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ダブル  作者: 茶の字
第1章 幼稚園時代
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第34話 ついお父さんの目の前で

 話を穏便に済ませようと努力することは大切だ。無茶を言ったり、話をわざとズラしてこようとしたりする取引先に、きっとお父さんはこの笑顔で対抗してきたのだろう。

 見舞金を差し出させたまま受け取ろうともしない木下の親父の嫌がらせを、お父さんは笑顔で受け流していた。


 お父さんの戦闘は始まってるのだ。


 それにしてもこれだけ板についてるお父さんの笑顔は、営業スマイルなんだろうか。勝手に取引先相手とか思っちゃったけど、浅野の小父さんの笑顔にも似た雰囲気がある。

 あ、浅野の小父さんは爺ちゃんの友達で、衆議院の東京のどっかの選挙区で当選して、国会議員をしてる小父さんだ。

 自由民意党では中堅どころで、国の各分野の特化型にならず、日本全体でバランスを取って物事を考えられる人という評価でかなりの豪腕を振るってる。そう婆ちゃんから聞いている。

 でもって今は都議連の会長もしてるから、何かと爺ちゃんと話すために、うちに遊びに来るのだ。だがあれはお仕事ではない。常に酒を持参してくるし、珍味、甘味、肉、魚と、その時食べたい物をそのまま土産にし、我が家で楽しく食事をしてくのである。

 たまに奥さんも子供も連れて来るから、完全に家族ぐるみの付き合いだ。

 てかそれだけやってるのに、我が家で誰も嫌な顔をしないという、()り手だ。

 その浅野の小父さんの笑顔に似ていると思う。

 ガハハと笑えば、もう完璧だ。


「ところで最上さんはどちらにお勤めですかな?」

「?」


 お父さんは小首を(かし)げた。

 まぁお父さんには言ってる意味がわからないだろう。

 でもオレにはわかった。こいつは木下の父親だ。前に木下が自分の父親は偉いんだぞみたいなことを言ってた気がする。オレは一蹴した覚えもあるが。

 はて、どうしたっけか。


「仰ってることがよくわかりませんが、そういうのは今の時代では個人情報ですのでね。口にするわけにはいかないですし」

「ほうほう。個人情報保護法ですね。言うに言えない、言っても誰も知らない会社勤めの人には、便利な世の中になりましたね」


 すると玄関が開いて木下が出て来た。


「パパ。和菓子屋だよ。和菓子屋枡屋」


 ああ、こいつはそう思ってたのね。うちのお父さんは日本海上証券勤めだけど、面倒臭いので否定はしないでおこう。お父さんも全く何の反応も示してないし。

 てか、すごいな、お父さん。

 向こうにどんどん手札を切らせて、こっちは全く切ってない。


「こんばんは、木下くん。今回は痛かったろうね。うちの息子が申し訳ない」

「べつに」


 と言いつつ木下がお腹を押さえた。アピールしまくりだな。


 でもこれで、うちのお父さんにも木下の家がどういう家なのかは大体わかったようだ。

 オレに一緒に頭を下げろとも言ってこないのが、その証拠だ。

 それはそうだ。お父さんは家主同士の話をしに来たのだ。家主として、お父さんが相手にしてるのは木下の親父でしかない。

 木下、お前の立場は雑魚だ。原因ではあっても、ただそれだけ。オレが当事者としてこの場に来ても、魚の糞であるようにな。


 うちのお父さんがお前に謝ったのは、お前の情報を抜いたんだよ。


 そして食卓で寛司が言ってたことも本当だと、お父さんなら理解したことだろう。

 そういう信頼感。

 対処を考えないでいい安心感。

 何とかしてくれるという頼り甲斐というか。

 矢面にいるはずなのに、心は軽く平常心だった。

 オレは初めて父親という存在の大きさを身をもって感じたようだ。そりゃ蛍ちゃんも元気になるわ。

 サッカーを一緒にしてた姿を思い出した。確かに彼女も元気いっぱい、復活してた。


 うん?

