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ダブル  作者: 茶の字
第1章 幼稚園時代
6/182

第6話 お向かいさん

「あら、いらっしゃい」

 祖母の早苗がお向かいの真理ちゃんを迎え入れた。春めいた黄色のスカートに、白地に花柄の入ったトップスが可憐だった。その袖口から出る小さな手に小銭を握りしめた姿が可愛らしい。

 このところ真理ちゃんは連日枡屋に御菓子を買いに来る。

「真理ちゃん、好きに遊びに来ていいのよ。毎日御菓子を買うのも大変でしょ」

「大丈夫です。お母さんもお父さんも枡屋さんの御菓子は大好きなので」

「そうなのかい? でも、いつでも遊びに来ていいんだからね」

 早苗が重ねて言うと、しっかりした声で、

「はい」

 と真理が返事した。


 凜としたいい子である。


 ──ああ、抱っこしたい。


 早苗は孫娘がほしいと、わりと真剣に身悶えした。


「それで、今日は何がいいのかな?」

「はい。今日は羊羹を一本お願いします」

「本日は羊羹を所望、と。それじゃ帰る時に用意しとくから、真理ちゃんは二階で遊んどいで。真司も寛司も部屋で本よんでると思うから」

「ありがとうございます」

 お辞儀をして、真理は小銭を手渡し、先にお会計を済ませる。


「でも、勝手に上がっていいんですか?」


 こんなことを言われてしまうと、早苗としては逆に、こちらの案内しない不作法を許してねと言いたくもなるが、それは真理に負担となる言葉になるような気がする。この子はうちの腕白どもと違って、真正面から背負ってしまう一面がある、と早苗は思う。


「いいのいいの。真理ちゃんならね。あなたのお父さんも、うちの宗也とよく遊んでたからねぇ。さぁお上がり」


 家の周り廻らせず、工場(こうば)を通して真理に二階に行くよう勧める。

 それから早苗は、門の影から娘を心配してこっそりのぞいてる真理の母親の杏に向かって、二階に上げたからとジェスチャーで伝える。

 杏からは深々としたお辞儀の御礼が来た。

 この親にしてあの子ありだと早苗は思った。

 それに比して考えてみると、うちの腕白どもは、どうやら息子たちより自分の夫の智道の方の影響が強いように思える。

 今でこそ智道は都議会議員をしているが、昔はそれはもう立派な腕白坊主で、近所中に親分肌を振りまいて遊んでいたものだ。

 あの頃は毎日がキラキラしてた。

 そう物思いにふけっていると、工場からうちの嫁がひょいと顔を出し、

「お母さん、ちょっと覗いて来ますね」

 と言った。


「羊羹のお買い上げだから」

「はい。じゃあ抹茶のロールケーキでも持っていきますね」

「そうしてあげて」


 楽しそうに初江が店と工場とを仕切る暖簾から消える。その消えた姿の残心を追いかけながら、ひと言で十を知る嫁女の頼もしさに、早苗もほんわりとしたものに心が満たされていった。

 これはたぶん、嫁に来てから四年経つ初江との絆の深まりを、自分が感じているのだろうとも思う。

 要は初江は、自慢の嫁女だった。




 真司と寛司は祖母の予想通り、自分たちの子供部屋で本を読んでいた。それは父親と叔父の蔵書から持って来た物だったり、図書館から借りて来た物だったりするわけだが、両親が買い与えてくれた絵本は、実はそれほど読んでない。

 基礎知識として読んだだけで、いま手にしてる本ほど読み込んではいない。


 そんなオレたち二人の部屋が突然にノックされた。


「「いるよぉ」」


 とノックの途中でオレと寛司が返事をする。

 だが返事を返したのに、なかなか扉が開かない。お母さんと婆ちゃんならすぐに扉を開けるから、これはたぶんと思って寛司の方を見ると、寛司も察したようで大きく肯いていた。


「「どうぞぉ、真理ちゃん。開けていいよぉ」」


 けれども扉は開かない。

 真理ちゃんは節度があるなぁ。突然部屋の前まで来たのは祖母に通されたからだろうけど、だからと言って、いきなり踏みこんでは来ない。

 オレなら真理ちゃんの部屋だろうが何だろうが、すぐに開けて入っちゃうと思うけど。


(いや、そこは(あに)さま自重しようよ。女の子の部屋だぞ)

(でもオレたち三歳だぞ)

(まあそうなんだけど、どっちかと言えばオレも兄さま寄りだけど)

(だろ? 正直小野先生とかから知識は得ても、知識としてあるだけで女の子に興味ないし、そう咎められることもないと思うんだけど)

 

 とオレが言ったところで、弟さまにもオレの思い返した映像が魂の回廊を通じて、流れこんで行ったようだ。オレたちが初めて見たおっぱいが婆ちゃんの強烈な一撃だったってのもあるかもなぁ、というオレのぼやきとその映像である。

 お母さんからの授乳の印象は全く覚えてないが、婆ちゃんのその一撃は、強烈な一撃となって未だに覚えている。

 弟さまが顔をしかめて応えた。


(うん。確かに回避したいというか、本能が堪忍してつかぁさいだったもんな)

(ああ。嬉しくなかった。婆ちゃんには悪いけど)

(たぶん性とかそういうのは、年相応にならないと全く興味が湧かないんだろう、たぶんだけどね)

(それなら真理ちゃんの部屋だろうが開けてもいいんじゃない?)

(あ、いやいや、やっぱそれはダメだよ。緊急事態以外開けちゃダメだろ)


