6話(後編)
* * *
「それで、結局あの契約はうまくいったのか?」
「ああ、来週ドイツに行ってサインすることになってる」
「そうか、ま、時間はかかったけど、良かったな」
「ああ。これで次の仕事に専念できる」
一通りの食事を終えて、デザートの用意をするまでのひと時。
可偉と箕田さんはリビングでコーヒーを飲みながら淡々と話をしていた。
きっと仕事の話なんだろう。
真面目に言葉を交わしている様子に、何だか入れない雰囲気を感じたせいか、私はそっとベランダに出た。
いつも可偉と一緒に見下ろす街並みは、綺麗な夕焼けの赤に染まっている。
まるで風景画のようなその視界全体に感動を覚えながらぼーっとしていると。
「紫さん、一緒していいですか?」
涼香さんが、遠慮がちな声でベランダに顔をのぞかせた。
「もちろん、いいよ。夕焼けがきれいだから、一緒に眺めようよ」
おいでおいで、と手招きすると、ほっとしたように小さく笑った涼香さんがベランダにおりてきて私の隣に並んだ。
「今日は、色々とありがとうございました」
「いえいえ。大した料理もできなくてごめんね。みんなが差し入れてくれたハムが一番おいしかったかも。でも、普段一人でいる事が多いから久しぶりにこんなに大勢の人としゃべって楽しかった」
ふふふっと笑って涼香さんを見ると、彼女もこの数時間が楽しかったのか満足げな笑顔。
整った顔だけど温かみもあって、きっと会社では人気があるんだろうな、とわかる。
可偉の言葉を聞くと、仕事もできる人で、箕田さんというエリートの恋人もいて。
無敵な女性だな。
そんな事を考えながら二人でぼんやりとしていると、前からの友達のような気がして不思議だ。
涼香さん以外の可偉の部署の女の子たちはキッチンで洗い物をしてくれて、男の子たちは足りなくなったビールを買いに行ってくれている。
涼香さんと二人で話せる時間が欲しかった私は、隣をそっと窺いながら彼女に声をかけた。
「昨日の電話……って一体どんな意味があったの?私と可偉の結婚の事を聞いてたけど。もしかして、マリッジブルーとか?」
涼香さんの穏やかな表情に甘えて、ストレートに聞いてみた。
箕田さんとの結婚が決まっているようではないけれど、箕田さんは強固に彼女との結婚を進めようとしているし、箕田さんの中では、それはもう本決まりのような印象を受けた。
涼香さんにしても、口ではまだ結婚は考えられないような事を言ってるけれど、箕田さんの事を拒む様子はないし。
「涼香さんも、結婚したいんじゃないかって思ったんだけど、違うかな?」
彼女の顔をそっと覗き込むと、驚きと照れくささと、そして箕田さんへの思いからかほんの少し赤みが増した頬が見えて。
「違わないみたいだね。箕田さんの事、好きでしょ?」
ふふっと肩を竦めると、涼香さんは小さく息を吐いて苦笑した。
「どうして、わかっちゃったんでしょう。私と箕田さんが付き合ってるのって、社内でもほとんど知られてないのに。そんなに顔に出てましたか?」
「顔に出てたっていうか、体中から好きだっていう思いが溢れてたのは箕田さんで、涼香さんの気持ちは周りには気づかれてなかったと思う」
「……聖司さん……今日みたいにあからさまに気持ちを出すなんて今までなかったんですけど。きっと、折川部長の様子に感化されたんだと思います……」
「え?可偉の影響?」
「はい。もともと、私と二人きりの時には折川部長顔負けの甘い人で、私はどうしていいのかわからなくて」
小さくため息を吐いた途端、はっとしたように口に手元に当てた涼香さん。
何か悪い事でも呟いたかのように顔を曇らせた。
ん?どうして?
