4話
可偉の仕事について、詳しく知らない私はできの悪い嫁なんだろうか。
毎日可偉の為に食事を用意して、家の中を整えて。
可偉が気持ち良く過ごせるようにと気を配るだけではやっぱりだめなんだろうか。
うーん。
日々の楽しさに埋没しているせいか、そんな事考えたこともなかったけれど、一度悩み始めると、抜け出せないループの中に放り込まれたみたいでどうしようもない。
私って、いい嫁ですかー?
答えのない問いに、誰か答えて欲しい。
「で、どうして突然そんな事を悩み始めたの?」
「そう、突然なんだけどね。これこれ、これなのよ」
お隣に住む葵さんに見せたのは、可偉宛てに届いた暑中お見舞いのはがき。
差出人は、しゃぶしゃぶのお店で、またのご来店をお待ちしております、みたいな文面でまとめられている営業に違いないはがき。
「え?これがどうしたの?このお店なら、会社で働いていた頃に何度か行ったことあるよ」
葵さんは、首を傾げながら、コーヒーを口にした。
たまたま回覧板を持ってきてくれた葵さんを半ば無理矢理家に引きずり込んで、コーヒーと手作りのシフォンケーキを並べた私に、苦笑しながらも付き合ってくれる葵さん。
葵さんの旦那様は、世間でも名前が知られている建築士で、そういう世界に疎い私でさえ名前と顔が一致するすごい人。
葵さん自身も建築の仕事をしていて旦那様と知り合って、今では双子ちゃんのお母さんとして毎日忙しくしている。
私がこの家に越してきて、引っ越しの挨拶に伺って以来仲良くしてくれている、良き相談相手。
私も葵さんも両親を亡くしているという共通点もあって、何かと私の事を気にかけてくれるし、頼りになるお姉さんだ。
その葵さんに、『相談があるんだけど』と言って見せている目の前のはがき。
そう、全てがこのはがきから始まったんだ。
「こんなの、飲食店に限らず、美容室だとかスーパーだとか、色々送られてくるでしょ?
いちいち気にすることないんじゃないの?
まさか、可偉さんが浮気でもしてるとか疑ってるの?」
「え?浮気?そんなの疑った事ないよ」
目の前で手を大きく横に振ると、ふふっと笑った葵さんは
「そりゃそうよね。いつでもどこでも紫ちゃんの事を大好きだっていう気持ちを限界まで公にしてるもんね。そんな可偉さんに近づくような勇敢な女性がいるとも思えないし」
からかうような葵さんの声に、幾つも心当たりがある私は赤面して、俯きがち。
「じゃあ、どうしてこんなはがきがきっかけで、自分がいい嫁かどうかって悩み始めたの?」
穏やかに笑って、優しく聞いてくれる葵さん。
いつもほのぼのとした雰囲気で、周りの人を和ませてくれる彼女の笑顔を見ると、なんでも話してしまいたくなるから不思議。
小学生の子供がいるお母さんだとは思えないくらいに若いし艶っぽい。
きっと、旦那様に愛されてるんだろうな。
私みたいに。
「あの、このはがきにね、『いつもお仕事でご利用いただきありがとうございます』って書いてあるの。
それがショックで」
思わず小さくなってしまう声と、情けないほどに落ち込む気持ち。
そんな私の様子を見て、葵さんが戸惑うのもわかるけれど、どうしてもこのはがきが私に与えたショックは大きくて、なかなか浮上できない。
何度も読み返したはがきは、たくさんの皺もよっていて、一度目を通しただけでその存在を忘れている可偉が見た時とは全く違う様相。
「ねえ紫ちゃん、私が鈍いんだろうけど、このはがきを読んで、どうして紫ちゃんが落ち込むのか、全然わからないんだけど」
私に気を遣うかのように、静かにそっと聞いてくれる葵さんは、本当にわけがわからないとでもいうように、眉を寄せていた。
そ、そうだよね。
普通は、わからないよね、どうして私が落ち込んでるかなんて。
だって、普通にいい奥さんをしていれば、ショックなんて感じないはずだもん。
「私、可偉がどんな仕事をしてるのかがよくわからないの。
これって、絶対に、出来の悪い嫁ランキングの上位に入るネタだよね」
手元のコーヒーカップが揺れるくらいにばんっとテーブルをたたいてしまって、瞬間葵さんは目を見開いた。
「あ、驚かせてごめんなさい。そうだよね、驚くよね。
自分の旦那様がどんな仕事をしているのかがわからないなんて。本当私って、できの悪い嫁だ……」
ぐすり。
目の奥が熱くなって、頬をつつっと涙がつたって。
「葵さーん。私って、可偉に大切にされるばかりで、本当、ダメな嫁だよね」
ひくひくっと泣いてしまった。
はがきが我が家に届いて3日。
とうとう涙、零れ落ちた。
そんな私を見ながら、あらあら、と言いながらハンカチを差し出してくれながら、最初は静かに笑っていた葵さんだけど、次第にお腹を抱えて笑い始めた。
泣いてる私の前で大笑いする葵さんは、どうにか気持ちを落ち着かせた後
「ねえ、そのままの気持ちを今晩可偉さんに伝えてみたらいいわよ。
きっと、今まで以上に熱く愛してくれるわよ」
私の頭をいい子いい子と撫でながら、そう言ってくれた。
今まで以上に熱くって……。
え?どれほどのもの?