 そう駄目出しされてると、おずおずと扉が開いた。

 随分と時間がかかったものだ。そこまで気を遣わなくていいのに。


「「こんにちはっ」」


 とりあえず大きな声で迎え入れた。


「こんにちは。いきなり来ちゃってご免なさい。羊羹を買いに来たらお祖母さんが上がって行けと勧めてくれて」

「ああ~、そこらへんは何となくわかるからいいよ」

「どうぞうどうぞ。入って入って」

「お邪魔します」


 春のような出で立ちの真理ちゃんが部屋に入って来たことで、オレたちの部屋がいつもと違う部屋になった。

 オレが席を退()いて、真理ちゃんには文机の前の座布団に座ってもらった。


「真理ちゃんさ、ノック二回で落ち着かないから、開けるの(はばか)ったりした?」

「え? どうしてわかったの?」

「ノック二回じゃおトイレになるんじゃなかったっけ。で、三回で親しい友人、四回だと国際儀礼だったよね。お父さんお母さんからそう習ったんじゃないかなって」

「そうです」

「おお。さすがは弟さまよ。そういや真理ちゃん金沢財閥とかいうとこのお嬢さんなんだよね。躾っていうか、そういうのやっぱ厳しいの?」

「そんなことはないと思うけど。よその家がわからないから。とりあえずあと二回叩こうと思ってたんだけど」

「四回かよ。真理ちゃんなら三回でいいよ。な、弟さまよ」

「うん。三回でもいいけど……」

 でも、と寛司が続けた。

「実は日本じゃ二回が慣習なんだよね。江戸時代じゃ戸を叩く音を、ほとほと、って擬音を重ねることで表現してたしさ」

「そうなんだ」

「そう。だから三回とか四回の方が後から後付けされたもんなんだよ」

「誰が後づけしたの?」

「どっかの金儲けしたい人がでしょ。国際人になるために、欧州ではとか、貴族の間ではとか言ってさ、あちらの風習をさも当然のように開陳しただけなんだよ」

「そうなんだ」

「だから誰かの金儲けのためにこれが国際基準ですよぉとか言い出されてもさ、我が家の中では、そこまで欧米寄りにしなくてもいいかな、オレは」

「むしろ不愉快か。弟さまは江戸が大好きだからね。そうなるか」

「兄さまだってそうだろ」

「まあね。しかし、じゃあやっぱ真理ちゃんちって厳しいんだな。てかオレたちの部屋ならノックしないで開けてもいいぐらいだけど、けど……、そうしたら真理ちゃんが落ち着かなくなるか」


 うん、と真理が頷いた。


「よし。じゃあオレたちで暗号を決めよう」

「あんごう?」

「オレたちの間だけで通じる符丁(ふちょう)だ」

「難しくなってるぞ兄さまよ。符丁ってのは合言葉ってことだよ、真理ちゃん」

「合言葉なのね。わかった。それでどうするの?」

「えっと、じゃあ戸を叩くのは二回、合言葉を尋ねられたら、ほとほと、って言うようにしよう」

「おっけ~」

「真理ちゃんもそれで良い?」

「うん、わかった。あと符丁でいいよ。もうわかったから」

「お、おっけ~」


 気を遣わせて申し訳ない。言語や語彙は小野先生準拠なんだよなぁ。てかもう難しいと言われる言葉も、今やオレたちの日常として根付いてしまってる感がある。言葉の意味合いとかニュアンスが豊潤なんだよなぁ。

 言葉遊びが大らかだった時代の言葉だ。


 江戸言葉、オレは結構気に入ってる。



「じゃあ、真理ちゃんにコンコン」

 寛司が真理ちゃんに向かってノックした。


「はい」

「ちがうでしょ、真理ちゃん」

「あ」

「はい、もう一回。コンコン」

「ほとほと」

「はい、おっけ~。これでオレたち以外が来ても扉は開けないよ」

「大人が来ても?」

「大人が来てもだよ」

「でも弟さまよ。お母さんはノックしないぞ」

「じゃあ、今度からノックしてもらおうか」

「おっけ~。じゃあノックしなかったら『お母さんの許しが出ない号』を『お母さんは人の部屋に入るのにノックもしない号』にしちゃおう」

「うわ、これはまた小母さまが怒りそうな……」


「「あはははは」」


 二人して声を出して笑った。


「あ、ごめん、真理ちゃん。置いてけ堀だったね」

「ごめんごめん」


「ううん大丈夫だよ。でも真司くんと寛司くんのお母さんは優しいよね」

「そ~う?」

「うん。大人の人が優しいってのは、私には結構発見だった」

「え? なんで?」

「親戚の小父さんが、前に私にしつこくして来たの。すごい恐かった」

「え? マジで? 親戚の小父さんなのに?」

「うん」

「うちの叔父ちゃんなんか、いっぱい遊んでくれるよな」

「今度時計も作るし」

「時計?」

「うん。一分計だけどね」

「ストップウォッチだよ」

「それの機械式だけどね」


 真理ちゃんの顔がパアッと輝いた。うわぁっと声もこぼれる。


「そんでもって今度またかけっこするんだよね、兄さま」

「応。計るぜ計るぜぇ、タイムを計るぜぇ、て感じ」


「すごいなぁ」

「うん? どこが?」

「時計を作るって言っても、部品は叔父ちゃんが用意してくれた物を組み上げるだけだよ。だからあまり、そこまですごいと思わないけど」


 寛司の詳しいフォローにも、真理ちゃんは首を振った。


「ちがうの。大人へ対等にリクエストするのが、すごいなぁと思って」


「え? でも思ったことを聞くって普通だよね」

「うん。今しか出来ないことだ。大人になったら、調べてから物を言わないと、阿呆扱いされちゃうし」

「それをしちゃう大人の人もいるけどね」


「ぅわぁぁ」


「「ん? どうしたの?」」


 真理にとって、真司と寛司の応対は、目を瞠る物があった。カルチャーショックと言ってもいい。


「真司くんと寛司くんはさ、大人の人が恐くないの?」

「大人と言っても、背が大きいだけで、息も吸えば、うんこもするよ」

「ご飯も食べるし、眠りもするよ」

「大人として見てなくて、生物として見てるの?」

「ああ、そういんじゃなくてさ、大人の人だって悩んで回答を模索してるんだよ。解答してそこで終わりってわけじゃないんだよね」

「そうそう。強く言ってるけれども、次には違う答えに行き着くことだってあるし」

「答えが出たらひとつじゃないの?」

「ああ、うん。じゃあさ、真理ちゃん羊羹買いに来たわけじゃん」

「うん」

「明日は何食べたい」


「え? そんな……」

 それは言った物をくれると言うことだろう、と真理は思う。

「教えてよ」

「そんなこと……言えません」

 それは図々しいことだと思う。はしたないとも思う。


「じゃあ昨日は何食べたいと思った。何買いに来たの?」

「お団子」

「でしょ。で、昨日はお団子を食べたかったけど、今日は違って、羊羹を買いに来たわけじゃん。その時強く思ってても、答えは一緒じゃないよね」

「うん」

「大人もおんなじでさ、大抵のことには答えに幅があるんだよ。だからそれをこちらも探らなくちゃいけない時がある」

「お母さんにおねだりすると、さりげな~く拒否されることあるよな」

「あるある。お母さんにケーキをおねだりしたら、昨日はおはぎが売れ残ったのよね~、とか。にっこりしながらオーラ全開だったり」

「食べないの?」

「「食べるよ。おはぎおいしいし。お母さんの言うこともわかるから」」

「あはっ」

 真理ちゃんが笑った。息ぴったりなのがおかしいだろうか。別に当たり前のことなんだが。

「だからね、大抵は解答じゃなくて回答にしちゃうんだよ。向こうが答えを誘導したくても、答えに幅を持たせて無理矢理キャッチボールで回して解答を回答にしちゃえばいいのさ」