首を傾げた私に、少し気まずそうに。
「折川部長と比べてすみません。別に折川部長が仕事中でも、事あるごとに紫さんの事をのろけたり自慢したり、机の上の写真を見ては気合を入れなおしたりしていても気にならないんですけど。
いざ、聖司さんが同じように私に気持ちを注いでくれると……困るっていうか、もったいないっていうか……。どうして私なのかがわからなくて」
本当にどうしていいのかわからないとでもいうように、眉を寄せて俯いた涼香さんは、思わずため息までも。
箕田さんとの関係に心底悩んでいるのかと思いつつ、涼香さんが口にした『もったいない』っていう言葉がふと気になった。
涼香さんの事をとても大切にしていて、手放す事なんてあり得ないだろうと思わせる強引な箕田さんの強い思いに嘘はないだろうし、涼香さんだって箕田さんを好きだとわかるんだけど。
「二人は両想いだよね?端から見たらまるわかりだけど?なのに、どうして『もったいない』なの?」
そんな疑問を涼香さんにぶつけてみると、困ったような瞳で私を見ながら。
「だって、箕田さんのようなできる男の人、それに、女の人からの人気も高いし……。
そんなすごい人が私と一緒にいてくれるなんて、今でも信じられないし、申し訳なくて」
ぼそぼそと、自分を責めるような声で呟いた。
遠くを見ながらの言葉は寂しげで、それまでみんなの前で見せてくれていた明るい笑顔とも、昨日私に電話をくれた時のはっきりとした口調とも違っていた。
ほんの少しお酒を飲んで、本来の気持ちが表れたのかもしれない。
きっと、箕田さんが心配したりしないように、そんな本音を隠していたんだろうな。
「箕田さんは、涼香さんの隣で飲んだり食べたりしてる時すごく楽しそうだし幸せそうだったよ」
「それは、私も同じです……」
「うん。その気持ちも見ていたらすぐにわかったよ」
ほんの少し顔を赤らめて照れくさそうに笑った涼香さん。
なんて可愛らしいんだろう。
「二人が一緒にいて幸せならそれでいいんじゃないの?」
くすくす笑いながら、からかってみると、涼香さんは苦笑を交えた口元になって。
「でも、いずれ海外に赴任するかもしれない箕田さんの足手まといになるかもしれないし、一緒にいて幸せだからって彼の側にいつまでもしがみついていてもいいのかが……わからなくて」
「涼香さん……」
くっと口元を引き締め、心なしか涙目の彼女は、瞬きをこらえているような声で。
「折川部長は、いつも言ってるんです。『紫が側で笑っているだけで、俺は無敵だ』って。
照れるなんて言葉、部長の辞書には載ってないように自信に満ちた声でそう言うんです。
聖司さんも、折川部長と同じように恋人の私には甘い人で、私が側にいる時が一番幸せで、何でもできる気がするって優しく言ってくれるんですけど。
本当に、私が聖司さんの役に立っているのかがわからなくて、それで……結婚も、していいのかどうか。
考え出すと煮詰まってしまって、つい昨日紫さんにあんな電話をしてしまって……本当にすみません」
小さくなっていく声は少し震えていた。
胸の前で握りしめている両手は血の気もないくらいに白くて。
どれほどの力で握りしめているんだろうと、そして、その強さと同じだけ、箕田さんとの結婚を悩んでいるんだろうと簡単にわかる。
そんな涼香さんは、私が見る限りかなりの美人で、色白の肌は透けるほどに綺麗だし、鎖骨がきれいに浮き上がるデコルテだけでスタイルの良さがわかる。
それに。
「可偉は、涼香さんの事、かなり仕事ができる人だから安心してるって言ってたよ。
毎日遅くまで仕事をしてる可偉に負けないくらいの量をこなしてるのにミスもないって誉めてたし。
涼香さんがその気になれば、箕田さんのサポートなんて簡単だと思うよ」
ゆっくりとそう言ったけれど、涼香さんはふっと肩を竦めて。
「仕事は好きだし、手助けもできるかもしれないんですけど、英語は話せないし基本的に人見知りだし、それに紫さんと違ってお料理が苦手だから、聖司さんの生活全般を支えるなんてできない……。
