25.般若
あたりは、夜の空が広がりながら、昼のような光に満ちた世界だった。晃は、視界の半分を覆うように広がる枝垂桜を見ながら、わずかな良心の痛みを感じていた。
あのとき、自分はわざと逃げなかった。肩の上の笹丸に対しては、逃げていいと言ったのだが、笹丸もあえて残ることを選んだ。
逃げ出すことが出来た結城や和海は、今頃心配していることだろう。だが、あの二人に危険を及ぼさすに決着をつけるには、こうするしかなかった。
“魂喰らい”の力に対抗する力は、いまだはっきりと見つかっていない。ならば、あの二人を巻き込むわけにはいかなかったのだ。
枝垂桜は、自らの内から光を発するかのごとく輝き、妖艶さを増している。そしてその根元に、ひとりの女が立っていた。
幾度か見た、艶やかな黒髪に桜の柄の桜色の着物。取り込んだ村上の顔立ちを持つ、あやかしの女。
(ようやっと、妾のもとに来てくれたの。我が元に集いし人間も今はなく、人恋しさ寂しさに、人肌の温もりを渇望せし妾の元へ、よう来てくれた……)
女はそう言ったが、晃は女の言う“人肌の温もり”が、彼女に捧げられた生血の生暖かさであったことを悟っていた。
(村上さんを返せ。僕はそのために、ここへ来た。取り込んだ人間の魂を返せ)
女の口元が、笑みの形に歪んだ。
(こやつは、我が身体を傷付けた。しかも役目を放棄した一族。許さん……)
(役目を放棄したのは何代も前の先祖だ。村上さんは、関係ない。それに、あなたの身体を傷付けてしまったのは、偶然の事故だ。傷付けたくて、傷付けたんじゃない。村上さんを取り込んで、これからどうするつもりなんだ)
晃が詰問すると、女はいかにもおかしそうに笑った。
(こやつを取り込んだがために、妾の力は増大し、積年の思いを遂げるだけの力を得た。妾の中に宿る恨みの念、それが妾を突き動かす。妾は、恨みを晴らし、“念”を消し去るために、妾はこの地を離れる)
そこまで言うと、女は改めて晃の顔をじっと見、わずかに歯を見せて笑った。
(その前に、妾はおぬしを我が物としたい。今取り込みたるこの男より、おぬしのほうがより我を満足させてくれるであろう)
晃が唇を噛み、身構える。肩の上に乗っていた笹丸が、肩から降りると、たちまちのうちに大きくなり、大型犬ほどもある精悍な姿となった。
(そなたに世話をしてもろうたおかげで、現世ではないここならば、短い時間なら本来の姿を取り戻せるようになった。そう長くは持たぬが、多少の手助けにはなるであろうて)
そのとき、対峙する晃と女の間に割り込むように、人影が姿を現した。まるで、光が凝縮した中から現れたように見えたその人物は、艶やかな長い黒髪を首の後ろあたりでひとつにまとめ、淡い桜色の着物を着た妙齢の女性だった。
晃はその気配から、目の前に現れた女性が、枝垂桜の向かいに生えていた“山桜の精”だと気がついた。“山桜の精”は、女に向かって訴えた。
(どれだけ苦しかったでしょう。本来は他人のものである積年の恨みを抱えて。もう、手放していいのですよ。これ以上、自分を苦しめる必要はないのです。そうして人を取り込んだとて、苦しみは増しこそすれ、薄れることはなかったはず。さあ、その人を放して、元の静かな暮らしに戻りましょう)
だが、女は逆に、目を吊り上げて怒りを露わにした。
(長年のうのうと生きてきたおぬしに、妾の気持ちなどわからぬ。人の血を吸わされ、その恨みの念まで抱え込まされたこの苦しみ、わかってたまるものか。しかも、贖いの血まで奪われ、恨みの念が我を蝕む。この狂おしさ、おぬしにわかってたまるものかえ)
