7.16 迷いの森(2)異世界の境界
王太子になって以来、余暇らしい時間がなかった。
この非常時に、鳥笛作りに熱中するとは不謹慎もいいところだ。
だが、目の前の手作業に集中していると余計なことを考えないで済む。
おかげで、不安と疑念はだいぶ紛れた。
どれほど時間が経っただろう。
ふと我に返り、顔を上げた。
少し前まで青かった空が赤みを帯びている。
冬ならば、とっくに暗くなっている時間だろう。
壊れた馬車の下から、シャステルの足が二本突き出ている。
まだ修理は終わりそうにない。
「シャステル、寒くないか?」
「申し訳ございません。肌寒いかもしれませんがご辛抱ください」
「そうではない、シャステルは寒くないかと聞いている。私は大丈夫だ」
「もうしばらく、ご辛抱を」
違う、そうじゃない。
私は別に寒くない。シャステルはどうかと聞いているのに、話が通じていない。
「日が落ちてきた。手元が見えにくいと作業が捗らないだろう?」
私の手のひらには不格好なバードコールがひとつ。
足元には、穴を大きく空けすぎて鳴る気配のない失敗作がいくつか転がっている。
「……馬車の調子はどう?」
返事がない。
馬車の下から突き出た二本の足は、まるで屍のようだ。
(まさか! 縁起でもないことを!)
不吉な予想を振り払うように、私はぶんぶんと頭を横に振った。
シャステルは、私がおもちゃを作っている間もずっと馬車の下に潜っていた。
修理作業に集中しているのか、あるいは雑談に耳を傾ける余裕さえないのかもしれない。
(シャステルは『自分に任せろ』と言って、何も教えてくれない。私はそんなに頼りない王太子なのか?)
心の中で不服を申し立てたが、すぐに思い直した。
(……いや、私自身も頼りがいがある王太子だとは思わないけど!)
無力で臆病で役立たずな自分が情けない。
王太子だ次期国王だと持ち上げられても、中身が伴っていないと自覚している。
心細くないと言えば嘘になる。
だが、このような時だからこそ、精神まで暗くなってはいけない。
私はできるだけ明るい声で話し続けた。
「そうだ。今のうちに木切れを拾ってきて松明を作ろうか? 薪を集めるくらいなら私だって」
「森へ入ってはなりません、絶対に」
思いがけず強い口調で却下され、私は押し黙った。
(なんだ、聞こえてるじゃないか)
不満ではあったが、シャステルの言い分はもっともだ。
たしかに森は危険だった。
人の手が入っていない深い森は、異世界に等しい。
人々と家々の代わりに植物と獣がはびこり、目には見えない精霊が支配している世界だ。
もし悪しき精霊に魅入られてしまったら、王の権威も司祭の祈祷も通じない。
狩人の矢は獣を射るが、騎士の剣は精霊を退けることができるだろうか。
「どうかご辛抱を。森は、殿下が考えているよりもはるかに危険な場所なのですから」
私の沈黙を不服と受け取ったのか、シャステルはなだめるように付け加えた。
「むやみに動けば、戻って来れなくなるかもしれません」
シャステルの言い分も一理ある。
曲がりくねった細い道は旅人を迷わせる。
高い木々は空を狭くするから、道しるべとなる太陽や星々を隠してしまう。
森に比べたら、航海の方がまだ安全かもしれない。
そして、夜の森は昼の森よりもっと危険だ。
完全に暗闇になったら身動きが取れなくなる。
「ライルを待ちましょう」
「うん……」
ライルは戻って来るのだろうか。
もうすぐ夜になるのに、迷わずにここへ? 暗闇の中を?
そもそも、この事故はライルが仕組んだ策略かもしれないのに?
本当に彼を信じられるのか?
信じて、このまま待っていていいのか?
「王太子殿下」
「……うん、何だ?」
「話し相手をご所望ですか」
修理を諦めたのか、シャステルが馬車の下から這い出てきた。
「幼なじみデュノワ伯のようには胸襟を開いて喋ることはできませんが」
シャステルは馬車を背に、どしりと地面に座り込んだ。
「私で良ければ、殿下の話し相手を務めましょう」
「……首尾はどう?」
「まぁまぁです。しかし、手元が見えにくくなりました」
シャステルは「歳ですね」と自嘲するように笑った。
父王シャルル六世と護衛隊長シャステルは同じ歳だった。
父と違い、シャステルは覇気のある騎士だが、なんだか急に老け込んだように見えた。
「正直に申し上げると、首尾はよろしくありません」
「そうか……」
「途中で合流するはずの味方は一向に現れない。頼みの馬車は、殿下の姿を覆い隠しながら同時に盾となる壁でもあったのに、肝心の車輪がいかれてこの有り様です」
シャステルの中にあるもろい部分をかいま見てしまった気がした。
旅の同行者として、ライルの存在は意外と大きかったのかもしれない。
「馬車の故障は誰のせいでもない。偶発的な事故だよ。私たちは少し運が悪かっただけだ」
「ならば、幸運を祈りましょう」
シャステルは天を仰いだ。
しかし口をついて出てきたのは、希望の祈りではなく、運に見放された男の嘆息だった。
馬車の車軸のように、シャステルの心も折れかかっていた。




