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ダブル  作者: 茶の字
第1章 幼稚園時代
18/182

第18話 笹島道場

 五月の間に一度、緑川くんの通う笹島道場をお母さんと一緒に見学した。

 オレはてっきり柔道場に通ってる生徒というのは男の子ばかりだろうと思ってたから、男の子より女の子のほうが多いことを()の当たりにして、それはもうビックリした。柔道なんて痛みをともなう競技は、女の子より男の子の方が多いと勝手に思い込んでいたわけだ。

 でも生徒さん達のお稽古を見ていると、緑川くんはもちろん、みんなも笑顔で柔道に打ち込んでるので、是非この道場に通いたいとオレは思った。

 しかし通いたいからと言ってすぐに通えるわけでもなく、お月謝を払う関係上、五月の途中からではなく、月初めの六月から、入会させてもらうことになった。

 そしてこれが幸いした。柔道は裸でする競技ではなく、胴着を着てやる競技だ。だからオレにも胴着と帯が必要になるわけだが、オレは当然そんな高価な物は持ってない。だから新たに胴着を買う必要があった。もしもそのまま笹島道場に通うことになってたら、オレは危うく胴着なしで柔道をやるところだった。

 そしてその新しい胴着が必要な事態に、親に対して心苦しくなったりもするのだ。それはオレたちが双子だと言うことがある。

 双子は服を着回せないのだ。普通の兄弟なら、兄から弟へと服は受け継がれて行く。成長期だからあっという間に大きくなって着れなくなるわけだから、兄弟で着回すのが普通なのだ。だがその手がオレの両親は使えない。オレたちが双子だからだ。

 結果、必要になったその都度服を購入するわけだから、お財布事情が大変なことになる。なにせ一人分ではなく常に二人分かかるからだ。子供服の値段を見て目を剥いたことがあるオレは、この効率の悪さには申し訳なさがあった。

 着回せないだけでもお金が大変なのに、それが二人分の服となると、それはもう心苦しくもなる。

 そんなオレに、緑川くんが古い胴着ならあげるよと薫風幼稚園で言ってくれた。

 なので着れなくなった緑川くんの古い胴着をもらえると晩ご飯時に家族みんなに話したら、爺ちゃんが思い出の品はもらってはいけない、きちんと自分用のを買いなさいと諭され、その流れで爺ちゃんがオレに胴着を買ってくれることとなった。

 六月まで間があって良かったと安堵したのは、こういう理由だった。


 そうして五月は矢のように過ぎ去り、六月になった。

 オレは早速笹島道場へと通うわけだが、その道場通いの初日に、なぜか道場まで送ってくれるのは一緒に道場を見学したお母さんではなく、胴着を買ってくれた爺ちゃんとなっていた。

 弟さまがスイミングに通い出したから、お母さんはそっちへ連れて行かなければならなかったというのもあるのだが、まさか爺ちゃんが送迎してくれるとは思わなかった。

 ちなみにお父さんは出張なので、必然的に爺ちゃんとなるのも、これも致し方ない。

 その爺ちゃんだが、たった今、オレを蒲田にある道場まで車で連れてってくれている。

 爺ちゃんは上機嫌で車を運転してた。オレの送迎だけでなく、他にも楽しみにしてる事があるからだろう。

 それは胴着を買ってくれるとなった話の際に、緑川くんが笹島道場に通ってて、その道場の先生の名前が笹島健人だと伝えられたことにあるのだろう。先生の名に、爺ちゃんに何か思い当たるところがあったらしい。

 爺ちゃんは懐かしい名前を聞いたなと言っていた。なので、そのこともあってお稽古初日の送迎を爺ちゃんが任されたのだろう。

 もっとも、お母さんも出来ることなら後からでも見に行くとは言っていたけれど。

 まあでも、お母さんは弟さまをスイミングクラブに連れてってあげてくれたまえ。

 たぶんそこで梅子ちゃんと秋穂ちゃんと彩花ちゃんのお母さんに会うでしょう。くじら組でそんなことを話してたから。こちらに回ってくる余裕などないと思うよ。

 ちなみに絵里ちゃんと土井垣桜ちゃんの午後のクラスは定員いっぱいだったので、そこに弟さま達が入ることは叶わなかった。





 柔道場に入ると、先生が生徒に囲まれていた。

「やっぱりあいつだな。面影がある」

 爺ちゃんがそんなことを呟いた。

 どうやら爺ちゃんの同級生らしい。


「背筋がスッとして、さすが柔道家って感じだよね。爺ちゃんより若く見えるのは、鍛えてるからかな」

「バカを言え。儂がバカの相手に苦労しとるからじゃ」


 バカ?

 もしかしてオレに言ったのか? バカを言えと言われたが、ん?


「あ、議会でか。なるほど」

 オレのことではあるまい。孫をバカと呼ぶ爺ちゃんなど存在しない。してはいけない。


 ふむ。


 確かにすなおな子供相手と、難癖しかつけてこない野党相手とでは、かかる負荷が違うだろう。

 あいつら報道されないと思って、好き放題にめちゃくちゃやるからな。主に爺ちゃんの悪口とか陰口とか、手違いという名の陰湿な嫌がらせとか、いろいろだ。特に最近は爺ちゃんが議長をしてるので、その風当たりが強いらしい。


「議会は再来週じゃ。委員会のほうだ」

「委員会なんてあるんだ」


 その委員会とやらが何の委員会かは知らないが、触れるのはやめておこう。

 珍しくオレの前で爺ちゃんがキリッとした顔を見せている。

 むかついても儂がやらねばならぬと使命感に燃えている時の顔だ。普段は好々爺ぶりが目立つ爺ちゃんだが、時折スイッチが入って、こんな顔を見せる。そんな時に見せるこういう気合いの入った顔は、オレは好きだ。

 おそらく今、都議会では、相手の正義と爺ちゃんの正義がぶつかってる最中なのだろう。そのぶつかり合いで爺ちゃんが引く気がないのは、爺ちゃんは選挙区で圧勝し、より多くの人から付託された大義があるからなのだろう。圧倒的に勝った与党の爺ちゃんが、ギリギリで勝った少数野党においそれと引いたら民主主義の道理から外れてしまうってもんだ。

 ただ、そこら辺を弁えないで、向こうは声ばかり大きくして(わめ)き立てるから(たち)が悪い。扱いが面倒臭いのだ。そしてそれって議会制民主主義の欠点なんじゃないのと思ったりもする。

 少ない数でも一対一に持ち込むってのは、少数派にとっては有効だけど。いや待てよ。一対多になってるのかな? 選挙区で圧勝した爺ちゃんが何故か一で、少ない票数でなんとか勝った相手が束になってかかってくる。そして爺ちゃんは周りを囲まれて集中砲火を受けるとか、そういうことか。笑えない状況だな。

 爺ちゃん、そうやって袋叩きにされてるのか……。


「向こうの手は各個撃破ってやつですかな?」

「うん? 何を言っとるんじゃ?」

「何でもない、爺ちゃん頑張って」

「阿呆。頑張るのはお前じゃ。しっかり励め。心身を鍛えようと思った以上、しっかり鍛え上げろ」

 なるほど。場は弁えなければならない。ここは柔道場で、オレはその柔道場に手を引かれて連れて来てもらった身でもある。

「りょうか~い」

 バカとは言われなかったが、阿呆とは言われちまったぜ。いえ~い。


 オレがキョロキョロと道場を観てると、門下生がオレと爺ちゃんを遠巻きに眺めていた。

 こちらが興味を示せば、向こうも興味を示してくるんだな。

 これが未知との遭遇ってやつなのだろうか。まあいい。

 見学の時は、お母さんと一緒になって笹島先生の座る一段高いところから見てたから、オレを覚えてる人もいるだろうけど、覚えてるだけじゃ話しかけて来ないよなぁ。むしろオレから入ってかないといけないよな。