女が、“山桜の精”に襲いかかろうとした。晃が咄嗟に“霊気の左腕”で“山桜の精”の腕を取って引き寄せたので、女の腕は空を切る。
(邪魔立てするな。邪魔をし続けるというなら、おぬしも喰ろうてくれる)
女の顔が、般若の形相に変わった。刹那、女の顔が、苦悶に歪む。“山桜の精”が、何事かをつぶやき始めたからだ。
否、それは女性の声ではなかった。晃はそれを耳にし、驚きを隠せなかった。“山桜の精”の口からつむぎ出される声は、紛れもなく結城の声だったからだ。
結城の声は、般若心経の逆詠唱をしていた。
それが、強力な破邪の力を発揮している。晃は、“山桜の精”が、自分自身を媒体に、結城の声を、その必死の思いを、ここに届けているのだとはっきりわかった。
(決着をつける。これ以上、あんたをこのままには出来ない)
遼の力を呼び込んだ晃の体から、生者と死者のそれが入り混じった“気”が、燃え上がる炎のように噴出し、晃の全身を取り巻く。
(おのれ、こうなればすべて喰らい尽くしてくれる)
般若と化した女が、吼えた。結城の声に苦しみ、いっそう顔を醜く歪めながらも、激しい殺意をみなぎらせて晃と“山桜の精”を睨みつける。“山桜の精”からこぼれる結城の声が大きくなるたび、女は自分の頭を掻きむしる。
般若心経の逆詠唱が効いているというより、晃を助けようとする結城の懸命の意思の力だ。それが強力な思念となって、女の力をわずかなりとも削いでいた。
晃は、“山桜の精”を背後に庇いながら、相手との間合いを計る。打ち倒すことは許されない。村上の魂を引き離さなければならないし、この女が消え去れば、枝垂桜も樹勢が衰え、枯れてしまう。
大きくなった笹丸が、晃から離れて対角線の位置に跳んだ。
(村上の長男のことは、我が何とか引き離しを試みよう。そなたは、手助けをしてくれぬか)
(いいでしょう。僕の力でどこまで押さえられるか、やってみます)
晃は“左腕”に念を込め、一気に間合いを詰めた。晃の“左腕”が、まるで青白い炎を上げているかのようだ。それを見た女も、猛りくるって突進してくる。
そして、まさに互いが交錯するという瞬間、晃は念の力で身体を浮かせて思い切り飛び上がると、“左腕”に込めた“気”を頭上から相手に叩きつけた。
“左腕”の炎が一瞬にして女を包み込み、まるで網のように絡め取り、般若が咆哮する。それを見極めた笹丸が、大きく跳んで交錯した。
(だめだ、固く取り込まれておる。この程度の力では、引き離せぬ)
笹丸が、悲痛な声を上げた直後、女は晃が掛けた“気”の炎の網を引き破った。
(こしゃくなまねを。この上は、ひとり残らず喰らい尽くしてくれる。誰ひとり、ここからは出しはせぬぞえ)
再び、般若の女が吼えた。すでに、ひとまとめにしていた髪は乱れ、ざんばらになっている。元は取り込んだ村上の顔であったものが、今は完全な般若だ。
(どうする、晃。こっちの“山桜の精”も、向こうの狐さんも、やつの“魂喰らい”を受けたら一発でやられちまうぞ。俺とお前の二人分の力があるこの身体なら、一回は何とかなりそうだが)
(でも、喰らったら一気に力が落ちる。それこそ太刀打ち出来なくなる。そうなったら、ジリ貧だ)
そのとき、晃の脳裏にひらめいたものがあった。もはや、一か八かの賭けとなるが、いよいよとなったら、それを試してみるしかない。
般若が、晃を睨みつけた。もはや、最初の『手元に置いて愛でたい』という欲望は、怒りの中に消え、『こやつを最初に喰らい尽くす』と決めたようだ。