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9話

「むにゅむにゅ。って感じかなあ」


「は?むにゅむにゅ?」


「そう。私のお腹の中でのんびりあくびをしているような……」


「あ、そういえば、赤ちゃんってお母さんのお腹の中であくびするし、しゃっくりもするって母さんが前に言ってたな」


「うん。そうなのよ」


「へえ」


妊婦だと一目でわかる大きなお腹をゆっくりと撫でながら、私はソファに体を預けた。


私の体を気遣って、そっと隣に座った千尋くんは私の手元を見ながらくすりと笑った。


「俺に赤ちゃんの名前を考えさせてくれるって本当なの?可偉さんがそんなことを言ってるなんて信じられないけどなあ」


「うん。私も可偉からそれを聞いて驚いたの。今でさえ親バカ全開で四六時中私と赤ちゃんの事ばかり考えてるのに、名前は千尋くんに考えてもらうなんて突然言い出すんだもん」


「俺の方が驚いたよ。いつも紫ちゃんにべったりで、周りの全てからガードしなくちゃ気が済まないって公然と言ってる人なのにさ。愛する紫ちゃんとの子供の名付け親に俺を指名してくるなんて、何か裏でもあるのか?」


千尋くんは、本気でそう思っているのか真剣に問いかけてきた。


少年らしさを残しながら、たまに見せる整った笑顔が女の子にもてそうな千尋くんは、兄さんの長男で、私の甥にあたる。


高校受験を終えたばかりの中学三年生だ。


第一志望だった高校に無事合格し、中学校の卒業式を来週に控えている。


今日は、中学の卒業と高校合格のお祝いを渡したくて我が家に来てもらった。


日曜日だというのに、あいにく急な仕事が入ってしまった可偉は朝早くから家を留守にしている。


「これって、可偉さんが選んでくれたの?」


「うん。何日か前に突然私も見せられて驚いたんだけどね。高校生になるんだから、いい物を身に着けて大切につかう喜びもわかるんじゃないかって言ってた」


「へえ、さすが。センスいいね。だけどさ、高校生が身に着けるには高価すぎない?」


千尋くんは、テーブルの上に置いてある腕時計を見ながら苦笑した。


お祝いだといって渡したそれを、千尋くんは家に帰るまで待てないと言って早々にリボンを解いた。


小ぶりの箱の中から出てきたのは、窓から入る光を受けてきらきら輝いている腕時計だ。


可偉が普段使っている腕時計と同じブランドのもので、学生が身に着けても違和感がないデザインを選んだと嬉しそうに言っていたけれど。


「俺、雑誌で見たことあるけどさ、このブランドの時計って100万近くしていたような気がする」


「え?うそっ。ほんと?」


「うーん。デザインの種類も価格も色々だったけど、安くはなかった。確かにいい物なんだろうけど、高校生にはまだ早いだろ?」


「そ、そうだね……」


確かに、可偉が普段愛用しているものと同じブランドともなれば、安い物ではないだろうと思っていたけれど、そこまで高価なものだとは思わなかった。


『靴と時計だけはいい物を身に着けておいたほうが、印象よく見られるからな』


可偉が満足げにそう言っていたことを思い出した。


仕事で人と会う機会が多い可偉は、身だしなみに気を配るのも仕事のうちだと言って、持ち物はそれなりに高価な物が多い。


いつもスーツや靴、ハンカチやカバンにも気を遣っているけれど、そこまでしなくても素敵なのに。


なんて。


素のままで十分格好いいって思うのは、惚れた弱みなんだろうか。


結婚して5年以上も経つというのに、可偉を好きだと思う気持ちは相変わらず重い。


可偉が毎日帰ってくる場所が私のもとであることに感謝せずにはいられない。


そして、『むにゅむにゅ』と私のお腹を刺激しては存在をアピールする可偉と私の子供が、そんな私の幸せを何十倍にも大きくしてくれる。


吐き気に苦しんだつわりの時期がようやく終わって、今は毎日が穏やかに過ぎている。


そんな中、千尋くんの中学卒業と高校合格。


私にとっては初めての甥。


生まれた時から彼の成長を近くで見守ってきたけれど、何故か私のことは『紫ちゃん』と呼んでいて、友達のような扱いをされている。


それはきっと、兄さんがいつも私を必要以上に心配しては気遣ってくれていたせいだろう。


私を愛するがゆえに何かと口を出しては不安な気持ちを露わに見せていた兄さん。


そんな姿を間近で見ながら育ってきたとなれば、千尋くんが私を『紫おばさん』と呼ばずに『紫ちゃん』と呼ぶのもわかるけれど。


「ねえ紫ちゃん、可偉さんってさあ、かなり給料いいの?」


「え?」


