3話
平日、可偉が仕事で家を空けている時間は長い。
帰宅時間が深夜になる事も珍しくなくて、一人の時間を持て余す事は結婚前から覚悟をしていた。
そう、結婚前はそれを予想していて、会社を退職する事にためらいもあったけれど。
実際に結婚生活が始まると、意外に一日はあっという間に過ぎて、忙しい。
私の父親が生前お世話になっていた縁で採用されたとはいえ、長い間勤務していた会社には愛着も生まれるし、私をかわいがってくれる周囲の温かさから離れると思うと寂しくて仕方なかったけれど。
世間からは有名なカメラマンとして名を馳せていた父の子供だという、平凡とは多少違った立ち位置で生きる私を守る使命から解放されたと思った会社の上司たちも、
『これからは、可偉さんが全力で守ってくれるさ。安心して主婦業に励め』
そう言って快く退職を祝ってくれた。
私自身が仕事を続けたいと言えば、全く問題なく仕事を続けられたとは思うけれど、仕事に対する熱意に乏しく、周囲に迷惑をかけずに与えられた仕事を一生懸命やる程度。
さぼっているわけではなかったし、与えられれば必死にこなしていたけれど、それだけだった私には、仕事を続ける意義が見つけられなかった。
父との関係が基盤となって入社してお世話になった会社には、マスコミから私と兄、姉を守ってくれたことも含めて感謝がいっぱい。
そして、退職日には寂しくて号泣。
この時ばかりは会社に残りたかったかも、と一瞬思ったりもした。
けれど、私の意思で入社したわけではなかった会社から離れてみると、実際に私個人として何ができるのかと、妙に真面目に考えてしまう時間が増えて。
今更ながらに『自分探し』が始まってしまった。
「今日は、近所の彩ちゃんとお料理教室に行ったんだけどね」
「ああ、駅前の教室か?俺の会社の女の子も何人か行ってるぞ」
「あ、そうなんだ。人気でね。倍率8倍の抽選を突破しての会員登録だったんだよ。
彩ちゃんは5回目のチャレンジでようやく」
遅い夕食をとりながら、可偉にその日の事を話すのは日常のものになっていて、可偉もふんふん頷きながら優しく聞いてくれる。
仕事で疲れているはずなのに、本当に嬉しそうに私の話を聞いてくれる可偉の表情に癒されて、私の一日は終了。
一人で家に一日中いるのは退屈だろうと気を遣ってくれる可偉の言葉に甘えて、英語教室とヨガ教室にも通っている。
可偉が一生懸命稼いでくれたお金を散財してしまう事に抵抗がある私は、何度も
『私が一人で家にいる事が気になるなら、習い事じゃなくてバイトでもいいんじゃない?人と接する仕事とか、楽しそうだもん。ファミレスの制服ってかわいいから実は憧れてるんだ』
と言ってバイト志願しても。
『却下。紫がファミレスでその可愛い笑顔をふりまいているなんて、俺が耐えられると思うか?俺だけの紫なのに、なんでその可愛い笑顔を他人と分け合わないといけないんだ?』
……低い声が部屋に響いて、その話題は終了した。
それ以来、バイトは諦めた。
私にしたって、世の中の何よりも可偉が大好きだから、可偉が嫌がる事はしたくないし。
大切なのは、可偉だけだから。
そして、習い事を幾つか始めて、専業主婦のイメージを払拭するような忙しい毎日を過ごしている。
会社で仕事をしている時には見つけられなかった『やりがい』のような何かが見つけられたらと思うし、一生続けられる趣味に広がっていけば、と単純に始めた習い事だけど。
「このイワシ料理、おいしいな。俺、青魚は苦手だったんだけどこれは食べられるよ。料理教室の成果か?」
「そうだよ。先生も小さいころ苦手だったらしいんだけど、この料理は大丈夫だったんだって」
「へえ、臭みもないし、うまい。トマトソースに合うんだな。また今度作ってくれよ」
「うんっ」
最近習ったイワシのフライをトマトソースで食べる料理は、習った瞬間に可偉にも食べてもらえそうだと思って一生懸命教わった。
お魚のさばき方から処理の仕方。
正直、かなり必死で練習した。
そして。
基礎から教えてくれる料理教室のおかげで私の料理の腕も日々あがっている。
今目の前で、私の料理をおいしそうに食べてくれる可偉を見られるだけで、私のその苦労も報われる。
やけどをしたり、包丁で手を切ったり、そんなのがへっちゃらに思える。