その晩、いつもと同じように、終電に近い時刻に帰ってきた可偉は、玄関まで迎えに出た私をぎゅと抱きしめて
「ただいま」
決して軽くはないキスをしてくれた。
私がこうして玄関に迎えに出ると、本当に嬉しそうにしてくれるのが、私にとっても幸せで。
相当体調が悪い時でも起きて可偉の帰りを待っている。
可偉も、私の事が大好きだから、『先に寝てろ』なんて言わない。
仕事で疲れて家に帰ってきて、まず私を抱きしめないとどうしようもなくつらいって。
だから起きて待ってろと、言ってもらえる私はなんて幸せなんだろう。
「おかえりなさい」
そう言って、可偉の背中に腕を回す私の心は一日で一番穏やかで温かい。
「風呂、一緒に入ろうな」
「うん」
そう言って笑いあえる日常って、他の何にも代えがたい幸福だ。
そして、普段通りに二人で夕飯を食べて、お風呂に一緒に入って。
お風呂ではのぼせるほど優しくいろいろされたけど。
今日葵さんに言われた
『今まで以上に熱い』
っていうものがどんなものなのか気になって。
というのはつじつま合わせだけど、思わず泣いてしまうくらいに私が悩んでしまう事を聞いてみようと決心した。
髪の毛をドライヤーで乾かして、家の戸締りを確認して、明日の朝食の下準備も終えて。
寝室に行くと、先にベッドに入っていた可偉が私の為に両手を広げてくれた。
嬉しくなって、急いでその胸に飛び込むと、両手で私を抱きしめて、唇には熱いキス。
そっと絡ませあう舌の動きには、まだ慣れないけれど、どうにか必死でついていく。
甘い声がどこからか聞こえると思ったら、それはまさしく私の声で、それに気づく瞬間はいつも羞恥に満ちる。
でも、可偉に愛されるこの時間がかけがいのないもので、結局可偉の思うがままの夜が始まっていく。
そして、まだ呼吸が整わないままの夜明け。
愛された余韻に浸る私は、その余韻が自信と後押しとなって、決死の思いで聞いてみた。
「ねえ、可偉ってどんなお仕事してるの?」
どこかこの場にそぐわない、私の真面目な声に、一瞬可偉は瞬きを止めてじっと私を見つめた。
「突然、どうした?」
可偉の胸に頭を乗せて、上目づかいに見上げる私に、とろけそうになるほどの優しい笑みを向けてくれた可偉は本当に恰好よくて、愛し合った直後なのに、また抱きしめて欲しくなる。
「紫が俺の仕事に興味持つなんて珍しいな」
「あ……やっぱり珍しいよね」
「ん?どうした?何だか落ち込んでないか?」
私の顎に手を差し入れてそっと上を向かせると、心配そうな目で可偉は私を見つめている。
「あのね、私、可偉に大切にされるばかりで、全然可偉の事知らないって気付いてショックなの」
「はあ?」
「だって……だって。可偉が働いている会社の名前は知ってるけど、それはこの国に住んでる人ならほとんどの人が知ってるくらいに有名で大きな会社だから、当たり前でしょ。
だから、そんなのいい嫁のチェックリストに入るほどでもない。
大切なのは、嫁の私が可偉の仕事の内容を知らないってことなの。しゃぶしゃぶのお店に負けるくらいにダメな嫁なのよ」
愛し合った直後の興奮冷めやらぬ感情は、私に言葉の羅列を許し、一気に可偉に気持ちをぶつけた。
そう。思わずぶつけてしまった。
愛されてる途中でこぼした生理的な涙の上から重なるように、切なさからの涙が零れ落ちて、私の頬はぐちゃぐちゃに違いない。
どこか苦笑しながらその涙を指先で拭ってくれる可偉は、肩を揺らしながら。
「本当、お前って俺の事がとことん好きなんだな」
そう言って額にキスをしてくれた。
「たまらないよ。本当に、俺には大切な嫁さんだ」
私の首筋に顔を埋めて、そこに痛みを残す。
それは可偉が私に与えてくれる独占欲の花。
「いっぱい、赤い花をちょうだい」
赤い花は可偉の愛情の印。
私を離さないという気持ちの証。
「私も、可偉につけてもいい?」
吐息とともにそう聞くと、言葉の代わりにきつく抱きしめてくれた。
最近ようやく綺麗な花を咲かせる事ができるようになった私は、ゆっくりと可偉の体をベッドに押し付けて。
その首筋に唇を寄せた。
くくくっと笑う可偉の声に喜びを感じて。