 オレ今、こんなことまで考える余裕があるのか。お父さん、すげーな。


「ご覧の通り、うちの悟は救急車で病院に運ばれました。いや、幼稚園から一報をもらった時は、本当に驚きました。それはもうパニックですよ。老いた悟の祖母などは今も起き上がれないぐらいですよ」

「それは申し訳ないです」


 何度も何度も謝らせたいのだろう。

 そしてお父さんも何度も何度も謝るだろう。それ以上一歩も引かないために。

 お父さんも差し出してたお見舞い金を懐にしまった。


 このタイミングで仕舞いますか。


 木下の婆ちゃん伏してるんだろ。本当かどうかは知らないけれど。それならここは是非にとお見舞い金を更にねじ込んでくのが常套手段だと思うのだが、すげーな。


 仕舞っちゃったよ。


 そして向こうは仕舞ったことにも気づいてない。

 お父さんは頭を下げた時にさりげなく懐に手をやって仕舞ったからだ。


「しかし最上さんも大変ですな。幼稚園児にして子供に傷害を負わせるような息子を持つとは。こんなことしでかされたら、会社を辞めないといけなくなるんじゃないですか?」

「それはまた何故」

「簡単です。噂がひそひそと囁かれるでしょうからな。そんな中で勤めるのは大変じゃないですか」


 枡屋をどうにかしようってか? 江戸時代からつづく老舗を、嵌め手で追い込もうとするのか?

 そりゃ店の周りで、あそこの息子がと嫌がらせをされたら、いや、木下のことだから毎日のようにやるだろうな。


「さて、どうでしょう。先のことはわかりませんな」


 木下がお父さんを睨み上げた。

「店を畳めってことだろ、わかれよバカ」


 息子も口が悪い。よく大人に向かってそんな口をきけるもんだ。

 怒らせたいのか? それで(とど)めとするわけか?


 ふ~む。


 いわば江戸時代に藩主から上意討ちを命じられ、討手として相手を(たお)し、斃した相手を作法に則り急所に致命傷をほどこす、いわゆる隠し(とど)めってやつだな。

 でもコイツがそんな上等なことを知ってるわけないか。ただの教唆、誘導だな。


 でもお父さんは怒らない。そんなのに乗らずに当たり前のように家主に尋ねる。

 決めるのは家主だ。

 家主同士の話し合いなのだから。


「木下さんもそうお考えで?」

「世間の常識ではどうでしょうかね」

「世間ですか」

「ええ。世間です。なんならマスコミにこの話を流してもいいですしね。

 例えば子供を救急車で病院送りにしたそこの親は、即座にこの一件をもみ消そうとお金を渡そうとしたとか。そんなもみ消しを図る親と、息子にまだひと言も謝っていない子供だとか」


「いや、オレは謝りましたよ、家主のあなたに。

 あなたが家主だから」


 オレは間髪を入れずに言った。それは絶対に違うから。

 そもそもこの人は家主同士が話すという意味をわかってるのだろうか、と思う。

 例えば世の中で社長同士が話すことの意味合いがどういうものか、大抵の人はちゃんと理解してるだろうが、この人場合はどうだろう。


 一般に──、


 社長同士の話し合いが行われるということは、社長同士の決済ということを意味する。全ての話がそこで決する。その意味合いしかない。だがその意味合いがわかってるんだろうか。

 でなければお父さんがここに来る意味などないんだよね。

 そして木下の親父、アンタがここでオレたちを相手にする意味もない。

 社長が決めた後で、ゴタゴタごねる社員など、正直意味がわからない。

 それなのにオレに振るのか、と。


「私は最上さんの息子のキミに言ったんだよ。聞こえなかったのかね」


 ふむ。息子に、か。

 どうしてもそれをさせたいらしい。

 ならば致し方ない。


「ごめんよ木下、オレが強くて。

 やられちゃったね、オレに」


 木下が顔を真っ赤にした。

 お腹を押さえてたんじゃないのか? 痛いんだろ? お手々が離れてるぜ?


「ふふ、ふふふふ。あはははは。謝る気なんて全くないんじゃないか、最上さん」

「いや、謝ってますよ。私の息子は」

「では会社を辞めていただきましょうか。マスコミに話します。残念だ。枡屋はここらへんでは愛された和菓子屋だったのに」

「枡屋を潰すと?」

「さあ、どうでしょう。でもそうなるでしょうかね」

「抵抗はします」

「財閥で動きますよ、そうなったら。私は海援製紙に勤めてますからね」


 海援グループを動かすというのか?