「だって、身内だとはいってもまだ15歳の俺にあんな高い時計をぽん、とプレゼントしてくれるなんてありえない」


肩をすくめながらそんなことを簡単に聞いてくる。


可偉のお給料がどれほどかなんて、言うわけないのに。


そんなことをあっさりと聞いてくるあたり、私にそれほど気を遣っていないとわかる。


「それにさあ、『まだ子供のお前には早い』って父さん言いそうだし」


どうしようかなあ、と小さくため息をついた千尋くんは、ソファから立ち上がると、テーブルの上にある時計を手に取った。


口ではどうしよう、と言いつつも、その目はきらきら光っていて、時計を気に入ったと一目でわかる。


可偉が以前言っていたけれど、スイス製の時計で、時計というよりも計器だと呼ばれている高級腕時計。


厚みのあるデザインは男性の腕にぴったりで、媚びない見た目が強さを感じさせてくれる。


毎日可偉の腕におさまっているのを見る度、素敵な時計だなと思っていたけれど、まさかそんな高価なものだと思っていなくて驚いた。


可偉が身に着けるならともかく、高校生には分不相応だと言える。


それに、驚いたのはそれだけじゃない。


千尋くんが今手にしているものと同じ時計が我が家にはもう一つあるのだ。


寝室のクローゼットにしまってあるそれを私に手渡してくれる時、『千尋くんと同じものだから』と可偉は言っていた。


腕時計だということは聞いていたけれど、まさか私にも同じものをプレゼントしてくれるなんて思わなかった。


それに、私も腕時計なら幾つか持っているし今すぐ買ってもらう必要なんてないのに。


可偉が私への出産祝いは何がいいかと色々と考えてくれているけれど、それとはまた違う扱いのようだし、どうして?


どう考えても可偉の行動の理由がわからなくて、千尋くんと二人、視線を合わせて苦笑した。






その日の夕方、兄さんが千尋くんを迎えにきた。


そして、妊婦にいいという、カフェインレスの飲み物をどっさりとくれた。


どちらかというと重いつわりの時期を過ごしていた私を心配していた兄さんは、ことあるごとにこの家にやってきては私の世話をやいてくれる。


まるで私の父親代わりのように口うるさく、そして孫を待ち焦がれるおじいちゃんのように。


両親を亡くして以来、不安定だった私の過去の様子がまだ鮮明に残っているらしく


『黙って世話させろ。じゃなきゃ、俺のストレスがたまって仕方がないんだ』


そう言ってむりやり私の様子を見にくる兄さんに、可偉は呆れた顔も見せず「すみません」と言って頭を下げているし。


いい加減、妹離れしてほしいと思っている私の気持ちは兄さんには伝わっていないようだ。


その一方で、過度な心配をしている自分の父親を苦笑しながら見ている千尋くん。


彼の方がよっぽど大人だ。


今も私の体調をこと細かく聞いてくる兄さんに醒めた目を向けているし。


「兄さん、私はもう子供じゃないんだから、大丈夫。妊娠だって病気じゃないし、平気。つわりに苦しんだのも、赤ちゃんが元気な証拠だよ」


「それはわかってるさ、だけどな、お前は……今でも俺にとっては泣き虫で弱虫のかわいい妹なんだ。出産まで穏やかに過ごせるように心配したっていいだろ」


「それはありがたいけど、可偉がちゃんと私のことを見ていてくれるから、大丈夫。いつも言ってるけど、兄さんは自分の家族のことだけを考えてよ。ね?」


「家族のことはちゃんと考えてるから心配するな。千尋だって志望校に無事合格できたし、家族みんな幸せにやってる」


「あ、合格……」


ふと、私の脳裏に、可偉がプレゼントした腕時計のことが浮かんだ。


合格と言えば、高校生には高すぎる腕時計をもらった千尋くん。


彼は兄さんがどんな反応を見せるのか不安に思っていた。


いっそ隠しておこうかと、冗談交じりに言っていたけれど。


視線を千尋くんに向けると、彼はテーブルの上にある腕時計を手に取り、そのままそれを兄さんに差し出した。


その流れに驚いて、口をつぐんだまま見守っていた私を気にすることなく、兄さんはそれを受け取ると。


「ああ、結局このモデルにしたんだな。写真で見るより格好いいな。それに、これから長く使えそうだし。大切に使えよ」


あっさりとした口調でそう呟いた。


千尋くんは、兄さんからの予想外のその言葉に驚き、何も言葉が出ないようだった。


呆然としたまま、兄さんの手元にある腕時計と私を交互に見ながら、眉を寄せていた。


兄さんの言葉からは、可偉がこの腕時計を千尋くんにプレゼントすることを事前に聞かされていたということが明らかで、千尋くんが気にしていたような『お前にはまだ早い』という思いは全く見られない。