 そう思ってると、お爺ちゃん、こんにちはーと聞き慣れた声が後ろからした。

「おお、こんにちは、緑川くん。今日からうちの孫も通うことになったから、よろしく頼むよ」

「はい。大丈夫です。真ちゃん、こっちこっち」

 そう言って爺ちゃんにペコリと頭を下げると、緑川くんが一緒に着替えようとオレを更衣室に連れて行ってくれた。これからこの着替える場所のこととか笹島道場の諸々のことをオレに教えてくれるらしい。先生からそう言われたそうだ。


「真ちゃんは帯しめた?」

「家でやってみたけど、合ってるのかわからない」


 実は家で胴着を試しに着た。着たのだが、家ではわざと蝶結びにして、はい、こんなんできましたーと家族の前で披露したのだ。


「そんな締め方があるか」「ぐちゃぐちゃじゃない」「ひどい」


 と、家族からは不評だった。

 ふつうの三歳児なら蝶結びなんか知らないぞ。故に会心の蝶結びだとオレは思ったんだが、そういうことではないらしい。

 すると同じく六月からスイミングクラブに通うことになった弟さまが、パンツを脱ぎ、競泳パンツを手にすると、オレはきちんと履けるぜ~とか、履けるぜアピールをやり出したんで、オレも負けじと胴着もパンツも脱いで、

「オレも胴着は着れるぜ~」

 って着たふりごっこを始め、二人でふるちんになって踊った。


「あんたらバカ過ぎ」「ノリが悪ガキだな」「確かに。宗也と哲也もこんな小僧だったよね」

「じゃあ小僧の子象~」


 おちんちんを右に左にぴたんぴたん振り回したら、爺ちゃんと婆ちゃんが涙を流して笑い転げた。お母さんもお腹を抱えてるので、オレたち二人は調子に乗ってずっとふるちんで踊りつづけた。

 だから胴着は着たけど、実は、正確な結び方とかは練習する機会は失った。なのでオレには結び方がわからない。弟さまは競泳パンツだからそんな心配は要らないけれど、オレは緑川くんに訊かれて、ちょっとは練習しとけばよかったと反省した。


 ところでこの胴着なのだが、字に書くと道着なのか胴着なのかオレにはわからなかったので、過日幼稚園にてオレは緑川くんに聞いていた。

 そうしたら、昔は裸で柔道をする頃があったらしく、その頃の柔道は、着ている服はズボンの下だけで、上半身は裸だったそうだ。世紀末ですな。

 なにが世紀末かわからないけれども、世紀末なのだ。そこはノリだ。

 で、投げ技が増えたからか、女の子も習うようになったからか、そこらへんは緑川くんにもわからなかったけれど、柔道の技の発展と競技人口が増えるにつれて上着も着るようになり、胴体にも着衣を着るということで、胴着というようになったらしい。

 ちなみに誰にこの話を聞いたのか尋ねたら、普段一緒に柔道を練習してる小学生のお姉さんから聞いたそうだ。


 と言うことで、その胴着を着る。オレはとりあえずぱっぱと服を脱いでパンツいっちょになり、新品でゴワゴワな胴着を身につけた。

 とりあえず後で先生に教わるだろうし、蝶結びはしないで帯をギュッと締めてみる。そしたら玉結びが二個になっちゃって、それはちがうよと緑川くんが手直ししてくれた。ぐちゃぐちゃな結び目に緑川くんが苦労してる。こんな迷惑かけるなら家で本当の結び方を調べとけばよかった。


 ごめんよ緑川くん、ありがとう。


 どうせ道場で教わるからと油断していたオレのせいです。

 こういうのは高直(こうじき)なお月謝にも含まれてると思い、笹島先生のお仕事だと思ってたから、直伝(じきでん)だぁとか、帯の免許皆伝だぁとか、オレと弟さまとで盛り上がったりしてたんだけど、キミはオレの予想を軽く超えてくるよね。お友達だからお月謝ももらってないのに直してくれてるんんでしょ。いい奴だよなぁ、緑川くん。とりあえずリーダー万歳。


 そんないい奴緑川くんから帯の結び方をきちんと習い、その後は便所の位置や、練習の前後にやる掃除の話を聞いて、道場に戻った。

 道場では一段高いところで爺ちゃんが笹島先生と話し込んでいた。時折笹島先生が笑っていて、穏やかな雰囲気だ。

「先生、おはようございます」

 緑川くんが挨拶したので、それに合わせてオレも挨拶する。

「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

「おはよう緑川。それと、おはよう最上。今日から頑張れ」

「はい」

「それと緑川。緑川は最上の友達なんだよな。今日は最上に色々と教えてやってくれ」

「はい」

 と、まるでこれから教えるかのように緑川くんが返事してるが、もうすでに色々教えてもらってるんだよな。

「うむ。それから最上。お前は今日が初日だ。基本的なことは教えるが、困ったら緑川に相談してもいいからな。緊張せずにがんばりなさい」

「はい」

 オレは頭をペコリと下げ、緑川くんを追って、その場を後にした。


 練習前にみんなが道場の真ん中に集まって輪になってる。てっきりその輪の中にオレは連れてかれるのかと思ってたのだが、緑川くんはオレを道場の端っこに連れてった。何か話すことがあるらしい。


「いい? 真ちゃん」

「うん」


 そうしてオレは、まずは緑川くんに笹島道場での決め事を教わることになった。

 まず道場に来て最初にすることは先生にご挨拶、先生がいなかったら上座の一段高いところ、ここを見所(けんじょ)と言うらしいが、その見所の神棚に(まつ)られてる道場の神様にご挨拶する。それがここ笹島道場の決まり事らしい。

 そしてその神様のいる方向こそが、いわゆる道場の正面と言うらしい。


 正面に向かって礼。

 そう言われたら道場の正面に向かって礼をすればいいとのこと。

 なかなか勉強になった。


 オレは神棚を見上げる。

 神棚に捧げられてる神具は簡素だが威厳があった。枯れた美とでも言うのだろうか。佇まいが美しかった。そしてその神具のなかでも、特にオレが気にかかったのは酒杯だった。

 なんだろう。あれには不思議な感覚がある。

「あの酒杯、不思議だね」

「神棚にお(そな)えした、神様への供物(くもつ)だしね」

 供物って言うのかな? お供え物ってうちでは言ってるけど。

「うん、よくわからんけど、なるほどなぁ」


 つまり神様が宿ってるんじゃなくて、あれには人の祈りが込められてるってことだろう。そういうのも、話として理解するのとは別に、感覚でわかっちゃうのだ。たぶんこれはダブルのせいだろう。

 海上公園での一件で直感した、感情でダブルの威力が強くなる法則が本当なら、感情に気配を感じるのもありえる気がした。

 いやでも、そんなことになったら、人の世は感情だらけだし、もっといろんな気配を感じてなきゃおかしいだろうか。うん。おかしいな。

 なら何だろう。

 オレは再び酒杯を観た。静謐に、神棚の一部として、変わらず酒杯はそこにある。

 だが何かを感じる。まだオレが言語化できない何かがあそこにはある。

 不思議な酒杯だ。解析してみたい。だけど、あそこまでは手が届かないや。それ以前に不敬か。

 もし仮に初めて来た笹島道場で、いきなり神棚の酒に手をつけたりしたら、とんだうつけ者が入会したぞと、そんな噂が立ちそうだ。それはご免こうむりたい。

 そんなたたずむオレを見て、緑川くんは特に質問が来ないと判断して、道場をいったん出ると、オレたちが使う出入り口は帰宅の際には左に折れるが、今回は右に折れ、更にその奥を紹介してくれた。

 いわゆる笹島先生の家の母屋につづく廊下があり、その手前にはシャワー室があった。これらの普段使う施設を教えてもらって、笹島道場の大体の構造はわかった。

 シャワー室が、男子の更衣室と便所から離れてるのは、元は一つしかなかったのが、男女と利便性を考えて、女子はこれまで通りそのままにして、男子だけ向こうに更衣室と便所を建て増ししたんだろうな。