 若過ぎてそこまでの権力などないだろうに。


「労組の先輩はこういう話が大好きなんでね」


 あ、そういうことか。

 その筋の人なのね。まともな労組なら非情に崇高な使命だと思うが、目的がよりよい世界へ進めるためじゃないなら、そりゃもうスタートラインが違う。


 それにしても、手札をどんどん切ってくる。(とど)めを刺しに来てるつもりなんだろうな。


 すると木下家の門から聞き知った女の子の声がした。


「あ、よかった、パパ。間に合ったよ」


 土井垣桜ちゃんだった。

 オレの通う薫風幼稚園のくじら組のクラスメート。そんでもって木下と同じ天才グループに属するオレに意地悪するのが大好きな女の子。


 正直まずい子が来たと思った。

 ここで木下の肩を持たれてどんどん意地悪されたら、せっかく戦ってくれてるお父さんも二対一で困ってしまうだろう。


「よう土井垣。どうしたんだ?」

 木下が楽しそうに土井垣桜ちゃんに話しかけた。思わぬ援軍の到着にホクホク顔だ。

「こんばんは。木下くん」

 それからオレを見て、真司くんも、と言った。


 ついでのご挨拶、ありがとうございます。


「突然に申し訳ありません。そこの桜の父、土井垣隆です」


 ところで、と土井垣桜ちゃんのお父さんが改めて口を開いた。


「木下さんはご存知ですか? これまでお宅の悟くんと最上さんとこの真司くんとの間で起きていたこと」


「さて。私は息子が救急車で病院送りにされたと聞いて慌てましたからね。それ以外のことは知りません。何せ病院に駆けつけた時には、息子は緊急治療室に運ばれてたものですから」


「そうですか」


「実はお耳に入れずらい事だから、今まで誰も言ってなかったようですが、この二人の間にはこれまで色々あったようなんです」


「それの報復で息子を病院送りですか。いやはや、何ともまあ凶悪な」


「いやいや。事はそんな単純ではないのです。実は、今までお宅の悟くんが、最上さんとこの真司くんを虐めてたのです」


「…………」

 返事はなかった。ただ不機嫌になっていた。その情報は要らないと。


 そうして土井垣桜ちゃんのお父さんは木下の親父の醸し出す空気を読まずに、敢えて事実を告げた。


 曰く──、


 木下が何度もオレをぶん殴ってたこと、思い切り石を頭に投げつけて血を流させたことを。

 脚色なく本当のことだけを話してた。そして、その時は大騒ぎになったが、オレが後輩たちにお散歩の時間が薫風幼稚園からなくなったら可哀相だから、石をぶつけられたけど先生には報告しないという決断をし、それをくじら組のみんなにお願いしてたことなどを、懇切丁寧に説明してくれた。


 それを聞いた木下の親父の顔は見物(みもの)だった。初めて驚いた顔をしていた。


 そして今日もオレに後ろからいきなりドロップキックをかましたこと、倒れたオレの腹を蹴り上げたこと。

 それもきちんと説明した。


 ちなみにこの(くだり)では、うちのお父さんも驚いていた。


 だが土井垣パパはそれだけに留まらず、園庭で遊んでた園児のほとんどが怒ってて、明日にも、先生にその事を訴える動きを父母会を通して計画していることも伝えた。


「ちなみにくじら組の子達は、真司くんに対し、こう言ってます。

 これだけやられたけどとか、

 理不尽に暴力を振るわれてたけどとか、

 それでもオレが今まで木下を殴ったことはないと、声を揃えてたそうですよ」


 オレは木下を見た。

 木下は慌ててお腹を押さえた。

 ゴメンよ。オレのが強くて。

 そういう小技で来られても、もうオレの心は小揺(こゆ)るぎもしないわ。


 思ったより強いみたいだ、オレの心は。


 そうしてオレは土井垣桜ちゃんを見た。

 土井垣桜ちゃんは目が合った途端に逸らしてしまって、相変わらずツンツンしてた。

 木下の肩を持つつもりが、父母会の思わぬ動きで口を挟むことが出来なかったと言ったところだろうか。


 こうまで意地悪されると、もう手に負えん。

 それとも知らないところでオレが彼女に何かをしてしまったのだろうか。


 ありそうだな。オレのことだし。お調子者だし。


 するとウチのお父さんが土井垣パパの話を引き継いだ。

 いいぞ。流れを逃すな。


「いや、土井垣さん。これは思わぬことをお聞きました。そんなことになってたのですか」

「はい。

 ちなみに今回の悟くんを投げた件ですけど、これも悟くんがとある女子を蹴ってしまって、その虐めてるのを真司くんが止めに入って、その止めに入った真司くんにも悟くんが殴りかかったと、そういう話です。

