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6話(前編)


「週末、何人か家に呼んでもいいか?」


可偉が私に聞いてきたのは、水曜日の夕食の時。

朝からコトコト煮込んでいた『おでん』をふうふうしながら食べていた私は、まだ熱さが残っている大根にやけどしそうになりながら。


「何人かって、誰を呼ぶの?」


口の中の大根をどうにか飲み込んで、視線を上げた。

お水を飲みながら熱さに耐えていると、くくっとのどの奥で笑った可偉は


「そんなに慌てなくていい。会社の部下たちが来たいって言ってうるさいんだ。

俺の机の上にある紫の写真を見ながら『実物に会いたい』って何度も言ってくるし、一度家に呼べば落ち着くだろうから、呼んでもいいか?」


「え、いいけど……えっと、しゃ、写真?」


可偉の言葉に驚きながら、目を見開いた。

写真?私の?


「ん?紫の写真以外に誰の写真を置くんだ?こんなに愛してる嫁さんがいるのに、他の写真を置くわけないだろ?」

「……」


たっぷり煮込んでとろとろ、つややかな牛すじを堪能しながら、可偉は肩をすくめた。


「やっぱりおでんには牛すじだな。大根も捨てがたいけど、これが一番うまい。次は牛すじだけのおでんでもいいぞ」


日本酒を飲みながら、幸せそうに呟く可偉は子供のようだ。

でも、牛すじだけのおでんって、それは単なる牛すじの煮込みじゃないのかな。


「なあ、明日牛すじ追加で。できれば10本。全部俺の」

「……了解」

「お、厚揚げ発見。このだしのしみ具合絶妙」


撤回。可偉は子供のようではなく、子供だ。

結婚まであっという間で、というか、出会ったその日に可偉のものになってしまった私は、彼自身の事を全て知っているわけじゃないなと思う。

つい最近、可偉の仕事が何なのかを知ったし(宣伝部の部長らしい。だからといって、具体的な業務内容は相変わらず知らないままだ)。

お互いに惹かれあった気持ちに素直になって、慌ただしく一緒に暮らし始めてから、更に惹かれあって愛し合って。

私を何よりも一番大切に考えてくれて、私が被るすべての災いから守ってくれる可偉。

可偉の懐の中でぬくぬくと毎日を幸せに生きている私。

どちらかといえば無理矢理、強硬に可偉のものにされたけれど、今ではそんな偶然というか奇跡のような出会いに感謝しかない。

もう、可偉がいない毎日なんて考えられない。

可偉と一緒に過ごせる時間ほど大切なものはなくて、その時間を味わうためにだけ家事を早く終わらせている気もする。

本当に大好きな可偉だけど。

それでもやっぱり理解できないこともあるわけで。

目の前で何本目かの牛すじに舌鼓をうっている可偉の顔を見ながら。


「ねえ、私の写真、可偉の机の上に置いてあるの?」


まさか、部長ともあろう男性が、奥さんの写真を机に置くわけなんかないだろう、きっと私の聞き間違いだろう、という思いを抱えながら聞いてみた。


「あ?もちろん、置いてあるぞ。俺が気に入ってる紫の写真5枚。あ、安心しろ、こないだの海で撮った紫の水着姿は置いてない。

あんな可愛い紫を、俺以外の男に見せるわけがないから、大丈夫だ」

「5枚……」

「俺のお気に入りは二人で初めて遊園地に行った時の写真だな。……クレープ食べてる紫の笑顔に癒されながら仕事してる」

「ク、クレープ」


思い出せる。心当たり、ありありだ。


