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10話


「え?今日も遅いの?」


「ああ、夕飯も食べてくるから先に寝ていていいから」


「うーん。でも、昨日も先に寝ちゃって……お風呂だって可偉が洗ってくれたし」


「いいんだよ。妊婦は眠くなるっていうし、風呂の掃除だって滑ると危ないから俺がする」


「でも、最近の私って簡単なお料理と簡単なお掃除くらいしかしてない」


「それだけじゃないだろ?ここで、俺たちの子供を大切に育ててるじゃないか。

俺がどう頑張ってもできないことを紫はひとりでやってるんだ」


「それは私が女だから当然なんだし」


「とにかく、いいんだよ。紫は何も心配せずにのんびりしていればそれでいい」


んー。そんなものなのかな。


可偉の言葉に納得できないけれど、出勤前にこれ以上言い争うのも嫌だな。


玄関で靴を履いて振り返った可偉にカバンを手渡して、いつものように唇が落ちてくるのを待つ。


ちゅっと小さな音を立てて離れた唇を追うように体を寄せてしまうのはいつものことで。


私の腰をすっと抱き寄せて、今まで私の唇にあった可偉の唇が、耳元をくすぐる。


これもいつものことだ。


「じゃ、行ってくる。……ちび、行ってくるからな」


ゆるゆると私のお腹を撫でて名残惜しそうに出かける可偉。


毎朝同じ、いつものこと。


玄関を出て、駅に向かって歩く後ろ姿に手を振りながら、「頑張ってね」と小さく呟く。


これだって、いつも同じことだ。


可偉と結婚して、その優しさと愛情に眩暈を覚えそうなほど幸せに暮らしている。


出会った時からずっと、「俺が生きる意味は紫を幸せにすること」と照れることなく公言している可偉。


今でもそれは変わらない。


とはいっても、私のお腹で元気に動いている赤ちゃんが生まれたあとには。


『俺が生きる意味は紫と子供を幸せにすること』


と変わるに違いない。


可偉にとって仕事は、私との生活を維持するためだけのもの。


決してやりがいを感じないわけではないだろうし、嫌々なわけでもないはずだけど、仕事を人生の一番重要なものとしてとらえていないのは確かだ。


私を愛して、私を幸せにして、私と一緒に笑い合う。


それが可偉にとっての至上の喜び。


「それを疑うわけではないんだけどなー」


膨らんだお腹をするすると撫でながら、小さく呟いた。


もやもやする気持ちを振り払うように息を吐き出して、とっくに可偉の姿が見えなくなった通りから視線を外した。


駅までは歩いて10分ほど。


今日も混み合う電車を乗り継いで、可偉は会社へと向かう。


そして、今日も帰りは遅いらしい。


「……残業なんて、嘘ばっかり」


何か理由があるはずだけど、その理由がわからない。


毎晩帰りが遅い理由を「残業」だなんて嘘、既にばれているのに。


最近、お隣に住む葵ちゃんが言いづらそうにして教えてくれたけれど。


彼女の旦那さまである恭汰さんが、可偉の会社の近くで可偉を見かけると教えてくれた。


一度や二度なら仕事での外出かなと、特に気に留めることもなかったけれど、先週から今週にかけてほぼ毎日そうだとすればそうも言ってられない。


終業時間をとっくに過ぎた遅い時刻だったということもあって、葵ちゃんが気を遣いながらも教えてくれた。


『可偉さんに限って浮気だとか、紫ちゃんを悲しませるようなことは絶対にないよ』


という葵ちゃんの言葉に、私は大きく笑って頷いた。