「兄さま、そうやって自分の話に持ってくの得意だよな」

「小野先生が外国で学んだスキルだからな。外国人の押しの強さに比べたら、何てことないだろ」

「そりゃまぁそうだけど」


 真理が小首をかしげた。

 薫風幼稚園にはそんな名前の先生はいない。


「小野先生って小野産婦人科の?」

「そうその小野先生。オレたち小野先生の所で生まれたんだ」


 真司が本を手にして上下にプラプラ振る。


「そういや大人相手どころか偉い人相手にさ、ほら、江戸時代の家老が殿を(いさ)めるためにあの手この手で苦労したって話もあったよね」

「どんな本? 読んでみたい」


 そこに解決策があると思ったのだろうか。

 真理ちゃんの目がキラキラしてる。


 そんな真理ちゃんの質問に、なぜか弟さまも一緒になってうんうんと肯いていた。弟さまなら同意を返してくれるものと思ってたが、弟さままで気になるらしい。

 おかしな奴だ。知ってるはずなのに。

 いや、真理ちゃんに寄り添ってあげてるのか。

 いい奴だな、弟さまは。


「真司くん?」

「ああ、それね。本じゃなくてテレビだよ」

「え? ってことはそれ、バカ殿のことじゃない?」

「それそれ」


 寛司がマジかよとガッカリしてたが、真理ちゃんは隣で笑ってくれた。


「しかもお父さんの昔の秘蔵コレクションだろ。真理ちゃんにわかるわけないじゃん」

「ん? お父さんか? オレはてっきり爺ちゃんのだと思ってたけど」

「あ、その可能性もあるか。洋服より昔の和服のが大好きだしな。バカ殿みたいにふざけるのも大好きだし」


 その答えに真理が絶句した。

 真理ははそんなに昔の物だとは思わなかった。けれども昔の話だからそれでもいいのかとも思い、また悩む。昔は昔だし。


「でも、てっきり本だと思ったらテレビだったのね」

「う~ん? どこに本だと思う要素あったの?」

「兄さまよ」

「なんだい、弟さまよ」

「その手に持ってるのはなんだい?」

「うん? 本だな」

「紛らわしいと思わないか?」

「おお、それかっ」

「それだっ」

「ごめんごめん」

 と謝りつつ真司がぽいっと本を置いた。

 真理がその本に目を留める。


「何それ。絵本かと思ったら、すごい難しそうな本みたいだけど」

「ああ、お父さんの本。何となく手に取ってみただけだよ」


(兄さまよ。それは苦しいぞ、言い訳としては)

(いや、でもどうすんだよ。医学書なんて子供は見ないだろ)

(…………)

(じゃあダブル)

(え? おいおい兄さま?)

(解析してみろよ)


 寛司が医学書を手に取る。


(げ。昔話になってる)

(じゃ、後よろしく~)


 寛司がわかってるけど本を開く。


「あ、にほんむかしばなしだね。ひょうしだけ、かえてるのね」

 オレは弟さまの棒読みに笑いを噛み殺しつつ、

「お父さんが代用したんじゃないかな。破れたりなんかしたから、とか……」

 とフォローしてあげた。


(あげた?)


 寛司がじろっと真司を射抜く。


(え? なに?)


「まあとりあえず、兄さま。貸しいちね」

「おい? まじ?」


(マジだよ)

(なんで? わからね~)

(理由になってないだろ。お父さんの本って言っといて昔話じゃ、どう考えても子供向けに買い与えた物だろうに。うちのお父さん証券マンだぞ。なのに株の本じゃなくて表紙だけ医学書とか整合性無茶苦茶)

(ああ、なるほど)


「うん。だからお母さんに何かもらって来て」

「しょうがね~な~」


 でも真理ちゃんをはぐらかせることで来たかなと目をやると、真理ちゃんがペコリと頭を下げていた。


 あ、これは、おやつの御礼だわ。


 真理ちゃんの心はすでに本の整合性とかそんなところに疑念を向けておらず、ただ単に話の流れでオレがおやつを貰いに行くことになってることへの御礼になっている。


(真理ちゃんが素直で助かったよ)

(いやいや、そこは弟さまの力技だろ)

力業(ちからわざ)を振るった当人は兄さまだよね。技じゃなくて(ごう)だよ業、これはもうね)

(わかったわかった。いずれにしろダブルの秘密は保たれた。それでいいじゃないか。ってことで、じゃあ行ってくるね~)


 と扉を開けたら、お母さんが階段を上ってきた。


「すげ~な、お母さん。ちょうど何かもらいに行こうと思ったとこなんだよ」

「あらそう。それはちょうどよかったわね」

「それからお母さん」

「なぁに」

「今度から、オレたちの部屋に入る時はノックをして下さい」

「え? いやよ」


 真司が真理を見た。目でパチッと合図をする。


「どうして? 真理ちゃんはしてくれるよ」

「私は親だもの。私の家にいるのにノックしたりしないわ」

「お母さんの家ってのはそうだね。ここはお母さんの家だ。でもオレたちの部屋だし、オレたちの部屋に入るのに真理ちゃんはちゃんとしてくれるよ、ノックを」

「それどころか、オレたちが入って良いって言っちゃったから国際基準のノック四回を出来なくなってさ、ドアを開けずにそこで待ってくれちゃうぐらいだったよ」


 寛司がすかさず助け船で追い打ちをかけてくれた。

 さすがだ、弟さまよ。


「三歳の真理ちゃんにも出来ることなんだぜ? 二十六歳のお母さん」

「ふふふ。だからここは私の家なので、あなたたちが成人して一人前になるまでは親の言うことを聞いてもらいます。それが出来なければ、一人で大きくなりましょう」


(弟さまなら出来るけど、まあそれを言ったらお母さんを困らせちゃうな)

(落とし所だね。現状では勝てないよ、お母さんには)

(おっけ~。じゃあ今度、お母さんは人の部屋に入るのにノックもしない号作戦な)


 ニヤリとした寛司の黒い笑みを目の端に入れたところで、


「「参りました」」


 とオレたちはお母さんに頭を下げた。


「うむ。良きに計らえ」


 そうしてお母さんが部屋に入って来た。

 真理ちゃんはお母さんが持つお盆を見上げている。真理ちゃんにはまだ、うちのお母さんが何を持って来たのか見えてないようだった。


(お母さん、意図的に隠してるよね)

(まあ背がでっかくなるまでは見えないよな)

(兄さまはさっき見た?)