これで海外赴任になって私もついて行く事になったら、きっと足手まといにしかならないと思うんです」
「だから、箕田さんとの結婚を悩んでるの?」
「はい……。十中八九、近いうちに海外に行く事になるだろうって言われてる彼には、もっとふさわしい女性がいるんじゃないかと……」
「そんなこと、ないと思うけど」
俯く涼香さんにそう言っても、それはなんの慰めにもなっていないようで、彼女の表情は変わらない。
箕田さんの事が好きだという気持ちが強い分だけ悩んでいるに違いない。
悩む事、ないと思うんだけど。
それはきっと私が第三者だからそう思うだけで、本人にとっては悩み以外の何物でもないのかもしれない。
けれど、第三者だから冷静に見る事ができる部分も多い。
涼香さんと箕田さんが作り出す甘い空気感に、周囲はやられっぱなしだったのに。
特に、箕田さんが涼香さんに向ける視線の熱に、部屋の温度は上昇のみ。
そんな流れに気づかないのか、我が家に来てからずっと、涼香さんは箕田さんの側にいて甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
その様子をそれとなく、それでいて優しい気持ちで見ていたのは私だけじゃなくて、時々目が合う可偉も呆れたように笑いを堪えていた。
その場にいたみんな、私と同じ思いだったと思う。
そんな思いを巡らせながら、涼香さんに近づいて。
「箕田さん、猫舌だよね?」
そっと聞いた。
「え?あ……はい。聖司さんは、熱いものはかなり苦手です」
突然の私の質問に首を傾げる涼香さんに、小さく笑った私は、心でやっぱり、と呟いた。
「さっき、茶わん蒸しを食べてる時に、聖司さんの茶わん蒸しが早くさめるように、何度かなかみをほぐしてたし、ふうふうしてたでしょ?
まず一番に箕田さんの茶わん蒸しを手に取ってそんなことをするなんて、かなり箕田さんの事を理解してるって思ったんだけど?」
「理解、してるかどうかはわからないんですけど、長く一緒にいるので自然にわかるというか、何も考えなくても動けるというか」
戸惑うような涼香さんは、小さく首を傾げた。
私の言葉の意味がわからないんだろうけど、そんな不安げな姿も可愛い。
きっと、箕田さんの自慢の恋人なんだろうな。
この部屋に来てからずっと自分の隣に座らせて、思う存分甘い視線を向けていた箕田さんからは
『俺たちに構わないでくれよ』
というような無言の光が溢れていた。
そんな二人を、やけに嬉しそうに見つめていた可偉は、それに負けるかと私の隣を温めていた。
まるで普段の我が家をそのまま隠す事もしない、あからさまな私への溺愛ぶり。
きっと、会社での可偉とは全く違うその愛情垂れ流しの様子に、可偉の部下という名の観客たちは、言葉を失い、そして延々続くそんな可偉に慣れたあとには。
『折川部長の机の上の紫さんの写真は、これからも増えるに違いない』
くすくす笑って、口々にそう呟いていた。
そして、箕田さんと涼香さんにも同じような呆れ顔を向けて、何度も二人の事をからかっていた。
悪意のある言葉は全くなかったのはきっと、箕田さんも涼香さんも社内での評判がいいからだろう。
私も、優しい笑顔と裏表のなさそうなさっぱりとした口調に惹かれて、これからも仲良くしたいとそう思えたから、涼香さんの悩みを解消してあげたい。
それに、彼女の悩みは単なる取り越し苦労だとわかりきっている。
「涼香さん、箕田さんのスマホを預かってたよね?」
「あ、はい。いつもそうなんです。前にお店で飲んでいて落とした事があるらしくて、それ以来飲む時には私のカバンに入れて預かる事になっていて。
自分のカバンに入れておけばいいんですけど、なんだかそれが習慣になってて……」
照れて少し赤くなった頬は、きっと夕焼けのせいだけじゃない。
「それに、可偉と箕田さんが話し始めたら、二人の邪魔にならないように、そっと箕田さんのグラスを片づけたり、席を外したり。
空気を読んで箕田さんが過ごしやすいように動いていたでしょ?