「それに、お隣の相模さんの授賞式に呼ばれて正装した時の黄色いドレスの紫も艶やかで、あの全身の写真にも俺はやられっぱなしだな」


お隣に住んでいる相模さんは、有名な建築士で、最近大きな賞を受賞した。

その授賞式に招待してもらった私たちはいそいそと出かけた。

可偉が選んだ黄色いドレスは、妙に肌の露出が少なくて、ちょっと物足りなかったんだけど、可偉は満足そうだったっけ。

そうなんだ、あの時の写真まで……。


「そうだ、あれもお気に入りなんだ。花火大会に二人で浴衣を着て出かけた時の写真。紺地に朝顔の柄が映えて綺麗だったから毎日見てるんだ」

「可偉……」


可偉は、頬の筋肉がやたら緩んで落ちそうな笑顔を私に向けると、


「でも、こうして目の前にいる本物の紫が一番かわいいけどな」


私を一瞬で射抜くような甘い声で囁いた。

瞬間、私の体中が熱くなって、手に持っていた箸を落としそうになる。

私を喜ばせてくれる可偉の言葉には慣れているけれど、ううん、慣れているつもりでいたけれど、まだまだだ。

私はまだまだ可偉の手のひらの上で踊らされているとしか思えなくて、思わず俯いた。

結婚して、こうして夫婦としての時間を重ねていても、可偉への愛情は右肩上がりで、同じだけの想いを可偉も私に与えてくれる。

それを実感して、心はぬくぬくと温かい。

そして照れた顔を隠しながら。


「明日、絶対に牛すじ追加しておくね」


可偉に踊らされている私は、それがやっぱり幸せで、可偉が喜ぶ事をなんでも受け入れてしまうんだ。

こんな、子供みたいな夫に振り回されて、私は右往左往して。

それはそれは幸せな毎日だ。

そんな気持ちを交わすように、可偉と二人で視線を絡ませながら笑いあった。


そんな幸せな毎日を送っている我が家に、土曜日のお昼、可偉の会社の人たちが遊びに来てくれることになった。

とりあえず二人で住むには広すぎる我が家だから10人ほど来ると聞いても大丈夫だけれど。

さて、何を用意しようかな。

みんなで囲めるものがいいけど、独身の男の子も多いらしいから家庭料理がいいのかな。

デザートも外せないし。

木曜金曜の二日間、私は葵さんの手も借りて、当日のメニューを作り買い物に出かけ、家じゅうを普段以上に掃除して。

忙しいながらも賑やかになりそうな土曜日が楽しみで待ち遠しかった。

可偉を支えてくれている会社の人たちへのご恩返しもできるし。

私がよく知らない、可偉の会社での様子も聞いてみたいな。

そうだ、クッキーを焼いて、お土産に持って帰ってもらおうっと。

ふふ、楽しい。

そんな私は、金曜日の昼間から軽く歌を口ずさみながら楽しく料理の下ごしらえに励んでいると。

不意に電話が鳴った。

普段、可偉なら私の携帯にかけてくるのに、家の電話が鳴ったせいで何だか胸騒ぎ。

ほんの少しどきどきしながら受話器を取ると。


『折川部長の奥様でしょうか?私、部長の下で仕事をしております初見涼香と申します』


やけに可愛い声が聞こえた。


「あ、折川の家内の紫です。いつも主人がお世話になっております」


反射的に電話に頭を下げて、挨拶をすると。


『あの、突然ですけど、折川部長の奥様をしていて、幸せですか?』

「……は?」


唐突な言葉をぶつけられて、私の頭は混乱してしまった。

えっと、その。


「し、幸せ……でございますが……?」


一体、彼女、初見さん?は私に何を言いたいんだろう。

も、もしかして、可偉の事を……?