「真ちゃん、案内はこんな感じかな。女子更衣室と女子トイレは案内しなかったけど」

「あはは。そうだね。でも案内されても困るから別にいいよ。さて、と…………」

「もうちょっと様子を見る? それとも先生呼んで教えてもらう?」

「そうだね。じゃあ基本を教えてもらおうかな」

「たぶん受け身だよ。終わるまでずっとやることになるから、もうちょっと待った方がいいかも」

「問題あるの?」

「今からだと終わるまで二時間。その間ずっと受け身ってのはキツイと思うんだ。頃合いを見計らって見取り稽古になるかも知れないけど、でも、初日は多分つまらないよ? 痛いし。それで辞めちゃう人もいるんだ」

「受け身か……」

 言われても、やったことないからわからん。だからやるんだけど。

「最初は痛いけど真ちゃんなら出来るさ。つまらなかったら受け身を取りながら、俺とかみんなの方を見て、見取り稽古も出来るからさ。痛い時には少しゆっくりやって、回復させるといいよ」

「それが柔道初心者へ送る知恵なんだね。ありがとう。わかったよ、緑川くん。じゃあ早速先生に教えてもらうよ」

「やるんだ? やっぱすごいよ真ちゃんは。うん。じゃあ頑張ってね」

 ポンポンと肩を叩かれて緑川くんが先生をよびに行った。




 道場の中央で全体の練習が始まった。オレはやり方がわからないので脇にのいて、それらの風景を眺めていたのだが、すぐに笹島先生がオレのもとへとやって来た。

「ちょっと来なさい」

 そしてオレは先生に見所の右端、ちょうど爺ちゃんがいる前に連れてかれて、笹島先生手ずから受け身を教わることとなった。

 それにしても受け身が四種類あるとは知らなかった。そのすべてを先生が一通り実演してくれて、オレはすぐにでもやりたくなった。


「わかるか?」

「はい」

「とりあえず最初はこれをしなさい」

 そういって先生がもう一度後ろ受け身を見せてくれると、自らは見所の中央にもどって行った。

 随分と呆気ないものだと思ったが、先生は全体を見なければならないし、初心者のオレの扱いからしても、保護者である爺ちゃんの前でやるのは極めて合理的だと思う。だがしかし、見所の前というのはみんなの目につくし、ちょっと恥ずかしい気もする。

 しかしうだうだしてるのもみっともないので、まずは基本中の基本、これをやれと言われた後ろ受け身をする。


 スパーンと畳から抜けるような音がした。小学生のお兄さんお姉さんのようなズドンといった重い音がしない。かなり残念だ。オレの軽い体重では三年早いと言われたような物だ。だが、みんながオレの方を見た。

「真ちゃん大丈夫? 痛くない?」

「なんで?」

 どこが痛いんだろう。

「いや、物凄くいい音がしたからさ。最初だから加減がわからないのかもしれないけど、あんまり強くやり過ぎると、背中の皮とか剥けちゃうよ」

「いや、全然強くしてないよ。教わった通り、普通にやっただけだけど」

 そう言って緑川くんが見てる前で、もう一度背中から受け身を取った。


 スパーン。


 また軽く抜ける音が畳からした。軽いけど、この音出すの、ちょっと気持いい。


「ね。教わった通りに出来てるでしょ」

「出来てるけど、真ちゃん、思いっきりやり過ぎてない? そんなふうに受け身に力を入れる人、見たことないんだけど」

「でも緑川くんの音のがもっとすごいじゃん。オレがやってる以上に相手のお姉さんに投げられてない? だからオレも頑張ってこんぐらいな感じでやってみたんだけど」

 すると見所から先生が緑川くんを呼んだ。

「緑川」

「はい」

「好きにさせてやれ」

「はい」

 と返事した緑川くんが練習に戻る。

 先生は見所で隣にいる爺ちゃんにこそっと口を寄せた。

「最上智道、初心者なんだよな」

 先生が爺ちゃんに確認してる。

 爺ちゃんが柔道のじゅの字も知らんと返してるが、当たり前のことである。帯の結び方さえ知らなかったのだ。なのでその後の爺ちゃんの戯れを耳にしたところで、オレももう自分のやるべきことに戻った。


「そっ」


 オレは掛け声をかけて後ろに倒れる。後ろ受け身だ。

 また畳から小気味いい音が道場内に響く。

 先生の言っていたことまんまだが、コツとしては、背中を丸めて頭から落ちないようにして頭を守り、帯の結び目を見ることが味噌だ。

 そして実際にやってみると、帯の結び目を見て受け身を取ると、必然的に頭から落ちることがなくなって、安全に倒れることが出来るということがわかる。

 これ一つするだけで、本当に頭を打つことがない。

 倒れ方ひとつにも長い時をかけて磨き上げられた工夫があるのだ。


 頭というのは大事な部位だ。

 頭を打たないようにするのは、頭を打ったらその後の人生に重大な悪影響が出る恐れがあるから、というのは言われずともわかる。そういうのを未然に防ぐために受け身という技術を学んでるわけだ。


 先生はその他に、肘から落ちるなと言うことと、畳を叩く際の手をひろげる角度というものも教えてくれていた。


 肘から落ちるなと言う注意だが、これは鋭利な肘で畳につくと、衝撃が肘に集中してしまい、最悪衝撃を逃せずに肘が壊れてしまうから、そう教えてくれてるのだろう。そして二つ目の後ろ受け身をする際の手を置く位置も、傘を半分ほど開いたようなというのは、肩に直角にするように手を広げると衝撃が想像以上に逃げないし、まったく広げずに狭めていると、倒れた衝撃が自分の身体に一方的に残るからだろう。このことも実際に試すことが出来た。


 その結果、先生の言う通り、傘を半分広げるくらいが、衝撃を逃がして安全を確保できるもっとも有効な手段だということもわかった。

 これを体験して思ったのは、こういうのは見所で見てる爺ちゃんみたいな年寄りこそ覚えるべき技術だと思った。何せこれを覚えれば、もし仮に転んでもとっさの受け身を取ることが出来、そして受け身が取れれば骨を折ったり、怪我したりと言った、不測の事態を回避することが出来ると思うのだ。

 転ばないことが一番の予防だが、もしも転んでも二段階目の予防線を張ることが出来る。

 そう考えるとオレは、物凄く大事なことを教わってしまった気がする。

 きっとこれが身体操作の基本なのだ。

 そしてこの基本は、この道場に来なければ、ひょっとしたら一生知ることのなかった技術でもある。やばい。なんか練習してて感動してきた。

 感激したオレは、その後なんども後ろ受け身をくり返した。


 何度もなんども一番衝撃を逃がすと思った形を、ひたすら大きな音を立てて繰り返した。ずっとずうっとだ。

 ありがたいことに、この受け身の練習は、家でやったらきっと怒られるだろうけど、道場でやる分にはどれだけドタバタしても怒られない。ならば今のうちに受け身を堪能するしかないではないか。家では出来ないことが、ここでは出来るのだ。出来るだけやらねばもったいない。

 そうして後ろ受け身の形はこの形しかないと言うほど馴染むまでやったのだが、やがて他にも教わった受け身があったことも思い出した。ムズムズする。そっちもやりたくなった。