 そして真司くんは、避けて、悟くんの手を捕まえて、とっさに柔道の技を出してしまったみたいですね。でも緑川くんによると、それも怪我をさせないために、わざわざ投げ捨てないでキレイに回してあげてたそうですよ」


「……そうですか」


 思わぬ形でお父さんも言質(げんち)を得たようだ。そのまま木下親父に向き合う。


「さて、木下さん」


 ウチのお父さんが呼びかけたが、返事をせずに木下の親父はお父さんを睨みつけた。

 ここに来てよくそんな顔が出来ると思う。社会性がないというか、自分が悪いなどとは一顧だにしない人なんだろうな。


「いや、悟くんのお父さん。あなた、これ、あなたの論理だと普通に会社を辞めないといけなくなると思いますよ」


 木下の親父が心の底からムッとした。だが何も言えずに顔を真っ赤にしてる。


「ブーメラン決めたみたいなこと言ってんじゃねえ。やられたのは俺だ」

 木下が吠えた。


 確かにそうだ。


 でも、そこはもう響かないだろ。お前が常にオレをぶん殴ってきたんだから。

 一回やり返されたぐらいでガタガタ言うなと、よその親ならみんな言うぞ。

 しかし、おおっ、て感じだわ。これがブーメランか。ブーメランなのか。

 こんな風にキレイに決まる物なんだな。初めて見た。


 するとウチのお父さんが腕を組んで、ふうむ。土井垣さん、と呼んだ。

 見事に木下のことはスルーしてる。

 そりゃそうだ。今は家主同士で話してるのだから。


 はい、と返事した土井垣パパに改めてウチのお父さんが尋ねる。


「くじら組の子達は、悟くんがうちの子を虐めるのを、何回ぐらい見たとか言ってますか? そうでなければ父母会を動かそうとまでは子供達も思わないと思うのですが」


 ここで土井垣桜ちゃんに聞かないところがウチのお父さんだ。

 木下からの怨嗟(えんさ)が彼女に行ってしまうからね。

 でもお父さんは知らないけど、彼女が味方してくれるとは限らないんだけどね。それはこの際黙っておこう。うむ。


「そうですね。ほぼ毎日。そう聞いてます」

「おい、本当か、真司」


 オレがそこまでやられてるとは思ってなかったらしい。

 いや、我慢してることかな? オレがやり返さずにいること……。

 まあいいや。


「毎日っていうか、隙を見せたらいつでもって感じかな。なぁ木下?」

「うるせぇ、バーカ」

「こんな感じ。口を開けばいっつも喧嘩売ってくるの、コイツ」


 土井垣パパが口を開いた。

「こう言っては何ですが、木下さん。被害を受けた子たちはいっぱい居ますよ。その子たちが、もう我慢しないという流れになってます」


 オレも口を出す。木下にお返しだ。


「言ったら何だけど、そこの土井垣桜ちゃんも木下に命令されて、お友達の食器を隠す役をやらされたりしてるからね」


「おい嘘を言うな」


「嘘は言ってないぞ。言っただろう海上公園の防犯ビデオに全て映ってたって。おまけにおまえ、あれを警察に届ければ一発で傷害事件だぞ」


 オレはお父さんを見た。


「お父さん、海上公園の防犯ビデオだ。オレは管理人さんに頼んで取り置きしてもらってる。管理人さんには警察に届けるよう勧められた。

 でも我慢したんだ。木下への抑止力になると思ってたからね。

 結果はこんな感じだけど」


「いや。よく我慢した。正直見直したぞ。しかしそうか。証拠があるのか」


 オレは力強く頷いた。

 するとお父さんが、するっと自然体で言った。

 威嚇、ねちっこさ、そんな姿を木下の親父から見せられてたオレは、とっても新鮮だった。そして誇らしかった。

