7.11 宿屋の女将(2)王国のほころび
シャステルは右手を剣の柄にかけたまま、一同をぐるりと睨みつけた。
いや、睨みつけたというより人と物の位置を確認したというべきか。
もし王太子の身に災いが及ぶならば私の制止を振り切って、躊躇なく剣を振るうだろう。
(まずいな……)
緊急時の不服従。
護衛隊長シャステルに与えられた権限のひとつだ。
事態は一触即発といえよう。
(どうすれば……)
騒ぎを起こしたくないのはもちろんだが、私は流血を好まない。
何より、シャステルの手を汚したくなかった。
ならば、私がこの場を収めなければ。
「逃げも隠れもしない。だから、この手を離してもらえないだろうか」
宿屋の女将が目配せすると、私の手首を捕らえていた主人は後ろへ下がった。
この宿屋における力関係は、女将の方が上のようだ。
私は彼女に向き合った。
「私はこのとおり若輩者だが、これでも彼の主君だ」
「主君、ねぇ……」
女将は、シャステルの威嚇に怯むどころか、値踏みするような見下すような視線で私を見ている。
「たしかに、きれいな食べ方は貴族っぽいと思ったけどねぇ」
なんかおかしいのよねぇと言いながら、いやな感じのする半笑いを浮かべた。
「よく見れば、あんたが着ている服はちょっとサイズが合ってないみたいだしさ。ホンモノの貴族サマってのは恰幅がいいんだよ。ぽっちゃり、でっぷりしているか、がちむちの筋肉ダルマみたいな奴さ。だけどあんたは痩せっぽち。ねぇ、それ、本当にあんたの服かい?」
思いもよらない事柄を突っ込まれ、どぎまぎして返答に詰まった。
「そ、それには理由があって……」
「へぇ、お姉さんにその理由を聞かせてくれる?」
「理由は……」
服のサイズが合っていないのは仕方がない。
元はといえばジャンが着ていた服だ。
私とジャンは背格好が似ているが、ジャンは忙しく動き回っているかたわらで剣術の鍛錬をしているから、私よりも胴回りや肩幅が大きい。
私がジャンの服を着たら布が余ってぶかぶかしてしまうし、王太子の服を着ているジャンはきっと窮屈に感じているだろう。
「いとこから借りた服なんだ。確かに、サイズが合っていないかもしれない」
私とジャンはいとこ同士、すべて本当のことだ。
「へぇ、そうなのかい」
「それほどサイズ差は大きくないのに、わずかな違いを見極めた。女将はずいぶんと目利きのようだ」
女将はきゅっと両目をつぶり、満面の笑顔を見せてくれた。
意外と可愛らしい。思ったより若いのかもしれない。
「うそつき」
前言撤回。
この女将、一筋縄では行かないようだ。
「うそではない。神と父に誓って真実だ」
「ねぇ、知ってるかい? うそつきって奴はね、すぐに神の名を騙って誓いの言葉を言うんだよねぇ。でも、あたしは騙されない」
女将はまばたきを忘れたかのように、私の目をじっと覗き込んだ。
心の奥を見透かされそうだが私の心に曇りはない。
騙りではない、真実を語っているのだと言い聞かせ、私は女将の目を見返した。
「ねぇ坊ちゃん、この服は借り物なんだ? あんたの母ちゃんは息子の服1枚すらこさえてくれないの?」
「えっ……」
不意打ちで母のことを言われて、心にさざ波が立った。
女将は、私の動揺を「嘘のほころび」と解釈したらしく、すかさず追い討ちをかけた。
「借り物の服、ねぇ。本当はドロボーしたんじゃないの?」
このときの私がどのような顔を見せたのか、自分では分からない。
女将はぶっと吹き出すとけらけらと笑い出した。
「やだよ、あたしったら。つい口が滑っちゃって! 坊ちゃん、ごめんねぇ。もしあんたがホンモノの貴族サマだったら侮辱罪で鞭打ち刑になっちまうねぇ。おお、怖い! ぎゃははは」
母のことと、さらに謂れのない濡れ衣を着せられ、私は呆然としていた。
ずいぶん昔、見知らぬ女の子に泥棒の嫌疑をかけられた記憶がある。
修道院で世話になっている子供が王子サマのわけがない、孤児だ、捨て子だ、うそつき、ドロボーだと——
「縛り首だ!」
シャステルの怒号が飛んだ。
「その方の御身を少しでも傷つけてみろ。貴様ら全員を八つ裂きの刑に……」
「いいから、黙ってて」
私は我に返ると、今にも飛びかかりそうなシャステルを制した。
シャステルが口をつぐむと、宿の人々は滑稽な芝居を見ているかのようにげらげらと笑った。
(しっかりしろ。こんなところで足止めされるわけにはいかないんだ!)
