02.出立
その日晃は、たまたま講師の都合で休講になった授業があったおかげで早めに帰宅し、別のゼミでの課題のレポートを作成中だった。明日は休みだし、レポートの締め切りにはまだ時間があるので、のんびり進めるつもりだった。
夕食までにはまだ間がある時間、パソコンのキーボードを叩いていると、傍らに置いてあったガラケーが、“トッカータとフーガ”を奏でる。相手はいつもの小田切和海だった。
「はい、早見です。何かありましたか?」
「ああ、晃くん。実は、和尚さんから話があって、ずっと昔に封じられていた化け物が逃げ出したらしいというのよ」
「化け物? 具体的には?」
「それが、詳しいことはよくわかっていないみたいなの。それで、緊急で調査してくれっていう依頼」
「緊急ということは、今から集合ということですよね?」
「そうしてもらえるとありがたいんだけど……大丈夫?」
和海がそう問いかけるのには、それなりの理由があった。以前の調査で、“魂喰らい”にやられて体が回復しきらないまま帰宅した晃と母智子との間で、ひと悶着あったのだ。
無論、送っていく形になった結城や和海もそれに巻き込まれた。
ふらふらになって帰ってきた一人息子を心配するあまり、智子は結城や和海に対して『二度と近づかないで』と激しい口調で詰り、それに対して今度は晃が反応、先程までしゃべるのも億劫そうにしていたのが嘘のように母親に対して猛然と言い返し、しまいには『今すぐ家を出る、事務所の二階で寝泊まりすればいい』とまで言い出し、双方がヒートアップ。
結城も和海も、目の前で繰り広げられる親子喧嘩にどう対処していいものかわからず、しばらくは顔を見合わせながら成り行きを見守っていたが、結局智子の方が折れた。
結城探偵事務所との関係を無理に断とうとすれば、本気で家を出ていくつもりだと悟ったからのようで、それは事故で命を失いかけた息子を大事に思うあまりに過保護になってしまった智子にとって、より受け入れられないことだったらしい。
その後、母を説き伏せたことで残った力を使い果たしてしまった晃が、二階の自室に上がることも出来なくなって結城に背負ってもらってベッドまで運んでもらうという事態になったのは、致し方がないことだっただろう。
そういった紆余曲折があったので、和海としては今から調査に出るのはやはり母親が文句を言うのではないかと思ったのだ。
今の時刻は、もうすぐ午後四時になろうというころだった。
「大丈夫ですよ。探偵事務所でのバイトを許さないというなら家を出ると言って、部屋の隅にキャリーバッグを用意しましたから」
航空機に手荷物として持ち込めるサイズのキャリーバッグを買い、最低限の身の回りの物をいつでもそこに入れておいて、いざとなったらノートパソコンと大学の教材関係を突っ込めば、“家出荷物”の出来上がりである。
それをこれ見よがしに見せていたため、母の智子も何も言わなくなったという。
電話の向こうで、和海が絶句している気配が感じられたが、緊急の依頼というなら急いだほうがいいだろう。
駅前のロータリーで待ち合わせるということだけ確認すると、電話を切り、パソコンをシャットダウンさせて身支度を整える。
(しかし、『化け物が逃げ出した』といっても、あまりにも漠然としすぎてるな)
遼のつぶやきに、晃も応える。
(だよね。でも、和尚さんからのルートでの依頼、というのが珍しいね。その分、危険性が高いような気がする。ちょっとやそっとのモノなら、あの人自身で対処すると思うんだ。あの人の能力は相当高いはずだもの)
(だな。暗くなる前に現場に着ければいいんだが)
晃はいつものワンショルダーにこまごまとした備品を入れると、義手の左腕を隠す長手袋をはめる。それでも目立つことは目立つが、今着ている七分袖のシャツでは見た瞬間義手とわかってしまうため、それよりはましだからだ。
(笹丸さん、一緒に行きますか?)
晃がロフトベッドの上に向かって声をかけると、小型犬ほどの大きさの白狐が顔を出す。
(うむ、話は聞いておった。我も行こう。長らく封じられていたモノが逃げた、というのは得てして厄介な事態を引き起こすことが多い故な)
笹丸はベッドから軽々と飛び降りると、さらにもう一回り小さい姿になり、晃の左肩に飛び乗った。
(そなたが供物を捧げてくれるゆえ、最近はだいぶ力が戻った。おそらく、簡単な術なら使うことも出来るであろう。何かあれば、遠慮なく言うとよい。我もできる限り力になるのでな)
(ありがとうございます。それじゃ、出かけましょう)
(お狐さんの術か。ちょっと興味あるな。とにかく、出発だ。厄介なことにならなきゃいいが)
晃が階段を下りて玄関に向かうと、智子がいかにも嫌そうな表情で廊下ですれ違う。
「……晃、また例の探偵事務所の仕事なの……?」
「そうだよ。悪いけど、夕飯はいらないから。鍵は持っていくから、適当な時間に寝てしまっていていいよ。今回は、何時に帰ってこられるかわからないから」
智子は何かを言いたそうにしていたが、それを遮るように先に晃が付け加えた。
「言っておくけど、いつでも荷物はまとめられるように準備はしてあるからね。じゃ、行ってきます」
智子が返答を返す前に、晃は素早く玄関に行き、スニーカーを履いてドアを開け、外に出た。日はだいぶ傾いてはいるが、夏至直後の時期だけに、完全に暗くなるまでには、まだ時間がある。
晃はそのまま待ち合わせ場所である駅前ロータリーまで徒歩で向かった。
ロータリー全体を見渡せる場所に立って待つことしばし、見慣れたクリーム色の軽自動車が走ってきて、晃のすぐ前に止まった。
「晃くん、乗って!」
言うなり、和海が助手席のドアを開けた。後部座席には、所長の結城と“和尚”こと西崎法引が乗っている。
「あれ、和尚さんまで乗っているとは思いませんでしたよ。いつもはスクーターで移動してませんか?」
晃の問いかけに、法引は苦笑を浮かべる。
「今回は場所がそこそこ遠いのと、いつも使っていたスクーターが故障してしまいましてな、修理に出しているのですよ。それで今回、同乗させていただいておりまして」
「ああ、なるほど」
とにかく現場に行くのが先決だ。晃は助手席に乗り込むと、シートベルトを締めた。