 後ろ受け身をしろとは言われたが、他の受け身をするなとは言われてない。なのでいっちょやるかと、全ての受け身を試すことにした。


 横受け身にはじまって、前受け身、それから一番のお気に入りとなった前回り受け身、これらをひたすら繰り返してた。

 やってて気づいたことがある。

 畳を叩くと衝撃が畳に伝わってくのがわかる。これは自分も畳の一部になったような感覚だ。オレの中に留まるはずだった衝撃が、畳に流れ出してしまうのだ。

 受け身はこういうことをする技だったのかと、その知恵に舌を巻く。やはり基本という物には意味があるのだ。

 興奮してると、つとオレの横に人の立つ気配がした。


「受け身がうまいな」

「ありがとうございます」

 先生だった。

「本当はもっと早く切り上げさせるつもりだったが、あまりに楽しそうにやってるものでな。つい声をかけるのが遅れた」

「いえ、とっても楽しいです。もっとやってたいぐらいです」

「そうか。ならば試しに投げられてみるか?」


 おおっ、それは願ってもない。この答えに否やはない。


「それはもう是非、お願いしますっ」

 ラッキー。

 試しに投げられると言うことは、自分で受け身をする体勢を作らずに済むということだ。そこまでは誰かがやってくれるのだから。

 と思ってたら、先生がどれと言って、オレの襟をつかんだ。

 これは本当にラッキーだ。

 初日から先生に技を教えてもらえるわけだ。てっきり誰かを呼びつけて、先輩の誰かに投げられるものと思ってたから、これは望外のチャンスだった。オレはこの機会を逃すわけにはいかないとばかりに、先生に投げられまくった。

 すると見所から爺ちゃんの声がする。


「儂の孫を投げおって」「儂の孫に体落としだと」「儂の孫に内股だとっ」「儂の孫に、わしのまごにっ」


(爺ちゃんうるさい)

 オレはこんなに楽しいのに、邪魔をしないでほしい。

 と思ったら先生の技が脳裏に流れこんで来てしまった。

 思わず魂の回廊を開いてしまったと同時に、解析してしまったらしい。


(なになに。爺ちゃんうるさいのか? (あに)さま)

(お前も返事を返すな。うっかりだよ。ついだよ、つい)


 そしてハタと気づく。


(おいおい、何でつながってるんだよ)

(兄さまが魂の回廊を開いたからだろ)

(いや、てか、ここまで届くのかよ。スイミングクラブと柔道場じゃ、結構離れてるだろ)

(何か問題か? そもそも魂に距離なんて関係あるのか?)

(む? そう言われると届いて当然の気がしてくる)

(生まれた時からこんなの呼吸みたいに出来たんだ。むしろ届くのが当然だと思うけど)

(わかった。わかった。てかお前、泳いでるんじゃないのかよ)

(泳いでるよ。雛鳥みたいに親鳥の先生を一生懸命追いかけてる。なかなか楽しいぞ。それよりついって何だよ、ついって)

(それか……)

 確認したら先生の技を理解していた。今やられてるヤツだ。内股だ。

(先生を思わず解析しちまったよ。思わずだ、思わず)

(そうなの? だったらどうせだし柔道の技だけでも(もん)をかけちゃいなよ)

(いや、しかしなぁ)

(おんなじ事だよ。どうせ覚えることだろ)

(そう言われればそうか。まあそうだな)

(だろ? で。そうしとけば、後でオレも教えてもらえるじゃん。オレも兄さまに水泳教えるし)


 それは魅力的な提案だな。


(よっし、わかった。交換条件な)

(おっけ~。これでオレも柔道のわざを遣える)


 どうだろう。家で受け身の練習をしたら、うるさいとお母さんに怒られると思うのだが。まあいいか。工場(こうば)もあるし。夜なら職人さんもいないし、工場でなら怒られもしないだろ。下は土間だから、畳より痛い痛みに耐えられる訓練にもなるし。


 ということなので──。


「先生どんどんお願いします。くるっと回るの、楽しい。できれば全部の技を体験したいです」

「そんなに楽しいか? 苦しい技もあるぞ。痛みも伴うぞ」

「でも先生に教わった方がいいです。いきなり先輩から技をかけられるより、先生からの方が加減してもらえるだろうし、上手だと思うので」

「そうか」

 笹島先生がチラッと身を乗り出して心配してる爺ちゃんに目礼をして、オレの要望に応えてくれた。

「ではまずは手技の基本となる技から体験してみるか」

「はいっ」


 そうしてオレは投げられまくった。時折先生がかけた技とかけてない技を確認して手が止まるが、投げられるのは楽しい。ぐるっと回って受け身するの面白い。

 自分で回転しようと思ったら、それこそ入園式の時に砂場でとんぼを切ったように、相当な助走と勢いがいる。けれども柔道に関して言えば、投げられたら自然と視界と天地がくるりとひっくり返ってしまうのだ。これを面白いと思わなくて何が男の子だ。


 投げられても倒されてもニコニコしてるオレを見て、笹島先生が闊達(かったつ)に笑った。

「はっはっは。そんなに面白いか」

「とってもっ」

 オレが元気よく返事したら、ますます笹島先生は高らかに笑った。

「普通みんな担いで投げたがるもんなんだがな。そうかそうか」

 柔道の先生にしてみたら、オレは毛色が違うのだろうか。けれども無遠慮に目の前で笑われるのは、ちょっとむかつく。

 ならば今このタイミングでしましょうか。丁度先生に掴まれてもいるし。


(もん)


 オレが思うのと同時だった。

 あっという間に対象とした柔道の技が流れこんで来る。

 そして、やはり(もん)は早い。

 先生の技のさらにその奥にある秘訣を、いやこの場合は先生の奥義だろうか、その奥義をあっさり解析しちゃって、連続技の条件とか、感覚とか、表層だけでなく先生の築き上げてきた実体験の柔道の技がより深くわかった。

 これで弟さまとの約束も条件を満たしたわけだが、オレは笑われたこともあって、(もん)をかけても悪い気にならない。

 そう思って内股や体落としの(もん)の情報と実際にかけられてる技の齟齬や精度を比較解析してみたら、投げられてる技がそのまま解析出来ただけだった。先生は投げた時に、すでにきちんとオレに伝えてくれていたのだ。


 なんだろう。この後味の悪さは。


 これはあれだ、創業祭のネリネリの時のように、自分の身体の大きさや力を弁えずに、先走ってしまったことで知る、己の未熟さみたいな物とはまた違った後味の悪さだった。

 そして今回の(もん)で、今習っている投げ技だけでなく、寝技や絞め技も新たに理解したわけだが、理解したからといって、試せる力量がオレにはないこともよくわかった。

 ここらへんはネリネリの時と一緒だな。いや、これだけ早く見極められたわけだから一緒ではないか。

 とにかくオレには必要な要素がまだ足りていない。立場とか、技をかけるに際して必要となる身体の大きさとか、心の準備とか、色々だ。


 それにしても理解が進んでくほど、屁理屈をこねてるようで惨めになる。もう謝ってしまおう。先生の誠実さに後味が悪くなったのは事実なのだと。

 だがもうちょっと図々しくなろうとも思う。ダブルを発動する度に苦い思いを抱えていては、オレは一生ダブルを使いこなせることなど出来ないだろう。感情が高まる度に意に反して使って後悔するより、必要なものを必要な時にスパッと理解するツールとして、きちんと使いこなせるようにならなければいけないのだ。

 そのうえで、今回は先生から手に入れた柔道の情報を、オレの身体にアジャストさせる必要がある。

 そう意を決して、改めて脳内に思い浮かぶ柔道の理解を深めていくと、オレは思わぬ情報に出会った。

 それは柔道に棒術というものが存在することだった。オレは柔道は投げたり寝技をしたりと、そういうものだと思っていたが、まさか道具を使った技が存在するとは思いもしなかった。しかも、先生がそこら辺の技が得意だというのにも驚いた。


 ──今度実際に見せてもらいたいものだ。


 そして笹島先生の目指す柔道もオレは知った。

 先生が目指す柔道は、競技としての柔道ではなく、社会体育としての柔道を重要視していたのだ。これはオレにとって、目から鱗だった。

 オレは柔道といえば競技であり、世界選手権とか五輪とかを目指すものだと思っていた。だが、笹島先生は違った。

 笹島先生が目指す社会体育というのは、地域に根ざした活動を行うことだ。近所に住まう人々の健康増進が目的で、それこそ先程オレが思ったように、年寄りや子供が、転んだ時にも対処出来るような、そんな生活に根ざした柔道を教えるのを(たっと)しとしていたのだ。