「兄さん……?えっと、知ってたの?」


「ん?何が?」


「何がって、その腕時計のこと」


「ああ、この時計のことは可偉くんから聞いていたんだ。千尋、気に入ったか?」


「ちょ、ちょっと兄さん、私何も聞いてないよ」


思ってもいなかった言葉を聞かされて、私は大きな声をあげた。


確かに可偉は千尋くんのことを自分の甥のようにかわいがっているから、欲しいと言われれば大抵のものなら用意すると思うけど。


こんな高い時計を高校生にプレゼントすることを許すなんて、どこかずれているような気がするんだけど。


わけが分からず首を傾げる私の慌てる声にも動じず、兄さんはその手の中にある腕時計をじっと見つめながら、ぽつり、呟いた。


「このブランドの腕時計の広告写真を、父さんは撮影するはずだったんだ」


「広告写真……?え?父さん?」


兄さんの言葉に、私はひと呼吸おいて、そう口にした。


いつもなら泣き虫で弱気な私を気遣うような明るい声で大きく笑う兄さんからは聞き慣れない低い声に、私は今まで感じたことがなかった重みを感じた。


亡くなった両親のことを話題にする時にも、明るい思い出しか話さない兄さんなのに、手の中にある腕時計を見つめながら、口元を歪めている。


その横顔には悲しみがありありと浮かんでいて、目が離せない。


「兄さん?」


窺うように呟いた私の声に、はっと視線を上げた兄さんは、「ああ、悪い悪い」と軽い口調で笑顔を作った。


何度も向けられた笑顔。


私が小さな頃から大好きだったその笑顔。


だけど、その笑顔は兄さんが意識的に作ったものだったんだと気付いて、きりきりと、胸が痛む。


「紫は知らなかったと思うけど……」


兄さんの笑顔に、私は笑顔を返せなかった。


そんな私の様子に気付いているのか、複雑な表情のまま兄さんは話を続けた。


どこか震えていると感じるのは気のせいだろうか。


「この時計はスイス製で、国外からでしか調達できないダイヤなんかは別にして、スイスのものだけで作られているんだ。で、広告写真を撮影するカメラマンもスイス人だけが手がけていたんだけど。

父さんが事故に遭う少し前に、父さんに撮影のオファーがあったんだ」


「え?スイス人じゃないのに?」


「ああ。父さんが撮った写真を見た社長がどうしても撮影して欲しいって直接オファーをしてくれたんだけどな……」


兄さんはそこで言葉を止め、悲しげな瞳を私に向けた。


その先の言葉は、兄さんから聞かなくても簡単にわかる。


傍らで聞いていた千尋くんもそうなのか、黙り込んだ兄さんにその先を促すこともない。


きゅっと唇を結んで、悔しそうな視線を足元に落としている。


父さんの面影を一番受け継いでいると言われている千尋くんの立ち姿を見ていると、まるで父さんがそこにいるように思えてぐっとくる。


まだ15歳なのに、170センチを超えた長身と、華奢なシルエット。


左足に重心を乗せて不安定に立つその姿は生前の父さんに良く似ていて、目の奥が熱くなる。


父さんが亡くなって長い年月が経ったというのに、『会いたい』という感情が溢れてくる。


そっと天井を見上げて、目の奥の熱をやり過ごし、なるべく自然に笑顔を作ってみた。


兄さんが普段私に見せてくれるような穏やかな笑顔にはほど遠いけれど。


「父さん、撮影の前に、亡くなったんだね……?」


自分の感情を見せないように、さりげない口調でそう尋ねた。


すると。


「ああ。翌週にはスイスに行くって時に、亡くなってしまったんだ。あれだけ楽しみにしていたんだけどな」


初めて聞く過去の事実と、初めて感じる兄さんの悲しみ。


長男ということ、そして、両親が亡くなって以来不安定だった私という重荷。


ソファに座り、背を丸めながら腕時計を見つめる横顔は、寂しげだ。


私と姉さんを守り、幸せにしなければという葛藤の中生きてきた兄さんが、とても小さく見えた。


「兄さん……」


私の呟きに、兄さんは照れくさそうに笑うと、「で、どうして今更この腕時計かっていうと」とこの場の空気を変えるかのように明るく話しはじめた。


千尋くんも、潤ませた目を隠すことなく、兄さんの話に耳を傾けた。





*****





「初めまして。葉山理市です」


「あ……初めまして。折川紫です」


腰を折って頭を下げた。


目の前で笑っている男性は、優しい声で「いいからいいから、早く座って。妊婦さんに無理は禁物だよ」と言って私に座るように言ってくれた。


お辞儀くらい、どうってことないんだけど、と思いながら、温かい雰囲気をまとった葉山さんに頷くと、ゆっくりと椅子に腰かけた。


週末のホテルは混んでいて、ロビーを行き交う人たちで慌ただしい。


私は約束の15分前にホテルに着き、待ち合わせのロビー横にあるテラスでオレンジジュースを飲みながら、可偉と春の日差しを楽しんでいた。


三月下旬の緩やかで柔らかな日差しが心地いい。


仕事で休日出勤が続いていた可偉も、久しぶりの休日を楽しんでいる。


今日、私たちはカメラマンとして名を馳せている『葉山理市』さんと待ち合わせをしていて、時間どおりにその人はやってきた。


40代後半だという葉山さんは、若い頃父さんと一緒に仕事をしていたらしく、兄さんとは今でも時々連絡を取り合っているという。


『葉山理市』という国内屈指のカメラマンが父さんの知り合いだったなんて、驚いたけれど、兄さんが言うには。


『父さんが生きていた頃は、父さんの方が有名だった』


ということだ。


その真実がどうであれ、どうしてそのことを今更言うんだろうかと訝しがる私に、あの日兄さんは教えてくれた。


あの日……それは、千尋くんに可偉からのお祝いである腕時計を渡した日。


父さんが撮影するはずだった腕時計の有名ブランドのこと。


そして同時に、今回、その仕事を葉山さんが受けたということを、聞いた。


『葉山理市』という有名カメラマンが撮影するとなれば、話題にもなる。


そして、以前にも一度、同じ仕事を受けていると記憶にある。


私がまだ学生だった頃……記憶に間違いがなければ、両親が突然亡くなり不安定になって周囲に心配ばかりをかけていた頃。


時折気分転換にと観ていたテレビからそのニュースが流れていたような気がする。


そしてそれを確認すると、兄さんは「そうだよ。葉山理市は今回二度目のオファーを受けたんだ」と頷いてくれたけれど。


どこか苦しそうに笑う口元が、それ以上私に何も聞いて欲しくないと言っているようで、私はそれ以上何も言えなかった。


すると、父さんと葉山理市との間に何かがあるんだろうかと、ふと思った私を安心させるように、兄さんは言った。


『葉山理市が、紫に会いたいんだって。……どうする?』


どうすると言われても、会う理由も、断る理由が見つからない。


父さんと縁の深い葉山理市という有名カメラマンに会ってみたいという単純な好奇心もある。


そして、今日葉山さんと会うことになったのだ。


どんな理由で葉山さんが私に会いたいと思っているのか全く分からないけれど、あの日初めて見せられた兄さんの苦しい笑顔からは、私に葉山さんに会ってほしいという思いが強く伝わってきて、『いいよ』というしかなかった。