あれだけ見た目が整っている可偉だし、勤務している会社だって超一流。

毎日一緒に仕事をしていれば、可偉に惚れてしまう女性の一人や二人、いたっておかしくない。

ううん、一桁じゃ数えきれないほどの女性が可偉に好意を持っている可能性も高い。

初見さんは、そんな女性の一人なのかもしれない。

日々積もっていく可偉への想いに耐えきれず、自分のものにしたい、奥さんに電話して、身を引いてもらおう。

悩みに悩んでの切羽詰った感情に導かれて、とうとう私に電話を……。

うっ……ど、どうすれば。

こんな時、妻はどう対処すればいいんだろうか。

可偉を誰かに譲るなんて、全く考えられないけれど、かといって彼女が可偉の会社の部下なら、私が敵対心丸出しで答えたら、可偉の立場がまずくなるんじゃないかと。

でもでも。

やっぱり、可偉を譲るなんて無理ー。


「あ、あの、初見さん?あれだけ可偉が格好よくて、女性に優しくて、仕事も頑張ってるし、惹かれるのもわかるんだけど。

やっぱり、可偉の事、私も大好きで愛してるから、離れるなんてできないの。

毎晩ぎゅとしてもらわないと眠れないし、お昼休みにかけてくれる電話が楽しみで仕方ないし。

あの魅惑のヴォイスで『紫』って呼んでもらうとすごく幸せで、とろけそうになるから。

どれほど初見さんの思いが強くても、私は可偉を譲るなんてできないの。ごめんなさいね」


本当、ごめんなさい。

初見さんの気持ちは、たとえつらくても、ひっそりとその胸に収めて欲しい。

強く握りしめた受話器をしっかりと耳に当てながら、私は小さく何度もうなずいた。

初見さんが、泣きだしたらどうしようかと心細い気持ちを抱えて。

そして、しばらくの沈黙を経たあと。

電波の向こうから小さな吐息が聞こえたかと思うと。


『あの、譲って欲しいとは思ってません。折川部長を欲しいとは、全く思ってませんから、安心してください』


ほんの少し不安げだけれど、それでも私を安心させるような優しい声。


『折川部長の事、上司としては尊敬していますけれど、その……愛情が欲しいとは思っていません』

「え?あ……そうなんですね……っと、その。私の、その……」

『はい、奥様の早とちりですよ』


くすくす笑われて、あっという間に私の顔は熱くなった。

耳だって熱を帯びて、受話器を握る手は汗ばんでくるし、恥ずかしくて仕方ない。


「は、早とちり……あ、ごめんなさい。私、いつも可偉の事になると焦ってしまって。どうしても冷静じゃいられなくて」


ははは、と笑いを交えながら、恥ずかしさをどこかに押しやろうとするけれど、それでもやっぱり体中から汗が出そうになるくらい恥ずかしい。


『いえ、突然、私がおかしな質問をしてしまったせいで、勘違いされたんですよね。すみません』

「か、勘違い。あ、そう、それです。思わず私……本当に慌て者で、可偉にもいつも笑われていて。でも、あー、良かった。可偉の事を取り合うなんて、体に悪すぎる」


ほんの少しの短い時間だけど、私の体全部が緊張感に溢れていて、可偉のいない未来を想像してしまったり、それでも譲れないから闘わなくっちゃと泣きそうな気持ちを奮起させたり。

今日一日の気持ちの浮き沈みをこの数分で一気に終えたようで、気持ちも体も力が抜けた。

受話器を耳にあてたまま、思わずカーペットの上に座り込んでしまった。


『奥様、初めにちゃんと言えば良かったんですけど、折川部長のように、ただひたすら奥様を愛している男性と結婚されて幸せですか。不安はないですか』


座り込む私の耳に届いたのは、少し震えているような、か細くて不安定な声。

初見さんは、一体どんな答えを私に求めてるんだろうか?

まだドキドキしている心臓をどうにか落ち着かせながら、その問いに一応答えてみた。


「幸せですよ。可偉は……私を不安にさせるようなことは何も言わないし、態度でもちゃんと安心させてくれるというか、やりすぎなところもあるけど、それもまた彼を愛しく思えるポイントだし。

不安といえば、どんなに仕事が忙しくて帰りが遅くても私と過ごす時間だけは外さないから体調を崩さないかが心配でね。

会社ではどうなのかなあ?忙しいとは思うけれど、もう少し早く帰ってくる事って難しそう?」


可偉が忙しいのは出会ってからずっと変わらないし、本人は仕事を楽しんでいるからそれは仕方がないのかと思うけれど。

やっぱりそれによって睡眠時間は削られるから、体調が心配。

おまけに、その少ない睡眠時間を更に削って私を愛してくれるから……えっと、私はそれは嬉しいんだけど……可偉に抱かれると、その温かさが私を満たしてくれて幸せでいっぱいになるし。

でも、可偉の体調が気がかり。

せめて食事だけは栄養を考えてバランスの良いものをと思って、朝と晩の献立には気を遣っている。

そうすると、可偉は嬉しそうに全部平らげてくれるから私も嬉しくて。

更に仲良くなる私たち。

今朝も、朝から豚の生姜焼きが食べたいって言われて頑張って作ったら大喜びで……。


「あ、可偉って、今日の昼食は何を食べたのか、知ってますか?野菜を中心に食べてねって言ってるんだけど、いつも『朝と晩でバランスとってるから大丈夫』って言って笑ってるから気になって」


電話の向こうの初見さんに聞いてみるけれど、なぜか返事が返ってこない。

あれ?