(うん)

(何だった?)


 答える前にお母さんが屈んでしまった。お盆を文机の上に置く。


「あ。抹茶のロールケーキだ」

 しかもひとり二個ある。斜めにずらして披露するようにして置く見せ方がきれいだ。

「寛司は喜びすぎ。はい真理ちゃん。ゆっくりしてってね」

「ありがとうございます」


 真理ちゃんがぺこりと頭を下げた。


「う~ん可愛いわねぇ。女の子が部屋にいると、どうしてこう華やぐんだろう」

「「ごめんねお母さん。オレたち地味で」」

「あんたら悪目立ちすぎ~。あんたらただでさえ双子で目立つのに、あんたらが地味だったら世の中真っ暗だわ」

「「ええ~っ」」

「ちゃんと真理ちゃんに粗相のないようにするのよ」

「「は~い」」


 お母さんはしまったままの座卓を出すべきかと一瞬考えたようだけど、結局オレたちの返事に、うんと頷くと、真理ちゃんに御菓子をお食べと、お茶と抹茶のロールケーキを文机のうえに置いて、子供部屋から出て行った。


「寛司くんでも、自分ちの御菓子にビックリすることあるんだね」

「そりゃあるさ。だって抹茶のロールケーキは人気あるから、なかなか食べさせてくれないんだ。今日は真理ちゃんが来てくれてラッキー」

「うん。真理ちゃんが来てくれなかったら、抹茶のロールケーキは食べられなかったな、まず間違いなく」


「そうなんだ」


「てことで、食べようか、真理ちゃん」

「美味しい食べ方あるからさ、弟さまの真似するといいよ」

「わかった」


 オレも文机の脇に座ると、弟さまに倣ってお盆の上から、まずは熱いお茶をいただく。

 お茶を飲んで渋味を覚えておくと、抹茶のロールケーキをいただいた時、その甘さがひときわ際立つのだ。


「美味しい」

「「でしょ」」


「このやり方はね、爺ちゃんが好きなんだ」

「オレたちの部屋はフローリングだけど、他の部屋だと和室だから()()びがより堪能出来るんだけどね」

「そうしたらもっと旨く感じるんだけどな」

「うん」


 弟さまが少し残念そうにした。

 弟さまは和服を着たいと言うぐらいだから、本当に和物が好みなのだろう。


「ふうん。そうなんだ。でも何でこのお部屋だけフローリングなの?」


「ここは昔は叔父ちゃんのお部屋だったんだ。叔父ちゃん工作好きだからさ、畳のお部屋だと畳を傷めるもんだから、フローリングに替えられたってお父さんが言ってたよ」

「うん。オレも兄さまと一緒に聞いた。でも昔のお父さんのお部屋も余ってるから、別にそっちでも良かったんだけどね。お前たちは汚すから、こっちの部屋だって和室を使わせてくれなかったんだよな」

「別に汚さないのにな。暴れはするだろうけど」

「だからだよ、きっと」

「「それかっ」」

「それだよ」


「「「あははははっ」」」


 確かに暴れても畳は傷む。


「でも壁とかは漆喰(しっくい)じゃないよね。わたしんちは木と漆喰だから」

「こんど真理ちゃんちにも呼んでよ」

「部屋は勝手に開けないよ。ちょう開けないよ」

「兄さま、それ、お約束する気だろ」

「あ。すぐ開けちゃうやつだ」

「そうそれ」


「「「あははははっ」」」


 そんな感じで真理ちゃんが、真理ちゃんちとオレたちの家との違いに大喜びしている。真理ちゃんちは森の奥にあり、オレたちの部屋からだと真理ちゃんちの外観はわずかしか覗けないが、そのわずかばかりの外観からしても、真理ちゃんちはひなびた家だ。いわゆる旧家というやつなのだろう。

 対してオレたちの家はビルディングだ。中身は和テイストだけど。裏庭もあるけど。それでも文明の進歩の分だけ、外観から内装にはギャップがある。だから外観と内装が一致してる家で暮らす真理ちゃんには、我が家は新鮮に映るのだろう。

 だがそれも人それぞれだ。真理ちゃんちだって、現代的にしようと思えばすぐにでも出来るはずだ。

 でも真理ちゃんちの両親はそうしない。新しい物はすぐに古くなっていくけれど、古い物はいつの時代から見ても古い物だ。

 しかし古い物が古いからこそ、その家で暮らす人々の思いが、先祖代々染み込んでゆき、愛着がわき、価値が高まるのだと思う。

 ご近所さんは旧街道に面してるから旧家が多い。みんなそれなりの土地持ちだ。そしてその土地々々は、ご近所さんのみなさんが先祖代々守ってきた土地なのだ。その守ってる間にも、それぞれの家々の人々は、新しく生まれては淘汰されていく物を、それこそうんざりするほど見てきただろうと思う。

 時には新しい物を手に入れた仲の良くない人物から、いつまでも古い物にしがみついてと思わぬ蔑みを受けたこともあるかも知れない。

 だが何でもかんでも新しければ良いと飛びつくのは、成功すればいいのだろうが、失敗すれば(ほぞ)を噛んで昔を惜しむことになる。


 失った物を元には戻せないのだ。

 それが土地ならば人手に渡って、生きてる間に取り戻すことはおそらく二度と出来ないだろう。


 秤にもかけずに飛びつく阿呆のような真似をして、生き残れた家はこれまで聞いた限りでは、ない。

 真理ちゃんちとて、家は古いが仕事は時代の最先端である。かといって最先端だけでもない。どっしりとした根幹があるのだ。

 真理ちゃんちの森のように。

 新しい枝葉は伸ばすこともあるが伐採することもあるだろう。

 そうやって新しい物を取り入れるにしろ、致命的な失敗を避けつつ、家勢を維持し、子孫につなぎ、後事を託して死んでいったのだ。

 親子の情愛が深い家ほど、そう簡単には家を建て替えたりはしないのだろうと思う。

 ましてやそれが日本経済の中枢とも言えるような、財閥直系の家で行われてるとなれば、真理ちゃんの両親や祖父母がどんな思いで真理ちゃんを育ててるのかは、オレにでもよくわかる。