「可偉に食べさせてあげたいって思いながら、お料理教室で習ってると上達も早いみたい。きゅうり一本だっていろんな形に切れるって教わって、……ほら、これ見て」
可偉のお皿に乗せてるお花の形に切っているきゅうりを指さした。
お料理教室で習った通りに、丁寧に切り込みを入れて作ったお花は細やかな表情があって食べるのももったいないくらい。
「きゅうりを何本も無駄にしちゃったけど、可偉が喜んでくれるかなと思うと一生懸命練習できるんだ」
ふふふっと笑うと、私以上に嬉しそうな笑顔の可偉。
「そっか。俺の事を想いながらお料理教室に通ってるのか。そっか、そっか」
くしゃりと顔を崩して幸せそうな声。
私の頭をぽんと撫でてくれる温かい手。
「そんなに俺の為にお料理を頑張ってくれるんだったら、今晩はちゃんとお礼しなきゃな」
いたずら気味な、何かを企んでいるような目。
ぎくり。
艶あふれる色っぽいその表情の意味する事、それはきっと。
「いつも以上に、丁寧に、愛情込めて抱いてやるから。紫が満足するまで一生懸命愛してやる」
……やっぱり。
「あ、あの、普段から丁寧にちゃんとしっかりと愛してもらってるから、気を遣わなくていいから。ね?」
ははは、と乾いた笑いを上げる私ににんまりとした笑顔を向けると、可偉は。
「いやいや、遠慮しなくていいから。
紫が俺の事を考えてお料理教室に通ってくれて、それに」
可偉は、すっと手を伸ばすと、お箸を持ったままの私の右手を掴んで。
「この手首のやけど、お料理教室でできたんだろ?ここもちゃんと消毒してやるから安心しろ」
「消毒?」
「そう。ちゃんと俺がキスして消毒してやるから、今晩は俺に任せろ」
「……」
「さ、早く食べてお風呂に入ろう。そして、ちゃんとご褒美やるからな」
ご褒美……。
その意味する事は、わかりすぎるほどわかる。
私の喉がようやく回復したというのに、また声が出なくなるほどのご褒美を与えられるんだろうか。
……やだ。
なんだか体が熱くなってきて、うずうずしたりして。
可偉の愛情表現の大きさに不安を感じつつも、体はそれに慣らされて期待もしていたりして。
……私って……。
「何真っ赤な顔してるんだよ」
くすくすと笑いながら、可偉が私の顔を覗き込んだ。
「ま、真っ赤じゃないもん」
「くくくっ。期待してくれてありがとう。俺もその期待を裏切らないように一晩中頑張るよ。
ほら、さっさと食え。一緒に風呂に入るぞ」
「っ……」
以前の私なら、一緒にお風呂に入るなんて想像もできなかったけれど、今では恥ずかしさ以上に可偉と触れ合えるその時間が楽しみに思えるように変えられた。
……新妻だもん。当たり前だよね。
可偉に負けないくらい、可偉を求めても、変じゃないよね。
「変じゃないぞ。俺が紫を愛していて、紫が俺を愛してるんだからお互いに求め合っても不思議じゃないぞ。紫が俺を欲しいって思うなんて、俺には幸せ以外、なにものでもないけどな。……ん?なんだ。俺に自分の気持ちを見抜かれて驚いてるのか?なめるなよ。
俺がどれだけ紫の事を見ていて縛り付けてると思うんだ?紫の考えてる事くらいすぐにわかるさ。
毎晩抱いているんだ、体だけじゃない、気持ちの揺れも何もかも俺にはお見通しだ。
まあ、お料理教室でここまで料理の腕が上がるのは予想外だったけどな」
……もう、やめて欲しい。
私を溶かすような甘い言葉で攻めるのは。
これ以上私が可偉にのめりこんだら、おかしくなってしまうよ。
今でさえ、可偉だけが私の全てなのに。
「俺だって、紫だけが全てだぞ」
あー、だから、これ以上甘い言葉で私をだめにしないでよー。
* * *
可偉の宣言通り、可偉からのご褒美は限度なく続けられて、私の体には指一本動かせるだけの力も残っていない。
荒い息遣いのまま、可偉に抱き寄せられて、ベッドの中でぐったりしていた。
明け方近く。今日が土曜日で、会社が休みな事も手伝っていたのか、可偉のご褒美は際限なかった。
どんなに私が逃げようとしても、私を包み込みながら何度も抱いてくれた。
とはいえ、限度があると知って欲しい。
今日の午前中はベッドから出られないよ。
せっかくの休みだから二人で出かけたかったのにな。
ぎゅっと抱きしめてくれる可偉の胸に顔を埋めて、そっと目を閉じた。
「きっと、お料理教室の奥さんたちも、こうして旦那さんにご褒美もらってるんじゃないの?みんな、旦那さんに食べてもらいたくて料理習いにいってるんだろ?」
