彼女の幸せ
2019年8月25日。
外志喜のイライラは少し収まっていた。
駅前で会った、あの青年のおかげかもしれない。
ほとんど話してないのに、彼との"交流"は心温まるものだった。
だが、あの静岡が来ると、やはり落ち着かない。
そして私もこの女のせいで、変わってきている事を認めざるを得ない。
静岡は朝早くにやってくる。
そして勝手に入り、朝飯を作るのだ。
「朝食が出来ました。私は作ることが好きなんです。後は知りません」
そう言って勝手に掃除をする。
効果があるのか相変わらず不明だが、関係ない、と伝えているつもりなんだろう。
多分、食べても問題はないだろう。
食べるだけなら。
ただ、食べた時にお茶を出されたら。
食べ終えた後の皿洗いは。
私と関係してしまうのではないかと、常に考える。
食器はいつの間にか増えていたり、交換されてる。
結局、私は目の前の飯には手を付けず、いつもの固形食をほうばる。
私が庭の手入れをしている間に、手をつけてない食事は処分される。
食事は昼も、夜も同じ事の繰り返しだ。
私は年を取って特に嫌いな物も好物もなくなってはいたが、いつも目の前に色々な食事が並ぶのは苦痛だ。
たまに喉が鳴るし、我慢も辛い。
これもイライラの原因のひとつ。
そして午後になると、"私の話"が始まる。
「今日、スーパーに行きました。魚が安かったので買いました。あと、お風呂の石鹸が小さくなっていたので交換しました。誰もいないはずなのに、どうしてでしょう。だけど気になるので、やっておきます」
おかしな独り言だ。
お互いいない、という前提、芝居じみた言葉。
だったら来なければいい。
それから夜になると、勝手に帰る。
向こうの方にいつもいる青い集団のワゴンに乗って。
そんな毎日。
そう言えば、パソコンも置いていった。
どこかに報告しているようだった。
あの青い集団の連絡かなにかか。
しかし、先週4日ほど、来なくなった時期があった。
初日は昼になり、もう来なくなったのかと、気が楽になった。
しかし4日目になると、気になってしまっていた。
何かあったのか。
病気か。
もう来ないなら、一方的な手紙でもこっちにいれたらいいのでは。
何をしたって私は返事をしない。
だから影響はないはずだ。
しかし5日目の朝、静岡はやってきた。
「色々やる事がありました。この家も空っぽには出来ないので、きました」
江田事件の再来、というこの前私もいた、そしてあの青年に会った時のニュースを観ている時だった。
こいつも何か関係あるのかもしれないが、別にいい。
どちらにしても、この時に私はこの生活をどこかで楽しんでいる事に気がついてしまった。
静岡に惚れたとかそういうのではない。
どこか、私と似ているような気がしていたのだ。
そして今日。
静岡の顔が、いつもと違う。
思い詰めている感じだ。
いつものように朝飯を作り、一言言う。
だだ、なにか噛み締めて話しているようだ。
昼飯。
静岡が、いつもと違う事を言う。
「今日は、剣崎家というお宅で作られていた、野菜炒めを試してみました。でも私には何の事かわからない事です。作っただけです」
思わず固形食を食べるのをやめ、テーブルの上の料理見てしまった。
皿の上にあるのは、私が家でよく作った野菜炒め。
若い頃、まだ共働きだった時。
妻が仕事で遅くなると、私は子供達の為に作ったものだ。
そのまま食べて良し、丼にしても良し、ラーメンに乗せても良し、と笑顔で言いながら。
子供達はいつもと違う濃いめの味付けに、美味しい、と言ってくれた物だった。
もう随分昔の話。
どうしてこんな物を置くのだ。
今更おかしくなってしまった家庭には不要な話だ。
静岡はそう言って、いつものように立ち上がるのかと思ったが、そのまま座って話し始めた。
「私は今、1人で住んでいます。私は少し遅い結婚で、子供は1人、息子がいます」
私は食べるのをやめ、そのまま座っていた。
「主人は2年前に他界しています。まだ、高校生になったばかりの息子、健太には、精一杯、高校生活を満喫して欲しかった」
静岡の声が詰まる。
肩が震える。
「健太は、4ヶ月前に1人になりました。私達が住んでたアパートに今もいます。夜、テレビの光が見えるんです。そこに影が。ほとんど動いていない、寝ていないんです」
泣いていた。
なのに顔を下げたりはしない。