それって、箕田さんの事が大好きだからできるんだと思う。
いつも箕田さんの事を気にかけていて、自然に動けるなんて羨ましい。
箕田さんには涼香さんがいないとだめってことじゃないの?」
「でも、そんな事はきっと、誰でもできるはずだと思うんです。
長く聖司さんと一緒にいれば、彼の事は理解できるし、私がしている事なんて些細で大したものではないんです」
「まあ、そうだよね。きっと、長くいれば誰でもできると思う」
あっさりとした私の言葉に、涼香さんは少し傷ついたような表情を浮かべた。
自分が感じている事をそのまま私に言われたとはいえ、実際に他人に言われれば傷つくに違いないから。
そんな涼香さんを目の前に、私も少し心が痛い。
「でもね」
俯く涼香さんに続けた。
「誰でもできるけど、誰もがそれを許される訳じゃないと思うよ」
「……え?」
「だって、箕田さんって見るからに可偉と同類っていうか、生きる基準が一緒って感じでしょ?
自分の懐に入れたものはとことん愛して守ってくれる。
そして手放さないし誰にも邪魔はさせないっていうか……ある意味わがままな暴君?」
くすくす笑った私に一瞬きょとんと眼を見開いた涼香さんは、私の言葉を理解したのか口元を緩めると小さく息を吐いた。
「暴君、ぴったりですね。いつも私の気持ちも存在も側にないとだめだって言っては抱きしめてくれて……あ、あの、ごめんなさい、抱きしめてなんて……」
「ふふっ。別にいいよ。可偉だって同じだもん、私がちゃんと可偉を愛してるってわかってるくせにそれをいつも実感しないと落ち着かないみたい」
「折川部長って……本当に、奥が深い人ですね。仕事では厳しすぎて近寄りがたい雰囲気に満ちてるのに、紫さんに対しては甘すぎて溶けそう」
「でしょ?でも、それは箕田さんも一緒じゃない?一旦自分が大切にしようと思ったものにはとことん甘くなって、時間も何もかもを注いでくれそう。
でも、本当に大切だと思えるものにしか気持ちは分けてもらえないだろうし、近づく事も許してくれなさそう」
今日、箕田さんを見ていて思ったのは、あまりにも涼香さんを愛しているという強い思いと、それ以外の事はとりあえずどうでもいいかと軽く考えているって事。
可偉の部下の女性の中には、箕田さんに対して少なからずの淡い恋心を抱いてるとわかる人もいたけれど、それに気づいているのかいないのか、彼はただひたすら涼香さんのみを見つめ続けていた。
その様子に、ほんの少しの傷とともに諦めの苦笑を浮かべていたかわいい女性。
「きっと、箕田さんのお世話をしたり、一緒にいるうちに生まれる習慣を覚える事は簡単だけど、それをさせてもらえるのはそうそう容易い事ではないと思う。
箕田さんが本当に欲しいって思った人しか恋人にはなれないし、懐には入れてもらえないんじゃないかな。それは、唯一選ばれた女の子が得られる特権」
「特権、ですか?」
「そう。唯一恋人に許された特権。だって、今日の茶わん蒸しだって、他の女の子が手に取ろうものなら零下100度の冷たい視線と声で瞬時に拒否されそうだもんね。
というよりも、隣に座らせてもらえることだけでもなかなか許してもらえないと思うよ」
「そうでしょうか……」
私の言葉の意味を正確に受け止めてくれたのかどうか曖昧に見えるけれど、でも、箕田さんにとっての特別な存在には違いない涼香さん。
その事をちゃんと理解してもらえれば、きっと自信がわいてくると思うんだけどな。
「それに、涼香さんも箕田さんの側にいたいから、昨日も私に電話してきたんでしょ?」
ふふふっとからかうように笑う私に、はっと照れたように瞳を揺らした涼香さんは、
「あ、その事なんですけど、あの、恥ずかしいので内緒にしておいて欲しいんです」
慌てて呟いた。
「内緒?にはできないかも。だって、夕べ可偉には言っちゃったから」
「え。あ、そうなんですか?私、昨日は思わず電話しちゃって……聖司さんからのプロポーズをどうしようかと混乱してしまって……あ、もちろん嬉しかったんですけど」