 だから笹島先生は区と協力して、老人向けのカルチャーセンター活動を行っている。それこそ転んだ時の受け身とか、起き上がる時の挙措とか、平日の午前中にそういった地域活動に力を入れているのだ。

 この尊い活動の目的は、先生が早くに母を亡くしたことが関係してるようだった。先生は母親を亡くしており、母の健康にもっと気遣って上げられればと、そういった思いがその後の指針となったようだった。


 いかん。こんなことを解析してはいけない。何でこんな事を知ってしまったのかと解析元を辿ると、この情報は(もん)ではなく、初動の発露時に、感情にまかせて情報を集めてしまった時に入手してしまったらしい。

 我ながら随分と散漫なことだ。

 やはり必要な時に必要なものだけを解析できるよう、オレには訓練が必要なのだ。

 とりあえず今は(もん)を切ったので先生と触れてても、つながりは切れてる。だが今後は人との接触には余程気をつけないといけないとも思った。弟さまと魂の回廊でつながる前に、意図せず感情が昂ぶったことによって、ダブルが発動したのも間違いあるまい。

 ここらへんを自らの意思で制御出来るようにならないと、ダブルを自由自在に扱えてるとは言えない。


 そして思う。

 とりあえず、先生はオレをもっと道場に叩きつけてもいい。

 色んなことを先生も知らぬ間に知ってしまったオレは、教導される身としては、極めて理不尽な存在であると。

 申し訳ない、先生。

 でも、笑われたことには怒ってるんだからねっ。


「さて、これで手技と腰技の有名どころは体験したがどうだった」

「技によってひっくり返る天地の風景が微妙に違うんだなと思いました」

「おまえ、投げられながら風景を見てたのか」

「はい」

「はっはっは。最上は本当に面白いヤツだな。そうか。目もつぶらなかったのか」

「はい」


 つぶるわけがない。くるっと回るのは楽しいし、それ以上に、己のしでかしてるこのダブルという理不尽から目を逸らしたら、オレはただの卑劣漢でしかない。


「しっかりと受け身も取れていた。素直な、いい受け身だな」

「ありがとうございます。でもそれが一番衝撃を逃すみたいでしたし」

「その通りだ。基本ができてれば、必ずある程度の境地には到達する。立派な境地だぞ、最上」

「よくわかりません。境地も何も初日ですし」

「いい一歩目を踏み出せたと言うことだ」

「ありがとうございます」


 オレは神棚を振り向いた。

 よくわからないが──、

 なんか(ぬく)みみたいなのを感じた。


「天照大神さまだ。報告しておけ」

「はい」


「おかげさまで、無事投げられまくりました。くるくる回転して面白かったです」

「おい、最上」

「はい」

「音読するな。心でお礼を言おうな、な?」

 先生に(たしな)められると、向こうで爺ちゃんが笑いを懸命に堪えていた。

 後ろからも道場の先輩達の笑い声が洩れ聞こえてくる。

「はい」

 しまった。うちにいるのと同じ調子で感想を報告していた。そうか。こういうところでは黙って捧げる物なんだな。うん。すっかり頭から抜け落ちていた。

 知識では知ってたのに。恥ずかしい。


「みんな笑うなよ。真ちゃんはすごいんだぞ。頭良いし、何でもすぐ出来るようになるし、優しいし」

 緑川くんが庇ってくれた。ありがたいけど穴があったら入りたい気分です。

 すると道場の先輩達が緑川くんに訊いた。

「緑川の友達?」

「そうだよ」

 尋ねた女の子に緑川くんはあっけらかんと答えた。

「本当に何でもすぐ出来るの?」

「すごいよ、そこは。うちのクラスでも一番か二番だと思うよ」

「緑川と同じかちょっと下ってこと?」

「ううん。一番は双子の弟の寛ちゃんかな。で真ちゃんが二番で、オレは三番か四番ぐらいだよ」

「うっそだー」「盛るなよ緑川」「ありえねー」「今日一のギャグ」「言えてる。緑川の渾身のギャグなんだろ」


 なんか居たたまれないんだけど。緑川くんアウェーで話盛るのは堪忍してつかぁさい。

 ただ物覚えがいい人で、一番が寛司、二番がオレ、三番が緑川くんか赤樫くんかって感じは確かにする。男子限定で。

 そしてここから先は緑川くんの見解とオレの見解は違う。

 クラスと言うことで女子を含めたら、オレは圧倒的に真理ちゃんが一番だと思う。真理ちゃんはそういうことを口に出さないから、普通に接してる分にはわかりづらいけれど、帝王学を叩き込まれてるから実はすごい。

 まあ真理ちゃんは理解するに際して、オレたち普通の園児と違ってひとつのことから突き詰めるのではなく、比較するパターンを幾つも知ってるから、そこから導かれて答えが重層的になり、結果頷かされることが多々あるんだよね。

 特に木下を絵里ちゃんに丸投げ作戦は画期的だった。

 アイツに絡まれそうになったら、オレと弟さまはあの日以来すぐに絵里ちゃんを探すようになった。おかげで無駄な衝突がはぶけて大変楽になってます。

 まあ観察由来の事だけど、物覚えの範疇でしょう、ここは。

 ただし、体現という意味ではオレと寛司は、同列で一番だと思う。競争だと弟さまになるけれど。


「おもしろいな。緑川がそこまで言うとは。なあ最上。今私がやった手技と腰技をやれと言われて、お前は出来るか? 緑川は出来ると言ってるが」

「どうでしょう。原理はわかっ、じゃない、わかりましたけど」

「わかったのか?」

「はい」

 先生が面白そうな顔をした。

「なら見せてみてくれ。私を投げてみろ」

「はあ、わかりました」


 オレは低く構える先生の襟と引き手をつかむと背負った。

 投げてごらんと言われたままに投げる。身体強化を使うまでもない。投げられる体勢を取ってくれた先生を、畳から根こそぎ引っこ抜いて、スパッと回した。

「おいおい。綺麗に投げられたぞ」

「真ちゃんなら当たり前」

 緑川くんが当然のように頷くが、周りはどよめいた。

 そして、投げられた当の先生も驚いてるようだった。

 しかし委細構わず、先生が立ち上がる度にオレは、内股、大外刈り、体落とし、袖釣り込み腰と自在に投げた。先生が身体を丸めて投げられる方向に体重を預けてくれるから、軽々と投げることが出来る。

 でもこんな茶番をするなら、どちらかというとオレは、海上公園で緑川くんが木下の動きを封じてた関節技とか、ああいうのを学びたいんだよね。あれが柔道をやってみたいと思った原点だし。

 まあ初日だから、詰め込みすぎはよくないとか思ってるのかも知れないけど。せっかくやり方はわかったし、試してみたいんだけど、一向にそう言うことを教えてくれそうな気配がない。投げ技ばっかりだ。