切れてないよね?


「は、初見さーん?聞こえてますかー?」


少し大きな声で確認すると。


『……ちゃんと、聞こえてますよ。ふふっ。やっぱり、折川部長の奥様は、折川部長が選んだ方ですね』


「は?」


まるで笑いを堪えたような、のどに詰まった声音が届いた。


『いえ、なんでもないです。ただ、折川部長の一途さにも呆れて……いえ、驚いてますけれど、奥様も負けていらっしゃらないので、ちょっと羨ましいなと思ったんです。

あ、ちなみに今日の昼食ですけど、午前中の会議が延びてしまったので、何も食べていらっしゃらないと思います。奥様はご心配されるかもしれませんが、こんな事、しょっちゅうですよ』


「あ、やっぱり」


なんとなく、そんな日もあるのかなとは思っていたけれど、『しょっちゅう』だとは。

ちゃんと食べるように可偉に言わなくちゃ。


『奥様が折川部長とご結婚されて、幸せだという事はよくわかりました。突然すみませんでした。

それに、折川部長もいつも幸せそうにしていらっしゃる理由もわかった気がします』

「え?あ、はあ……。って、何が?」

『いえ、いいんです。納得できたし、少し勇気が出ました……』

「勇気?」


小さいながらも、ほんの少し明るくなったような声の意味がわからなくて、相手に見えないのに首を傾げる私。


『あ、明日みんなとお邪魔させていただきますので、よろしくお願いしますね。いろいろとお手間だとは思いますが、私も明日お手伝いしますので』


「いえいえ、そんな大したおもてなしはできないんで、気楽に来てくださいね」

『はい、ありがとうございます。お会いできるのを楽しみにしています』


そう言った彼女は、突然の電話に対してお詫びとお礼を口にして、電話を切った。

受話器を元の位置に戻した後、私はこの数分が何を意味していたのかがわからなくて、しばらくの間ぼんやりと立ち尽くしていた。

私が可偉の奥さんをしていて幸せかどうか、って事を気にしていたけれど、彼女は一体、何のつもりでわざわざ電話してくれたのかな。

その日の午後はずっと、その電話の事が気になってしまって。

たくさん作ろうと思っていたクッキーの分量を間違えてしまって、10人分でいいのに……20人分のクッキーが次々とオーブンの中で焼きあがっていった。






*   *   *



「うわっ。俺の好物ばっかりが並んでる。……今日、俺の誕生日じゃないよな」


テーブルに並ぶ夕食を見て、可偉が嬉しそうな声をあげた。

揚げたてのエビフライを一つ頬張りながら、空いている手でネクタイを緩めている。どっちかにしたらいいのに。

普段よりも少しだけ早い帰宅の可偉は、家に着くなり『腹減ったー。今日の夕飯はなんだー?』

とキッチンに向かって。

テーブルいっぱいに並んでいる大好物の品々を見るなり大きな笑顔を作った。


「マカロニサラダ、全部食っていいか?小さい頃から、ボールいっぱいのマカロニサラダを食べる事ほど夢のように幸せを感じる事はなかったんだ」


ツナと人参入りのマカロニサラダは可偉の大・大・大好物で、何度も作っているけれど、その度取り分ける以前のボールに入ったままのサラダを一気に食べる可偉。

その、小さな頃からの夢の話は何度も聞かされているから、私の中では今日も絶対にその話をするはずだろうと、作っている時から予想済み。


「おお、鶏のつくねと豆腐の煮物。生姜が効いていておいしいんだよなあ、あ、すりごまあるか?」


その言葉も予想済み。


「もちろん」


私の言葉に嬉しそうな声で『よしっ』と小さくガッツポーズをする。

あーあ。食べ物に関しては、やっぱり子供だな。

わくわくした顔を隠そうともしない可偉に、


「早く手を洗ってうがいして、着替えてきたら?ビール飲むでしょ?」


呆れたため息を隠しながらそう言うと。


「ああ、週末だし、一緒に飲もう。……それにしても、こんなに俺の好物ばっかり作って、どうしたんだ?

