねるわけにいかない。
相手は、自分の出す霊気に気づいて、訪問者には注意しているはずだ。確率三分の一をはずしたら、確実に警戒される。しかも、霊気の濃度が濃すぎて、ここで霊視をしても惑わされるばかりだ。
(遼さん、どうする)
(……困ったもんだな。三分の一をはずしたら、まず逃げられるぞ。下手に動かないで、どの部屋なのか特定出来るまで待ったほうがいいんじゃないのか)
(そうだね。部屋番号だけ、確認しておこう)
晃が足を踏み出しかけたとき、中央階段を挟んだ反対側の部屋のひとつのドアが開いて、肩から帆布製のトートバッグをかけた初老の女性が姿を現す。
ドアに鍵をかけてこちらを向いたところで、晃に気がついた。
「こんにちは」
晃は咄嗟に、自分から声をかけた。結城から、こういった事態に陥ったときには、下手にそそくさと離れてしまうより、挨拶をし、相手に合わせて適当な世間話をしてからその場を離れたほうが、相手に怪しまれないものだと聞いていたからだ。
「こんにちは。……あの、どちら様ですか」
「あ、僕は、アンケートを取っているものなんですが」
アンケートと聞いた途端、初老の女性は顔をしかめて足早に中央階段へと向かった。
「申し訳ないんですけどね、何のアンケートだか知りませんけど、あたしこれから買い物に行かなくちゃいけないんで、急いでるんですよ。ごめんなさい」
その女性は、晃から逃げるように階段を下りていった。
(よく『アンケート』なんて単語が出てきたな。忙しい人であればあるほど、自分から逃げていくからな)
(自分でも、逃げた経験あるからね。もし受けてくれると言い出したら、『健康調査』とか適当に話を聞くつもりだったけど、逃げてくれて助かった)
この場は、一旦戻ったほうがいいだろう。晃は腕時計で時間を確認した。午後五時半を回っている。すでに、夕日の茜色は消え、宵闇が迫ろうとしていた。
晃は急いで階段を下りた。先に降りた和海のことも、だんだん心配になってくる。
念のために、被害者宅の前をざっと確認したが、そこには怪しい気配は残っていなかった。終わった場所だ、と直感した。いつか訪ねていった、依頼とは別の被害者宅があったワンルームマンションと同じだ。
それだけを確かめ、晃は周囲に気を配りながら、一階までさっさと降りた。
五階から溢れ落ちてくる凍えた霊気以外は、異常がない。やはりすべては、五階の三室のどこかにいる悪霊が元凶なのだ。
晃は、和海の姿を求めて辺りを慎重に見回した。
マンションの一階には、それらしい人影はない。急いで建物の外に出て、表通りまで足を進めた。やはり、いない。
(どこに行ったんだろう、小田切さん。まさか途中で具合が悪くなって倒れたなんてことは、ないよね)
(憑依された気配もなかったし、きっと大丈夫だ。あの姐ちゃん、お前が考えるほどヤワじゃない。大体、人がいる夕方の住宅地で倒れたなら、今頃誰かが呼んだ救急車がやってきているぞ。とにかく落ち着けって)
遼の言葉に、改めて深呼吸すると、焦りを鎮めて周囲にそれとなく視線を走らせながら、足早に駐車場までの道をたどる。
所長に連絡を入れたとき、立ち止まっていたちょっとした路地。商店街への入り口を示す、素朴な意匠のゲート。
しかし、和海の姿はどこにも見えない。
そして、ここを曲がったらあとは駐車場が見える、という角地に建っているコンビニエンスストアの前に差し掛かったとき、見慣れた後姿があった。
思わず駆け寄った晃は、気配に気づいて振り返った和海が手にしていたものを見て、意表を突かれた。
それは、派手に齧ったあとのある特大の中華まんだった。
和海のほうは、自分の手にしていたものを晃に気づかれたと知るや、わずかに頬を赤らめ、明らかに照れ隠しとわかる笑顔を浮かべながら口を開く。
「いやね、あんまり寒くてしょうがなかったんで、ちょっと、暖まろうと思って……。でも、ただ触っているだけより、おなかの中から温めたほうが、暖まるでしょう。だからね、ちょうど売っていたから……」
晃は、安堵したのと拍子抜けしたのとが一緒になって、思わずその場にしゃがみこみそうになった。
(だから言ったろ。『あの姐ちゃんヤワじゃない』って。大概、女って生き物は、男よりよっぽどしたたかなのさ。そう、女って生き物はな……)
(……遼さん、思いっきり振られた経験があるなら素直にそう言えば?)
遼が言葉に詰まったのがわかった。晃は、それ以上言及するのはやめにした。
あたりは、急速に闇に飲み込まれつつあった。コンビニエンスストア特有の、全面ガラスのショーウィンドゥを兼ねた窓からこぼれる蛍光灯の過剰なまでの光が、まるで闇を寄せ付けない光の砦のようだ。
晃は、もう一度来た道を振り返った。あのマンションが、遠くに見えている。一刻も早く、真実を突き止めなければならない。
「小田切さん、事務所に戻りましょう。ぐずぐずしていると、悪霊が警戒して動き出すかもしれません。そうなったら、面倒なことになります」
「そうね。急ぎましょう」
二人は、駐車場へと早足で歩き始めた。そして、晃が先に立って駐車場まで戻ってきたとき、そのわずかな間に、和海は中華まんをすべて食べ切っていた。
「……小田切さん、食欲はすっかり戻ってますね……」
到着して振り返ったときにそれに気がついて、苦笑いを浮かべる晃に、和海はまたも照れ隠し笑いをしながら、まず運転席のドアを開け、自分が座ってシートベルトを締めた。
「所長には内緒よ。『食い意地が張っている』とか何とか言われて、笑われるから」
言いながら和海が、助手席のドアを開ける。晃が助手席を倒そうとすると、和海はそれを止めた。結城がいないのだし、わざわざ出入りが面倒な後部座席に乗ることはないというのだ。
「事務所まで、十五分もかからないわ。助手席でいいわよ」
「……小田切さん、途中で所長を乗せて事務所に帰ることになっているの、忘れていませんか」
「……あ」
「あ、じゃないですよ。すっぽかされたら、所長、怒りますよ」
晃は助手席を倒し、出来た隙間から後部座席へ乗り込んだ。それを横目に見ていた和海が小さく舌打ちしたのを、晃は聞き逃さなかった。心の中で、再び苦笑する。
(お前に隣に座って欲しかったんだな、この姐ちゃん)
(だって、どちらにしろ所長を途中で乗せて、それで事務所に向かうことになっていたんだもの。ここで助手席に乗ったところで、また降りたり乗ったりして、落ち着かなかったさ)
和海が、駐車場から車を出すと、晃は胸ポケットから自分のガラケーを取り出し、結城に連絡を取った。
二人とも無事に駐車場まで戻ってきたこと、まず間違いなく悪霊の本体がマンションのどこかに居ること、その場所を、マンション五階の三室のどれかだというところまでは特定したことなどを報告した。
「これから、そちらに向かいます」
「了解した。早いとこ情報をつき合わせたほうがよさそうだな」
二人を乗せた軽自動車は、結城がいる斎場へ向かって走っていった。