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ある異能者の備忘録  作者: 鷹沢綾乃
第一話 凍れる願い
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01.プロローグ

これ自体は、ずいぶん前に書いたものです。手直しをしつつ、間を置かずにアップしていく予定ですが、内容が微妙に最新のテクノロジーとずれているかも(苦笑)。

 畠田利彦は、ふと後ろを振り返った。背後に誰かいるような気がしたからだ。

しかし、そこには街灯に照らされた無人のアスファルト道路が続いているだけだった。

 周囲は住宅地で、一軒家の中にアパートが点在する地域だ。

 腕時計を確かめてみる。時刻は午後十時をとっくに回っていた。ここのところの残業続きで、いつも帰宅時間はこのくらいになる。

この時間帯では、このあたりに人通りはほとんどなくなる。人の気配は、家の中にしか存在しない。

 おまけに今日は新月で、月明かりもない。車さえも通らない。家々から漏れる明かりが、そこに人の暮らしがあることを物語っていた。

 歩き出して、またも振り返る。誰もいない。足音も、確かに自分のものしか聞こえてはいなかった。それでも、気配を感じた気がしたのだ。

 街灯の明かりの届かない闇の中で、何者かが息を潜めて自分のほうを見ているような気さえする。なんとなく、背筋に冷たいものが走るのを理性で押さえつけると、畠田はまた歩き出した。

 「闇の中に誰かいる気がするなんて、子供じみてるぞ。誰もいやしないのに……」

 それにしても、と畠田は思った。

 なんだってこう、体がだるいのだろう。そんなに疲れるほど熱心に仕事をした覚えはないし、かといって飲み歩いていたわけでもない。それなのに、何故……

 畠田は、心の中でそうつぶやきながら、古い木造アパートの自分の部屋の前に立ち、いつものようにビジネスバッグのポケットから鍵を取り出すと、扉を開けた。

 辺りは遠くに街灯がぽつんと灯るだけの暗がりだった。

 アパートの入り口には、端が黒くなって寿命ぎりぎりの蛍光灯が灯っていたが、一階一番奥の畠田の部屋までは、その光は届かない。

 すでに季節は10月、夜は上着が手放せなくなった。

 「まったく、何が『花丸荘』だ。小学生のガキのテストじゃあるまいし……」

 その夜は、どうにも気持ちがささくれ立っていた。先程から、奇妙な気配を感じていたがための、苛立ちだったのかも知れない。

 このアパートの名前など、入居したとき気にしないことにしたというのに。

 中に入ろうとした時、ひときわ冷たい風が一瞬首筋をなでた。それがなぜか人が吐きかけてきた息のような気がして鳥肌が立ち、それから逃れるようにあたふたと部屋の中に入ると、手探りで部屋の電灯のスイッチを入れた。

 一瞬にして闇が払われ、部屋の中が照らし出される。代わり映えしない、いつもの室内。

 煌々と輝く蛍光灯の無機質な白い光が、今日ばかりはほっとさせる。先程からの妙な感覚を、やっと忘れることが出来る。

 安堵した途端、見慣れた部屋の中の様子が目に入った。

 築四十年を超える古い安普請のアパートは、一応壁も塗り直してはあったが、柱は黒っぽく煤けたままだ。もうちょっときちんとリフォームすればいいものを、と思う。

 もっとも、そのとき風呂付の部屋になったのだそうで、疲れて帰ってきてわざわざ銭湯に行かないでもすむのが楽だった。そうでなければ、こんなところには引っ越さなかっただろう、と思う。

