重なりあう不安
2019年8月2日。
弘明にとって1ヶ月以上が過ぎた。
今の所、不便はない。
いや、嘘だ。
精神的には不便だらけだ。
人と話せない事がとても辛い。
いつでも話せる、と思って誰とも話さない事と今は、まるで違った。
何か抜け出せない穴の中に転げ落ちるような感覚。
自分の存在が、これほど意味のないものかと思う錯覚。
いつ限界がきてもおかしくなかった。
そんな中、意外なほど救われるものがあった。
"すれ違い"である。
雑踏の中に踏み入れる事で、生活の一部として彩りがあった。
話しかけることは当然できなかったが、集団にいる安堵感があった。
弘明は3日に1回のこの予定を、危険に思いながらも、いつの間にか楽しむようになっていた。
今日はまだ駅前までは行かず、駅の周辺を下を向いてぶらぶらと歩いていた。
「暑いな」
誰もいない事を確認しつつ、1人呟く。
些細な独り言も、世間話が、お節介が好きな人に聞かれれば、会話が成立する恐れがある。
しかし、丸一日何も声に出さないという事は、やってはいけない事だと考えていた。
たくさん、人を感じるんだ。
色々な生活を聞くんだ。
そんな事を考えながら、弘明は歩いた。
駅前近くにあるテナントビルに、大きめの大型モニターがあり、どこかの番組を放送していた。
画面右上のタイトルには
〜 いない人密着24時 彼は何を思うか 〜
と表示されていた。
趣味が悪い、代わりになってみろよ。
弘明はそう文句を言いそうになり、唇を噛んだ。
どんな気持ちでこんな生活してると思ってやがるんだ。
人の気も知らないで適当に喋りやがって。
そんな中、シーンが切り替わる。
閑静な住宅街の深夜。
小型バイクが "いない人"の家に近づいていく。
速度を落とさず走り去る時に、石を投げた。
窓ガラスが割れる。
「お前らいるだけ迷惑なんだ。消えろ。ピー!!」
バイクはそのまま走り去っていった。
ナレーターが寂しそうに語る。
"彼らは何を思い、過ごしていくのか・・・"
弘明はなんて危険な事を、と驚く。
ヤラセにしても程がある。
あまりこの状況に馴染みのない視聴者は、迷惑な、可哀想に、とも思わせるような演出だったが、もし本人が出てきてなにか話したらどうなったのか。
他に誰かやろうと、真似をしたらどうするのか。
過去、コメンテーターの衝撃番組があったのに、テレビ局は反省してないのか。
いくつも文句と憤りが湧き出てきたが、同時に不安になった。
俺の家にあんなのが来たらどう対応すれば良いんだ。
いっそ話しかけてやろうか。
悪質ないたずら心でにやけたその時。
弘明は自分の不安が急に増大した事を感じた。
今の投げやりな思いと不安のアンバランスさが同時に違和感を生んでいる。
おかしい。
ここまで不安に俺は思っていない。
次に、映像がフラッシュバックした。
- 平屋。
- 女性。
- 冊子。
なんなんだ。
感じたことのない感情の強さによろめいた。
駄目だ、こんな事をして、声でもかけられたら。
思わず周りをみた。
5メートルほど横に60代くらいの男性が立っている。
まずい。
弘明は焦る。
しかし、その男性はテレビに釘付けで、微動だにしなかった。
彼も彼なりに思うところがあるのだろう。
いかつい雰囲気ではあるが、どこか心配している顔をしているように感じた。
そんなことよりも、今のうちに早く人のいない所へ。
そこで休もう。
できればそのまま家へ。
今日のノルマは達成しているはずだ。
弘明はモニターから逃げるように離れた。
家の近くまで来るとその不安は徐々に消えていった。
あれは一体なんだったんだろう。
不安に染み込むように自分の心に乗ってきた別の、また違う視点で作られたような不安。
そして溶け込むように、増殖する感覚だった。
最後にあのイメージ。
あそこはどこだろう。
あの女性は、なにをしていたんだろう。
何かの信念があるような顔でいて、今にも壊れそうだった。
そしてあの冊子にはなんの意味があるのだろう。
弘明は不安からくる幻想だと思いこもうとしたが、しばらく頭から離れなかった。