嬉しかったと呟く声は、照れも交じっているけれど、それ以上に嬉しさがにじんでいて、本当に幸せそうに見えるんだけど。
涼香さんは、そんな自分の気持ちを抑えるかのように表情を引き締めると。
「紫さん、声が大きいです。まだ返事もしていないし、周りには秘密にしてるんで……」
困ったように肩を竦めた。
けれど。
「もう遅いかも」
「え?」
「ほら、後ろ」
涼香さんの背後を顎で指し示すと、そこには、私たちをじっと見つめている愛情あふれる二組の瞳があった。
「あ、聖司さん……」
「可偉っ。もう、話は終わったの?」
可偉と箕田さんは、にっこりと笑って頷いた。
部屋の中から私たちを見ていたらしい二人は、いつから私たちの話を聞いていたんだろうかと気になったけれど、箕田さんがにやりと笑っている様子を見ると、かなり前からのようで。
「そんなに俺の事を考えてくれたなんて、気づいてるつもりで気づいてなかったよ」
嬉しさと誇らしさと。
涼香さんへの愛情がこもった言葉がそれを教えてくれた。
きっと、涼香さんの結婚へのためらいがちな思いを聞いて、なお一層愛情を確認したんだろうと思うけれど、二人きりでいるかのようにまっすぐに彼女を射る甘い視線は外野には目の毒で。
私は、呆然としている涼香さんの側をすっと横切って可偉の胸に飛び込んだ。
それほどのでは勢いはないけれど、一気にこの身を預けた私を大切に抱きしめてくれる可偉の体温が嬉しくて、その胸に頬をすりすりとしてしまう。
「どうした?あの二人にあてられたか?」
「うん。だって、涼香さんってすごくかわいいんだもん。箕田さんの事が大好きでたまらないのに、その気持ちを貫いていいのか悩んでるし。
今更箕田さんから逃げられるわけないのに、離れた方がいいかも、なんて無駄な事を考えてて。
かわいすぎる。……まるで、可偉に捕まった時の私みたい」
可偉の胸に、ゆっくりとそう呟きながら、ぎゅっと抱き着いた。
可偉の背中に回した私の手は、あたかも可偉の存在を確認するかのように、何度もその背中を上下に撫でて安心感と幸せを実感する。
ここに可偉がいて、この胸に体を委ねる事ができる唯一の恋人、ううん、妻である自分の幸運が奇跡のように思えてくる。
そして、さっき、涼香さんに言った言葉はそのまま私にも当てはまると思い返した。
箕田さんと一緒で、可偉だって、自分がちゃんと受け入れて愛する女の子しか懐に入れてくれないし、隣で笑う事も認めてくれない。
可偉のくせや好みを理解して、それに合わせて近くにいる事は誰でもできると思うけれど、それを心から喜んで、許されるのは唯一可偉が愛する女性だけだ。
その唯一の女性としてのポジションを私が得ている事が、本当に奇跡的で幸せな事だと。
涼香さんの様子を見ていて改めて気づいた。
「私だって、結婚するまでは、可偉の側にいるのが私でいいのかなって悩んだから、涼香さんの気持ちはよくわかるんだ。
可偉って、私みたいな何も取り柄がなくて、仕事だってぼちぼち、見た目もぼちぼちで、おまけに両親がいなくなった後の不安定な精神状態に苦しんでる私をちゃんとを受け止めてくれて、おまけに目いっぱい愛してくれる大きな懐を持っていて。
それに、超一流企業で働いていて見た目も極上で。
女の子からの人気も独り占めしそうな、そんな可偉の側に私がいる事が可偉の為になるのかなって悩んだりもしたから、涼香さんが悩むの、すごくわかる」
可偉に抱きしめられながら、つらつらとそんな想いを口にすると、くっくと笑う可偉の声が響いた。
見上げた可偉の表情は、満足げに優しくて、今まで見た中で一番誇らしげに私を見下ろしている。
「そっか。俺は、紫にとってはそんなにいい男なんだな。
極上なんだな。……聞いたか?おい、俺は愛する嫁さんに極上の男だって言われるほどのいい男らしいぞ」
可偉は豊かな声でそう言うと、背後を振り返ってにっこりと笑った。