 「まったく、リフォームするなら、全部きれいにすりゃいいのに。ケチ大家が」

 先程までのささくれ立った心のまま、八つ当たりにも似た感覚で大家に毒づくと、畠田は大きく溜め息をついた。

 もっとも、男のひとり住まいでは、部屋の中など散らかり放題で、高級コンドミニアムだろうが安アパートだろうが関係ないような状態だったが。

 大学を卒業し、今の会社に勤め始めて六年になる。別にもてる自信はなかったが、それでもそのうち付き合う女のひとりや二人出来るだろうと思っていた。

 だが、現実は仕事に追いまくられ、女性と知り合う機会をことごとくはずしたような生活で、いまだに“同僚”以上の関係になった女性はひとりもいない。

 おまけに中小企業の哀しさ、給料が上がらず手当が減って、やむなく家賃の安いこのアパートに引っ越した。ますます女性を部屋に呼べる状態ではなくなった。

 残業はするものの、そのわりには給料もたくさんもらえるわけではなく、必然的に適当に手を抜いて、いかにも仕事をしているように誤魔化すすべがうまくなってしまった。

 今日だって、いかにもやっているように見せかけて、本当に面倒で気を使う仕事は同僚に巧みに押し付け、適当な時間を見計らって帰ってきたのだ。

 正社員でいられることが、唯一の救いか。いや、今のご時世、そうとも言い切れないか。

 「やってられないよな」

 スーツを脱いでハンガーにかけ、部屋の中にいつでも渡しっ放しにしてある物干し竿に引っ掛けると、風呂を沸かすもの面倒になり、スーツを脱いだついでにパジャマに着替えて冷蔵庫を開け、缶入り酎ハイを取り出すと、部屋の真ん中にどっかと座るなり早速開けて一口飲んだ。

 唸るほどうまいとは思わないが、慣れ親しんだ味が口の中に広がり、ひんやりとした感覚が喉の奥へと滑り落ちていく。

 帰る途中、定食屋で腹ごしらえはしてきたから、夕飯を自分で作るようなマネはしなくてすむが、つまみも何も無しなのは、あまりに味気ない。かといって、いまさら作るのは面倒だった。

 体を伸ばして、もう一度冷蔵庫を開けてみる。酎ハイの缶の中に埋もれるように、ちょっと前に買った、丸い紙製のチーズの容器が見えた。初めから個別包装になっている、6Pチーズというやつだ。まあ、ないよりましだろう。

それを引っ張り出すと、三個残っていたチーズのピースのうち一個を取りだし、残りは冷蔵庫に戻して扉を閉めた。

 薄いアルミの包装を破ると、中から出てきたチーズをまずひと齧り。これも、代わり映えしない、いつもの味だ。

 これからもずっと、代わり映えしない日々が続くのか……

 その時、背後からかすかに妙な物音を聞いたような気がして、畠田は振り返った。しかし、そこには何もない。いつもの玄関があるだけだ。

 「気のせい……だよな」

 物音は、女のつぶやき声のように聞こえた。

だが、そんなことがあるわけがない。自分はこの部屋の中に、女を連れ込んではいない。

 第一、何もいないじゃないか。

 ふと、帰る途中に感じた奇妙な気配を思い出し、背筋に嫌な冷たさを感じた。

 いや、そんなことはない。21世紀にもなる今、子供だましのような怪談話に、大の大人が怯えてどうするのだ……

 畠田は気を取り直し、チューハイをもう一口飲んだ。直後、畳に直接ついていた左手に、冷たい何かが触れたような気がした。まるで、冷え切った手でなでられたかのようだ。

 慌てて手を引っ込めると、自分で自分の手を見つめた。まさか、そんなはずは……

 刹那、異様な感覚が彼を襲った。全身が総毛立つような冷気。まさかと思って冷蔵庫を見る。ちゃんと扉は閉まっている。確かにさっき、扉はきちんと閉めた。その手応えを、まだ覚えている。

 「今夜は、どうかしてるぞ、俺は……」

 しかし、冷気はどんどん強くなるような気がする。そんな馬鹿なことが、あるはずがない。今はまだ、暖房など入れる必要もない気候だ。部屋の中が、こんなに冷えるはずがない。

 けれど、身震いをしたところでこの冷気が決して気のせいではないと気が付き、畠田はぞっとした。

 本能的に恐怖を感じ、立ち上がろうとした途端、彼はその場に硬直した。

 今度ははっきりと、彼の耳元でささやく女の声が聞こえたのだ。

 「……寒いの……」

 闇の中から湧き上がってくるような、今にも消え入りそうな声だった。それどころか、誰もいなかったはずの背後から、誰かに肩を掴まれた。

 氷のように冷たい手が、自分の両肩に乗っている。長く伸ばした女の爪が、パジャマを通して肩の肉に食い込んでくる。

 悲鳴を上げようとしたが、喉の奥が張り付いてしまっているかのように、声が出ない。

 その時、畠田は気づいた。

 そうだ、この気配だ。帰り道に何度も感じたのは、この冷たい気配だったのだ。背中を冷や汗が伝った。

 「……寒いの。温めて……」

 体の芯まで凍てつくような冷たい右手が、肩を越えて胸元まで這ってくる。

 女の柔らかな体が、自分の背中にのしかかってくる。胸のふくらみを、間違いなく感じた。

 女にのしかかられたところは、まるで氷の塊が乗っかっているかのような冷たさだ。吹き出した冷や汗が凍りつきそうだった。振り払いたかったが、感触はあるのに肝心の姿は見えない。