*****





「お父さんには、本当にお世話になったんです。というよりも、鍛え上げられました」


どこか緊張感が漂う中、葉山さんはゆっくりと話し始めた。


「紫さんの小学校の入学式の日のことも覚えていますよ。撮影が長引いていて、ギリギリの時間にスタジオを飛び出していった後ろ姿は忘れられません」


「あ……それは、聞いたことがあります。撮影が終わった途端小学校に駆けつけてきたのはいいけれど、カメラをスタジオに忘れて大慌てで……」


「ははっ。カメラを忘れているのに気付いて追いかけたのは私です。娘の大切な記念日にカメラを忘れるカメラマンなんてと、奥様に怒られていたのを覚えています」


目を細めて、昔を思い返すような仕草を見せる。


目じりのシワが温かい人柄を表しているようで、父さんが生きていたらこんな風に私と話していたのかな、なんて考える。


左手の薬指にはマリッジリングがきらりと光っていて、葉山さんが結婚していることを思い出した。


「あ、確か、葉山さんにも、お子さんがいらっしゃるんですよね」


思いがけず呟いた私に、葉山さんは更に目を細め嬉しそうに口元を緩めた。


「息子と娘が一人ずついます。二人とも、写真の世界には興味がないようで、私の仕事にも関心がないようですけどね」


「あ、それは我が家も一緒で。誰も写真の世界には入りませんでした。才能ありきの世界ですからね……」


自分のあとを追ってこない息子と娘に対して寂しさを感じているのか、葉山さんは苦笑しながら何度か頷いた。


写真家として生計をたてて生きていける人はほんの一握り。


目指した誰もがその夢を叶えられるわけではないし。


「まあ、子供には子供の人生があるとわかってはいても、残念です」


ははっと小さく笑うと、葉山さんは手元のコーヒーを口にした。


そして、気持ちを整えるように小さく息を吐き出して姿勢を正した。


その様子にはっとした私は、それまで黙って私の隣にいた可偉に視線を向けた。


可偉は、普段と変わらない落ち着いた表情のまま何度か頷き、膝の上にあった私の手をぎゅっと握ってくれた。


男らしい大きな手に包まれると、それだけで私の体全体が静かに落ち着いてくるから不思議だ。


夕べは、葉山さんが私に会いたいという理由がわからなくて不安でいっぱいだったけれど、可偉の体温に包まれた途端すっと眠りにおちた。


可偉に愛されている実感だけが、私を生かしている全てかも……。


あ、違う、もう一人いた。


お腹の中ですくすく育っている赤ちゃんが、不安定な私を応援するように『むにょむにょ』と体を動かしている。


私の心がわかるのか、寂しかったり悩んだりすると、途端に察して体全体で存在をアピールしてくれる。


一人じゃないんだよ。


と赤ちゃんのくせに私に教えてくれるようで、わが子ながらすごいなあと思う。


まあ、私を溺愛する可偉の子供でもあるんだから、私のことに神経質になっているのもわかるような気もするけれど……。


もしも赤ちゃんが男の子だったら、可偉と一緒に私を守ってくれるんだろうか。


今も可偉に愛されて、これ以上の幸せなんてないとも感じているのに、もっともっと幸せになれるんだろうか。


可偉の優しさと窮屈過ぎるほどの独占欲に囲われて、身動きできない嬉しさと、子供から求められる愛情。


それだけで私の未来はとても幸せだと思えて仕方がない。


家族に愛されて、必要とされて、慈しみあう。


きっと、私はいいお母さんになって、可偉と子供のために毎日奮闘するんだ。


……なんて想像しながら、思わずくすりと声を漏らすと。


「紫、葉山さんの話、ちゃんと聞いてるか?」


「え?」


「葉山さん、さっきから紫に声をかけてるんだけど?」


可偉の呆れた声に、はっと視線を葉山さんに戻した。


「すみません……妊娠してるせいか、ぼんやりすることも多くて」


ははっと笑いながら何度か頭を下げた。


ぼんやり、という言葉はふさわしくないなあとも思うけれど、どう言えばしっくりくるのかもわからない。


意識はしっかりしているし、しなきゃいけないこともちゃんとしているんだけど。


ただ、可偉や赤ちゃんのことを考えると、途端そのことをきっかけにして体中がふわふわとした感覚に包まれ、まるで刺激なんて何もない優しい場所に漂っているような気がする。