(なぁ兄さまよ、真理ちゃんに聞いてみたらどうだ)

(あれか。親戚の小父さんがどうたらこうたらってやつ。そこはオレもすごく気になってたんだよな。けどどこまで踏みこんでいいのか、難しいんだよな)


 詳細も知らないのに、したり顔でずかずか入っていくほど阿呆ではない。むしろ知恵だけならそこらの大人顔負けの知恵はある。

 そういうのをどこまで出しても良いものか、匙加減が難しい話でもあった。もっとも、詳細を知っても全く動けないのが実際のところだろう。

 他の家の事には他人は口出し出来ないのだ。ていうか、する奴は頭のネジが飛んでいる。ただのバカだ。

 やはり、難しいな──。


「ごちそうさまでした」

 真理ちゃんがペコリと頭を下げた。

 きちんとフォークを使って食べた真理ちゃんが一番遅い。だが表情は一番満足そうだった。


「おいしかった?」

「うん、とっても」

 真理ちゃんが弟さまに答えてた。

「あと何となくわかったでしょ? 兄さまの回答作戦」

 うん、と真理ちゃんがちいさく肯いた。

「うちだと両親にビックリされちゃうかな」

「そっか~。じゃあ参考にならなかったな」

 オレは頭の後ろで手を組んだ。


「あれはオレたちみたいに親から腕白と扱われてる立場じゃないと使えないってことだな。じゃあやっぱり真理ちゃんには素直が一番合ってるのかな」

「ああ。そうなんだろうね。とりあえず、わからなかったら訊く。これが基本だよね。うん、基本は大事だよ」


「ここで基本を手段に用意しておくってのも、兄さまの口車だよな。たち悪いわ~」

「ああ、そっか。これも回答のひとつか」

 思いもよらない指摘だった。オレにそんな気は更々なかったのだが。

 てかオレ、口が悪いのか?


「なら真司くんと寛司くんのお母さんも、自然と回答させようとしてたよね」

 そう真理ちゃんが言った。


「カウンターだったよね」

 と口に出してからオレも思う。

 お母さんは教え込ませるために、噛み砕いて物事を進めてくれる。そこにやっつけてやろうとか、そういう気持はない。

 だから真理ちゃんの事例にどこまで添えるのかはわからないけれど、


「真理ちゃんの抱えた問題はわからないけどさ。たぶん参考に出来る大人から学べばいいんだと思うよ。真理ちゃんも対抗策っていうか、他にもやり方が色々あるんじゃないかってわかっただけでも、相手の言い分だけに飲みこまれずに済むようにはなるでしょ」