 オレがつまらなそうな顔をしてると、

「わざと投げられてるように見えるか?」

「いえ、そういうわけじゃ」

 ていうか、オレが考えてたことと全然違うし。

 すると周りから、絶対わざとだよとか、簡単に花を持たせ過ぎとか、囃し立てられた。

「お前ら信じられないか?」

 先生が問うと、みんなが一斉に返事した。

「「「「はい」」」」

「じゃあ美香子。お前が最上の技を受けてみろ」

「はい」

 均整の取れた体型をした女の子が出て来た。

 目に力があって、周りの反応から見ても、この笹島道場でもかなり強い人に対する扱いのような気がした。

 てか帯が黒いんだけど。黒帯なの? 強い人投げなきゃいけないの? それはそれで面倒臭いことになりそうな気がするんだけど。

「最上。美香子は小学三年生で私の孫だ。受け身もきちんと取れる。遠慮なく私にやったようにやってみろ」

「はい」

 そうか。先生の孫か。なら面倒臭いことにはならなさそうだ。

 オレはよろしく願いしますと挨拶した。

「よろしく。笹島美香子よ。さぁ来い」

 両手を構えて投げられる体勢を取ってくれた。

 先生より背が低いし、身体の厚みもない。支点となりそうな下腹めがけて腰をぶつけてそのまま担ぐ。すると後は勝手にくるりと回転した。


 ドスンッ。


 女の子がたててはいけないような重い音を残して、背負い投げが決まった。

 先生より背も低いし軽いから回転が速い。先生みたいに飛んでくれなくても回せる。


「うそでしょ。こんな一瞬で懐に入られて」

「さすが真ちゃん、滑らかだなぁ」

 ていうか、多少大きい人の方が中に入りやすい。オレのが小回りが利くから、試し投げならいくらでもこのぐらい出来る。

「まだよ。次は内股」

 立ち上がってすぐに要望があったので、オレはペコリと頭を下げると、そのまま中に入ってあっさり跳ね上げる。


 ドスンッ。


 また重い音がした。この人の受け身は倒れたところから放射状に衝撃が逃げてくな。オレの足下も少し揺れた。


「君、いくつ?」

「緑川くんと同じ、三歳」

「やるわね。本気で入られてたよ、今のは」

「はあ」

 と生返事した。正直何を言われてるのかわからない。


「やられちゃったね」「てか納得したんでしょ」「うんうん」「そんなに早く見えないんだけどね」「滑らかではあるけどね」


 さしずめ品評会ですな。緑川くんの連れて来た友達がどんな物かを品定めする場。

 オレから緑川くんに「柔道場を紹介して」とお願いして紹介されたわけだけど、なかなか大変なところを紹介してもらったみたいだな。と思ってたら──、

「でも女だし」

 まだオレが投げられることに納得してない子がいた。

 てか笹島美香子さんを女扱いはまずいんじゃないかな。言葉が野武士だったぞ。やるわねなんて言う人、オレは初めて見た。

「緑川、お前が投げられてみろよ。お前が連れて来たんだろ」

「そうだけど」


 緑川くんが困った。

 別に緑川くんでも担げると思うけど、何が困るのだろう。


「真ちゃんは、今日は道場に慣れるために来たんだよ。それなのにみんなのことを何も知らないのに、いきなり見世物みたいになってて、それはちょっと……」


 おお、やはり緑川くんは心の友だ。

 すると先生が助け船を出した。


「別に見世物にしてる気はないぞ、緑川。だがな、お前が言う通り、最上の飲み込みがすごいのも事実だ。なんなら緑川、お前が最上を投げてみるか。

 受け身だって初めてのはずだが、最上の基礎は確かな物があるぞ」

「先生がそう言うなら」

「よし。じゃあ美香子。交代しろ」

 ハイと返事した先生の孫が緑川くんと入れ替わる。

「すごかったでしょ?」

 緑川くんが口にすると、

「まあね」

 と先生の孫が答えた。すれ違いざまに交わす言葉がイチイチ格好いい。できる人同士の会話って感じだ。

 しかし緑川くん、オレの投げ技すごいと思ったのか。それは意外だった。別に解析した動きを再現したわけではなかったし、純然たる初心者の動きだったはず。

 と思ってたら、さっき文句言ってた子が、美香子おねーさんにすれ違いざまに頭を叩かれていた。いったそー。

 オレは急いで視界の片隅からその映像を外して、何事もなかったかのように緑川くんと向き合った。すると、目が合った緑川くんがくすくす笑っていた。今の、しっかり見たんだろうな。


「さあ、背負いで行くよ、真ちゃん」

 緑川くんが気合いの入った声で促した。

 オレが頷いて投げやすいように構えると、一瞬の予備動作でオレの懐に入り、次の瞬間にはオレをつかむと同時に担ぎ上げていた。

 ものすごい勢いで回転する。今まで回された中で一番早いぞ。と思ってる間に回しきられてた。

 畳からひときわ大きな音が鳴った。道場を満たす空気までもが振動を伝播(でんぱ)してる。

 投げられたオレも気持よかった。


「すごい音でっけーな」「大きいよね」「緑川容赦ねー」「鬼だもんアイツ」


 道場もどよめいている。


「これは最上がきちんと受け身をしてるから、こういう音が出るんだ。衝撃を畳に逃がしてる。中途半端に自分にもダメージが残るような受け身をしてないんだ。きちんとした受け身をしてるから衝撃が畳に逃げて、これだけでかい音が鳴る」

 先生が解説した後、緑川くんに、どうだ? と訊いた。

「綺麗に受け身をしてくれるから、安心して投げることが出来ます」

「そうだろう。お前、面白い奴を連れて来たな」

「儂の孫じゃ」

 うしろから爺ちゃんの声がして先生が苦笑した。


「よし。ついでだ。攻守交代してみろ」

「「はい」」


 先生の指示だ。次はオレの番となった。

 攻守を代えて緑川くんが構える。


「これで化けの皮が剥がれる」「緑川は無理だろ」「あたし、まだ緑川を担いだことない」「あいつ、重いんだよな」「園児のくせにな」


 先輩たち容赦ねー、と思ってたら緑川くんの品評会になってた。しかしそうか。緑川くんはそんなに重いのか。


「真ちゃん集中」

「おっけ~」

 オレは構える緑川くんにペコリと挨拶した。

「行きます」

 一呼吸をおいてオレは緑川くんの懐に飛びこむ。と同時に投げる体勢になって効率を上げる。

 オレの腰を緑川くんの下腹に当てるとその勢いで緑川くんを担いで回す。

 特に重量も感じずに、オレは緑川くんを背負い投げをすることが出来た。

 ここらへんは投げられる前提で、緑川くんが抵抗しないから、その賜物だろう。実戦とは違う。

 だが周りの子達を黙らせることは出来たようだ。


「すげえ」「緑川の足が綺麗に反時計回りに回ったよ」「てか美香子ねーちゃんよりうまくないか?」「すばしっこいくせに、よく担げたよね」


 自分でも先生に習ったように回せたと思う。

 おかげでそれなりの評価はもらえたようだ。


「最上智道。繰り返すが本当に初心者なんだよな?」

「先生」

「なんだ緑川」

「真ちゃん、じゃなくて真司くん、帯の結び方もわかってなかったよ。今はもうできるけど」

「ということは、本当に、初心者か……。どえらい飲み込みの早い奴が来たもんだな。やって見せただけだぞ」

「オレも真ちゃんは、よく身体を思った通りに動かせるなって思う。わかってたけど」

 すると笹島美香子さんが加わった。

「ちょっとお爺ちゃん、緑川、何言ってるのよ。白帯だけど初心者はないでしょ」

 遠慮しないのは身内だからだろう。みんなは黙ってるけど。

「あー」

 と爺ちゃんが見所から手を挙げた。

「儂はそこの真司の祖父じゃが、確かに真司は柔道をやったことがない。ていうかテレビでも観たことないんじゃないかな。見たとすれば、そこの緑川くんが幼稚園で見せて上げたぐらいだろうと思うぞ」


 ざわっとした。


 だが事実だ。柔道を生で見たことはないし、テレビでさえも観たことがない。でも先生から(もん)で情報を得た。そしてそれが全てでしかない。


「本当かよ」「うそくせー」「緑川重たいのにね」「デブじゃないけど重いよね」「肉がみっちり詰まってるよね」「じゃなくて最上くんでしょ、注目すべきは」


 話を本筋にもどす女の子も出て来た。でもダブルのことは秘匿するので、真実を正確に理解する人はひとりも出て来ないだろう。

 オレは沈黙でもって、成り行きをただ見守るだけだ。


「どうだ、緑川。最上と試合形式でやってみないか」

 急に先生が提案した。

「いいんですか?」

「いいんだよ。最上ならきちんとやられる。それはお前にもわかっただろうが」

「それは、そうですね」

「よし、じゃあ、最上。いっちょ緑川と試合形式でやってみろ」

「はい」

 返事はしたが戸惑いもある。試合形式の柔道ってなんだ?