これまでそんなことなかったのに、妊娠してからずっとそうだ。


不安を覚える要素が私の周りに何もない……っていうのは大げさだけど、可偉と赤ちゃんが私を守ってくれているような心地よさを感じているのだ。


「紫さん、本当に幸せなんですね」


「え?」


ふと聞こえた葉山さんの声。


「お腹の上を優しく撫でるその手を見れば、赤ちゃんを待ちわびているのも一目瞭然。それに、可偉くんに体を預けている姿を見れば、本当に彼を愛しているんだとわかります」


葉山さんは身をのり出し、私と可偉をからかうような口調でそう言った。


からかいながらも、そんな私と可偉に向けられるのは嬉しそうな瞳。


その瞳の向こう側で、父さんと過ごした過去を重ねているのかもしれない。


『葉山理市』が世間に名を馳せる前の若い頃、きっと大変だったに違いないその時期を振り返っているに違いない。


私を通して、父さんを感じているのかもしれない。


なんてことを考えていると、ふっと表情を引き締めた葉山さんが、口を開いた。


「紫ちゃんが、そうやって幸せに過ごしていることがわかっただけでも、今日は会えて良かった。と言いたいところだけど」


「……だけど?」


わずかに首を傾げた私に、葉山さんはちらりと視線を向けたあと、手元のカバンから何かを取り出した。


細長い小さな箱。


葉山さんの手よりも少し大きなそれには見覚えがあって、私は目が離せない。


「紫ちゃんのお父さんが生前愛用されていた腕時計です」


「え?父さんの時計……」


「そう。お父さんが初めて大きな仕事を成功させた時に買った大切な時計です。化粧品会社のキャンペーンの仕事だったんですけど、その仕事でお父さんの名前は世に知られるようになって。……この時計を身に着けて、お母さんにプロポーズもしたと、お酒の席で言っていましたね」


テーブルに置かれたその小箱は、最近千尋くんにプレゼントした時計と同じものだ。


微かに日にやけて黄色に変色しているその箱は、まさしくあのブランドの時計の……。


そっとその小箱に手を寄せ、葉山さんに視線で『触れてもいいですか』と問うと、葉山さんはゆっくりと頷いてくれた。


隣で私を気遣っているとわかる可偉に見せるように、小箱の蓋をあけると、そこにはチタンのケースに黒い文字盤、赤い針が鮮やかな腕時計があった。


可偉が普段使っているモデルとよく似ていると感じて、ふっと笑った。


そんな私の気持ちがわかったのか、可偉も私の肩を抱き寄せ。


「お父さんと、俺、趣味が似ているみたいだな」


私の気持ちを楽にするような明るい声で囁いた。


表面のガラスをそっと指先でなぞると、ところどころ小さな傷があり使い込まれているとわかるけれど。


「丁寧に使っていたんだ」


私は指紋も汚れも見当たらないそれをじっと見つめながら、小さな頃の記憶をたどってみる。


仕事で家を空ける事が多かった父さんと顔を合わせる機会は少なかった。


おまけに、私が大きくなるにつれて父さんの仕事も増え、私は私で部活や塾で忙しくなり、すれ違いの日々が当たり前になっていた。


そのせいか、父さんがこの腕時計を身に着けていた記憶が全くない。


だからといって父さんがどんな腕時計を愛用していたのかも思い出せないけれど。


そんな思いが顔に出たのだろうか、葉山さんが気遣うように声をかけてくれた。


「お父さんが私をアシスタントとして側において色々勉強させてくれていた当時、『お前も頑張れ』と言ってこの時計をくれたんですよ。……将来、いい仕事をしてこれよりもっと高価な時計を俺にプレゼントしろよ、って言いながら……」


「プレゼントって」


「将来に不安を抱えていた私の気持ちを見抜いていたんだと思います。写真で生きていくなんて無理じゃないかと悩んでいた私にはっぱをかけるつもりできっとこの時計をくれたんだと。……そして、この腕時計の新しいモデルの広告写真を撮って欲しいとオファーがあった時も、俺をアシスタントに指名してくれて……」


そこまで話すと、葉山さんはぐっと口元を引き締めた。


父さんのことを思い出しているのか、目がうるんでいる。


今では有名写真家として名を馳せている葉山さんの修行時代に父さんが関係していたと知って、驚いたと同時に誇らしい気持ちも溢れてくる。


父さんが遺した作品や、実績を惜しむ声。


今でも売れ続けている写真集のことを考えれば父さんも優れた写真家だったんだろうとは思うけれど、父さんが亡くなって以降、それを実感する機会はあまりない。


目の前にいる『葉山理市』という著名な写真家のほうが、私にとっては有名人だ。


そんな人が父さんのアシスタントとして修業を積んでいたと聞いて、ようやく父さんの過去の実績を誇らしく思えたというのも不思議な縁だ。


「その時計をいただいて以来、いつかは私も世界で活躍できる写真家になりたいと努力し、今では写真を生業にして家族を養えるまでになりましたが。いつかもっと高い時計をプレゼントしてくれと言われたのをずっと覚えていたんです。この時計のおかげで今の私があると言ってもいい。だから」


