5.2 王太子を取り巻く人たち(2)無怖公の息子
アンジューを発つとき、婚約者マリー・ダンジューに「しばらく大変だと思うけど、向こうの生活が落ち着いたら必ず迎えにくるから」と告げて別れた。
宮廷生活は、想像以上に大変だった。
到着の翌日から、臣従儀礼やら祝賀行事やら、私は分刻みのスケジュールに追われた。
王太子の宮廷入りに合わせて王国中の貴族が王宮に駆けつけた。
いや、正確に言うと、私が到着する前から待ち構えていた。
王太子就任を祝うため、ひいては次期国王に顔と名を覚えてもらうために。
1人あたり10分くらいだろうか。
まだゼンマイ仕掛けも振り子もない時代ゆえ、分刻みの時間経過を測るには砂時計を用いる。
あらかじめ、面会者の名前、称号、領地、血縁関係などを記した名簿を頭に叩き込んでから、威厳たっぷりに謁見に臨む。
祝賀の挨拶を受けて、私も気の利いた言葉をかけなければならない。
貴族たちは、新しい王太子を賞賛し、祝福し、へりくだって臣従した。
だが、飾り立てた言動の裏では、若すぎる王太子を値踏みした。
身分上は王太子が格上だが、私の方が評価を受ける立場だった。
***
「次に謁見する相手は、シャロレー伯フィリップ……」
デュノワ伯ジャンが、こまごました手伝いをするために同行していたが、「その名」を聞くとあからさまに顔を歪めた。
「ブルゴーニュ公の嫡男ですよ!」
「ああ、あの……」
私は、亡き兄の手紙を思い出した。
兄は婚約祝いの書簡に、それとなく警告文を忍ばせていた。
——親愛なる弟、ポンティユ伯シャルル
むずかしい問題も多いが、ともに
不屈の精神で乗り越えていこう
ここへ帰ってくるときは、ぜひ
うつくしい婚約者を紹介してほしい
季節が巡り、君が
大人になる日を待っている
つつがなく日々を過ごせるように祈っている
けして挫けてはいけない
路傍の百合の如く、したたかに生きよ——
すなわち「むふこう、きおつけろ」と。
じかに対面したことはないが、悪名は知っている。
「あの無怖公か」
「来ているのは無怖公本人ではなくて息子です。王太子が次期国王なら、コイツ——フィリップは次期ブルゴーニュ公になる身の上ですね」
四年前、無怖公ブルゴーニュ公はパリ暴動を煽動した謀略が暴かれて自領に逃亡した。
王太子だった兄が追放を宣言し、いまだに解かれていない。
「もし無怖公本人だったら、俺がこの手でぶっ殺してやったのに!」
ジャンは声を荒げた。
ブルゴーニュ公は、ジャンの父・王弟オルレアン公を殺した張本人。
ジャンにとって父の仇なのだ。
「やれやれ。デュノワ伯は口が悪い」
シャステルがたしなめたが、ジャンはいけしゃあしゃあとトボけた。
「はい。兄からもよく言われます」
「王太子殿下の御前ですぞ。せめて、ぶちのめすくらいで」
シャステルも年齢のわりに口が悪い。
「頼むから、二人とも早まらないでよ」
私は苦笑しながら釘を刺した。
次期ブルゴーニュ公フィリップの妃は、私の姉ミシェル王女だ。
物騒なことはやめて欲しい。
***
無怖公の息子は、私より7歳年上の21歳だった。
「ブルゴーニュ公が嫡男、シャロレー伯フィリップと申します。以後、お見知り置きを……」
アルマニャック派のシンボルカラーはすみれ色で、ジャンをはじめ、このころの宮廷ではすみれ色を基調とした服か、または差し色のアクセサリを身につけている者が多かった。敵対するブルゴーニュ派は緑色をシンボルカラーにしていたが、シャロレー伯フィリップはどちらでもなかった。
濃く染め上げた黒地の礼服に身を包んでいるせいか、細身が際立つ。
脇で控えているシャステルは素知らぬ顔をしているが、ジャンは取り巻き侍従に紛れながら秘かにガンを飛ばしている。フィリップから見えない角度だが、私の視界に入るので気になって仕方がない。
当たり障りのない挨拶を交わしたあと、フィリップは「個人的な話をする時間をいただきたい」と言った。
(図々しい奴!)
ジャンの唇がそう動いているのが見えた。
面会時間は決まっているし、延長すれば後続の謁見時間に影響が出る。
誰かを特別扱いしたと知れたら、「我も我も」と押し寄せて切りがなくなるだろう。
私は、砂時計をちらりと見た。まだ時間はある。
「貴公だけを特別扱いできない。父君の一件なら宰相に話しておこう」
宰相アルマニャック伯は、この謁見に同席していない。
もし面倒な陳情があったら「宰相に伝えておく」と言ってやり過ごせばいいと助言されていた。
「我が父とアルマニャック伯は政敵です。私の話を聞いていただけるとは思えません」
たしかに、フィリップの言うとおりだろう。
アルマニャック伯がブルゴーニュ公を宮廷に呼び戻すはずがない。
「王太子殿下は、我が国のよごれた宮廷をご存知ない」
フィリップは、まるで他人事のように言った。
事の発端は、狂人王と淫乱王妃、王弟オルレアン公とブルゴーニュ公のただれた愛憎劇だ。
王家の醜聞は、王弟の殺害をきっかけに宮廷闘争と化し、いまやブルゴーニュ派とアルマニャック派に二分して内乱状態にある。
私は、狂人王と淫乱王妃の子。
フィリップは、母妃の愛人ブルゴーニュ公の子。
ジャンもまた、母妃の愛人オルレアン公の子。
私たちは、元凶の息子なのだ。
「ええっと、シャロレー伯フィリップ殿だったな」
私は、名簿を確認した。
「貴公の言うとおり、私は宮廷について何も知らない。ゆえに、何も出来ない。私に何か頼み事をしようとしても無駄だよ」
体面を取り繕った断りも皮肉も思いつかず、私は正直にそう告げた。
「陳情ではありません。父の追放の件でしたら、今のままで結構です」
あの人は、少し静かにしてもらった方がこの国は平和だ。
自分の父親なのに、そんなことを言った。
「我が国の宮廷はよごれています。ですが、王太子殿下はこれまでの内乱とは無関係。中立な御方だと推察します」
意外だった。
警戒していた反動で、ついほだされそうになる。
「ひとつ、ご注進を申し上げるとすれば、王太子殿下の母君——王妃陛下の動向にお気をつけて。のちほど、ミシェルからも話があるでしょう」
時間担当の侍従が刻限を告げた。
砂時計の砂が、ちょうど一粒残らず落ちきった瞬間だった。