え?誰に言ってるんだろう。
もしかして……とこわごわと可偉の胸から顔を離して、そっとその向こうを見遣ると。
コンビニの袋を両手に下げて、表情を消した面々が呆然と立っていた。
「あ、お帰り……買い出し、お疲れ様……あは。ははっ……」
慌てて可偉の腕から抜け出そうとするけれど、可偉の腕に力が入ったのが一瞬早くてそこから抜け出せない。
「か、可偉……ちょっと、離してよ……みんなが」
みんなが見てるし、恥ずかしいから離して欲しいのに。
可偉はますます力をこめて私を抱きしめた。
「俺が、あれだけの量の仕事を完璧にこなすにはそれだけの理由があるんだ。
そりゃ、努力もするし裏付けもある。他人よりも強い気持ちで仕事に向き合っているという自信もある。
それも大切だけど、一番の理由はこれだ。
今俺の腕の中で幸せに満ちている嫁さんがいるから、俺は極上でいられるんだ。
愛する女が俺の事を愛して、極上だと言ってくれるような、そんな幸せを手放したくないから俺は仕事も頑張る。何もかもの理由は、紫の存在。それだけだ。
仕事を突き詰めるのも大切だけど、それを後押ししてくれて、自分を極上にしてくれる愛しい存在をお前らも早く作れよ」
頭上に響く甘くて重い声が、可偉の部下の人たちに伝わると、みんなその言葉をかみしめたように何度も頷いた。
「仕事の為に生きるんじゃない。愛する人の為に仕事をして、そして自分も幸せになる事が結局は仕事もうまく回せるってこと。
……まあ、俺も紫を懐に取り込んでからそれに気づいたんだけどな。
お前らも、そんな大切な存在を見逃さないようにしろよ」
何度も私の頭を撫でてくれて、時折視線を落としながら私の存在を確認してくれる。
そんな可偉の様子は、私には慣れたものだけど、目の前に立ち尽くしているみんなには驚きのみの状況らしく、しばらくは瞳を揺らしていた。
「可偉だけじゃないぞ。俺だって、涼香の為に仕事をして、涼香を幸せにするために、生きてるんだ。
俺が可偉と並んで将来の役員候補だって言われてるのだって、涼香っていう愛しい女がいるおかげだ」
突然、私たちの隣に立った箕田さんと涼香さん。
涼香さんは、箕田さんにきつく肩を抱かれていて照れて俯いている。
顔も真っ赤だし、口元がぎゅっと引き締まっていて本当に恥ずかしそうにしているけれど、それでもその手は箕田さんのシャツをしっかり掴んで離さない。
ふふっ。ようやく、涼香さんも箕田さんに寄り添っていくと決めたのかな。
最初から、それは決まっていて、箕田さんが手放すわけないのに。
これだけ涼香さんを愛しているんだから、箕田さんは容赦なくその想いをぶつけてくるはず。
可偉との経験で、それは私も味わった甘い経験。
涼香さんだって、逃げられるわけがない。
残された道は、諦めて開き直って、ただ愛する人からの重すぎる愛情を受け止める事だけだ。
「あの、折川部長……」
そんな可偉と箕田さんの言葉をどうにか受け止めていたみんなのうち、一人の男の子が恐る恐る呟いた。
「ん?なんだ?」
「あの、俺も、呼んでいいでしょうか?……恋人に、プロポーズしようかどうしようか悩んでいたんですけど。
お二人の言葉を聞いて、若いからだとか、まだ仕事も半人前だからだとか言い訳している時間が無駄に思えてきて。
今ここに呼んで、お二人の様子を見せれば結婚してくれそうな気がするんです」
「プロポーズ?いいぞ、今すぐここに呼んで結婚を決めろ。
なんなら俺がお前の仕事ぶりを話してやるし、後押しはどれだけでもしてやる。
大切な女がいるならとっとと捕まえろ」
「は、はい。ちょっと、電話してきます」
突然の展開。
目の前の男の子は、手にしていたコンビニの袋を隣の男の子に無造作に手渡すと、一つ大きく息を吐いて部屋の片隅へと移動した。
そして、部屋の中に沈黙が広がる中で携帯を取り出して、きっと恋人だろう相手へと電波を飛ばした。