「だから、葉山さんは千尋くんに腕時計をプレゼントしたんだよ」


葉山さんの言葉にかぶせるように、可偉が呟いた。


「え?どうして、そこに千尋くんが出てくるの?」


葉山さんの口から千尋くんの名前が出たことも、可偉がそのことを知っていたらしいことも、全く予想していなかった私はかなり驚いた。


葉山さんと可偉を交互に見ながら、疑問符を目で投げかけた。


すると、そんな私の様子は想定の範囲内だったのか、くすりと笑った可偉が葉山さんと目配せをし頷いた。


「千尋くん、葉山さんに弟子入りさせてくれって直訴したんだ。……まあ、葉山さんは断ったんだけどな」


「え……弟子入り?ってことは、千尋くん、写真家を目指してるの?」


テラスで寛いでいる周囲の人が驚いて視線を私に向けるほどの大きな声をあげた。


「落ち着け。お腹の赤ん坊が驚くぞ」


「あ……う、うん」


「ちゃんと説明するから、慌てるな」


私の手を優しく握りしめた可偉は、いつも以上の大きな笑顔で話し始めた。





*****





揺れる風が私の頬を優しく刺激する。


先週までの肌寒い空気から一転、心地よい温かさは春の息吹そのものだ。


いつになっても卒業式で交わされる言葉と涙は変わらないんだな、と思いながら、私は壇上の千尋くんを見つめた。


名前を呼ばれ、卒業証書を授与される後ろ姿は既に男の子ではなく、男と言える。


校長先生に一礼し、振り返って私達にも頭を下げる姿を兄さんが何度もカメラに収めている。


時折しゃくりあげている兄さんの目からは涙が溢れていて、よほど千尋くんの卒業に感激しているんだろうとわかる。


家族をとても大切にしている兄さんのそんな姿は、千尋くんのあらゆる行事で見慣れているとはいえ、思わず笑ってしまう。


その横では明乃さんがビデオカメラを構えながら千尋くんの姿を追っていて、その口元は笑顔で満ちている。


兄さんとは対照的なそのあっけらかんとした表情もまた見慣れていて、いつものことだな、と小さく息を吐いた。


「千尋くん、かなり背が高くなったな」


私の耳元に、可偉が呟いた。


「うん。クラスで一番背が高いって言ってたよ」


「それも、おじいさん譲りって事か?」


「……うん。それも、ね」


ぼそぼそと呟いて、くすりと笑い合った。


私と可偉は、千尋くんの卒業式に来ている。


私の母校でもあるこの中学は、生徒数も少ないこじんまりとした学校で、卒業生の人数もそれほど多くはない。


卒業証書授与式もあっという間に終わってしまうけれど、家族にとっては記念すべき大切な日。


講堂のあちらこちらでは、保護者たちのすすり泣きも聞こえる。


ふと見渡せば、泣いているのはたいていがお父さんだという事に気付き、私は苦笑した。


兄さんと明乃さんと同様、どの家庭でもお母さんは嬉しそうに笑っている。


子供が成長して、自分の手から離れていく姿を見ながらの思いは様々だけれど、お母さんたちの笑顔はとても頼もしくて素敵に見える。


「千尋が……もう高校生になるんだよなあ」


私の前で涙をこぼしている兄さんの呟きを聞いて、明乃さんは視線を向けることもなく肩をすくめているだけだ。


千尋くんはそんな両親にちらりと視線を向け、照れくさそうに口元を上げるとそのまま自分の席に着いた。


三年間着た制服は千尋くんの体には合わなくて、窮屈そうだ。


ズボンの裾も、明乃さんが何度か伸ばしたらしいし、ブレザーだって肩幅がいっぱいいっぱいで不恰好にも見える。


そして、短く感じる袖口から見えるのは、千尋くんが身に着けるには高価すぎる時計だ。


千尋くんの人生の一区切りとなるこの佳き日。


その時計に守られて、千尋くんは輝く未来へ向けて一歩を踏み出すのだ。







卒業式を終えて、兄さんたちと別れた私と可偉は、駅までの道を手を繋いで歩いていた。


そろそろお腹が重くなってきて歩くのも大変になってきたけれど、適度な運動は必要だからと毎日散歩を続けている。


大きなお腹に手を当てながら、ゆっくりゆっくりと可偉に手を引かれて歩いていると、春の日差しの温かさも相まって本当に幸せだと思える。


「お昼は駅の近くにできた洋食屋に寄りたいな。ハンバーグがおいしいって葵さんが言ってたよ」


「ハンバーグはいいけど、体重制限は大丈夫なのか?この前の検診でそろそろ気を付けろって言われたんだろ?」


「大丈夫大丈夫。ハンバーグくらい平気だよ」


「……赤ちゃんはどう言うんだろうな」


「え?赤ちゃん?」


可偉の言っている意味がわからなくて、視線を向けると、可偉はにやりと笑い歩みを止めた。


そして、繋いでいた私の手を離すと、その場にしゃがみこんで私のお腹に耳を寄せた。


「か、可偉っ」


突然しゃがみこんだ可偉に驚いた私に構うことなく、可偉は私の腰を両手で抱き寄せると、そっとお腹に呟いた。


「おい、紫はハンバーグが食べたいって言ってるけど、チビはどうだ?お前のママは最近食べ過ぎだよな?」


「食べ過ぎって、そんなに食べてないよ。つわりの時は何も食べられなかったから、今取り返してるだけだもん」


「ってママは言ってるぞ。……うん、よし、わかった」


私の腰に回した手はそのまま、可偉は顔を上げてにっこりと笑った。


「チビも早く生まれて一緒にハンバーグ食べたいってさ」


「……ばか」


「ばかで結構。俺も早くチビに会いたいって、千尋くんを見てると思ったんだよな。いいな、子供って」