 それどころか、眼球以外は体が硬直したまま身動きが出来ない。叫び声を上げることも出来ない。

 生まれて初めての体験。これが、金縛りというやつか。

 頬に髪の毛の感触が当たった。首筋を、女の髪の先が音もなくなでていく。

 かすかな金属音とともに、いやに硬質の何かも頬に当たる。ネックレスのようだ。

 女の手は、パジャマの襟から胸の奥へと伸び、心臓の真上で止まった。凍てつく吐息が頬にかかる。

 「……温めて。あなたの暖かい心臓で……」

 その時、すべてが止まった。


      *    *   *   *   *



 橘花大学の学生たちが、思い思いに昼下がりの時間をすごしているカフェテリアに、唐突に“トッカータとフーガ”が鳴り響く。携帯電話の着メロだった。

 あたりに陣取っていた学生が、音を発する主を探して周囲を見回していたが、やがてその視線がひとところに集まり、止まった。皆の視線のその先には、ダンガリーシャツの胸ポケットからガラケーを取り出す青年がいた。

 黒い絹糸を束ねたようなカラスの濡れ羽色の髪に、ひとつひとつが見事に整った顔のパーツが、絶妙のバランスで配置されている美しい顔立ち。窓からちょうど光が差し込む辺りに座っているせいか、彼がいるその場所だけ、空気が違って見えるほどだ。

 女子学生の何人かは、瞬きするのも忘れたかのようにうっとりとその姿を見つめ、男子学生でさえ思わず大きく息を吐いた。。もっとも、男子学生は直後にうっとり顔の女子学生を見て、さらに別な意味の溜め息を漏らしてはいたが。

 当の本人は、周囲の様子に目もくれず、二つ折りの白いガラケー本体を器用に右手だけで開くと、着信者名を確認して一瞬天井を仰ぎ、小さく吐息した。

 「……はい、早見です。小田切さん、僕はまだ、午後の講義が残ってるんですが」

 青年が、困惑を隠せない口調でこう答えると、電話の相手の女性が恐縮したように話し出した。

 「ごめんね、(あきら)くん。実はまた、“あっちのほう”の依頼があって、力を貸して欲しいんだけど……」

 「それで、どんな感じの依頼なんですか。所長と小田切さんでは、済まないような用件なんですか?」

 晃と呼ばれた青年の問いかけに、女性は言った。

 「詳しいことはあとで話すけど、まだそんなに寒いという季節じゃないのに、死因が“凍死”ではないかという事件があったのだそうよ。警察は一応、病死として済ませているらしいんだけど。いわゆる“急性心不全”というやつね」

 「この季節に、凍死ですか」

 晃の表情が、明らかに硬くなった。

 女性が言葉を続ける。

 「……おかしいでしょ。ただの急性心不全ならともかく、凍死の兆候が見られるなんて。普通では考えられない状況だからこそ、うちに依頼が来たのよ」

 「……わかりました。今日は三時で大学の講座がすべて終わるので、それからだから、四時頃ならそちらに顔を出せます。どうせ、所長が走り出しかねないんでしょう」

 「そうそう。今だって、現場に行きたくて浮ついているのよ。何とか押さえておくから、早めに来てね。待ってるから」

 電話が切れると、晃は再度大きく溜め息をついた。

 (……また、厄介な話が転がり込んできたもんだな。あの所長、仕事熱心なのはいいんだが、土壇場での実力がいまいち伴わないからなあ)

 心の中から声がする。

 (遼さん、それは失礼だよ。僕とは、向き不向きが違うだけだ。調査をするのには、所長の能力は威力絶大だよ)

 心の声にそう告げると、晃は思い出したようにガラケーを胸ポケットにしまった。

 そして、頭の中で今日のスケジュールをもう一度確認してみる。

 あと二十分ほどしたら始まる午後一番の授業は、自分の学部の必修である法律に関する講義だ。一応法科大学院へ進学する予定だが、狙えるものなら予備試験で大学卒業時には司法試験合格、というのも選択肢として狙っていなくもない。そのため、法律関係の授業がみっちり入っている。