確かに、可偉が毎日遅くまでどこで何をしているのかは気になるけれど。


私を悲しませるようなことはしていないと、それだけはわかる。


出会ってからずっと、私の幸せを最優先に考えて生きている可偉にとって、それは自分をも不幸にすることだとわかっているはずだし。


だから、仕事を終えた可偉が何をしているのか興味はあるけど、不安な気持ちは全くない。


というよりも、可偉が何をするにしても、その根底には私への愛情があるから、また何か無理してないかなと、そんな不安はあるけれど。


「あなたのお父さんは、また何か企んでるのかな?」


お腹に向かって呟きながら、苦笑する。


私に隠れて何か計画をしているに違いない可偉を探るため、今日は葵ちゃんとふたりで探偵ごっこをする予定だ。


「夕方までのんびりして体調を整えておかなきゃね」


妊娠して以来、眠気と闘っている私は、朝食の後片付けをして、洗濯を済ませたあと、葵ちゃんとの待ち合わせの時間までゆっくりと過ごした。


旦那さんの尾行をするなんて、普通なら不安で仕方がないはずだろうけれど、普段は見ることができない可偉の姿を見られるかもしれない。


期待でわくわくする気持ちは赤ちゃんにも伝わったようで、お腹の中で暴れ出してくすぐったい。


くすぐったいだけでなく、時折痛みも感じるけれど、とっても幸せだ。


そう。


私は今、とってもとっても、幸せなのだ。




*******




夕方のラッシュ時を避けて、早めに現地に着いた私と葵ちゃんは、可偉の会社のビルが窓から見えるカフェでパンケーキを食べている。


妊娠中は体重増加に気を付けなければいけないこともあって、普段は甘いものを控えているけれど、メニューを開いた途端目に入ったフルーツいっぱいのパンケーキは魅力的。


大好きなバニラアイスもこんもりと乗っているとなれば、注文しないではいられない。


「本当、おいしいね」


「あ、葵ちゃんのコーヒーゼリーも生クリームがたっぷりでおいしそう」


「うん。コーヒーの苦みがしっかりしていておいしいよ」


お互いに食べているものを味見しつつ、そのおいしさを満喫していると、可偉の会社から続々と人が出てくるのが見えた。


二階の窓からはっきりと見えるのを幸いに、じっと見ていると。


数人の男女が足早に出てきた。


「あ、可偉だ」


見慣れたチャコールグレーのスーツが、目に入る。


時計を見るとまだ終業後すぐのはずなのに、こんなに早く会社を出てどこに行くんだろう。


「紫ちゃん、パンケーキはまた今度ゆっくり食べよう。行くわよ」


私も席を立ち、レジへと向かう葵ちゃんを急いで追いかけた。






カフェを出て、可偉の後を追ってしばらく歩いた。


その後ろ姿は急いでいるようで、追いかけるのも駆け足気味。


妊娠後、お医者様に勧められて散歩を続けているせいか、どれだけ歩いても快調だ。


葵ちゃんも、「双子を育てていると体力がつくのよ」と言って軽快に歩いている。


人ごみの間から可偉の後ろ姿を見ていると、可偉が一人でどこかに向かっているわけではないとわかる。


男性二人、女性一人と一緒に歩いている。


時折言葉をかわしながら和やかに歩くその横顔はとても穏やかで、楽しそうに見える。


私のことを一番に考えているとはいっても、可偉は忙しいながらも仕事を楽しみ、やりがいを感じている。


仕事の話をする時に見せるいきいきとした表情を見れば、それは簡単にわかること。


そして可偉が今見せている表情は、仕事の話をする時と同じ充実したものだ。


仕事が一区切りがついて、飲みにでも行くのかな?