 こんな大人になりたいとオレは思った。

 お父さんはこう言ったのだ。


「さて、木下さん。私は諸々のことを公にしようと思う。息子を守るのは私の仕事だ。そして、育て上げるのは最も大事な仕事だ。

 あなたはどんな教育を息子に施しますか?」


 木下の親父はしばらく答えることが出来なかった。


 うちのお父さんとは覚悟の度合いが低すぎると思った。

 こんなこともすぐに決断出来ないのかと、人を(さいな)む時はねちっこいくせに、自分に降りかかると何も出来ない大人。

 こんな大人にはなりたくないと思った。



「うちの息子を、悟を殴るか。本気で一発殴る。それで事を収めてはくれないかな」


 随分とまぁ調子のいいことを言ってるが、さて。


「でも、オレが本気で殴ると木下が死んじゃうから殴れません」


「じゃあ私を殴れ」


 いやいやいや。いいカッコしたいんだろうけど、それは卑怯だろ。


「おい真司」

「お父さんはちょっと黙ってて。家主同士の話なのに、その事を欠片もわかってないからね、この人。正直、想像以上に難儀な人だった」


「てめぇ、俺の親に向かって難儀だと」

「ちょっと黙ってろ。お前の親父の卑怯な振る舞いだけでも苛ついてるのに、お前まで…………はぁ、もういい」


「おい最上っ」

 木下が呼んだがオレは無視した。

 親父さんに向かって言う。


「木下の親父さん、これを見てから決めて下さい。オレが木下を殺してしまうといった言葉の意味を。それをそんな軽く受け止められちゃ困っちゃうんですよ。

 愚かすぎて」


 オレは鉄のインゴットを門前の目につかないところにダブルで創造する。


「あ、丁度いいのがありますね」


 オレはその鉄のインゴットを拾って来て、木下の親父に手渡す。


「持って下さい」


 ズシリとした重さに木下の親父が驚く。


「それを息子さんにも持たせてやって下さいな」


 木下の親父さんが鉄のインゴットを木下に手渡す。受け取った木下が、オレがこんな重い物を持ってたのかと、ちょっと驚いたようだ。表情がそう動いてた。

 しかし持たれたままじゃ物事が進まない。


「おい、寄越せ」


 オレが言うと、木下がムッとして鉄のインゴットを両手で持ち上げ、それを下に向けて叩きつけるようにオレに渡そうとする。


「あっ」


 土井垣さんが驚いてたが、うちのお父さんは静かに見守ってくれていた。

 そして乱暴どころか怪我させるつもりで叩き渡された鉄のインゴットを、オレは微動だにせずガッチリ受け止めた。しかも片手だ。片手でガッチリと鉄のインゴットをつかみ取った。


 ダブルの体力強化だ。

 筋繊維を太く多くし、骨と筋を強化する。

 おかげで毛ほども衝撃を感じてもない。楽勝だった。

 ダブルの本質である、ドッペルゲンガーを作り出すのに比べたら、屁のカッパのような強化策だ。


「「「「「「!」」」」」」


 オレ以外のみんなが息を飲んだ。だがそんな事はどうでもいい。


 オレはその鉄のインゴットを足下に置いた。


「見てて下さい」


 そう言って軽くげんこつを構えると、


「フッ」


 と無造作に鉄のインゴットを殴りつけた。


 その鉄のインゴットを見て誰もが唖然とする中、オレは鉄のインゴットを手にとって持ち上げ、オレのげんこつがもたらした、その痕跡を見せた。


 オレの拳の形になって、鉄が豆腐のように柔らかい物のように、奥深くまでめりこみ、そのへこんだ痕にクッキリとオレの拳の形が残っていた。オレはオレの拳がもたらしたその威力を、木下の親父にしっかり見せて上げた。