 すると真理ちゃんがにっこりした。まるで重石が取れたように表情が動く。微かに歯がのぞいて笑んでるのが可愛い。


「そっかぁ。そういうやり方があるのか。効果ありそうだよね」

「でも、真理ちゃんには素直が一番だと思うけどね。真理ちゃんの両親はきっと、真理ちゃんのことをとっても大事にしてると思うから」

 真理ちゃんがはにかんだ。


「真司くんと寛司くんのお母さんも、そうだと思うよ。さすがだよね」

「え? いいよ。気を遣わなくて」


 真理ちゃんが優しい目でオレたちを見ていた。

 あ、この目はうちのお母さんを誉めてるんじゃなくて、回答の手本を見せようとして、失敗しちゃったオレたちが凹んでるものと勘違いしちゃってる目だろう。


「うん。そう。ほら、二人ともすごい色々知ってるし」

 弟さまがくすりと笑って言った。

「せっかく教えてくれようとしたけど、負けちゃったもんね。そう思って気を遣ってるでしょ。それを遣わなくていいよって、兄さまは言ってるんだよ」

 弟さまの不敵な笑いに、真理ちゃんがこんがらがってる。


「あれ? おかしなこと言った?」


「あ、大丈夫だいじょぶ。な、兄さま」

「うん。謝ってる体裁をとりつつ、次は『お母さんは人の部屋に入るのにノックもしない号』作戦をするって決めてたから」

「人がいっぱいいるところでやろうね」

「おっけ~。お母さん、バカバカって言いたげな顔するから楽しみだ」

「うわ、うっわ~」

「「どうしたの?」」

「そんな悪いこと考えてたんだ」

「え? こんなの悪戯だよ、ただの」

「うん。正直、別にノックなんてしなくてもいいって思ってるし。真理ちゃんにもノックしないでいいよって言ったでしょ?」


「あ、言ってた」


「だから悪戯なんだよ。お母さん、面白いし」

「そこは優しいしって言っとこうよ、兄さま」


「これもたぶん回答なんだろうね。何て言うか、二人ってへこたれないよね。わたしなんかどうしようって困っちゃうけど」

「困っちゃっても終わったわけじゃない。人生はつづく」

「そこを避けて通るのも手段だよね。相手にしなかったり。親を隠れ蓑にしちゃうのもオレたちの今の歳じゃ重大な手段だよね」

「すごいね寛司くんは」

「よっぽど回答してるよな」


「なんか、いっぱい学んで、選べることが増えた気がするわ」


「そいつはよかった」


「じゃあわたし、帰るね。お使い頼まれてるし」

「ああ、御菓子買いに来たんだっけ」

「うん」

「「じゃあ送ってくよ」」

「え? 目の前だよ、うち」

「うん。真理ちゃんち、見てみたいし」

「開けるよぉ、兄さま、超開けるよぉ」


「「「あははははっ」」」


 ということで急遽真理ちゃんちに行くことになった。本来の予定なら、読書の後は公園にかけっこにでも行くつもりだったが、それはまた明日ということだ。

 オレは、お盆を持った寛司の先導で階下へと降りて行く真理ちゃんを見送ると、部屋をふりかえり、医学書に目を()る。


「よいしょ、復旧」

 ダブルで昔話を医学書へと元に戻す。

「これでよし」


 心おきなくオレは扉を閉めた。





 部屋から見える真理ちゃんちはひなびた家だったが味わいのある家だった。今からそこに入ることになるとは思いもしなかった。

 真理ちゃんが店で婆ちゃんから商品を受け取っている。羊羹だったっけか。お買い上げありがとうございます。

 いよいよお別れとなると、お母さんも工場から出て来た。


「真司、寛司、きちんとエスコートしなさい」

「「はい。必ず無事に送り届けます」」

「よろしい」

 お母さんに敬礼すると、お母さんが堪えきれずに、ぷっと吹き出した。


「「ひでっ。オレたち真剣なのに」」


「車がいなくなったら渡るのよ」

「「おっけ~」」


「小母さま、どうもありがとうございました。ロールケーキ、とっても美味しかったです」

「そう。よかったわ。あと真理ちゃん、小母さんでいいからね。小母さまだと外で呼ばれたとき気恥ずかしいから」

「あははは」「いいとこのママみたいだよね。江戸っ子の店なのに」

「こら寛司」

「ごめんなさい」

「まったくもう。真理ちゃんも、うちの子達から変なこと教わってないわよね」

「いえ、大丈夫です。それどころかとってもタメになることを教えてもらいました」

「そう、ならよかったわ。どんな──」

「どんなとか根掘り葉掘り聞かないでよ」

 寛司が遮ると、真理ちゃんが困ったように言葉をつないだ。

「あー、えー、えと、あとお茶の飲み方も教えてもらいました」

「お茶?」

「ああ。あれだ。爺ちゃん式の御菓子の食べ方だよ」

「ああ、あれね。お口に合いましたか?」

「はい。とっても」


 お母さんと婆ちゃんが立ったまま身悶えてる。お母さんはいいけど、婆ちゃんは時と場所を選んだ方がいいぞ。前後を知らなかったら倒れる直前かと思っちゃうではないか。


「じゃあ行ってくる」

「送ってくるでしょ」

「あ、そうだ」


「「あははははっ」」

 弟さまと真理ちゃんに笑われた。


 そうして旧街道を渡ると、初めて真理ちゃんちの門をくぐった。

 真理ちゃんちは森だった。自分の部屋からはひなびたようにしか見えなかったが、中から木々を見上げると、高くて太い。まさに森の中にいるようだった。

 だが足下を見ると、飛び石が規則正しく歩幅に合わせて置かれている。


「弟さまよ」

「なんだい、兄さまよ」

「うちの裏庭より断然広いよな」

「うん。かけっこ出来そうなぐらい」


 思うところはおんなじか。オレたちはニヤリとした。


「競争したくないか」

「したい。しかもすごいよな、この石の配列。これは、ここから落ちたら暗闇に真っ逆さまになる特訓が出来るな」

「おお、土のとこに触れたら落ちたことになるわけか」

「そうそれ」

「「真理ちゃん、やってみてもいい?」」

「いいよ」


 よし。真理ちゃんの許しも出た。


「じゃあさ、ここに真理ちゃんに立ってもらって、門のとこから、ここまでを競争しよう」

「でもそれだろ敷石を二人で通るのつらくない?」

 と真理ちゃんが言った。見事な問題提起だ。


 確かにそうだ。


「一分計があったら一人ずつ走れたんだけどな」

「一分計?」

「うん。さっきも言ってたろ。叔父ちゃんに部品を用意してもらってるからさ、今度叔父ちゃんに会った時に一緒に一分計を作ることになってんだよ」

「ストップウォッチの機械式のやつね」

「それ、本当にすごいよね」

「「じゃあ、できたら真理ちゃんにも見せて上げるよ」」

「うん。じゃあそれまでは、わたしが数えてあげるよ」


「本当?」

「いいの?」


「うん」


「じゃあ真理ちゃんよろしく。一人ずつ真理ちゃんの合図で向こうからスタートして、真理ちゃんとこまで駆けてくるから」

「わかった」

「行こうぜ」

 オレは弟さまを連れて門まで戻ろうとして、やめた。


「どうせなら往復にしようぜ。ここをスタートして、真理ちゃんちの門にタッチして、またここまで戻ってくる。それでど~う?」

「お、いいね~」


 話は決まった。

 距離は片道三〇メートルほどだろうか。この距離なら近所の公園でやってるのとそう大差はない。けれども公園では足の踏み場は自由に置いていいことになっていた。それが今回は、飛び石の配列によってやや蛇行している。しかもその飛び石を踏み外したら奈落の底ということだ。

