7.1 経過報告書
王都パリの地下には、古代ローマ帝国・属州時代に作られた地下水路が張り巡らされている。
15世紀当時は、人口増加と都市機能の拡張で水路の役割を果たしていなかったが、在りし日の遺構はいまだに健在だ。
パリの城下は、王を確保したブルゴーニュ派に制圧され、王太子の城館も取り囲まれて逃げ道はない。
護衛隊長シャステルは私を抱えたまま、護衛隊配下の精鋭を連れて城館の隠し通路を駆け抜けた。
いくつか秘密の扉と通路を過ぎると、かびくさい地下水路に辿り着いた。
地上で起きている騒乱が、まるで夢だったかのように静かだ。
シャステルの命令で、護衛が何人か、斥候として先の様子を探りに行った。
報告を待ちながら、私はようやくシャステルの肩から下ろされて自由になった。
「王太子殿下、申し訳ありません」
「うっ……うっ……」
私はまだしゃくり上げていたが、もう暴れることはやめて大人しくしていた。
ジャンを王太子の身代わりにして置いてきたことは、胸が張り裂けそうなほどつらい。
だが、私は君主となるべく教育を受けている。
冷静に考えれば、シャステルの策に従うほかないのだと、ジャンの覚悟が正しいのだと、私が私情でわがままを言っているのだと理解できる。
「どこか痛いところはございますか」
「ううん、大丈夫……ここまで大儀で、ある……」
嗚咽のせいで上手く喋ることができない。
理性で分かっていても、感情はそう簡単に割り切れないのだ。
(みんなが私を守っているから体は大丈夫なんだ。だけど、心が痛いよ)
私はポケットからハンカチを取り出すと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を拭った。
いくらかスッキリしたが、ハンカチはべたべたに汚れてしまった。
裏返そうと思ってハンカチを広げたら、小さな刺繍に気づいた。
「あっ、これ、ジャンのハンカチだ……」
急いで服を取り替えたからポケットの中身がそのままだった。
ハンカチにはデュノワ伯ジャンのイニシャルと紋章が刺繍されていた。
今ごろ、ジャンはどうしているだろう。
もう二度と会えないかもしれない。
もし、死んでしまったらこのハンカチはジャンの形見になる。
そう思ったら、また涙が出てきた。
「うっ……うっ……ぐすん……うぇぇ……」
「声が響きます。どうかお静かに」
シャステルに小声でたしなめられた。
悲しむこともままならない。
だが、ブルゴーニュ派の軍勢が見張っていないとも限らない。
地下水路は静かで音がよく響くから、しゃくり上げる泣き声はかなり目立つだろう。
子供っぽくて涙もろい自分が嫌になりそうだ。
(ああもう、いい加減にしろ!)
できるだけ声を押さえて、それでも我慢し切れなくて号泣しながら、私は一計を案じた。
ぶり返した嗚咽をすぐに止めることは難しい。
「殿下、一体何をして……」
「うん……」
いつだったか、口の中に傷を負って、止血するために海綿を突っ込まれた。
口を隙間なく塞いでしまえば、声は漏れない。
私はハンカチをくるくる丸めて、猿ぐつわのように口にはめた。
涙と鼻水まみれで少ししょっぱい。
(これでいい?)
私が涙目で見上げると、シャステルは一瞬だけ顔を歪めた。
だが、意図は伝わったと思う。
私は泣いてはならない。
嗚咽ひとつ漏らしてはいけない。
敵に気づかれたら、みんなを危険にさらしてしまうから。
「これを」
今度はシャステルが、自前のハンカチを取り出した。
「鼻をかんでください。口を塞いで、鼻まで詰まったら息ができなくなってしまいます」
涙を拭いたり、鼻をかんだり、ハンカチで猿ぐつわを噛ませたり。
今夜の私はさぞヒドイ顔をしているに違いない。
まもなく斥候が戻ってきた。
地下水路にめぼしい敵の気配はなかったようだ。
だからといって油断はできない。
水路の下流はセーヌ川に繋がっている。
運河に出れば移動しやすいが、シャステルは河岸は見張られているだろうと推測した。
ならば、パリの外ではなく、敵の裏をかいてパリの市街地へ出てから堂々と城門をくぐって脱出することになった。
城下の情勢を知ることができるし、他の重臣たちのゆくえも気になる。
(さあ、行こう)
目配せして先を促すと、シャステルは「どうか、ご辛抱ください」と言って再び私を担ぎ上げた。
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前略
王妃と無怖公の謀略に抗い切れず、ふたたび王都を炎上させたことを伏してお詫び申し上げます。
シャステルの機転が奏功し、王太子シャルルはパリを脱出しました。
このたびの計画は、すべて私の一存です。王太子は何も知りません。シャステルも話さないでしょう。
敵の目を欺くために、デュノワ伯を身代わりに仕立てたことを深謝いたします。
裏切りの代償として、どのような裁きも甘んじて受ける覚悟です。
しかしながら、胸の内を明かすまで生き長らえる時間はないようです。
願わくは、流された血が王国の礎とならんことを。
聖なる神の業火が、悪逆の徒らを燃やし尽くさんことを。
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パリの市街地に降り立ったのは初めてだ。
一年前、王太子になってパリへ来たときは馬車の窓を塞いでいたし、私の生活は王宮の中で成り立っていたから、城下のことをほとんど知らなかった。
非常時だというのに好奇心が抑えきれなくて、辺りをきょろきょろ見てしまう。
(まるでおのぼりさんだ。王太子なのに)
ふと空を見上げた視界のすみで、ほんの一瞬、黒いはばたきが見えた気がした。