あ、もしかして、何かおねだりしようとしてるか?

鞄?靴?それともアクセサリー?旅行?って、旅行は俺と一緒じゃないと許さないってわかってるよな?

あ、前から欲しいって言ってた電動自転車か?あれ、良さそうだもんな。

まあ、なんでも買っていいんだぞ。

紫が欲しい物を買ってやるために働いてるんだからな。

存分に買い物してくれていいぞ」


な?と首を傾げながら満足げに笑う可偉は、私の頭を軽く撫でながら嬉しそうに一人で納得した。

そういえば、電動自転車、欲しいなあ。

買い物に行く途中には、結構きつめの坂がたくさんあるから、あれば便利かも。

しばらく忘れていた事を思い出して、気持ちがそっちに飛んでいきそうだけれど、どうにか我慢する。

そして、可偉に負けないくらいの笑顔を作って、かなり優しい声で囁いた。


「私が欲しい物を買ってくれる為にお仕事頑張ってくれるのは嬉しいけど、せめてお昼ご飯はしっかりと食べてね。

三食きちんと食べてこその大人だっていつも言ってるのに、私の言葉流してるでしょ」


私の言葉に、可偉は一瞬体をこわばらせて、見開いた目で私を見た。

後ろめたさに揺れる瞳からは、私の言った事が正解だと、無言のまま教えてくれる光が見えた。

やっぱり、仕事が忙しくて昼食を抜く事はしょっちゅうなのかもしれない。


「コーヒーばかり飲んでたら、胃が弱るから適度にちゃんと食べなくちゃだめだよ。お昼ご飯抜いてしまったら、チョコレートでも食べてエネルギー補給しなくちゃ。初見さんだって心配してるよ」

「初見?え、なんで初見の事を紫が知ってるんだ?俺らの結婚式にも来てないはずだぞ」


それまで、私に昼食抜きがばれて俯きがちだった可偉が、驚いて声を上げた。

眉を寄せて、訳が分からないとでもいうように、私を見つめている。


「えっとね、私もまだよくわからないんだけど、今日初見さんから電話があったの」

「は?電話?」

「うん。家の電話にかかってきたんだけど。何のためにかけてきたのかよくわからなかったんだよね」


テーブルにお箸を並べて、そして食事の用意は無事に完了。


「その話はご飯を食べながらゆっくりしよう。とりあえず、昼食抜きの可偉の為に用意した可偉の大好物ばかりだから、いっぱい食べてね」


「あ、それでか……」


わかった、とにっこりして、可偉は私の頬に軽くキスを落とした後、寝室へと着替えに行った。

今テーブルに並べているのは可偉の大好物ばかり。

初見さんとの電話を切ったあと、明日の下ごしらえを中断して慌ててスーパーに向かって自転車を飛ばした。

昼食抜きでお仕事を頑張ってる可偉の為に、ごちそうを作ろうと、急いで作ったメニューはありふれたものばかりだけど、それでも可偉が喜んでくれるのはわかっていたから、一生懸命愛情込めて作った。

