異変
目を覚ますと、そこは路地だった。起き上がると鋭い痛みが体に走り、顔をしかめた。
リア・グランデはぼやける頭でここはどこだと自問する。
答えはすぐにみつかった。納得共に悲しみと憎しみがやってくる。
事の発端は父の失踪である。昨今、周辺地域での失踪事件が頻発していることは知っていた。が、自分がその被害者になるとは思ってはいなかった。
父が疾走すると、商業都市にあった父の店は取り上げられた。親戚一同が共謀して、奪い去っていった。獲物を見る肉食獣のような瞳は、今思い出しても身震いしてしまう。
一室は与えられた。が、そこは我が家ではなくなっていた。針の筵だった。父子の領域はふてぶてしくやってきた連中に侵略され、彼らは奪われた者を嘲笑った。食事は床で取らせられたし、殴りつけられたこともある。奴隷というやつだろう。
毎日、父の影を探すべく街のなかを歩いた。父の足跡すら見つけられなかった。そして
――そう、奇妙な魔物がいたんだ。
路地裏にいると、赤黒いヤツがいた。肉の塊に、無数に瞳があり、人の手足が何本も生えたかのような魔物だった。後ずさった。腰が抜け、しりもちをつき、それでも逃げようと必死にもがいた。
呪詛を叫んだ。父の店を奪った連中へ。死んでしまえと叫んだんだ。
そう、それから記憶がない。
脱げた靴を履いて、起き上がる。変なところで気絶してしまったから、身体の節々が痛い。
よたよたと歩き、空腹感におなかをさすりながら、家へと帰ろうと決める。ためておいたお金がある、それを使ってどこかで食べることにしよう。
家路につく。道を歩いていくと、遠くから声が聞こえた。なんの声だかはわからないが、向かう先から人が恐怖に染まった顔をして、反対側へと走っていく。
なんなのだろう。家の方向から悲鳴が聞こえる。不安と空腹が天秤の上に乗せられて、歩く速度がゆっくりとなる。
恐る恐ると角を曲がると――自分の家が――真っ赤に染まっていた。真っ赤な果物を叩きつけたかのように、赤に染まっていた。首がごろりと転がっていた。それは、リアの憎しみの対象である人々。家を奪い、あがりこんだヤツらだった。
「……え?」
非現実感に衝突し、意識がぐらりと揺れた。思わず近場の壁へと掴み、身体を支えた。
巨大な――先ほどみた、肉塊の化け物だった。悲鳴を上げるヤツらの一人が一瞬にして潰れ、さらに血で家が赤く上塗りされる。
周囲に人がいなくなると、化け物はリアに視線を向けた。
死ぬ。
直観だった。それでも現実は、それが真実であると、未来に起こることであると証明していた。
「や、やめて」
二度目だというのに、逃げられはしなかった。どうしようもなく胆力がない。腰が簡単に抜けて、再びしりもちをついた。
化け物は手を伸ばした。掴まれ、潰されるのだろう。
そう、思った時だった。
化け物が吹き飛ばされたのは。目の前に現れたのは騎士の制服だった。
ほっとした。騎士はあまりよくないことを聞いているが、助けてくれる人だ。
黒髪の青年は白銀の剣を手に持ち、構えた。
消えた。かと思えば、彼は化け物の懐にもぐりこんでいた。一瞬だった。バカリと化け物の肉体に切れ目が入り、そこから真っ赤な鮮血が噴き出したのは。
おびただしい量が宙へと放たれ、周囲の建物を赤く染め上げた。
びちゃり、とリアにも降り注ぐ。
リアはがくがくと震え、真っ赤な手のひらを見て――意識を、失った。
本日二度目のことである。
「……大丈夫なのかね」
アウレトーラは買い物袋を両手いっぱいにもって、目の前の老人へと訊いた。
髪は白髪で白く染まり切り、頬は痩せこけている。燃え尽きて灰になったような男だ。彼は真っ赤なぶよぶよとした玉へと語り掛けている。