数人で歩く足取りは軽くて明るいし。


できれば、私にも仕事の話を聞かせて欲しいなあ、なんて思いながら少し距離をとりながら追いかけていると。


一緒にいる女性が目に入る。


可偉よりも少し年上のようで、ベージュのパンツスーツにハイヒールがよく似合っている。


可偉の会社は、女性管理職も多いと聞くし、遠目にしか見えないけれど、すっと整った顔は仕事ができる女性という感じ。


可偉と笑い合いながら歩くその様子はとても気安くて、普段から仲がいいんだろうとわかる。


「あ、入った」


葵ちゃんの声に視線を動かすと、可偉達がビルの中へ入っていくところだった。


急いでそのビルに走り寄ると、葵ちゃんがビルを見上げながらため息を吐いた。


その様子を不思議に思いながら葵ちゃんを見ると。


「どこまでいっても可偉さんは可偉さんなのね」


葵ちゃんが肩をすくめながら私の頭をポンポンと撫でた。


「どうしたの?」


「ん?恭汰もかなり私のことが好きなんだけど。可偉さんはその上をいくかもね」


「は?な、何?」


葵ちゃんが言っている意味がわからない。


恭汰さんというのは葵ちゃんの旦那様で、世間では名前が知られた建築士。


毎日忙しく過ごしながらも葵ちゃんを始め、双子の子供たちを大切にする愛妻家として有名だ。


確かに可偉も平均以上の愛妻家だけれど、恭汰さんには負けると思う。


そんな私の思いを察したのか、葵ちゃんは「これよこれ」と手招きしながらビルの一階に掲げられているフロアー案内を指差した。


「え?なになに?」


葵ちゃんの隣に並んで案内に視線を向けた。


そのビルは10階建で、英会話教室やクリニックが入っている、オフィス街で見かけるには珍しくないビルだ。


その中のどれを見ればいいんだろうかと、葵ちゃんの指先が示す先を確かめるように視線を動かすと。


「え?『直前パパのための講習会』?」


フロア案内の真下に置かれている案内板には、お父さんが赤ちゃんをだっこしている写真が中央に大きく映っているポスターが貼ってあった。


思わず近づいてじっと見ると、そのポスターには『もうすぐパパになる男性に、色々教えます』と書かれている。


「もうすぐパパ……?教えてくれる?」


小さく呟いた私に、葵ちゃんは笑いを抑えたような声で呟いた。


「確かに、直前パパだもんね。可偉さんなら、デレデレパパさんって言ったほうがよさそうだけどね」


私も、そう思う。


毎晩私のお腹の赤ちゃんに話しかけては満足げに頷き、「早く出てこいよー」と言っている。


時には「女の子だったら、いつかどこかの男に掻っ攫われるんだよな。……俺、泣く自信あるんだけど」などと言っては落ち込んでいる。


そんな可偉に呆れてしまいながらも、きっとその時が来たら可偉は泣いてしまうんだろうと、お腹の赤ちゃんに同情した。


「まあ、うちも同じようなものだけどね」


ふふっと柔らかく笑った葵ちゃんは、きっと恭汰さんのことを考えているんだろう。


仕事で日本中を行き来している旦那様の事が大好きで堪らないと、言葉でも態度でもみせてくれる彼女は、本当に幸せそうだ。


私同様、既に両親を亡くしている葵ちゃんには、旦那様と子供たちと過ごす時間がとても愛しくて、怖いくらいに幸せだと、ことあるごとに口にする。


その気持ちは私にもよくわかる。


家族と一緒にいられることほど幸せな時間はないから、可偉には仕事から早く帰ってきてほしいし、休日は一緒に過ごしたい。


「あらあら、可偉さんに抱きつきたくなった?」


私の顔を覗き込む葵ちゃんは、からかうようにそう言って、私の背中をそっと押した。


ビルの中に入って行こうとする葵ちゃんの様子に、私は慌てた。


「もしかして、入るの?」


「もちろん、入るわよ」


当然のようにそう言って、ずんずんと入っていく葵ちゃんに引っ張られながら、ぐるぐると思考回路を動かして考える。


このままいくと、可偉に会ってしまう。


今日、可偉を尾行して、仕事帰りの行動を探っていたことがばれてしまう。


絶対に、怒られる……ことはない、かな?