 緑川くんと柔道をしてみろと言われても、何をどうしたら試合になるのか、それが全くわからない。

「緑川、最上の相手をしてやれ。駆け引きとかして見せてあげろ」

「はい」


 なるほど。試合形式で柔道の駆け引きを体験させてくれるというわけか。

 いや、オレの物覚えの速さとやらが、どの程度のものか、それを知りたいのかな?


 ふむ。


 知識と実戦は違うのは百も承知してる。なにせ今までその弊害でさんざん痛い目に遭ってるからね。けれども、固定される物質と違って、生物が織りなす動きが主体の柔道なら話は違う。おそらく柔道とダブルは相性が良い。しかも背がオレより高い緑川くんなら、その相性は更に良くなると思う。

 というのも(もん)で解析した動きを実践するまでもなく、すでにオレの動きが馴染んでるからだ。今までの練習で、すでに感覚を身につけてしまってる。

 しかもダブルで苦労した商品への過程や物作りとちがって、結末に至るまでの筋が幾通りも臨機応変に作り出せるということがある。

 これからはダブルの解析結果も織り交ぜることも出来るのだ。

 これがぶっつけ本番でも行けると思えるのは、相手が物ではないからだ。

 物質創造と違って、対人の動きはオレにも幾らかの経験もある。それは内田くんとの決闘ごっこだったり、木下との喧嘩だったりするわけだが、柔道ではこちらの動きに合わせてもらえる側面もある。

 なんせオレが逃げれば緑川くんは追わなければならないし、左右に動けば緑川くんも左右に動かざるを得ない。オレに強制的に合わせる他に、緑川くんは柔道を開始できないのである。

 ましてや素地ができた状態で、柔道の基本と基本がぶつかるだけなら、目指す完成形への道を辿る必要もないし、対象をどういう風にしないといけないとか、そういう対象への制限がかからないわけだから、行き当たりばったりでもそこから先生の動作に嵌めこんでしまえば、緑川くんとて追従せざるを得ず、自然と柔道の形になってしまうのだ。

 そう考えると自分の動き以外にも手札が増えたわけだ。となると選べる手段が増えた分だけ、やはりダブルとは相性が良いと判じざるを得ない。

 それで勝つか負けるかはまた別の話なのだけれど。

 でも物覚えという観点からすれば、これは実に相性が良いと、オレは思う。





 オレは緑川くんと対峙した。


「お願いします」

「あ、こちらこそ」


「「あはははは」」「「「ふふっ」」」「おもしれー」


 緑川くんに返事を返したらみんなに笑われた。


「最上。そこはお願いしますとお前も言うんだ」

 先生が補足してくれた。その後ろで爺ちゃんが噴き出している。遺憾だ。

「えっと、先生。会話のキャッチボールじゃなくていいんですか?」

「柔道では互いに礼をする。だからこの場合も互いにお願いしますでいいんだ」

「わかりました。お願いします」


 なるほど。これまでペコリとお辞儀してきたが、それもギリギリのラインだったみたいだな。解析結果を確認すると、確かにお願いしますが標準だった。そして試合の場合は、終わったら黙して礼か、審判にも挨拶してるが、今はいないのでこれは省いても良さそうだ。

 そんなことを考えつつ、オレはトントンと跳ねる。笑われて緊張してしまったので、身体をほぐそうと思ったのだ。

 それから基本通りに緑川くんに組みに行く。どうせ初めての試合形式なんだし、先生曰く、緑川くんから駆け引きとやらを教わらないといけないわけだし、とっとと組んだ方がいいでしょ。

 わかっちゃいるけど、実際に対峙しないと、こういう物は経験値にならないしね。それは今までの失敗で学習してる。

 すると肩越しに大きい緑川くんに襟を掴まれた。これは……、奥襟ってやつか。上から押さえつけられてるようで、その場に動きが封じられちゃうな。

 カニみたいに横に動くことも出来ないや。

 そう思った矢先に緑川くんの抑える力が弱くなった。

 オレが動けるように加減をしてくれてるのだろう。身体強化とか対抗策はあるけど、緑川くんがこちらの力加減に合わせてくれるのなら、このままでやってみよう。


 オレは緑川くんに対して平行を保つ。正対してれば緑川くんも崩しは難しくなるからね。

 横から薙ぐか、前後に揺さぶるか、できることはそんな物だろう。でも斜めに相対してしまうと、途端に投げる、苅る、巻きこまれると、いろんな選択肢ができてしまう。

 そしてオレには緑川くんの技の数々をすべて防ぐことは出来ない。だから受け止められる技を限定させたいのだ。これもきっと、受けの大事な部分なのだろうと思う。

 でもそこを緑川くんは崩しに来る。足を払われてそれを払わせてなるものかと、踏ん張って受け止めた。


 やばい。

 物凄く痛いぞ。


 ほんのちょびっとちょっかいをかけられただけで、この痛みですか。

 言葉が棒になるぐらい、痛いです。

 緑川くんが道場の子から一目置かれ、強いと言われるわけが、わかった気がした。そりゃこんな足払いを小手調べでポンポン出されたらたまったもんじゃない。

 しかしなるほど。受けは大事だ。受け方一つでダメージが全然違う。これをほぼ毎日緑川くんはやって来たのか。鍛えられるはずだ。まだ足首が痛い。

 ダン、ダンと畳を踏んでフェイントをかけられる。その度に初心者のオレは技が来ると思って、足を後ろによける。

 するとその瞬間を見計らって腰に乗せようと緑川くんが動いた。

 オレの足が下がったから、腰が重心からずらされたのだ。


 あっ、これは担がれる。


 そう思ったので、敢えてそのまま腰を落として、投げる体勢を作った緑川くんの崩しに崩し返しを放つ。先生の中にあった踵返(きびすがえ)しとかいう技をしてみたのだ。そうしたらその攻撃は緑川くんの予測の中になかったのか、オレの苦し紛れをもろに喰らって後ろに倒れた。

 でも崩されながらも身体をひねって有効でも何でもないのにしたのは流石だった。


 そうか。

 この時にオレは緑川くんが身体をひねれないように対処する必要があったのか。


 そしてオレは寝技を知らないので追撃は出来ない。色々とあるみたいだが、教わっていないので出すわけにもいかないし、それ以前にもう緑川くんが体勢を立て直して立ち上がっていた。


「すごいな、真ちゃん」


 試合形式の試合中なのに話しかけられた。

 これはいいのだろうか。

 いいのだろう。先生も問題視してないみたいだ。緑川くんなら騙し討ちもしないだろうし、うん、なので返事をする。

「緑川くんにやられちゃうから崩しを防ごうとしたら、こんな風に動いちゃってただけだよ。まぐれまぐれ」


「緑川っ」

 先生が呼んだ。

「はいっ」

「強引な力技も使っていいぞ」

「わかりました」

「それから最上」

「はいっ」

「崩しを対処しあってくのも柔道だ。今度はここに緑川のパワーが加わる。投げられそうになったら、きちんと投げられろ。受け身はしっかり取れ。でないと骨が折れたりするからな。くれぐれも無茶な体勢で投げられっ放しになるな。受け身を取れ。お前の大好きな受け身だ」

「はいっ」

 初心者に抵抗は無理だから、上級者の技を体験しろと言うことなのだろう。ある程度は対抗できると思うのだが、そこは先生はダブルを知らないので、そう言う判断になるのも頷ける。

 ならむしろパワーで投げられたい。くるっと回るの、とっても楽しい。

「さあ来い」

 オレが声を上げて、緑川くんに立ち向かい、きちんと綺麗に投げられた。すると──


「最上真面目にやれ」


 先生に怒られた。


 なぜだ。きちんと受け身を取れと言うから、わざわざ投げられたのに、何でオレが怒られるんだ。

 さらに別の声も飛ぶ。

「笹島は対処し合ってと言っただろうが、受け身をしろと言ったんではないわ、この阿呆」

 なぜかエキサイティングしてるエキサイティング爺ちゃんにも叱り飛ばされた。しかも今日二回目の阿呆呼ばわりだ。いえ~い。


 しかしなるほど。対処し合って、というのはすっかり抜け落ちていた。

 くるっと回るの楽しいし。

 ちなみに緑川くんが今やったのは腰車という投げ技だ。

 オレの身体が簡単にくるっと回って、極めて楽しい。自分でこんな風にくるっと回ろうとしても回ることは出来ない。だが緑川くんの手にかかれば、こんな風に簡単にくるっくる回してくれるのだ。

 まさに緑川ワンダーランド。いや、彼はワンダーランドにあるワンダーランド・マシーンだったのだ。

 人間だけど。もっというならお友達だけれど。

 マシーン扱いは酷いな。うん、訂正しよう。

 なら柔道場がワンダーランド。そうか、柔道場がくるくるワンダーランドだったのだ。


「最上、お前も投げるつもりでやれ」

「ええっ?」

 オレ今日柔道を囓ったばかりだぞ? 何言ってんだ、このおっちゃんは?