「ふふっ。親でもないのに、可偉も泣いてたもんね」


からかうように笑うと、可偉は照れたように肩をすくめた。


そして、私のお腹をそっと撫でて立ち上がった。


再び私の手を取り、ゆっくりと歩き出す。


大通りを歩きながら隣の可偉を見上げると、卒業式で泣いた名残なのか目が赤かった。


私と結婚して以来、兄さんと姉さんの家族とも仲良くしてくれて、お祝いごとや困った時には一緒に顔を出してくれるし力を貸してくれる。


今では家族からの信頼も厚い可偉の方が、私よりも頼られていると感じて悔しい時もある。


千尋くんが葉山さんに弟子入りして写真家の勉強をしたいと唯一相談したのも可偉だった。


たまたま葉山さんと仕事上の付き合いがあった可偉は、千尋くんの気持ちを葉山さんに伝えたところ。


『写真家としての修業は、大人になるまでの経験を幾つも積んで、写真に自分の思いを乗せられるようになってからだ』


葉山さんのその言葉に反発し、高校にも行かないと言い出した千尋くんは、その時になってようやく兄さんと明乃さんに自分が将来写真家になりたいと話した。


千尋くんにとっては祖父にあたる私の父親の血を継いでいるのか、それともそれが影響していないのかはわからないけれど、千尋くんは『葉山理市』に憧れ、いずれは写真家として生きていきたいと。


強い光をたたえた瞳を向けられた兄さんと明乃さんは、それを受け止めるしかなかった。


両親から自分の夢を反対されなかったことで落ち着きを取り戻し素直になった千尋くんは、高校、そして大学での経験が写真にいい影響を与えるのは間違いないだろうという周囲からの説得を受け入れ、難関校として有名な公立高校への入学を決めた。


そのことを知った葉山さんから、可偉を通じて兄さんに会いたいと連絡があった。


葉山さんは、父さんからもらったという腕時計の話をしてくれ、いつか自分がお返しに腕時計をプレゼントするという約束を果たしたいと申し出てくれた。


とんでもないと、最初は断った兄さんだけど、葉山さんの強い気持ちに押されてそれを受け入れることにした。


父さんが大好きだった腕時計。


そして、その広告写真を撮影することになっていたのに果たせなかった悔しさ。


縁を感じるその腕時計の広告写真を以前撮影したのは葉山さんで、今回数年ぶりに再び新商品の撮影を引き受けたという。


『千尋くんのおじいさん、そして紫さんのお腹の中の赤ちゃんのおじいさん。二人に私から腕時計をプレゼントさせてください』


葉山さんからのその言葉に兄さんも可偉も驚いたけれど、既に商品カタログが目の前に置かれ兄さんに選んで欲しいと強く願う瞳を向けられて。


兄さんも可偉も断れなかったという。


決して安くはない高級腕時計を二本も葉山さんにプレゼントしてもらうわけにはいかないと、いくらかは負担したというけれど、きっと微々たる金額で、二人はその金額を教えてくれなかった。


ただ、父さんから受けた影響と優しさによって今の『葉山理市』は成立している。


そんな言葉を告げられて、可偉も兄さんも葉山さんの思いを受け止めることに抵抗はなくなったと教えてくれた。


今日千尋くんは、いつか葉山さんのような写真家になるための第一歩だという思いを込めて、プレゼントされた腕時計を身に着けて式に出席した。


これから、高校、大学へと進学し、人間としての器を大きくしながら写真を勉強していくという決意を新たにした卒業式だったに違いない。


そして、可偉と手を繋いでいる私の左手にも千尋くんと同じ時計が輝いている。


父さんは、ことあるごとに末っ子だった私の事を『甘えん坊で泣き虫』だと言って心配していたことを覚えていた葉山さんは、そんな私が母親になることを喜んでくれ、お腹の赤ちゃんが大きくなったら渡して欲しいと、この時計をプレゼントしてくれた。


っただけだからね。チビちゃんが生まれたら、これはちゃんとあなたにあげるから怒らないでね」


私は腕時計とお腹を交互に見ながらそう呟いた。


まだ男の子か女の子かわからないけれど、この腕時計は誰にでも似合いそうなデザイン。


見るからに高価なものだとわかるけど。


チビちゃんも喜んでくれるといいけどな。


「この時計が似合う頃には、チビちゃんは一人でもちゃんと生きているかな」


ゆっくりと歩を進めながら、お腹に手を置いて、呟いた。


「一人って、どういう意味だ?」


「ん?私や可偉がいなくても、地に足をつけて力強く生きているかなって」


「俺や紫は……どうしていないんだ?」


怪訝そうに問いかける可偉に、私は「安心して」と言って笑って見せた。


「このチビちゃんが大人になって、もちろん親になって、幸せになっていく姿を近くで見るに越したことはないけれど。もしも……私の両親のように、突然子供の側にいられなくなったとしても、チビちゃんにはぶれることなく自分の未来を作り続けていって欲しいなと思って」


「は?大丈夫だ、俺も紫もちゃんと長生きして子供たちと一緒に楽しく過ごしてるさ」


可偉は焦るようにそう言って、私の顔を覗き込む。


「うん。私もそうでありたいと思うけど。それが無理なこともあるでしょ?こうしてる今だって、交通事故に巻き込まれないとも限らないし」


「紫……」


「あー、そんな難しい顔しないでよ。もちろん可偉と一緒にチビちゃんが成長していく姿をずっと見守っていきたいって思ってる。ただ、それが叶わないこともあるって知ってるし」