もしかしたら、私と会えたことを喜んで、その場で抱きしめられるかもしれない。


出会って以来、私への愛情を隠すことなく見せる可偉は、TPOを考えずに私を抱きしめたりキスしたり……。


人前であってもなくても、関係なくて。


「ま、まずい。……葵ちゃん、だめ、帰ろうよ。可偉が何をしているのかがわかっただけでいいから」


足を踏ん張って、葵ちゃんを引き止めた。


けれど、振り返った葵ちゃんは既に楽しみモード全開で、可偉が何をしているのかをちゃんと見届けようとしているとわかる。


いつも冷静で落ち着いた物腰の葵ちゃんが、どうして可偉の様子をここまで見に行こうとしているのかわからない。


「可偉は、沐浴だとかミルクの飲ませ方だとかを習ってると思うし、見なくてもわかるからいいの。もしも私を見つけたら、どんな行動に出るか不安だから、このまま帰る」


そう言って帰ろうとするけれど、葵ちゃんは相変わらず私の腕を掴んだまま離さない。


いつもは静かな葵ちゃんだけど、こうと決めたら頑固だもんなあ、と思いつつため息を吐いた。


「ねえ紫ちゃん、そっと覗いてみようよ。可偉さんが、忙しい仕事を定時で終わらせてまで通っているなんて、興味あるでしょ?どんなことをしているのかなんて予想できるけど、そんな可偉さんを見られるなんて今しかないんだよ。