行きに見かけ、帰り道に見かけ、なんだか放っておけなくなったわけだが、老人は反応しなかった。
「あぁ、あぁアリシア、もうすぐだよ……」とギリギリ聞き取れる程度のかすれ声で、玉へと語り掛けているのだ。
「……おーい、大丈夫かねぇ」
語り掛けるが反応なし。なんだかアウレトーラはイライラしてきた。
この老人、どうしてくれようか。
腕を組んで考える。と言ったところで啓介の言葉がよみがえる。
『炭水化物は考えるエネルギーになるッス。即効性は糖だけど、ないときはパンとかを食べるッス。考え事とかするときは必須ッス』と言っていたはずだ。
この男は考えるエネルギーがないのだ。だから私の言葉に返答できない。
その結論に誇らしげに大きくうなずくと、袋の中から一個パンを取り出した。米が米がと啓介は嘆くが、その代用としていつもこれを食べている。
老人の口の中へとパンをねじ込んだ。
さすがに老人も我に返ったのか、顔を上げた。口の中にあるパンを手に取り、アウレトーラとパンとを視線を往復させる。
「君は、誰だ」
「アウレトーラだよ、しかし名を問うなら自己紹介をしてからと母様の知識にはある。ならば自己紹介すべきではないかね?」
「……リッシモンだ」
「リッシモンよ、よくわからないがこれでも食べておくがいい。なに、尊敬のまなざしも言葉もいらない」
ふてぶてしい少女にリッシモンは些か面を食らった。
アウレトーラはぐいと顔を近づけ、リッシモンの語り掛けていた赤黒い玉へと視線を向ける。
「それで、これはなにかね」
「――娘だよ」
「ほう、娘か。こんな人間がいるのだな。人間、亜人、魔族とあるが、知識の中にはなかった。母様は己を賢者と呼んだが、アンティークバージンはダメだな!」
「……本気で言ってるのかね」
「む、アンティークバージンは言いすぎたか?」
リッシモンは思わず頭を押さえた。
「違う、君はこれが娘だと本気で言っているのかね」
アウレトーラは表情を曇らせる。
「騙したのか君は?」
「騙してはいない」
「なら娘ではないか」
「……娘は死んだんだ」
これはおちょくられているのだ、とアウレトーラは判断した。
頬をぷくりと膨らませる。ジト目でリッシモンを睨む。
リッシモンはため息をついて言った。口を滑らせたといってもいいだろう。
「……生き返るんだ。そして娘になる」
「ほほう、人というやつはまことに不思議なものだ」
と感心したかと思うと、首を傾げた。
「む?それは反魂の術ではないかね?」
リッシモンははっとした。勢いよく立ち上がり、この場を離れるべく動き出した。
「うむ……用事かね?さようなら」
返事はなかった。
「さようならにはさようならを返すものだろう」
腰に両手を当てて言ったかと思えば、そういえばとアウレトーラは去っていく背中へと声を張り上げる。
「反魂は母様の知識の中では成功例のない術だそうだ。それを成功させるのだから、すばらしい魔法使いなのだろう。だが挨拶はキチンとしたまえ」
「……さようなら」
満足げにアウレトーラは頷いた。
「生き返る娘も君を見たら嘆くだろう。ちゃんと食べるべきだぞ」
リッシモンの背中を見送り、アウレトーラは快活に歩き出した。
「いいことしたらーっケースケがほめてくれるー♪」
決して美味い歌ではない、だがご機嫌であることが周囲に伝わり人々を笑顔にさせる。
しかし、少しではあるが数人は不思議に思うだろう、幼子のようなことをしているなぁ、と。
――アウレトーラは二歳であるのだから仕方がない。
家へと到着すると、見知った男性が見えた。なにやら大荷物を抱えているようだ。