私は雑念を振り払うと、冷静に話し合いを試みた。
「これ以上、腹の探り合いをしても無意味だ。私たちの素性を明かすことはできないけれど、あなた方に迷惑をかけたりしない。こちらも急ぐ旅路だから、何か不都合があるなら善処しよう。どうか話を」
ライルといい、女将といい、この国の民衆はヒトの話を途中でさえぎってかぶせてくる習わしがあるのだろうか。
「どうもこうもあるかい!」
「話し合いを……」
遮られた言葉をすべて言い終わるより前に、息が切れてしまった。
すっかり女将のペースに飲まれている。
「ほら、とくと見るがいいよ」
女将は、備え付けのテーブルに銅貨を何枚か放り投げた。
シャステルが宿代と食費の精算をするときに偽金を使おうとしたらしい。
「まさか!」
「盗人め、詐欺師め。あたしを騙そうったってそうはいかないよ!」
にわかには信じられなかった。
「おのれ……」
護衛隊長シャステルは主君たる王太子の前で偽金を使ったと告発されたのだ。
これほどひどい侮辱はないだろう。
貴族の名誉を傷つけることは、万死に値する。
「いくら無学といえどこれほどの愚弄は許されない! その命をもって償え!」
「だまらっしゃい!」
私がシャステルを制止するより早く、女将はすらりと肉切り包丁を取り出すとテーブルに力いっぱい突き刺した。
「こちとら屠殺は日常茶飯事でねぇ。だいじな仕事道具を毎日研いでるから切れ味抜群だよ。試してみるかい?」
女将は舌なめずりをしながら恐ろしいことを言った。
だいじな仕事道具というが、こんな風に乱暴にテーブルに突き刺したら刃こぼれしてしまう。
もっと大切に扱うべきだと忠告したかったが、それどころではなかった。
「偽金をつかまされて宿代をちょろまかされるくらいなら、あんたらのカラダで代金を払ってもらおうかねぇ」
包丁が派手に突き刺さった勢いで銅貨が飛び散り、私の手元に転がり込んできた。
検問の兵に渡した金貨でも銀貨でもない。
王太子の日常生活では貨幣に馴染みがないが、帝王学の一環として「通貨の仕組み」について学んでいる。
「女将、これは偽金ではない。畏れ多くも国王陛下の名の下に発行している通貨で間違いない」
「はぁ?!」
わが国には金貨と銀貨と銅貨が流通し、リーブルとエキュとドゥニエという単位があり、銅貨1枚につき10ドゥニエだと習った気がする。いや、5ドゥニエだったか。
できるだけ簡単に説明して、支払う意志があると伝えようとしたのだが。
「だまらっしゃい!!」
やはり女将は、私の話を最後まで聞こうとしなかった。
「ムズカシイことを言って騙そうったって、そうはいかないよ!」
まったくそのようなつもりはない。
できるだけ穏便に早くここから立ち去りたいのに、女将は私たちをニセ貴族に扮した詐欺師の盗人だと思い込み、この銅貨は偽金であると信じ切っていた。
「見たところ銅貨には違いないけどね」
女将は、私がもっていた銅貨を取り上げて品定めをしたが、すぐに「違う」と首を振った。
「ここらじゃあそのカネは使えないよ」
「なぜ?」
「あたしが知るもんかい!」
頭の片隅に、正式な帝王学ではなくどこかで聞きかじった雑学が浮かんだ。
フランス王国ヴァロワ王朝が始まったとき、イングランドは王位継承を不服として戦争を吹っかけた。
私の祖先である歴代国王は、戦費を捻出するために質の悪い貨幣をしばしば鋳造したらしい。
悪貨が国中に流通し、王国が発行する貨幣はしだいに信用を失った。
地方貴族たちは自領の経済を守るため、自治権を根拠にして自前の貨幣を作るようになった。
祖父・賢明王シャルル五世の時代には、フランス各地に100を超える造幣局があったと聞く。
「あたしは無学に違いない。だけど、ここいらにはここだけのルールってもんがあるのさ」
いま私たちに降り掛かっている災難は、王家の権威が行き届かなくなっている証拠でもあった。
「ここは王国領だ。王国の貨幣が使えないなどと……」
「あぁら、残念だったねぇ」
シャステルの右手は剣の柄から離れなかったが、「そんな馬鹿な話があってたまるか」とショックを受けて呆然としていた。
私たちは知らなかった。
王都の城下および貴族間の商いならば、問題がなかったから。
けれど、一地方の限られた領地の中でまわっている経済圏では「うちの領主さま」が発行する通貨がすべてだった。
「この銅貨もどきには1ドゥニエの価値もないね。となり町も、その先にある村もみんな同じさ!」
私もシャステルも、女将も間違っていない。
造幣局が100カ所もあるならば、ほんの少し移動するだけで手持ちの金銭は価値を失う。
私たちはいつの間にか一文無しになっていた。
そして今まさに無銭飲食と宿泊の罪で捕われようとしていた。