そんな私の気持ち、ちゃんと可偉には伝わったみたいで、へへっと笑顔になる。

可偉が私の為に働いてくれるのなら、私は可偉の為にこうしてごちそうを並べたい。

太陽の光をたっぷり浴びたふかふかの布団も寝室でスタンバイしているし、可偉がお気に入りに『温泉の素』も用意してある。

昼食を抜いてまでお仕事を頑張ってくれる可偉の疲れをなくすために、日々生きている私。

これを幸せと言わずになんと言おう。

肩がこっているのか、首を傾けて動かしているのにもちゃんと気づいてる。

寝る前には、じっくりとマッサージもしてあげよう。

そして、一緒に抱き合って、一晩中その体温に包まれて眠りたい。





   *   *   *




「お邪魔します。すみません、大勢でおしかけちゃいました」

「うわー、本物の紫さんだ、写真よりも断然かわいいっ」

「折川部長がのろけるのもわかりますねー、本当にきれいな奥様で羨ましいです」

「……」


土曜日のお昼前、可偉の部下の人たちが我が家に来てくれた。

宣伝部というだけあって、どこか明るくて元気な人たちが多かった。

服装にも気を遣っていて、流行には敏感な若い人たちだなと思う私って、やっぱり結婚して世俗からは離れてしまったのかと思ってしまった。

自分が見た目に気を遣わないわけではないけれど、それよりもまずは可偉の健康に気持ちは向いてしまうし、二人で笑いあえればそれでいいやって思うから、そんなにお洒落にもメイクにもこだわらなくなった。

それって、可偉にはどう見えているんだろうと、少し不安にもなったけれど。

それくらい、今日来てくれた人たちみんな、スマートな雰囲気だった。

ほとんどが20代だというその中で、なかなか渋い雰囲気の男性がいた。

可偉と小さく笑いあっては頷いているその人、夕べあらかじめ聞いていた『箕田聖司さん』に違いない。

今日来てくれるメンバーの中で唯一の管理職であり可偉の同期だという男性は、宣伝部に属しているわけではない。

海外事業統括部で部長をしているせいで、私と可偉の結婚式の時にはアメリカに出張で飛んでいたらしく、欠席だった。

私と一度会ってみたいと何度か言われていた可偉は、部下たちが遊びにくる今日、声をかけたらしい。


『可偉の人間性を変えるほどの恋女房をじっくりと見てやる』


可偉にそう言って笑ったらしい箕田さんは、今私を目の前にして。


「予想以上に可愛いな。俺でも欲しくなる。……ま、俺には大切な女がいるから無理だけど」


そんな、思わず驚きで硬直しそうな甘い言葉をあっさりと言い放った。

部屋に入って来た瞬間のその言葉には嫌味はなくて、私に親しみと仲良くしてくれようとする積極的な気持ちを教えてくれた。

きっと、いい人なんだろうと思えたのには、箕田さんと可偉には同じ雰囲気が漂っていて、初対面の私でさえそれに躊躇せず近づける温度を感じたから。

若いメンバーが多い中でも楽しそうに馴染んでいるその様子からは、みんなから慕われている事もわかるし社内でもきっと好かれていると思えた。


「可偉は紫ちゃんにべた惚れで、どんな女が言い寄っても見向きもしないんだよな。

本当、変われば変わるもんだよ。独身の頃はあれだけ女と遊んで……いてっ。何するんだよ、せっかく俺が話してるのに」

「せっかく話すなら、紫さんが喜ぶ話をして下さい。折川部長の過去の話を敢えて誇張して言わなくてもいいじゃないですか」


明るい笑顔で可偉の事を話し始めた箕田さんの背中を軽く叩いて、それを中断させたのは、それまで黙って穏やかに笑顔を向けていた綺麗な女性。

箕田さんが話し始めるや否や慌てたように近づいて、見るからに焦っている。


「紫さん、すみません。折川部長、確かに女性には人気がありましたけど、あ、今もそうですけど奥様一人を大切にしていて、他の女性には全く気持ちを揺らす事はありませんので安心してくださいね。

箕田部長の話は鵜呑みにしなくて大丈夫ですから」


私の気持ちを楽にしてくれるように、そう言ってくれる彼女のこの声、聞き覚えがある。


「おい、鵜呑みにしないでって、まるで俺が嘘をついてるみたいだろ?可偉が昔相当女と……って、何度も叩くなよ。そんなに俺に構って欲しいなら夜まで待て。じっくりと構って可愛がってやるから今は我慢しろ」