「こうなりますけどいいですか。いいならあなたを殴ります。心臓でも、肺でも、お腹でもいいですよ」


 このオレの許諾申請に──、


 木下の親父はなかなか答えなかった。

 ここを訪れた時のように待たされる。

 五分待ち、もう五分待ち、そういったわざと遅らせて嫌がらせをした木下家の男達が、今や別の意味で黙りこくってオレに返事を全く返さなかった。

 オレは今この時の木下の顔を見てみたい誘惑にもかられた。だが、それは我慢した。


 やがて、どれだけの葛藤や逡巡があったのかは知らないが、木下の親父が返事した。


「やめておく」


 ひと言だけだった。


 それならそれで他に言うこともあるだろうが、コイツ、自分の事となると途端に(だんま)りを決め込むよな。


 オレが引導を渡そうとしたら、頭をガシッと抑えられた。


「真司。お前の言葉をいうなら、家主は私だ」

「……おっけ~」


 するとお父さんに髪の毛をワシャワシャと撫でられながら、えらいぞと誉められた。


 さて、木下さん、とお父さんが言った。

 子供の前では言いたくないが、とも前置きし、それでも言った。


「あなたは三歳の子供に殴られることも恐れた卑怯者だ」


 とお父さんは傷口を明確にした。


 そして淡々と告げた。

 最上家では今後くじら組で父母会の動きがあったとしても、自分たちの件に関しては一切何も、あなたに問わない。


「それは今後のことも、なのか」

「そうだと言ってるでしょう。この件に関しては土井垣さんが証人だ。申し訳ないがお願い出来ますか、土井垣さん」

「構いません」


 そうか。今後のことも、か。土井垣桜ちゃんパパが証人か。

 同じ天才グループだし、抑止力が絵里ちゃんと土井垣桜ちゃんとでダブルに増えたわけだな。にやり。


「そうそう。それとですね、真司が庇った悟くんに虐められて蹴られた真理ちゃんという女の子。

 彼女は金沢財閥の直系の娘さんですからね」


 そのひと言に木下の親父が目を見開いた。


「真理ちゃんは、悟くんのいきなりの暴力に驚いて、そうとうショックを受けたようですからね」


「そ、それは」

 本当かとは父は訊かせなかった。自分の言葉をそのままつづける。


「あなたが財閥を動かそうとしたら、逆に財閥のトップ同士の話で、火の粉が降りかかるどころじゃなくなると思いますよ。彼女の親が出て来ないことを、祈ったらどうです。もっともこのことを嘘か本当か、それをどう思うかは、あなた次第ですがね」


 それでは失礼しますとお父さんが身を翻して、木下家を後にした。

 オレも、じゃあね木下と手を振って、お父さんの後を追ったが、木下からは最後まで何の言葉も聞けなかった。


 お父さんと一緒に歩き、辻をひとつ折れたところでお父さんが立ち止まった。

 そしてすぐにそこへ土井垣桜ちゃんと彼女のお父さんがやって来た。

 お父さんは彼女たちを待ってたらしい。


 朗らかに手を挙げて呼び止める。


「土井垣さん。今日は来てくれてありがとうございます。本当に、とても助かりました」

「いえいえ、こちらこそ。

 こちらこそ父母会で初江さんにはお世話になってますから。初江さんには本当に助けてもらったんですよ。浅野先生も紹介してもらえましたし」


 浅野の先生?


「浅野の小父さんを?」


 そうだよ、と土井垣パパが答えてくれた。


「実は今度、私は中国に赴任することになりましてね。それで日本人会のこととか、現地の状況とか、浅野先生にいろいろと骨を折ってもらえたんだ。本当に有り難いことです。これで安心できますし」


 そうか。浅野の小父さんが動いたとなれば、そこに誰が来るのか、周りの中国の人は意識するだろうし、確か今、浅野の小父さんは財務大臣だったか。その前は外務大臣だったし、そんな政治家が手ずから動いてくれたら、安心感は増すだろう。


 外国で一人で暮らす。


 ちょっと想像出来ないな。知らないところに根を下ろすのは慎重になって当然だ。自分に置き換えたらちょっとおっかない。中国料理はものすごい興味あるけど。

 てかうまいもんな。

 そんなに悪くないか。むしろいいか。


 そこで気づいた。


「へー。じゃあ土井垣桜ちゃんも寂しくなるね。お父さんが中国行っちゃうんじゃ」


 今日はお父さんはすごいって事をいっぱい知った日だった。

 そして蛍ちゃんの姿だって見てた。

 そういう頼りがいのあるお父さんを、土井垣桜ちゃんはもうすぐお見送りすることになるのか。


「大変だね、土井垣桜ちゃん。お父さんにあんまり会えなくなるなんて」


 すると土井垣パパが首を振った。


「いや、真司くん。桜も私が赴任した三ヶ月後には、一緒に中国に来ることになってるんだよ」


「え?」


 土井垣パパは何を言った?

 え? 土井垣桜ちゃんが転園する話なのか?

 え? 三ヶ月後には中国に? 何それ。マジかよ。

 何だかんだで結構いっぱい話してる子なのに。

 そういう事がもうなくなっちゃうの?


 確実なのは、土井垣桜ちゃんのお父さんは中国にもうすぐ赴任する。そのこと。


 そして土井垣桜ちゃんは、全くオレに目を合わせてくれなかった。


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