生まれてくる赤ちゃんと紫ちゃんの為に頑張る可偉さんを見ることができるなんて、今しかないのよ」


「う、ん。それはわかるけど」


諭すような葵ちゃんの声にも、頷けない私はもごもごと答えた。


可偉が私と赤ちゃんのために時間を作ってくれているのはわかるけど、でも、こうして尾行してしまった自分に後ろめたさも感じるし。


私を傷つけるようなことをするわけないとわかってはいても、可偉が何をしているのかが気になっていたのは事実だ。


今、顔を合わせてもうまく笑えるのか、ちょっと自信がないかもしれない。


「やっぱり、帰ろうよ」


そう言った私に、葵ちゃんは首を横に振った。


「とりあえず5階に上がってみて、もし見つかりそうなら帰ろうよ。遠目からでも見る事ができたら、見つからないように少しだけ見よう」


ね?と言って、再び私を引っ張りエレベーターへと向かう。


こんな強引な葵ちゃんは珍しいけれど、これもきっと、私を想ってのことだから無下にはできない。


覚悟を決めて、エレベーターの前に立った。






*****






「ただいま」


「おかえり。ごはんは?」


「会社の何人かと食べたからいい。エビフライがおいしい店があるって聞いて行ったんだけど、紫が作るエビフライの方がおいしかった」


「そうなの?じゃ、来週にでもエビフライ、作るね」


「お、楽しみだな。だけど、揚げ物で気分が悪くなったら困るから、無理はするなよ」


「うん、つわりの時期はもう終わってるから大丈夫だよ」


「そうか。……ちび、ただいま。今日もいい子にしてたか?夜も遅いしあくびでもしてるのか?」


私のお腹に向かって優しく話しかける可偉は、いつもと同じように手のひらでそっとお腹をなでてくれる。


その仕草にどきどきする私。


妊婦なのに、そわそわしてしまう。


「あ、着替えてきたら?お風呂も沸いてるよ」


「ああ。眠いなら紫は先に寝ていていいぞ」


「まだ眠くないから起きてるよ」


「そっか」


私が起きていると言ったせいか、嬉しそうに笑った可偉は、くちゅり、と音を立ててキスを落とした。


「なんなら、一緒に風呂、入るか?」


「ふふっ。今日は遅いからやめておく。週末、一緒に入ろ。赤ちゃんと三人で」


「だな。三人、三人。いいなあ、三人」


弾むような声でそう口にしながら、可偉はお風呂へと向かった。


離れる間際に私をぎゅっと抱きしめて「幸せだなあ」と、私と同じ気持ちを呟いて。


その背中は本当に幸せそうで、軽やかに体は揺れていた。


可偉が脱いだジャケットを手に取って、寝室のクローゼットに掛けたとき、ポケットから一枚のレシートが落ちてきた。


なんだろうと拾って見ると。


エビフライを食べたらしいお店のレシートだった。


5人分のエビフライと、ビール8杯分の料金。


「あの人たちにおごってあげたんだな」


夕方目にした可偉と、その同僚の人たちが目に浮かぶ。


きっと、可偉よりも若い男性陣と女性。


あの女性は津田志穂子さんと言って、可偉の会社の人事部の人らしい。


可偉たちが入っていったビルの5階でエレベーターを降りた瞬間、鉢合わせをしてしまった。


『わ、紫さんだ』


私を指差して声をあげた志穂子さんは、その途端はっとしてあたりを窺うと。


『こっちに来てください』


そう言って、私と葵ちゃんを近くの部屋に連れて行った。


会議室の一室だろうその部屋は、パパさん講習会をしている部屋から少し離れた場所にある。


可偉に見つからないかひやひやしているのがばれたのか、志穂子さんは「しばらくは誰も来ないから安心してね」、と言ってくれた。


そんなことを言われても、どうしてこの人が私の名前を知っているのか、そして、どうしてここに連れてこられたのかがわからなくて戸惑うばかり。


葵ちゃんと顔を見あわせておろおろしていると、


『写真以上に可愛らしいわね。可偉くんが表情を緩めてのろけるのもわかります』


志穂子さんは、私たちに椅子を進めてくれ、お茶を出してくれた。


そして、強引にこの部屋に強引に引きずり込んだことを謝りながら、それでもくすくすと笑い続けた。


『実はね、可偉くんをはじめ、ここに来ている男性社員は皆出産間近の奥様がいらっしゃるんだけど』


そう言って、私のお腹をちらりと見つめた志穂子さん。


とても優しい視線に、何故か私の気持ちは落ち着いた。


妊娠していると一目でわかる私のお腹をとても愛しげに見つめている様子からは、もしかしたら、志穂子さんも出産経験があるのかもしれないと思った。


私と目が合うと、そんな私の答えに頷くように首を振ってくれた。


そして、志穂子さんは再び口を開き、ゆっくりと言葉を続けた。


『わが社には以前から育児休暇制度があるんだけど、なかなか男性社員は利用しないのよ。確かに、責任ある仕事を抱えていたら利用を躊躇してしまうかもしれないけど。でも、たとえ数日でも利用すれば、奥様だって負担が減るし、父親としての自覚だっていい感じで芽生えるでしょ。だから、強制的に育児休暇を利用させることになったの。その前準備としてこの『もうすぐパパ教室』に仕事のあと通ってもらって、育児休暇中にすんなりと奥様のお手伝いができるように勉強してもらっているのよ』


ここ最近可偉の帰りが遅かったのは、そういう理由だったんだ。


志穂子さんは、人事部の部長さんで、中学生のお子さんが二人いらっしゃるらしい。


出産当時は育児休暇制度なんていうものは広まっていなくて、1年の産休後仕事に復帰してからというもの、必死で仕事と家庭を両立してきたらしい。


旦那さんは同じ会社の営業マン。


育児にはほとんど関わることなく過ごし、今では多感な年頃となった子供たちとの関係はいいとは言えないらしい。


そういう経験もあり、志穂子さんはこの育児休暇制度を対象男性社員に強制的に利用させる後押しをしているということだ。


『可偉くん……あ、ごめんなさいね。私は彼が新入社員だった頃の担当だったのよ。だから今でも可愛い後輩なの。……その可偉くんの机に飾ってあるいくつものあなたの写真を何度も目にしていたから、今日一目見て紫さんだって、気付いたの』