疲れ果てて、今にも眠りに落ちそうな意識の中に可偉の声が届いた。
甘い声は、更に私の眠気を誘う。
「うーん、どうだろ。旦那様の為に教室に来てる人もいるけど、違う人もいるから……」
「は?どういう事だ?」
どこか低くなった可偉の声に気づきながらも、眠気の方が勝ってしまって、何も深く考えないままに呟いてしまった。
「えっとね……お料理教室の先生がイケメンでね……格好いいから、先生目当てで来る人も多いから……だから倍率8倍なんだよ」
「……へえ。イケメンね……」
その声を聞いてすぐに、私は眠りの中へ落ちて行った。
ぎゅうっと抱きしめられた事に気づきながらも、可偉がその時何を思ったかなんて、気づかないままに、夢の中へ。
そして翌週のお料理教室。
仕事を休んだ可偉が何故か一緒に来ていた。
「紫の夫です。いつもお世話になっています」
そう言って、先生に挨拶してくれた。
私がここまで料理が上手になったお礼を言いたいとわざわざ来てくれた可偉を、周りの奥様方は目をハートにして見つめている。
……私の可偉なのに。勝手に見ないでよ。
「紫の料理もかなり上達しまして、毎日おいしい料理をいただいてます」
普段以上に笑顔をふりまく可偉。さらに奥様方は夢中になる。……なによ、なによ。
可偉は、何もわかっていないのか、周囲の視線に対しても丁寧な笑顔で応えている。
それがたまらなく嫌で、私は唇をきゅっと結んだ。
可偉がいるだけで緊張もするのに、奥様方に向ける可偉の笑顔が気になって、料理どころじゃなかった。
その日のメニューは可偉が大好きなロールキャベツだったから張り切っていたのに、結局何も頭に入らなかった。
全て片づけ終わって、いざ帰る時になっても
『旦那様も一緒に、お茶でも行かない?』
普段話す機会なんてほとんどない奥様に誘われて、むっとする私の横で
『いいですねー』
と頷く可偉を、きっとにらみながら。
『だめっ。可偉は私の』
抱きついてしまった私。
はっと気づいた時にはもう遅くて。
くすくすと笑う可偉に抱きしめられて、頭上からは
『俺は妻が全てなんで、妻が嫌がる事は何もしないんですよ。ですから、今日はこのまま帰ります』
まるでこの状態を見越していたかのような声。
どこか笑っているようなその声が気になったけど、今、この状態が恥ずかしすぎて顔を上げられなかった。
……あー、私達って、いわゆるバカップル。
「紫ちゃん、幸せだね」
耳元に聞こえたのは彩ちゃんの声。
うん……確かに。幸せ……かな。
結局、その日を最後にお料理教室を辞めることにした。
お料理の腕もそれなりに上達したし、後は家で毎日頑張るくらいで大丈夫だと、可偉が言ってくれたから。
……というよりも。
バッカップルぶりを露呈してしまって、恥ずかしくて通う事ができなくなったから。
彩ちゃんも一緒に辞めてしまって申しわけなかったけれど、
『それでいいんじゃないか?』
と、何故かにんまり笑う可偉の笑顔で全てがOKなような……そんな気がした。
そして、それ以来。
新しく習い事をしようかと可偉に相談するたびに、
『まずは一緒に見学に行ってやる』
と言っては会社を早退してはついてくる。
何を基準に決めるのかはわからないけれど、今は、可偉が『これ、習ってみれば?』と勧めてくれる幾つかの中から吟味中。
その中で可偉が一番勧めてくれるのが。
『将棋教室』
面差し柔らかな、和服が似合うおばあちゃん先生が教えてくれるその教室をやけに勧めてくれるのは、どうしてだろうかと、聞いてみた。
「……将棋ガールって流行ってるらしいぞ」
くすくすと笑ってる可偉。
そっか、将棋ガールか。
新聞に、流行ってるって載ってたっけ。
長い爪でも持ちやすいように作られた将棋もあるって書いてあったな。
そっか。可偉はそれを見たのかな。
「あのおばあちゃん先生なら、俺も安心だ」
ふと聞こえた可偉の言葉に首を傾げると。
「いや、なんでもない」
くくくっと肩を揺らしている可偉が嬉しそうだからそれでいいか。
「将棋ガール……もう、ガールって言える歳じゃないけど、やってみようかな」
そう答えた私に、大きく笑った可偉は、
「ん。いい子いい子」
何故か、私の頭を優しく撫でてくれた。
……はて?
【三話 完】