 ただ、幸い今日は、教授の都合で少し早めに終わることになっている。先程の電話で話したとおりの時間で、事務所にたどり着けるだろう。

 (しかし、将来の夢は弁護士っていうのが、俺にとっては雲の上の話だなあ。俺は小難しい話になると、決まって眠くなる性質(たち)だったからなあ……)

 (今の僕にとって、鍛えられるものって、頭しかないからね。元々、アスリートってタイプじゃないし)

 心の声に応じながら、晃は自分の左腕にふと視線を落とした。左腕はすべて義手だった。

 左腕だけではなく、左眼も義眼。すべては、十七歳のときに遭った事故のためだった。

 三年前の交通事故が、晃の体から左眼と左腕を奪った。しかも、直接見えないだけで、黒髪の下には事故当時の緊急開頭手術の痕があるし、服を脱げば体のあちこちに整形縫合の傷痕が残っている。胸腔がつぶれ、左肺も損傷したためだ。

 すべては、命を取り留めるための処置だったが、その無残な傷痕は見たものの言葉を失わせるほどだ。顔に傷痕が残らなかったのが奇跡だった。

 いや、奇跡というなら命を取り留めたことが第一の奇跡といわれた。そして、健常者と変わらないほどに歩き、話せるようになったことが第二の奇跡だと医者が断言した。

 それでも、約一年高校を休学し、入院とリハビリの日々が続いた。

 その時のつらさを思えば、法律の勉強などなんということはない。

 (……すまんな、晃。何もかも俺のせいだもんな……)

 (何度もいってるじゃないか、当時のことは気になんかしてないって。僕にとって遼さんは、大切な親友なんだから)

 晃はふと、数メートル離れたところから、自分を見つめる女子学生の集団がいることに気づいた。同じ法学部法律学科、法科大学院進学コースを選んだ同級生だ。教室ではいつも、付かず離れずの距離を保っている。

 (おいおい、声ぐらい掛けてやれよ、晃。にっこり笑って“こんにちは”とやるくらい、罰は当たらんぞ。相手だって、そんなに夢中になっているわけでもないだろうが)

 (いいんだよ、遼さん。どうせ、見た目で騒いでるだけなんだから。本当の意味で、僕に寄り添ってくれるはずはない人たちなんだから……)

 遼に向かって寂しげにそう答えると、晃はゆっくり立ち上がり、カフェテリアの出口に向かう。

 「あ、行っちゃう……」

 女子学生の一人が、思わずそう漏らしたのが耳に入った。

 (ほらあ、お前さんは……)

 遼の“声”は、あきれ半分嘆き半分に聞こえた。わかっている。彼が何を言いたいのかは。もっと心を開いて、周囲の、特に女の子と気楽に付き合えと言っているのだ。

 だが晃には、どうしても心を開けない理由があった。

 事故の為に負った障害のことではない。もっと重大なことだ。それには、遼が絡んでいる。だから彼も、強く言えない。

 そもそも遼の存在自体、周囲の人は誰も知らない。

 心の中にいる親友。もうひとりの、完全に独立した人格。

 しかし、そのような存在など、詳しく話したところで『解離性人格障害』などといわれるのがオチだ。

 実際、一度だけ話してみた両親の反応はといえば、無理やり心療内科に引っ張っていこうとした。

 心配してくれているのだろうとは思うが、もう少しきちんと話を聞いて欲しかった。特に父親など、事故の後遺症から来る妄想だと決め付け、頭ごなしに病院へ診察の予約を入れたほどだった。

 遼という存在が妄想などではないと知っているのは、自分だけだ。だからこそ、遼絡みのことは、誰にも言えない。

 遼のことを親友だと、大事な心の支えだと思えばこそ、本当のことは話せないのだ。

 もっとも、親に本音を話せなくなったのは、事故に遭うずっと前、子供の頃からだった。それを考えれば、いまさらどうこういう話ではない。

 (……晃、本当に俺のことを気にしていないなら、普通に同世代の友達作ってくれよ。別に女の子じゃなくてもいいから。俺はお前が心配なんだ)

 遼は、本気で自分のことを案じている。そうわかっていても、どうしても一歩を踏み出せない。

 (ごめん、遼さん。今はまだ、自分自身完全に折り合いがついてるわけじゃないんだ。やっと慣れてきた、っていうのが本当のところ。だから、もう少し長い目で見てよ。いつか、一歩踏み出すからさ)

 遼の意識が、“仕方ない”とうなずくのを感じた。


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