突然部屋に連れて行かれた時には焦ってしまったけれど、その話を聞かされたあとは違う意味で焦ってしまった。


可偉のデスクの上に私の写真が飾ってあるのは可偉の部下の人たちから聞いて知っていたけれど、別の部署の人にも私の顔が知られているなんて。


本当、恥ずかしい。


照れて俯いている私に構うことなく、葵ちゃんと志穂子さんの会話は続いた。


その会話を聞いていると。


可偉は育児休暇制度を利用するつもりでこの講習会に参加しているらしいけれど、それはそれは熱心な生徒らしい。


私が予想していた沐浴やおしめの替え方はもちろん、産後の私の体調を考えた簡単な料理の作り方も習っていて、とても優秀。


いつ赤ちゃんが生まれても大丈夫だと、志穂子さんは言ってくれたけれど。


私は可偉から育児休暇を利用するなんてこと、聞いていないんだけどな。


お風呂に入っている可偉の着替えを手に、肩をすくめた。





*****





「ビールはどう?」


「んー。今日はやめておく。さっき少し飲んだからいいよ」


「あ、エビフライのお店ね」


「ああ。明日も仕事だしな」


お風呂を済ませた可偉は、濡れた髪をタオルで拭きながらソファに腰掛けた。


そして、当然のように私を手招きながら「紫」と呟いた。


その声は呪文のように私を包み、ほとんど無意識のうちに可偉のもとへと歩を進める。


可偉の目の前に立った途端、可偉の両手が私の腰を包みこみ、ぐっと引きよせる。


可偉の口元が、私の胸に押し付けられ、抱きしめられた。


背中に回された手は、私の存在を確かめるように上下する。


毎晩の恒例行事のようになっているこの時間が、私は楽しみで仕方がない。


可偉の頭を抱きしめて、更に二人の距離をぐっと密にするのもいつものことで、今日も幸せだな、と実感する。


そして、一息ついて。


可偉は私の体を気遣いながら、そっと私を膝の上に抱き上げる。


横抱きされた状態の私は、可偉の胸に体を預けてふっと息を吐いた。


「今日もお疲れ様。いつも、私と赤ちゃんの為にありがとう」


「紫もお疲れ様。いつも、俺と赤ちゃんの為にありがとう」


耳元に注がれる言葉は何度も聞いているけれど、いつも心を温かくしてくれる。


だから、私も可偉を温かい気持ちにしてあげたくて言葉にして思いを告げる。


そんなやりとりができる夜のひとときは、至上の時だ。


「あ、週末、兄さんがベビーベッドを持ってきてくれるって。千尋くんが使っていたものはとっくに処分したから、新しいものを買ってくれたんだって」


「え?わざわざ買ってくれたのか?悪いな」


「うん。私も自分たちで買うからいいって言ったんだけど、もう買っちゃったって言って。絶対に確信犯だよね。買ってしまったら私たちも断らないって思ったんだよきっと」


「だろうな」


くくっと笑う可偉を見上げると、目を細めて嬉しそうに肩を揺らしていた。


「産後の紫を預かりたいっていうお兄さんの申し出を断ったからな、ベビーベッドくらいありがたく受けとっておこうか?」


「あ……うん。そうなんだけどね」


「なんだ?」


小さくため息をついた私の顔を、可偉が覗き込んだ。


「何か気になることでもあるのか?」


「気になるっていうか、あのね。ベビーベッドだけじゃないのよね。ベビーカーと、沐浴用のお風呂に始まり、細々したものは既に買ってあって。それに、お宮参りに着せる晴れ着も任せておけって張り切っていて」