 死んだら記録なしである。そういうことになる。

 その条件下で、門まで行ってここまで戻って来るのだ。それも出来るだけ早く。それだけでもしんどいが、そこに二人の競争も加わる。

 これはやばい。新しい遊びを知ってしまった。


「兄さま、どっちが先に走る?」

「オレが先やるよ」

「おっけ~」

「じゃあ真理ちゃん、い~い?」


 隣で真理ちゃんが頷き、そして手を挙げる。


「よーい」


 オレは構えた。


「どん」


 一目散に走り出す。

 一歩目はきれいに飛び石を踏む。ゴム底が敷石を噛んでつま先でうしろに蹴る。すると、オレは順調に加速する。普通に走る時の走り出しと変わらない。相当うまくいった。

 二歩目、三歩目も順調に敷石を踏む。後ろからは真理ちゃんの数える声が聞こえる。

 あっというまにオレは門まで到着し、その門にタッチして引き返す。

 一枚いちまい正確に、これ以上ないほどの速度で進む。もはや駆けてる感覚ではない。飛び石の上を飛んで行く感覚だ。


 やばい。これ楽しすぎる。


「あはははっ」


 笑い声を上げながら真理ちゃんの脇を駆け抜けた。

 一陣の風に真理ちゃんが髪を押さえる。


「真理ちゃん、いくつだった?」

「えっと、十とちょっと」

「やった」


 往復六〇メートルぐらいあってこのタイムなら、結構速いと思う。


「じゃあ次、オレね」


 弟さまがワクワクしてるのがこちらにも伝わってくる。

 オレも楽しかった。寛司も早く走りたいに違いない。だって面白いんだもん。

 真理ちゃんが、よ~い、と手を挙げる。


「どん」


 寛司が駆け出した。

 その一歩目からオレは、て~へんだ、て~へんだと騒ぐ江戸っ子になった心持ちになった。

 寛司が物凄いことをしてるのだ。


「い~ち」

 と声をあげてる真理ちゃんも驚いて語尾が(ふる)えてる。


 寛司は敷石を一枚抜かしで駆け抜けて行ったのだ。なんてこった。一枚いちまいを丁寧に踏み抜いたオレに比べたら、動作が少ない分、より速く走ってるはずだ。

 やばい。

 オレより飛んでいる。

 これは今、寛司は相当楽しいだろう。


「すっげ~」


 寛司が戻ってきた時、真理ちゃんは八とちょっとを数えていた。

 オレの完敗である。


「でもずるくない?」

「小賢しいと言ってくれ」

「お前、卑下するなよ。それは言い過ぎ。工夫は人類の進歩だよ。オレが一枚一枚踏んでた飛び石を、まさにお前は飛び石のうえを飛んで駆けぬけた」


 オレは真理ちゃんを見た。


「真理ちゃんもすごいと思ったろ?」

「それはそうだけど」

「やってみたいと思ったんじゃない?」

「あ、それは思った。ていうかやりたいです」

「じゃあオレが数えるよ」

「それはダメです。数えるのは寛司くんです」

「え?」

「条件を同じにしなかった罰です」

「うっわ~、罰か~」


「それと、これも持っててね」

 寛司が真理ちゃんから羊羹の入った紙袋を手渡された。

「真理ちゃん、楽しそうだね」

 寛司が罰を受け取りながら笑いかけると、

「だって、うちでこんな遊びが出来るなんて、考えた事もなかったもん」

 と真理ちゃんが笑顔で応じた。


 真理ちゃんが走るまえの準備運動を、いっちにいっちに、と始めた。

 その動きを見て思う。


 ──真理ちゃん、うちの婆ちゃんが見てたら悶絶するほどかわいらしいけど、もうちょっと運動した方がいいよ。


(苦手そうだよね)

(はっきり言うなよ。武士の情けをかけないと。あ、ここ誤用が肝心ね)

(そんな気を遣わないでも……。

 たぶん今はこうでも、オレたちと遊んでればすぐに運動神経はよくなるよ。だって三歳だもん。動かすことで神経をつなげてけば身体が覚えるさ)

(その第一歩ってことか)

(そ。だからゆっくり数えるからね。一分計がなくて良かったよ。厳密に計ったら苦手意識持っちゃうかも知れなかったから)

(そうだな。よしじゃあ始めよっか)


「位置について」

 真理ちゃんがサッと構えた。その構えが、笑いを取りに来てるのかと思えるような、見ただけで誰しもが彼女は運動音痴だとわかるような構えだった。

「よーい、どん」


 だが走り出したらオレはその考えを撤回した。

 ちょこまかとした動きにキレがある。

 しかも全ての敷石を踏んでいて、あれはオレがやってた走り方を真似た物だ。往路はオレのやり方で往くつもりらしい。


 動きが適確でスムースだ。


「たぶんあの構えは、女の子の構えなんだよ。オレたち男の子の構え方しか知らないから、変に思ったんじゃないかな」

「なるほど。オレたち女の子のウォームアップとか遊んでる姿は知らないからな。真理ちゃんが女の子のスタンダードなのかもしれんな。変にしか見えなかったけど」

「でも走り出したらしっかりしてる」

「うん。あ、タッチした。戻って来るぞ」


 前からも真理ちゃんの走りをじっくり見ようとしたその時だった。

 真理ちゃんは、復路は寛司の走り方の真似をしていた。

 綺麗なフォームだ。

 適確に一枚ずつ抜かして蛇行にも対処している。

 そしてスピードに乗り始めたその瞬間だった。

 飛び石の端に左足を置いてしまい、蹴ろうとしてそのまま靴底が滑ってしまった。


「あっ」


 真理ちゃんが転んだ。

 つぎの敷石の上を滑って、土の上をジャリジャリ行って、そこでようやく止まった。


「二回、奈落の底に落ちちゃったね」

「いやいや、そうだけど。そうじゃなくて。助けに行こう」

「うん。ちょっと洒落にならないと思った。反省」



 真理ちゃんは目に涙を溜めていた。

 でも泣き出さない。懸命に堪えていた。けなげな子だ。


「真理ちゃん大丈夫?」

「ちょっと痛い。でも大丈夫」

「大丈夫なの?」

「うん。あれで治してよ」


「「あれ?」」


「そう」


 冷や汗タラタラだ。

 何で真理ちゃんが知ってるんだろう。

 でも──。


(あに)さまっ」

「いいんだ。真理ちゃん優先だ」


(解析頼む)

(了解)


 寛司が傷口に触れ、オレは真理ちゃんをジッと見た。


「真理ちゃん、オレはこれを他人に対してやったことがない。だからどうなるかわからない。治すつもりでやるけどね。それでもいい?」

「うん」


「弟さまよ」

「いま流す」


 魂の回廊を通じて、真理ちゃんの傷ついた場所が伝わってくる。

 右足の腿に擦過傷、左足に打撲。擦過傷から血が滲み始めている。

 スカートに泥が付着し繊維は無事。ただし()れて弱くなってるので元の状態に戻してあげるのが吉、か。


(弟さまの方が、ダブルの解析が精度高く出来るよな。何でだろ)


 こうしてる間も情報が流れこんで来る。極めて正確な情報だ。それを確認すると、確かにその通りなのだ。


(簡単だよ)

(いや、弟さまぐらいの精度で出すの、なかなか出来ないぞ。しかもこんなに早く)

(それは兄さまが目端が利いて周辺を見渡し、オレより一点への集中力が足りないせいだよ)

(いやでも、それはオレの普通だしな)

(手法の手順か。そこはもう個人の主義だから致し方ないか)

(ああ。うん。変えるつもりもないな)

(兄さまがそう言うなら、オレはそれ以上言わないよ)

(しかしこれで真理ちゃんに完全にダブルが発覚しちゃったな。幼稚園では弟さまを盾にしてたつもりだったけど、あれを見られてたとしか思えない)

(砂場の一件、か)

(気をつけてたんだけどな。お向かいさんのオレたちに興味があった真理ちゃんにはバッチリ見られてたらしいってところか)


 真司はふうっと大きく息を吐いた。


「どうだい、真理ちゃん。まだどっか痛いところか、おかしいところある?」


 オレが訊ねると、真理ちゃんが立ち上がった。あちこち動かしてみる。黄色いスカ-トがふわふわと風にそよぐ。


「全然痛くない」

 と言った。それから自分のスカート周りを確かめる。


「すごいね。傷だけじゃなくて服の汚れも落とせちゃうんだ」


「ねえ、真理ちゃん。薫風幼稚園で、兄さまがオレを治癒したのわかったの?」

「ううん。真司くんが戻ったら寛司くんの傷が消えてたから。それだけしかわからなかったんだけれど、こんなすごい事してたんだね」


 オレは弟さまと互いを見交わした。情けないというか、自ら墓穴を掘った間抜けさに唖然とするというか、いや、オレだけじゃなくて兄弟そろって間抜けを晒したのか。

 実際真理ちゃんが、オレたちが何をしてたのかを理解してないのなら、まだいくらでもごまかしようがあった気がするのだ。真理ちゃんはまだ三歳の、ふつうの女の子だ。オレたちがダブルを使っても、これはこういう物だと煙に巻くぐらい容易く出来たはずだった。


(早まったかな。兄さま)

(でも、真理ちゃんを治さずに放っておくことは出来なかっただろ。送り届けてる最中に遊びだしたのはオレだし、責任もある、よな)


 そうだ。

 走りたくないのと、けしかけたのもオレだった。

 そんな言い出しっぺのオレは、泣き出しそうな痛みを懸命に堪えていた真理ちゃんを見てしまってる。

 あれはオレたちに責任を感じさせないために堪えていたのだ。痛くて痛くて仕方ない三歳の女の子が、意思の力で、オレたちを優先させたのだ。


 これを裏切れるのか?


