29.エピローグ
夕方、宿の主人橋本大悟が、心配そうに見送る中、結城に支えられた晃が、宿をあとにする。まだ顔色は青く、足元もおぼつかない状態だったが、意識は完全に戻っていた。
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。ずいぶん長い時間、眠ったままで過ごしてしまいました……」
晃が頭を下げると、主人は首を横に振る。
「いいえ。そんなことは気にしないでください。少しでも回復されて、何よりでした」
その傍らを、自分のものと晃のものの二人分の荷物を抱えた和海が、車に向かって歩いていく。和海は車の後部のトランクスペースを開けると、荷物をその中に収め、結城に駆け寄って結城の荷物も受け取って同じく入れると、それを閉めた。
和海が振り返ると、晃を支えて歩く結城の歩みは、じれったくなるほど遅い。晃のほうが、まだ完全に自力で歩けるまで回復していないのだから、当然といえる。
本当は、宿の主人夫婦からも、結城や和海からも、もう一泊して休むべきだと止められた。晃本人が、どうしても帰ると聞かなかった。
予定が伸びたら、あの口うるさい母親が、探偵事務所へ行くなとヒステリーを起こすに決まっている。そうでなくても、折り合いがいいとは言えない状態だというのに、それでトラブルになったら困る、と晃が言ったのだ。
出先でたまたま体調を崩すことは、ないことではないので、まだ言い訳が考え付きやすいという晃の言葉に、仕方なく二人もそれを認めた。
よろめきながら、結城に支えられて歩く晃の姿に、とうとう待ちきれなくなった和海も晃の元へいき、二人がかりで支えて車まで連れてくると、後部座席になんとか座らせた。
「今日は、私が運転しようか」
結城の言葉に、和海はかすかに笑ってうなずき、晃に向かって声を掛けた。
「ひとりで座っていられる? なんなら……わたしが隣で支えていてあげるわよ」
和海の言葉には、わずかに照れたような気配が感じられた。それを聞いて、晃が微笑む。
「……大丈夫ですよ。きつくなってきたら、横になりますから」
「……そう。じゃ、助手席に座っているから、何かあったら、すぐに声を掛けてね」
「……はい」
晃は、壁にもたれかかるようにして身体を支え、目を閉じた。その傍らに、まるで晃を護るように、笹丸が寄り添う。それを見た和海が、結城に目で合図をし、結城が車を発進させる。
車が田舎道を走り出し、エンジン音が車内に満ちた。
晃は、ずっと付き添ってきた結城から聞かされた自分の容態のことを、ぼんやりと思い返していた。
“枝垂桜の精”が作り出したあの空間をまさに抜けるとき、遼の力を分離し、それ以降のことは覚えていない。
気がつくと、宿の一室に敷かれた布団に寝かされ、結城と和海が覗き込んでいた。そして、二人の口から、丸一日眠ったままだったと聞かされた。
結城によると、往診に来ていた初老の男性医師は、晃を診察してずいぶん心臓が弱っているようだ、といったという。“魂喰らい”のせいだ、と結城はぴんと来たそうだ。
一時的なものだろうが、気をつけるに越したことはないと栄養剤の注射を打ってくれ、しばらくは静養に努めるように、栄養価が高くて消化が良いものを食べて、体力をつけることなどを結城に言い渡して、医師は帰っていった。
そのあと、宿の主人や女将に、容態とともに二人の関係を質問されたという。親子には見えないし、かといって会社関係者とも思えない、ということだった。
結城は、自分は民俗学の私設研究所の所長をしていると誤魔化した。晃が、アルバイトで出入りしている大学生であることは、そのまま告げたという。そうすれば、こういう山里までやってきて、何かを調査するといっても不思議はないからだ。
実際、宿の主人夫婦はそれで納得してくれた。
それから和海が戻って、二人で晃に付き添い、夜になってからは、翌日の運転を考えて、交代でずっと付き添っていたということだった。
(丸一日か。さすがにダメージでかかったな。お前が余計なことしたせいもあるが)
遼の声に、晃は苦笑する。