「は?晴れ着?」


「そう。晴れ着」


本当、兄の行動をよめていなかった自分を本当に情けなく思うけれど。


両親が亡くなって以来、私を過保護に大切に育ててくれた兄と姉。


産後一か月は面倒を見てやると言って、兄の自宅の一部屋を用意してくれていたけれど。


『俺が紫と赤ちゃんの世話をしますから』


そう言って、あっさりとその申し出を断った可偉。


出産してすぐは、私の体の回復を最優先に考えなければいけないし、新生児のお世話は昼夜問わずの待ったなしだ。


実家に帰る女性も多いけれど、両親がいない私を気遣って、兄が当然だとでもいうように


『うちでゆっくりすればいい』


と言ってくれた。


だけど、私と離れるなんて考えられない可偉は、自分に任せればいいと言って兄と対立。


どちらも譲らない心理戦を繰り返した結果。


『私も可偉と一緒にいたい』


という私の一言が決め手となって可偉に軍配が上がった。


ふふん、という声が聞こえてきそうな不敵な笑顔を浮かべた可偉の表情はなかなかレアで、写真に撮っておいて、いつか赤ちゃんに見せたかったな、と思っている。


とはいっても、可偉ひとりで私と赤ちゃんのお世話は大変だということで、兄一家がこの家に通って、手助けしてくれるという折衷案が最終的には採用された。


まあ、これについても可偉は不満げだけれど、私にとっても大切な家族である兄一家と共に赤ちゃんと過ごせる時間が今から楽しみだ。


そして、これまで同様、兄は私を甘やかすことが趣味だというように出産に必要なものを用意してくれる。


玄関横に置いてある小ぶりの旅行鞄には、いつ陣痛が起きてもいいように入院セットが用意されスタンバイされている。


これを用意したのも兄。


そして、新生児に必要な産着などなど。


5つ子を産んでも足りそうな量のおむつや新生児服が寝室には積まれている。


そして、追い打ちをかけるようにベビーベッドやベビーカー。


そう言えば、哺乳瓶を消毒するためのセットなんかも買ったと言っていたっけ。


「兄さん、とにかく私のことが気がかりみたいで、ごめんね。兄さんに買ってもらわなくても可偉がちゃんと用意してくれるって言ったんだけど、聞く耳もたずなの」


両手を目の前で合わせ、ごめんなさい、と呟く私に、可偉は苦笑した。


「あのお兄さんだからな、まあ仕方ないか。それに、産後の紫と赤ちゃんを独占できるのは俺だからな、まあ、譲るところは譲ろう。明日にでも、お兄さんに電話してお礼を言っておくよ」


「あ、ありがとう。……だけど、私にもベビーカーを自分で選ぶっていう夢もあったんだけどな」


「そうだなあ、このままいくと、ランドセルや成人式の晴れ着やなんかも気付けばお兄さんが用意してるんじゃないか?その頃は千尋くんも大きくなって手が離れてるだろうし」


「今でも親離れ著しい高校生だからね。……兄さん夫婦の次のターゲットはこの子だね」


ふふっと笑って、丸みを帯びているお腹をゆっくりと撫でた。


すると、赤ちゃんの足が、ぽん、とお腹を蹴った。


「赤ちゃん、照れてるのかな。自分の話題だってわかるみたい」


「どれどれ」


可偉の手が、私の手を包み込む。


私の手を通してでも赤ちゃんの胎動が感じられるようで、はっとしたように可偉が目を見開く。


「紫はいいよな。生まれてくる前から赤ちゃんと一緒にいられて。……おーい、早く父ちゃんにその顔を見せろよ。みんなで待ってるぞ」


「母ちゃんも待ってるよ」


しばらくの間、じっとお腹を見つめたあと、不意に可偉が唇を寄せてきて。


優しく熱を落としてくれた。


自然と絡み合う舌の動きに心地よさを感じながら、可偉の首に腕を巻きつける。


すると、可偉は私のお腹を気遣うように抱き寄せて、更に深く唇を合わせる。


「愛してるよ」


何度言われても、もっと、とねだってしまいそうな、甘い言葉にとろけてしまいそうだ。


思わず体を更に寄せて、体温を分け合う。


そして、志穂子さんが教えてくれた言葉を思い出すと、いっそう体中が熱くなる。


『可偉くんね、産後で体力が落ちている紫さんを自分の手元に置いておきたくて、そしてそれを誰にも文句を言われたくなくて。赤ちゃんのお世話はもちろん、紫さんの体力が早く回復する料理を作ろうって考えて、先週からお料理教室にも通っているのよ。あ、ハウスクリーニング業者の講習会にも参加してお掃除の勉強もしているし。……紫さんにベタぼれなのね』