 いやいや、おっちゃんはまずいか。先生だ先生。笹島先生。


「真ちゃんさ、幼稚園でやってるみたいにスピードで俺に向かって来たらいいんじゃないかな?」

「スピードで?」

「内田くんとの決闘ごっこ、いっつも真司くんのが内田くんより速く動いてるじゃん。あれを柔道の攻撃でもするんだよ」

「おお、そういうことか。わかった。やってみる」


 基本から外れる気もするが、基本を幾重にも重ねていくと考えれば基本ではあるか。

 なら先生から学んだ技をひたすら連ねて行きますか。

「行くよ緑川くん」

「応」


 考えててもこれまで実行に移してなかった足を使うことにした。緑川くんの許可も出たし。


 オレはどっしりと構える緑川くんの左から中に入ろうとした。簡単に手を払われる。なのでもう一度同じことを仕掛けて、払いに来た緑川くんの腕をつかんで引っ張って崩す。

 緑川くんが足で踏ん張ろうとしたので、その足に足払いをかけたら、緑川くんが腰を落としてがっしりと足払いを受け止めた。


 オレはあんなに痛かったのに、緑川くんは躊躇なく受け止めるんだな。痛くないのだろうか。足払いを仕掛けたオレのほうは結構痛いのに。


 でもこれはこれで後ろに向けて倒すチャンスでもある。なのでオレは大内刈りをしかけるが、それを後ろへの送り足で簡単に捌かれてしまった。


 でも後ろに送ってるんなら横から崩せると、素早く(たい)を開いて払い腰に入る。





「子供はちょこまか動くもんだが、何だアレは? おい最上智道」

「フルネームで呼ぶな。儂が知るか。お前が教えたんだろうが」

「教えたのは技だ」

「真司がやっとるのも技だろうが」

「それはそうだが…………」


 だがそれを連続技で繰り出せるものか? しかも緑川の動きも技の切っ掛けにして組み立てている。

 組み立ててるのか?

 緑川が動くと最上の身体は常に平行を保とうとして、その逆に動いてる。だから次の技に入りやすい。

 支点と力点の距離がみじかい子供の身体だから、大人の時間とは技への到達時間が圧倒的に短い。だから緑川はいつもより考える時間もない。


 緑川とて、あんな風に動ける相手とは初めてのはずだ。


 自分が見るのが初めてなのだから、それも当然だ。

 言ってはなんだが、笹島道場はいたってふつうの町道場だ。すごい強い選手が出たわけでもないし、道場主の自分もすごい強かったというわけではない。そこに緑川という麒麟児が来たと思ったら、その麒麟児が風神みたいなヤツを連れて来た。しかもそれが知り合いの孫だというのだから縁がある。

 この二人をこの先競わせていったらどうなるのだろう。そこに自分の孫娘も加わっていったら…………。


 見果てぬ夢が描ける気がした。

 とうの昔に捨てた競技柔道としての柔道場。

 そこに魔が差したような「気」がよぎる。みっともない、と。

 なぜだろう。母が怒っている気がした。母の死をきっかけにして健康増進を目的とした柔道場を志したのではないのかと。

 それが皮算用を始めてみっともないと。


 いやいや、捕らぬ狸の皮算用ではない。緑川はもちろん、最上もここにいるのだ。普通の町道場が思い描ける最高の夢が、今この歳にして思い描けるのだぞ。

 笹島の胸の内は、かつてないほどせめぎ合っていた。





「ふっ」


 緑川くんが踏ん張ったときに、オレを吹き飛ばしそうな勢いで息を吐いた。

 力を入れる時に緑川くんは息を吐く。調べたら、そうした方が力が出ることをオレも知った。

 またオレは連続技をかける。

 息を吸う前にオレに動かれたせいで、緑川くんの呼吸が整わずに息が上がる。でもオレの息は上がらない。何でだろう。状態回復をかけてるわけでもないのに、疲れる様子が全くない。

 左右に動いてからの小外刈りから背負いへと連続技を放ったのだが、緑川くんが堪えたので、そのまま大内刈りに行こうと技をつなぐ。すると途端に緑川くんがオレに身体を寄せて技を潰そうとしたので、オレはそのまま身体を捻って緑川くんを腰に乗せて、再び背負い投げを放った。

 すると緑川くんが今度こそ根こそぎ引っこ抜けたので、オレはその勢いのままに回転した。でも緑川くんがオレの背中の上でエビのように跳ねたので、畳に背中をつける状態にならずに横に倒れたので、綺麗には回り切らなかった。これは一本ってやつじゃないな。

 中央に戻って仕切り直しってやつですな。

 そう思ってその場に突っ立つと、緑川くんが横になったまま懸命に息を吸いこんでいた。


「ははは。すごいや真ちゃん。止まらないんだもん」

「だって駆け引きってのを出してくれないから、こっちから色々やるしかなかったし」

「違うちがう、する暇がなかったでしょ。力入れる前に動かれちゃうし。本当に困ったよ。

 息も吸う暇ないし。

 俺が息をひとつ吸う前に二つ三つと技が飛んでくるんだもん。どんだけ早いんだよ、真ちゃんは。ほんと苦しかったー」

「でもそれ、緑川くんがオレに気を使って力を入れなかったからじゃん。奥襟だっけ、あれを取ったまま動けなくしちゃえばいいのに、しなかったよね」


 緑川くんは、ハハハと笑って取り合ってくれなかった。


「緑川相手になんなのあの子」「歳いくつだろ?」「技かけまくってたよね?」「すっごい連続技だった」「白帯なのに」「でも緑川が一方的に攻められて投げられたんだから白帯はねーでしょ」


 道場の子達もざわついていた。

 そんな空気を諫めもせずに、先生がオレに訊いた。

「どうだ? 受け身より投げる方が楽しいだろ」

 先生につづいて緑川くんもにこにこしながら言う。

「俺、試合形式で、同い年の子に投げられたのは初めてだったりするかも」


 周りの子達がうんうんと頷く。


「そうなの? でも緑川くんが受けててくれたから偶々(たまたま)だよ」

「そうじゃなくてだ最上。投げるの面白かっただろうが。柔道の花だぞ。投げ技での一本は」

「はあ」

 横になったから一本じゃなかったし。


「もっとやりたくなっただろう? 投げたくなっただろう? 今度こそはって思っただろう? 今日やった中で一番嬉しかっただろうが」


 先生は何を興奮してるのだろう。投げ技楽しかったとそんなに言わせたいんだろうか。

 しかし今日やった中では、か…………。

 オレはうんと頷いて考えをまとめた。

 先生がパアッと顔を輝かせる。


「それでもオレは、受け身の方が面白いと思います」


 断言したら、道場中からゲラゲラ笑われた。

 先生と爺ちゃんは頭を抱えていたけれど。


法事が重なり遅くなりました。申し訳ないです。

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