煙
うたた寝をしていた。アヒルの警官に追いかけられながら逃走する夢を見ていた。最後は屋上からゴミ捨て場にダイブしたら、そこがアヒルの羽根の上だったというところで目が覚めた。我ながら馬鹿馬鹿しいなと笑う。休日の午後の昼下がりにリビングでノートパソコンを開いて、趣味の小説を書きながらあれやこれやととりとめのない妄想をしていれば、こんな時もあるさ。
記憶が確かなら、一時間弱は寝ていたようだ。マグカップの中の紅茶はもう冷めてしまっただろうかと左手を伸ばす。娘に誕生日プレゼントで貰った紺色のマグカップは、夜の海面のようにゆらりと揺れて、憂鬱な記憶を忘却する時のそのように、ゆっくりと穏やかに空気中に溶け込んでいった。紅茶は、女神が哀れな羊に水を恵んでやるかのように、静かに机の上に広がっていった。
「なんてこった」
私は慌ててノートパソコンを持ち上げる。濡れてしまっては敵わない。書いていた小説も全て水の泡だ。
ところが、その拍子にノートパソコンが重みを失うのが手の感覚神経から伝わってきた。黒いノートパソコンは、あっという間に黒雲になり、それがまるで幻だったかのように四方八方に散っていった。
なんだこれは? まだ夢を見ているのだろうか?
男は頭を掻いた。
机の上に零れた紅茶が、夕陽に照らされてルビーのように輝いている。
2016/09/04 初稿