1.プロローグ
お待たせいたしました。
かなり見切り発車の感が強いですが、第五話の連載を開始します。
今回は、改元記念ということで、令和初日の本日投稿しましたが、これ以降、原則として毎木曜日に投稿します。え~投稿されなかった場合、いろいろと詰んだと思ってください(苦笑)。
楽しんでいただければ幸いです。
それは、なんということもない一日の始まりだったはずだった。ここしばらく続いた、いかにも梅雨らしい長雨がやっと上がった晴れ間の、湿気をはらんだむっとした空気の立ち込めた七月初めの朝、それは突然起こった。
そこは郊外の、丘とも呼べない小高い場所。
特に珍しくもない規模の、地震。それに伴う、ごく小規模の地滑り。
それだけに、誰も気にも留めはしなかった。ただ一人、近くにある神社の神主である高坂博臣を除いて。
高坂は、先祖から申し送られていたことがあった。裏手の小山には、化け物を封じた塚があり、もしそれに何かがあれば、化け物が解き放たれて辺りに災厄をもたらす、と。
父から神主の職を引き継いで数年。まだまだ三十代で、しかも以前はただのサラリーマンだった高坂自身がそれを信じているわけではなかった。だが、由来のよくわからない石碑があるのは事実だった。
父親の博興が脳梗塞で倒れ、急遽神主の座を引き継いだため、本当はいろいろ引き継がなくてはいけないものもあったのだが、それがほとんど受けられなかった。
その彼がただ一つ、動かぬ口を必死に動かした父によって、伝えられた事柄があった。それが、裏山にある“化け物を封じた石碑”だった。それが崩れれば、化け物が解き放たれる、と。
今回の地滑りが起こった場所は、件の石碑の場所の直下に大体合致する。
まさかとは思ったものの、確認しないことには安心できない。
化け物云々はともかくとして、昔からある石碑などは、調査によっては貴重な文化財だったり、郷土史の資料だったりするので、それが壊れたり地滑りなどで流されてしまったりするのは、やはりまずいだろうと考えた。
長靴をはき、ジャージの上下でぬかるんだ道を歩いて石碑がある場所に向かう。
以前から、石碑の場所だけは確認はしていた。ひと抱えもある艶のない真っ黒な石に、たった一文字『封』とだけ刻まれた、碑なのか自然石なのかよくわからない石で、その近くには獣や鳥はおろか、虫も近づかないと言い伝えられている。
実際にはよくわからないが、確かにその周辺ではセミの鳴き声も聞いた記憶はなかった。
そして石碑がある場所にたどり着いて、息をのむ。そこには、地滑りで大きく傾いた石碑と、ぬかるんだ地面に刻まれた異様な足跡があった。何もないところから突然始まったような足跡は、明らかに巨大な獣の足跡で、近くの木には、何らかの鋭い爪で切り裂かれたような痕も刻まれていた。
高坂は、その爪痕を見て、いつかテレビで見た熊の爪痕のようだと思ったが、こんなところに熊など出てくるはずがない。熊どころか、猪さえ出てきたためしはないようなところだ。
せいぜいたまに狸が目撃されて、それでも大騒ぎになる、そのくらい野生の動物との遭遇が珍しい住宅地なのだ。
「……この足跡は一体……?」
思わずつぶやいた高坂に向かって、いやに生暖かい風が吹きつける。
気のせいか、かすかに獣臭い臭いが混ざっているような気がした。まさか、本当に化け物が封じられていたのだろうか。
そして、塚が崩れたことにより、その封印が破れてしまったのだろうか?
もし、ただ石碑が傾いているだけだったなら、高坂もこんなことは考えなかっただろうが、足跡と爪痕が残されていては、そこに何らかの存在を考えないわけにはいかなかった。
(まさか本当に、化け物が封じられていたというのか!?)
幸か不幸か、高坂にはいわゆる“霊感”というものはなかった。こういう仕事をしていれば、否応なく“視える”ようになるものだと父の博興は常々言っていたが、自分はまだその境地に達するほど神主をやってはいない。
だが、先祖代々の申し送りで化け物が封じられているとされてきた石碑が傾き、こうして巨大な獣の足跡と鉤爪の痕が残されていたとなると、迷信だなんだと放っておくことなどできそうもなかった。
報告するなら、まず父の博興だろう。今は脳梗塞の後遺症でしゃべるのも大変な状況だが、まったく意思疎通ができないわけではない。
高坂は、踵を返して元来た道を戻ろうとした。
その時、ふと周囲の雰囲気が変わったように感じた。
今はまだ朝といえる時間だ。起き抜けに地滑りを確認して、朝食もそこそこに家を出てきたのだから、腕時計でも午前九時にもならない時刻を差している。
だが、別に曇っているわけでもないのに空が暗く感じられる。空気が重く、体にべったりとまとわりつくように感じられた。湿度が高いせいだけではない。もっと違う、何か得体のしれない何かが、空気に混ざり込んでいるような、そんな感じの重たさだった。
本能が、危険を感知する。一刻も早く、この場を離れたほうがいい。直感がそう告げていた。
走りだそうとしたまさにその時、背後から急激に何らかの気配が膨れ上がった。地を這うような低い唸り声が、周囲の空気を震わせる。
振り返ってはいけない。なぜかそう思った。振り返らず、このままここを離れよう。それも、走ることなく、ゆっくりと。野生の獣は、走るものには反応して追いかけてくる。
これが、そういう常識が通用する存在なのかはわからない。だが、闇雲に走って何かあったら、それが怖い。
高坂は、背後の存在を刺激しないように、ゆっくりと歩きだした。
歩き出して間もなく、高坂はあることに気づいて全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。気配が自分の後をついてくる。しかも、距離を詰めているのか、かすかに生臭い鼻息が背中にかかってくるようになりつつあった。
我知らず、歩く速さが次第に早くなる。すぐ後ろで、先程と同じ唸り声が聞こえた。
もう限界だった。高坂は、弾かれたように走り出した。しかし、気配はすぐ後ろをぴたりとついてくる。
なぜそんなことをしようと思ったか、高坂自身にもわからない。ただ、なぜか咄嗟に思いついて、思いっきり横っ飛びに飛ぶと、道の脇の藪の中に転げ込んだ。
刹那、何かが通り過ぎて行ったような気がした。
目には何も捕らえられていない。しかし、何かが通り過ぎたような気がした直後、辺りが明るくなり、先ほどまで感じていた圧倒的な気配が一切感じられなくなったのだ。
「……助かった?」
とりあえずホッとして道まで這い上がると、全身泥だらけになりながら這う這うの体で自宅へ帰りつく。
だが、出迎えた妻の紗季は顔色を変えた。
「あなた、一体それは……?!」
「ああ、山道でちょっと転んだんだよ。たいしたことじゃない」
高坂がそう言った途端、紗季が激しく首を横に振る。
「そうじゃない、そんなことじゃないのよ。背中、どうしたのよ? ビリビリに裂けてるじゃないの」
「えっ!?」
高坂は慌てて、ジャージの上着を脱いだ。その背中は、まるで鋭い刃物で何度も切り裂かれたかのようにぼろぼろになっていた。
よく見ると、それは並行した線になっていて、ちょうど獣の鉤爪で引き裂かれたならそうなるだろう、というものだった。
高坂は、あの気配が自分の気のせいではなかったのだと改めて気づき、背筋に寒気が走るとともに、解き放たれてしまった“化け物”の行方が分からなくなっていることに、気持ちが暗くなった。