「そんな中、救世主様と教祖様の助けがあれば、解放して貰えると。その為に、貴方を解放しなければいけないんです」
外志喜は黙っていた。
ここまで自分の思いを伝えているこの女性に、自分が答えられる事を答えてあげたかった。
しかし今、静岡は"貴方"と言ってしまった。
今話せば、それは返答だ。こいつは死ぬ。
しかし、矛盾だらけではないか。
なぜ、できる事があるのにそれをせず、この女に出来ない事をやらせるんだ。
修行だがなんだか知らないが、何故気がつかない。
しかも確信を持って思う。
あの青い集団にも、静岡にも、私達は助けられない。
そんな方法があれば、こいつらよりももっと上手く誰かがやってる。
この前の駅前のような事は起こらない。
ないから事件が続くんだ。
静岡は言葉を続ける。
「そんな事を言っていられるのも今日が最後です。今日、貴方を解放出来なければ、私は破門。息子を、健太を助けられない!!」
母の思いが突き刺さる。
心が痛い。
私にできることなど、ない。
こいつにも。
ここが急に自分の家ではなくなったような気がしてきた。おもむろに立ち上がって、庭に向かう。
もう、どっちでもいい。
こいつに、これ以上話をさせるわけにはいかない。
「待ってください」
腕を掴まれた。
何ヶ月ぶりかに、人の体温を感じた。
しかし黙って振り払う。
「どうして、ダメなんですか。私に、健太に会わせて!・・・話したい。助けたいんです」
静岡は崩れていった。
私は覚悟を決めた。
大きくゆっくり、深呼吸をした。
「誰もいないのに、独り言が言いたくなったなあ。誰かが盗み聞いてなければ良いがなあ」
一拍置く。
静岡の驚いた気配を感じる。
まだ、大丈夫なようだ。
「健太という人は、前のように生活はできないだろうなあ。諦めた方がいいんだろうなあ。だけど、私は彼を信じたい。きっと彼は母親の愛情を沢山受けて生きただろう。でなければ、すぐにダメになるもんだ。そうだ、彼を信じる事にしようか」
いささか大根役者だっただろうが。
まだ、大丈夫なようだ。
外志喜は続ける。
「それにしても、あの青い集団は何だろうなあ。私を助けようと思うなら、1番偉い人が来てさっさと助ければいいんだ。私がまだここにいるという事は、多分、出来ないんだろうなあ。残念だけど」
静岡からすすり泣きが消えた。
ふっと、外志喜が思いつくように話した。
「できる事なら彼を、健太くんを助けたいなあ。そうだ。多分だが、彼となら私は暮らせそうなんだ。"いない人"同士なら、一緒に暮らせるかもなあ」
この前の青年とのやりとり。
あれは"会話"になってたはずだ。
だから、賭けてみる価値はある。
「お願い。健太を」
外志喜は聞こえてしまった。
聞いてしまっていた。
私の背中で、不自然な震えるような音がする。
見てはいけない、と顔を空に向けた。
少しして・・・その音は消えた。
静かに振り向くと、静岡が倒れている。
「・・・なんでだ」
涙が溢れて来た。
「お前は、黙って帰れば良かったんだ。健太くんを私が呼んで、私が説明すれば、お前はこのまま毎日来れた。息子に会えた。それなのに何故私に応えた」
静岡の手から、財布が落ちていた。
使い込まれている、もうボロボロになった財布。
強く握りしめた跡がある。
「・・・わかった。預かる。任せとけ」
財布を拾うと、中を開く。
パスケースの場所には、親子2人の笑顔の写真があった。
そして、何枚か会員証などのカードを抜き取った。
住所を知るために。
財布は静岡のカバンに戻した。
そして登志喜は、静岡の遺体に手を合わせ、庭にある遅咲きの小さなアサガオの花を胸に置いた。
アサガオの花言葉は、"強い絆"。
なかなか観察日記が進まない小学生だった娘に、ちゃんと育てないと絆か育たない。家族と一緒にいられないぞ、と言って脅かした事を思い出した。
私にも、アサガオが必要だったんだな。
そして居間に上がり、最後に作られた野菜炒めを食べた。濃い目の味付け。
ここまで知っていた静岡の気持ち。
そしてこれを教えた私の子供達の気持ち。
「美味い。みんな、美味いよ。あの味だ」
いつの間にか静岡が付いていた風鈴が鳴る。
食べ終わる頃には、涙も止まっていた。
夏も、登志喜の1人も終わろうとしている。
この人達、ここまでの役ではなかったのですが、気がつくと割と大切なポジションにいます。
自分で、ほう、と思って書いた物は大体寂しげなものばかりです。
なんでだ。