ベタぼれなのは、私の方だ。


私がどんな状況にいても、可偉は絶対に私を守ってくれる。


私が笑っていても、泣いていても、苦しんでいても、どんな時でも可偉がその懐に包みこんで守ってくれる。


「俺を愛してくれてありがとう」


吐息と一緒に耳元をくすぐる言葉で、私が生きている意味を教えてくれる。


可偉にとって私が生きる全てなのだとしたら、私にとっては可偉が生きる全てなのだから。


「愛させてくれて、ありがとう」


出会ってからずっと、可偉の強引さに取り込まれているし、洗脳されるように愛をささやかれている。


だけどそれは私が望んでいるからだ。


可偉は、私が嫌がることなんて絶対しない。


可偉の思うがままに振り回されて、生きていることを実感させられることを私が望んでいるからこそ、可偉の強気な言葉や笑顔が私を包んでくれる。


だから、育児休暇制度を利用するつもりだということも、私には言わずにいるんだろう。


『出産後、紫の体調が良くなかったら、俺が面倒をみるどころじゃないから。それに、お兄さんの家に預けた方が紫のためにいいのなら、そうしなきゃいけないし』


志穂子さんから聞いた、可偉の言葉は、ちょっと切ない。


産後の私の体調次第では、兄さんの家でお世話にならなくてはいけない場合もある。


そんな時、可偉が育児休暇をとっていて、家で私の面倒を見ることになっているとなれば。


私が可偉に気をつかって、体調の悪さを隠したまま自宅に戻ると言い出すんじゃないかと危惧しているらしい。


せっかく育児休暇をとってまで私を気遣ってくれているのに、兄さんの所に行くなんてだめだ。


私がそんな風に思い、無理をするのではないかと考えた可偉は、直前パパ講習会に参加していることも秘密にしていると、志穂子さんが教えてくれた。


『可偉くんが、紫さんのことを考えて秘密にしていることをわかってあげて欲しいの。

だから、今日この場で見たことは可偉くんには黙っていてね。

無事に出産して、可偉くんがいそいそと紫さんのお世話に励んでいる時にでも、笑い話にして、からかってあげて』


やっぱり。


志穂子さんの話を聞いて、やっぱり可偉はどこまでも可偉だな、と温かい気持ちになった。


可偉の優先順位のダントツ一位はやっぱり私だ。


わかっていたけれど、それを裏付けることを教えてもらい、苦しいほど幸せだ。


嬉しくて嬉しくて、幸せで。


「可偉、可偉……」


「どうした?」


可偉の首筋に顔を埋めて、何度も名前を呼んだ。


「可偉のこと、本当に好きだなあって思っただけ」


「ああ。俺も、紫のことが本当に好きだぞ」


「……わかりすぎるほど、わかってる。……私、元気な赤ちゃんを元気な体で産んで、すぐに可偉のところに帰ってくるからね」


首筋に呟く声はどこかくぐもっていて、ちゃんと可偉に伝えられたのかわからない。


ただ、大きく息を吐き、私を抱きしめる腕に力が入った可偉の動きからは、ちゃんと伝わったんだろうと感じた。


お互いを抱きしめあい、他人が見たら呆れてしまいそうなほどに甘い時間を過ごしている最中でも。


「あ、暴れてる」


赤ちゃんは、その存在を主張するようにむぎゅむぎゅと動いている。


「可偉が赤ちゃんをお風呂に入れてあげてね」


ふと呟いた私に、可偉は余裕に満ちた明るい声で答える。


「俺にできないことはないからな。任せておけ」


「ん。期待してる」


可偉が育児に奮闘する姿なんて、まだぴんとこないけれど、私のために、私が知らないところでそれに備えている。


一見わがままで、強引すぎる男だけれど、私への愛情はぴかいち。


愛されすぎて、時々窮屈に思えることもあるけれど。


それでもその愛情を全て受け止めて、この手に負えない夫と共に。


「元気に生まれておいで」


新しい命の産声を、楽しみにしている。





    10話 完


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