「私のだもんね」
そう、可偉は私のものなんだから。
* * *
「で、このしゃぶしゃぶのお店に自分は負けたって勝手に落ち込んで勝手に泣いて、そして葵さんを巻き込んだのか?」
呆れたような声を出しながら、可偉はしわくちゃになっているはがきを手にした。
「だって、私は可偉がどんな仕事をしてるのか知らないのに、このしゃぶしゃぶのお店の人は、仕事中の可偉の事を知ってるんだもん。そりゃ落ち込むよ。……ダメな嫁だよね」
はあ、とため息を吐きながら、俯いた。
朝食をとるテーブルに漂う空気は、私のせいで重く苦しくて。
仕事前の可偉に申し訳なくてたまらない。
早起きして蒸した『茶碗蒸し』は可偉の大好物で、それを用意していた事がせめてもの罪滅ぼし。
蓮根のキンピラだって、可偉が大好きだから夕べ作っておいた。
朝からすったゴマの香りがたって、可偉の嬉しそうな笑顔が今日一日の私のパワーになる。
「今は宣伝部の部長だ。先月異動して、しばらくは、まああと何年かはこのままかな」
突然、可偉の声が聞こえた。
視線を上げると、おいしそうに大根のお味噌汁を食べている可偉と目が合った。
「え?宣伝部の部長……なの?初めて聞いた。……やっぱり落ち込む。可偉の事、何にも知らない」
手に持っていたお箸を箸置きに置いて、小さくため息をついた。
先月異動したっていうのすら初めて聞いたし、可偉がそのことをどう受け止めてるのかも知らないし、聞かされてない。
私って、やっぱり、頼りないのかな。
何も話したくないって思われるほど頼りない嫁なのかな。
「ごめんね、可偉の事、何もわかってなかった。
仕事の苦労も知らないどころか、どんな仕事をしているのかもわかってないなんて、本当、だめだめだよ」
あー、どうしよう。
目の奥が熱くなって、泣きそうだ。
出勤前の可偉を悩ませたくないのに、どうしようもなく切なくて我慢できない。
手の甲で、ごしごしと目元をこすると、途端にその手を可偉につかまれて。
一瞬にして視界が変わった。
向かいの席に座っていた可偉が、いつの間にか私の隣に座っていて、肩を抱き寄せてくれていた。
「……可偉?」
「なあ紫、朝食のメニューって何が基準?」
「え?」
突然聞かれた事の意味が分からなくて、何も言えず視線を合わせたままでいると。
「朝からわざわざ茶碗蒸しまで作ってくれて、ゴマだって食べる直前にすってくれるし、俺が大好きな鰆の西京焼きだって夕べから下味をつけて用意してくれてるんだろ?」
「あ、うん。そうだよ」
「今日だけじゃない。毎朝ちゃんと手のこんだ朝食を用意してくれる。
それも、俺が好きなものばかりを選んでくれてるだろ」
優しい声と、指先。
私の顔にかかる髪をそっと梳いて額と額を合わせてくれた。
可偉の体温全てが私に注がれるような密な距離に、私の感覚は麻痺してしまいそうだ。
可偉の事しか考えられない私になる。
それはいつもの事だけど……。
「俺の事だけを一生懸命考えて、時間を割いて食事の準備をしてくれて。
夜も遅くまで俺の帰りを待ってくれて。
俺をただ愛してくれるだけでいいのに、俺のためだけに時間を割いてくれるいい女、ダメな嫁なんて思うわけないだろ」
「紫がいい嫁である唯一の条件は、俺だけを愛する事。それだけだ」
唇を重ねながら、甘い声が聞こえる。
「そんな事、条件でもなんでもないよ。当たり前のことだよ」
可偉の首に腕を回してしがみついた。
可偉の事を愛するなんて、私には呼吸するのと同じなのに。
自然な事なのに。
「会社で何をしてても、俺の心はいつも紫の事を考えてる。
だから、どんな仕事をしてるなんて関係ない。
紫に生かされて、そして仕事ができるんだ。
何をしていても、それは紫の愛情のおかげだ。
こんな愛しい嫁、ダメ嫁だなんて言う奴は許さない。
たとえそれが紫自身であってもな」
私が思っているよりも、私を愛してくれているとわかる言葉の洪水に、体はぐっと熱くなった。
私の気持ちを掴んで離さない、甘すぎる可偉に囚われて。
可偉の全てが私を支配して、その腕の中で一生を過ごせる私の未来は、これからもバラ色だ。
【4話 完】