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1.17 還俗(2)

 淡々と日常を過ごしていたある日。

 朝の挨拶もそこそこに、ジャンにものすごい勢いで詰め寄られた。


「王子、王子!」

「ど、どうしたの?」

「結婚するって本当ですか?」


 ジャンの剣幕に圧倒されて、私は数度まばたきしてから答えた。


「ううん、結婚じゃない。婚約だよ」


 王立修道院の施設は天井が高く、城塞のように堅牢な石造りである。

 ジャンの絶叫が、いつかの雷鳴のごとくとどろいた。




 ***




 私は修道院の静かな生活を気に入っていた。

 だが、変化の乏しい日常の中で、ヨランドたちアンジュー家との出会いは、私にとって非日常的な一大イベントだった。

 一家が去り、もう二度と会うことはないと思うと、胸にぽっかりと穴が空いたような淋しさが募った。

 修道院の生活は今までと同じだ。

 それなのに、今まで以上に孤独を感じた。


 変化は突然だった。

 私は還俗して、外の世界へ出て行くことになった。


 婚約者は、アンジュー公の長女、マリー・ダンジュー。

 私よりひとつ年下、9歳の小さな貴婦人だ。


 数百年前、昔のアンジュー公は、現在イングランド王国が支配するブリタニア全土とフランス西部を支配する一大帝国を築いた。

 15世期のアンジュー公はフランス王家の遠縁で、フランス王に臣従している大諸侯のひとつだ。


「つまり、政略結婚じゃないですか」


 修道院の大人たちから聞いた話をかいつまんで伝えると、ジャンが不機嫌そうに「王子はまだ子供なのに」と言った。

 以前から、ジャンは王侯貴族の政略的な人間関係に冷ややかだ。


「結婚じゃないってば。婚約だよ」

「同じようなものでしょ!」

「全然ちがうよ」


 結婚——すなわち婚姻の儀を執り行うと、夫婦関係を解消することは不可能だ。

 離婚する方法がない訳ではないが、夫と妻だけでなく双方の一族の名誉に傷がつく。

 離婚問題がこじれて、戦争に発展することもある。

 私とマリーはまだ結婚ではない。飽くまでも婚約だ。


「ジャンにはこの意味が分かる?」


 たとえ王家から忘れられた存在だとしても、私の身分は王子だ。

 誰かが私の境遇を哀れんだとしても、勝手にどこかへ連れ出すことはできない。


 婚約をきっかけに、私は「マリーの婚約者」という名目でアンジュー公のもとへ引き取られることになった。

 修道院の少年僧ではなく、王侯貴族のひとりとして教育を受けることを意味する。


 アンジュー公が政略として「王族との繋がり」を欲したならば、私とマリーを結婚させたはずだ。

 英仏・百年戦争の休戦協定のあかしとして、イングランド王リチャード二世29歳と、私の姉イザベル王女7歳を結婚させたように。


 婚約は表向きの理由にすぎない。

 アンジュー公一家は、私を日陰の身から日の当たる場所へすくいあげようとしている。


 私とジャンはもうすぐ10歳になる。

 一般的な貴族の子なら、格上の有力者にあずけられて小姓(ペイジ)として貴族教育を受ける年ごろだ。


 私の話を聞いていたジャンが、「実は……」と切り出した。

 私を還俗させてアンジューへ送り出したあと、ジャンはオルレアンへ帰ることになったらしい。


「兄のもとで、小姓として働くことになりました」

「えっ、ジャンには兄上がいたの?」

「言いませんでしたっけ?」


 初耳だ。

 ジャンの父、王弟オルレアン公と正妻の間に生まれた兄がいるらしい。

 現在のオルレアン公でもある。

 ジャンは憂鬱そうにため息をついた。


「オルレアン公夫人には感謝してますけど、苦手なんですよ」


 気持ちは分からなくもない。

 ジャンは庶子だ。オルレアン公夫人からすればジャンの存在は胸中複雑だろう。

 ジャンもオルレアン公夫人も、きっと穏やかではいられない。

 だが——


「やっと騎士の道が開けるね!」


 何年か小姓として働き、貴族らしい振る舞い方を学んだあと、才能を見込まれた少年は騎士の下へ配属される。

 見習いの従騎士(エスクワイア)として研鑽を積み、有力者に認められたら、晴れて正騎士(シュバリエ)として叙任される。

 小姓は騎士になる入口だった。


「良かった。もう隠れなくても、堂々と修行することができるよ」

「そうですね」


 ジャンは嬉しそうに、けれどどこか淋しそうに笑った。




 ***




「じゃーーーーーん!!」


 私はレベルアップした……かどうか分からないが、還俗した私は鼠色の僧衣(ローブ)を脱ぎ、貴族の子弟らしい鮮やかな装束を身につけた。


 裾と袖に柔らかい毛皮をあしらった上衣(プールポワン)

 僧衣は丈が長くて、私はよく踏んづけてはコケたが、新しい服の丈は短くてちょうど膝丈くらいだ。いままでのように転ぶことはないだろう。

 脚には、ぴったりしたショースを履いている。

 15世紀の男子は、よく鍛えた筋肉質の脚線美を見せることがステータスだった。

 この物語を読んでいる読者諸氏の時代で例えるなら、脚のラインが出るタイツやスキニーを履いていると想像すると分かりやすいだろう。

 

 ずっと僧衣に馴染んでいたせいか、衣服の裾からすらりと脚が出ている状態に戸惑いを覚える。

 とんでもなくスースーする。けれど、裾が脚に絡みつく心配はない。


「どうかなぁ。少しは王子らしく見える?」


 かたわらで見守っているジャンに、感想を聞いた。


「そうですねぇ」


 ジャンはさまざまな角度から私を眺めて、次のような感想を述べた。


「王子って、意外と内股ですね」

「えっ、そう?」


 衣服が変わり、脚部と膝が丸見えになったおかげで弱点が発覚した。


「どうりでよく転ぶわけです」


 ジャンはひとりで納得していた。

 私はうつむいて、こそこそと足の位置を確認した。

 裾をきゅっと引っ張ったが、新品の服はぱりっと硬くて伸びてくれなかった。


 修道院の正面(ファサード)には、青地に金百合の紋章をあしらった豪奢な馬車が待っていた。

 世話になった僧たちが総出で見送ってくれているというのに、私は涙目だった。

 別れを惜しむ気持ちもあったが、それ以上に私の頭を悩ませたのは——


(私は内股なのだろうか)


 自分ではよく分からなかった。

 貴族らしい衣服に身を包んでも、しょせん中身は同じだ。


(どうしよう。よくコケるのと内股。どっちがましだろうか)


 しょうもないことで悶々としながら、私は馬車に乗り込んだ。

 かわいい婚約者が待つアンジューへ旅立つというのに、恥ずかしくてたまらなかった。


 狂人王シャルル六世の子、第五王子シャルル。

 のちに勝利王と呼ばれる少年は、このとき10歳。

 不遇な私を守ってくれた修道院から巣立ち、よろめきながらも明るい世界へ飛び立とうとしていた。



第一章〈幼なじみ主従〉編、完結。

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