「あ、俺だけど。今からここに来て欲しいんだ。……え?ああ、部長の家だけど。そう、折川部長の自宅に。うん、部長もいいって言ってくれてるから、すぐにこれるか?」
可偉が、小さく笑って、私の肩を抱き寄せながら、
「あいつ……慶吾の彼女も同じ会社なんだ。柏原乃絵さんって言ったかな。秘書課のアイドルだ」
耳元で囁いてくれた。
どこか緊張しながらも、嬉しげに話す慶吾くんを優しく見つめる可偉も、その隣で笑っている箕田さんも。
そして、慶吾くんの様子をはらはらした様子で見ているみんな。
「え?大丈夫?じゃあ、駅まで迎えに行くから、すぐに来いよ。うん、待ってるから、気を付けて来いよ」
通話を終えて、ほっとしたように息を吐いた慶吾くんは。
「勢いで電話しちゃいましたけど……これで良かったのか……って言っても今更ですよね」
不安げに呟いた。
そりゃ、そうでしょう。
愛する恋人にプロポーズしようとするんだから、きっとどきどきして堪らないだろうし、怖さだってあるに違いない。
見れば、慶吾くんの指先は微妙に震えているし。
ちょっと後悔してるのかな……。
もし、不安なら今日は来てもらうだけでプロポーズは次回でもいいかも。
と後ろ向きに考える私とは逆に、可偉は
「今の不安を何倍も超えた幸せを手にする事ができるから、格好悪くても必死でも、好きな女を手にいれろ」
どこまでも前向きだった。
箕田さんもその言葉に大きく頷いていて。
やっぱり二人はよく似ている。
そんな私の思いは涼香さんも同じようで、二人でからみ合わせた視線には、『幸せだね』という気持ちが重なっているように思えた。
* * *
結局、慶吾くんと彼女は無事に結婚を決めた。
彼女の乃絵さんだって、プロポーズをずっと待っていたらしくて、慶吾くんから
『結婚して、二人で幸せになろう』
と言われた瞬間から号泣。
言葉にならない嗚咽の中で何度も頷いた彼女は、とても輝いて見えた。
慶吾くんも、そんな彼女を抱きしめて嬉しそうに笑って。
可偉や箕田さんに負けないほどの甘い甘い言葉をささやいていた。
私はそんな言葉は可偉の口から何度も聞かされているし、涼香さんも同じらしく平気で聞いていたけれど、若手の皆様には刺激が強すぎたらしく。
恋人がいる人はそれぞれの恋人に会いに、そして今はまだ巡り会っていない人ですら幸せな未来に想いを馳せて。
どこか温かい空気を纏いながら帰っていった。
そして、そんな中で私と可偉の愛情も普段以上に溢れだすのを止めるなんてできなくて、みんなが帰ったあと、後片付けもそこそこに。
いつも通り二人でお風呂に入って、そして長い夜を愛し合って過ごした。
箕田さんに感化されたのか、元来の負けず嫌いが顔を出したのか、その晩の可偉の愛情は底なしで、何度も私を真っ白な世界に放り込むほどに抱きつぶした。
慣らされたとはいっても、可偉の指先が肌を這うたびにこぼれる声を我慢することはできなくて。
「可偉、もう、無理だよ……」
シーツをぎゅっと掴んで、這うように逃げようとしても逃がしてくれない力に取り込まれて。
「まだまだ、足りない」
そんな言葉に震えながら、気づけば私からも可偉の動きに合わせて寄り添って。
「可偉が極上なのは、私のおかげなんだよね」
弾む息遣いの中、自慢げに、そう聞いてみた。
すると、可偉は普段よりも潤んで熱い瞳で私を射ると、口元を横柄に上げた。
「当然だろ。ちゃんと間違えずに紫を捕まえた俺こそ極上の男だ」
くくっと笑って、かすめるようにキスを落として、そして。
「そんな俺を愛する紫も、俺には極上の女だ」
私の身も心も溶かすような言葉を平気で吐き出すこの男は、本当に手に負えない。
それでいて愛しい、唯一の夫。
この幸せがいつまでも続くようにと、お互いの熱い体を更に近づけて、力いっぱい抱きしめた。
「愛してるよ、可偉」
その胸に残した言葉の返事は、私の背中に回された強い腕の力。
それだけで安心する。
そして私達は抱き合ったまま、そっと心地よい眠りへと誘われた。
【第六話 完】