「ちょっ……ちょっと、今そんな事を言わなくてもいいじゃないですか。今は折川部長の事を話してるのに……本当に、いつもいつも」

「いつもいつも、ちゃんと涼香の事を愛してるから。そう拗ねるなよ」

「……なっ」

「それとも、さっき俺が紫ちゃんを可愛いって言ったから怒ってるのか?それなら心配するな。俺にはどんな女がいても涼香が一番可愛い」

「せ、聖司っ」

「あ、二人きりの時しかそう呼んでくれないのに、とうとう俺と結婚してくれる気になったか?可偉と紫ちゃんのスイートホームにあてられたか?」


ふにゃり。

可偉と同期だという、箕田さんの顔が、一気に甘いお菓子のような顔になった。

涼香さんと呼ばれた女性の肩を抱き寄せて、俯いているその顔を覗き込んだかと思うと、あっという間に……。

あ、キスしそう。

その場にいるみんなが驚いて、思わずじっと見ていると。


「ばかーっ」


顔を上げた涼香さんのグーが箕田さんのお腹に食い込んだ。


「人前で恥ずかしい事をしないで下さい。結婚するなんて言ってません。それに、紫さんの方が私よりもずっと可愛いです……私とは全然違います」


お腹を抑えてほんの少し前かがみになった箕田さんを前に、泣きそうな声。

涼香さんはグーの手をおろして、一瞬唇をかみしめると、箕田さんに


「私、まだ決められません」


そう言って切なそうに再び俯いた。

そんな涼香さんの顔を懲りずに覗き込んだ箕田さんは、涼香さんの悲しげな声なんか関係ないとでもいうように


「でも、俺の事、好きなんだろ?俺だって涼香に惚れてるんだから一緒にいればいいし、結婚してもいいだろ?」

「……私……」

「俺はもう、涼香しかいらないし、嫁さんにするって決めてるから。逃がさないし結婚もする。そのあとで気持ちを整えればいいだろ?」


特に強い口調でもなく、今日初めてその言葉を口にしたわけでもなさそうな落ち着いた口調の箕田さん。

涼香さんを見つめるその瞳には愛情が満ちていて、絶対に自分の気持ちを成就させるという決意が見える。

あー、本当に涼香さんを愛してるんだなー。

優しく笑った口元や細めた目は温かくて、悩んで苦しんで、どこかへ逃げ出しそうな涼香さんを包み込むような大きさ。

大人のオトコって感じだ。

箕田さんがそっと伸ばした手は涼香さんの腕をつかんで、その胸に彼女を引き込んで。


「というわけで、俺たち付き合ってるから」


言葉を失い、呆然と二人の様子を見ていた可偉の部下達ににっこりと笑った。

どこか楽しそうな、それでいて余裕のその表情は、私の隣でくすくすと肩を揺らして笑う可偉に似ていた。


「聖司、いい加減俺の部下を幸せにしてやれよ。彼女は俺の右腕としていい仕事してくれるんだ。早くすっきりして仕事に専念させてやってくれ」


からかうような可偉の言葉から、可偉は二人が付き合っているってことを以前から知っていたようで。


「俺と紫みたいに幸せな結婚しろ」


私は可偉に腰から抱き寄せられて、そっと額にキスを落とされた。


「な?紫だってそう思うだろ?」

「そう……って?」

「ん?結婚っていいもんだって思うだろ?俺と結婚して幸せだろ?」


吐息を感じるくらいに近い距離でそう聞かれて、一瞬にしてその瞳に引き込まれる。

愛している人からのそんな瞳はまるで魔法のように私に届いて。


「うん、幸せ。結婚っていいよね」


可偉の瞳をじっと見つめ返して大きな声で答えた。


「うん、いいよな、結婚」


満足げに頷く可偉に抱き寄せられてその胸に顔を埋めると、愛しい人の体温が私を包み込んで、思わず両手を可偉の背中に回した。

抱き着いた私を更に強い力で抱き返してくれた可偉は、嬉しそうな笑い声をあげながら。


「涼香、お前もいい加減に聖司に堕ちろ。うだうだ悩んでも悩まなくても、結局は幸せになれるぞ。な、紫」

「うん。幸せになれる」


と、普段と同じ甘えた声で答えた途端にはっと気づく。

今、私たちは二人きりではないと。

勢いよく顔を上げて振り向くと、砂をかんだような顔をした可偉の部下の人たちが、私たちと箕田さんたちを交互に見ていた。


まるで目の前の様子が信じられないとでもいうような表情で。



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