 他にもある。

 真理ちゃんは薫風幼稚園の砂場で、オレたちが何かをして弟さまの傷が治ったことだけは見切っていた。だから治ると信じて、オレたちにお願いしてきたのだ。

 そんなオレたちの負担とならないために、痛くて痛くて痛いのに、痛くない素振りを見せつづけた真理ちゃんを──。


 裏切れないだろ。


(真理ちゃんに、嘘つきたいか?)

(それはない。そうだね。つまり、どっちにしろ真理ちゃんには話してたってことか)

(そうなるな。だがダブルを見せるのは真理ちゃんまでだ。後は誰にも言わない。秘匿する)

(そうだね。それがいい)



「あのね、真理ちゃん」

「うん」

「これをオレたちはダブルと呼んでる」

「ダブル」

「そう。でもね、本当にダブルを他人に対してしたことはないんだ。だから本当にどうなるかわからない。今は良くても、後で傷口が開くかもしれない。痛くなるかもしれない」

「大丈夫だよ。真司くんと寛司くんが治してくれたんだもの」


「あ、いや。オレは別に治してないんだけどね」

「でも寛司くんも何かしてくれたんでしょ?」

「弟さまがやったのは解析だよ。とは言っても、真理ちゃんに傷があるかどうかってことと、お洋服にしかかけてないから」


「ごめんね。説明もしないでやっちゃって」


「大丈夫。お願いしたのはわたしだもの。どうもありがとう」

「あ、いや、どういたしまして」


 たじろぐ弟さまに魂の回廊で話しかけた。

(真理ちゃんって、けなげだよな)

(義理堅いっていうか)

(まあ、やっぱこれじゃ真理ちゃんには嘘はつけないな。どのみちほだされちゃうよ)

(うん)


 よし、と気合いを入れてオレは真剣になった。

「そのうえで真理ちゃんにお願いしたいんだ」

「お願い?」

「そう。さっきも言ったけど、ダブルのことは、三人だけの秘密にしてほしい」

 隣で弟さまも肯く。そして言う。

「これは本当に大事なことなんだ。兄さまのこのダブルが世に知られたら、たぶん兄さまは人体実験されちゃう」


(おいおい、おっかないこと言うなよ)

(でも本当だ。自分の利益のためなら、別に兄さまのひとりやふたりって人はいると思うぞ。このダブルの汎用性は、高い。信じられないほど高い)


「人体実験?」

「真理ちゃんは兄さまが、いじめられてもいい?」

「よくない」

「だからさ、真理ちゃんにも兄さまを守ってほしい」

「いやいや、弟さまよ。真理ちゃんは女の子だぞ。そんでもってオレは男の子だ。守ってもらうとかそういうのはいいから。ただ単に三人だけの秘密にしてほしいってだけ」


「三人だけの、秘密」


「そう。それが一番簡単な方法なんだ。絶対に喋らなければ、誰にもわからないから」

「わかりました。絶対喋りません」

「ありがとう、真理ちゃん」

「約束ね」


 上機嫌な真理ちゃんに寛司がつっこむ。


「約束って言うか、真理ちゃんのポーズ見ると誓いに見えちゃうよね」

 真理ちゃんは宣誓するように右手を挙げていた。



「じゃあ、このなくしてもらった傷に懸けて、誓うわ」


「じゃ、オレはこの空に懸けて誓おう」

「おいおい、弟さまよ」

「飛ぶように駆けてたんだろ、オレ」


「じゃあオレは海にかけて」

「それならわたしは大地にかけて」


「いやいや、真理ちゃんは森にかけてでしょ。ここ森だし」

「ううん、ここわたしんち」

「じゃあじゃあ、やっぱオレはあんこにかけて誓おう」

「「あんこ?」」

「ネリネリは大変だからな。この世にこれ以上大変なことはない」

「兄さまならすぐ作れるけどな」


「「あはははは」」




「ずいぶんと楽しそうね」


 小母さんが森の向こうから出て来た。

 静かになったから気になって迎えに出て来たらしい。


「すごかったの」

 真理ちゃんが飛び石かけっこの説明をする。

 とっても楽しかったのと繰り返しくりかえし説明してる。

 数を数えたことや、オレたちがどれぐらいで走ったのか、本当に楽しそうに説明していた。

 そして、真理ちゃんは自分が転んだことは決して口に出さなかった。

 小母さんが何を思ったのかはわからない。だが、御礼を言われて、それではこれでオレたちは失礼しますと挨拶を返して、自分ちへ戻った。


 真理ちゃんは、門を閉めるまでずっと、手を振ってくれていた。


「ふうっ」

 オレは旧街道を渡る前に、大きく息を吐き出した。

 足が動かない。

 オレは車はいないが渡るのをやめた。

「どうしたの、兄さま」

「いや、なに」

 と口を濁して真理ちゃんちを振り返る。


 立派な表門が閉まっている。門の奥には森が存在感もあらわに悠然とそこにあった。

 その門の前で、オレはしばらくたたずみ、目的を反芻(はんすう)しては、その結論に思いを寄せる。

 店ではきっと、お母さんがオレたちの報告を待っていることだろう。


「あ」

 寛司も気づいたようだ。

 そうなのだ。オレたちの任務失敗は確定したのだ。


 それにしてもだ──。

 オレたちは真理ちゃんを真理ちゃんちにまで送りに来たのだ。それなのに、その真理ちゃんちの玄関にすら、オレたちは辿り着くことが出来なかった。

 結論──。

 真理ちゃんちワンダーランド、恐るべし。

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