(あのとき、彼女に“気”を送ったことをいってるんだろ、遼さん。でも、誠意を見せることが必要だと思ったんだ。あのひとは、まだ不信感が抜けていなかったしね。それに、あれをしなきゃ乗り切れずに枯れていたかもしれない。だから……)
(……そなたの悪い癖よの。人より、人にあらざるもののほうに心惹かれる癖。そなたの中の男も、常々言っているはずではないのか、『人に思いを寄せよ』と。そうであろう)
笹丸に指摘され、晃は内心溜め息をついた。
(……わかっています。自分でもわかっているんです。でも僕は、自分が半ば人外の存在だと、自覚している。だから、怖いんです。自分の素性が人に知られ、拒絶されるのが。そんな思いをするくらいなら、いっそ初めから距離を置いたほうがいい、と思ってしまうんです)
これには、今度は遼が溜め息をついた。
(お前、頼むよ。そういうことを言われると、俺がつらいんだ。それにお前、人の恋愛沙汰のあれこれを霊視してるもんだから、余計臆病になってるんだろう。恋っていうのはな、身を滅ぼすときもあれば、その人を高めてくれるときもある。どっちへ転ぶかは、その時の状況によるんだ。そうだろ)
晃は、自分のことを案じてくれる遼のことを思った。遼は、事故に遭って命を落としたとき、すべてを諦めざるを得なかったのだ。自分の将来の夢も、婚約者も、何もかも。
だからこそ、自分に同じ轍を踏んでほしくなかった。だから、同化してくれた。
それを思うと、乗り越えなくてはならないと思うのだが。
そのとき、和海が声を掛けてきた。
「晃くん、起きてる?」
晃は目を開けて、それに答えた。
「……ええ。起きてますよ」
それを見た和海は、助手席から手を伸ばし、何かを渡そうとする。晃も右腕を伸ばして、それを受け取った。それは、掌大の般若心経だった。
「晃くんが貸してくれた般若心経。今まで、返す機会がなくて。……所長はね、晃くんがいなくなったあと、必死で逆詠唱してたのよ。だから、翌日の朝方まで、声がおかしかったわ。それと、村上さんは、わたしが責任を持って正気に戻したから、安心してね」
「……聞こえていました。所長の声も、小田切さんの思いも、届いていました」
「えっ!?」
和海の顔に、軽い驚きが走る。
「聞こえてたんです。“山桜の精”が、自分を媒体にして、届けてくれていた……」
和海が、やや身を乗り出すようにしてさらに訊いた。
「確か、目覚めた直後に聞いたときは、“あの中”のことはよく覚えていないって言ってたでしょう。少し、思い出してきたの?」
晃はかぶりを振った。
「そのことだけです、思い出したのは。あとは、“魂喰らい”でやられたときのショックで、全部曖昧になっているんです。でも、声が聞こえたとき、思いを感じたとき、嬉しかった。絶対、帰るんだと、そのとき思いましたから。だから今、思い出したのかもしれません……」
晃はそう言いながら、またも良心が痛むのを感じた。本当は、すべて自力で決着をつけてきた。二人を巻き込まないために、わざと逃げなかった。しかし、それを言うことは出来ない。
「でも、それを聞いて、わたしたちのやってたことは無駄じゃなかったんだとわかって、ほっとしたわ。あのときは、置き去りにしてしまって、本当にごめんなさい」
和海はそういって申し訳なさそうに頭を下げる。晃は微笑みを返したが、それには多分に苦笑が混ざっていた。
「……気にしないでください。僕は生還してきたんですから」
そう言いながら、晃は心の中で、逆に二人に詫びた。
「もう少しで、高速に乗るぞ。乗ってしまえば、意外と早いからな」
結城の声に、晃は、今度は母への言い訳を考えないと、と思った。
これで第4話終了です。以前書いてしばらく置いておいたものを、改めてアップし始めて、とうとうすべてのストックが尽きました。
最初に第1話を書いた時、晃くんはギリギリ昭和生まれだったんだけどな(苦笑)。今はもう、平成が終わる……
第5話は、完全書下ろしとなります。
少し書き溜めてからアップしたいので、第5話は令和になってからのスタートにしたいと思います。
なんとか週一回はアップしたいですが、やや不定期になるかもしれません。