パァとアウレトーラは表情を明るくさせて、小走りで啓介へと近づき、気づかれるであろう距離で速度を緩めて声をかけた。
「ケースケ、何かねそ……」
「あぁアウレトーラッスか。これは――」
指をさして問おうとしたとき、言葉が止まった。啓介は紹介をはじめているようだが、耳に入ってこない。
「け、ケースケが誘拐犯になった!?」
「ちょ、人聞き悪いッス!これは助けたけど気絶しちゃってたんスよ!」
「だったら病院にでもいけばいいだろう、何故女を連れてきているのだ。私がいるのだぞ!」
「いやなんでアウレトーラがいるから連れてきちゃいけないんスか……?」
それは、とアウレトーラは言いかけてから口ごもる。とたん、不思議そうな表情になった。
「どうしてだろう?」
「それは俺が訊きたいッスよ。とにかく一応問題ないことは確認したし、寝かせておけばいいッス」
「う、うん」
なんとも腑に落ちない気分だ。しかし、反論がないだけに嫌だ嫌だとは喚けない。喚けば困らせることになるだろう。
「むぅ……わかった」
「じゃ寝かせておくッス」
家へと上がり込み、啓介はマットを床にひいてそのうえに女を寝かせた。
「それで、なにがあったのだ」
なんだかイライラが止まないが、アウレトーラは努めて冷静に訊いた。
啓介は事の発端についてすらすらと答えた。帰宅途中に悲鳴が聞こえ、駆けつけると、肉塊のような魔物に、気絶している女性が襲われていたとのことだった。
「それで助けたんスけどねぇ……ご覧の有様というやつで。あぁアウレトーラ、外出時は気をつけるッスよ?」
「……負ける要素はないのだが」
「だとしてもッス」
ちらりと啓介は女性を見た。視線を引き戻すべくアウレトーラ重ねて問う。
「強かったのかね」
「強くはなかったッス。まぁ師匠の地獄のトレーニングの成果というやつッスかね」
むん、と啓介は力こぶを作ると、大きな山が出来上がった。
「そうだろう。啓介は強いのだ」
「といっても、まだまだ安心はできないッス。あっちにいたころは、連戦連敗でギリギリ相手にはなるくらいだったスから」
「母様の言っていたとおり、その道の英雄なのだから追いすがれるだけでも上位のはずだ」
「ウェリバ師匠は『まだまだ』としか言わないっすから自分がどこにいるかもわからないんスよね」
「ウェリバはそうしかいわないだろう。英雄たちと競っても剣を持てば百戦百勝なのに、限界を追及している剣キチガイ、啓介にも価値観を当てはめているのだろう」
「師の愛ッスかね」
「……愛とはまた別だと思う」
「あの」と二人ではない声が室内に響いた。女性の眠っていたところを、二人は首を曲げて視線を向けると、女性が手を上げてこちらを見ていた。
「えぇと、そのぉ……ここは」
ぐぅぅ~。
腹の音が響いた。女性は顔をみるみると紅潮させて、ぐっと服の上から抑える。
あは、あははと無理やりな笑みを浮かべ、女性はきりりと真面目な顔をする。
「ここはどこなんでしょう」
「ご飯食べます?」
「いただきます」
即答だった。
「作るのは私なのだがね」
なんだか納得いかずに、アウレトーラは啓介を睨む。
「いや、うん、手伝うから」
「む、そ……そうか」
手伝ってくれるのなら、とアウレトーラは頷いた。しかし、とちらりと女性を見る。
「ほんっとーにすいません!」と恐縮そうにしている。
なんだか理由も曖昧なのに、怒る自分のほうがバカみたいに思えてきて、アウレトーラは勢いよく女性を指さした。
「待っていたまえ」
「すいま……あ、は……はい」
「ほっぺた落としてやるからな」
なにはともあれ、魔物に襲われたものに不満を感じるなんで心が狭いだろう。
心の中でそう頷いて、おいしいご飯でも振舞ってやろうと袖をまくり、エプロンを装着した。