ゆっくりと話す私の声に、可偉はどう答えていいのかわからないように顔を歪めた。


確かに、突然こんなことを話してしまって、驚いただろうな。


ようやく妊娠して、チビちゃんの誕生を待ちわびている今、親である私達がいなくなった時の話をしているんだから、当然だ。


だけど、私にとっては突然の思いなんかじゃない。


両親を亡くしたあの日からずっと、大切な人が突然いなくなることは紛れもない現実で、その悲しみを受け入れて生きることもまた同じ。


当時の私は、その悲しみに浸るだけで前向きに生きる努力をしようとしなかった。


兄さんや姉さんが心配していることに気付いていながらも、悲劇のヒロインのように泣くだけだった。


『そんなに悲しんでいても、お父さんとお母さんは喜ばないよ』


周囲からのそんな言葉にも耳を貸さず、その意味を理解しようとしなかった。


両親の遺産のおかげで生活には困らなかったし、私の面倒をみてくれる兄さんと姉さんの存在があったおかげで、存分に悲しみの中に自分をおいやり、現実から目をそらし。


辛いことから逃げていた。


両親を失った子供の気持ちなんて、誰にもわからない。


そんな感情だけを日々追いながら生きていた。


それでも兄さんと姉さんのゆるぎない愛情によって私は自分の悲しみだけに浸ることをやめ、現実世界へと戻り、生きられるようになった。


そして、可偉と出会い、愛し愛され、もうすぐお母さんになる。


「私が悲しんでも、父さんと母さんは喜ばないって周りから言われても、よくわからなかった。私が二人のことを忘れて楽しい毎日を送ることに罪悪感も感じていたし。

それ以上に悲しい気持ちの方が大きくて不安定になっていたんだけど」


私の言葉の意味に比べて、明るい口調と柔らかいに違いない表情を見て、可偉はほっとしたように目元を緩めた。


私が両親のことを話す時はいつも心配してくれるけれど、もう、そんな必要はない。


両親の命日が近づくといつも、精神状態が荒れて眠れなくなったり、沈み込んだりしていたことを考えれば、可偉が必要以上に私に気遣うのもわかるけれど。


今の私は両親のことすら淡々と明るい思い出とともに話すことができる。


両親を思い出しては涙を浮かべていた以前の私とは違うから。


「チビちゃんがお腹にきてくれた時から、私は両親を思って悲しむ娘じゃなくなったの。子供を思って強くなった母なのよ」


相変わらず不安げな可偉を安心させるように、そう言った。


可偉は、私の言葉を信じていないのか訝しげに首をかしげた。


「だけどチビはまだうまれてないのに。……それに、紫がそう簡単に強くなったなんて思えない」


「ん……。でも、私は強くなったの。だって、そうじゃなきゃ、チビちゃんは幸せになれないもん。親が弱虫で泣き虫だったら子供は不安定になる。逆に、親がどんとたくましくて強かったら子供も安心して暮らせる。そうすれば、もしも突然親がいなくなってもちゃんと地に足をつけて生きていけるかなって、ようやく気付いたの」


「……だけど、いなくなることを前提で強くなられても困る」


小さく呟く可偉はどこか気弱そうに見える。


人の波が途切れることのない大通りだというのに、そっと私を抱き寄せてその胸の中に閉じ込めた。


私の頭をそろりと撫でて、吐息を漏らしている。


私がいなくなるかもしれないという未来を想像して不安になったんだろうな。


可偉がそうなることを予想していなかったわけではなかったけれど、いざ弱々しい姿を見せられると私も切なくなる。


大切な人がいなくなるなんて、考えるだけで胸が痛い。


私はその痛みを嫌というほど味わっているから、今の可偉の心の葛藤がよくわかる。


「ねえチビちゃん、お父さんはお母さんがいなきゃだめみたいだよ。お母さんの事が大好きで、いつも側にいなきゃ寂しいんだって」


私を抱きしめる可偉の体と私の体の間に手を入れながらそう呟いた。


そして、時折大きく動くチビちゃんを探すように手をお腹の上に置いた。


「うわっ。今ね、チビちゃん、蹴ったよ。可偉のことを怒ってるかも」


ぽすっと刺激を感じたお腹と手の平。


チビちゃんが元気に動いている。


「いざとなったらお父さんは寂しがり屋の甘えたさんなのよ。チビちゃんとお母さんのことを愛し過ぎて大変みたい。だから、チビちゃんも優しくしてあげてね」


ふふっと笑いながらチビちゃんに話しかけると、私を抱きしめていた可偉がそっと私を押し戻し、視線を合わせる。


不機嫌そうに歪んだ口元からは、私に何かいいたげな気持ちがありありと伝わる。


細めた目からは怒りも感じられて、私はあらら、と笑顔を向けた。


普段と立場が逆転している。


そんなことを思いながら余裕を見せる私が気に入らないのか、可偉は大きく眉を寄せてさらに不機嫌になる。


「寂しがりで甘えたでどこが悪い。紫の前だけだろ?」


「うん。それはそれで嬉しいし、チビちゃんが生まれたらもっと甘いお父さんになるんだろうなって思う」


「ああ。それは保証する。俺は紫とチビの為だけに生きてるんだ」


「うん。ありがとう。でもね……チビちゃんには私たちに頼るだけではなくて、自分の足で立って、しっかりと生きていって欲しいの。一人で生きられるわけではないけど、悲しみや苦しみを自分の中で浄化しながら、ぶれずに生きて欲しい」


「……紫……」


「妊娠してわかったことはね。私の父さんと母さんは、不安定になって悲しんでばかりだった私を叱りたかったんだと思う。兄妹だけになった現実を受け止めて強く生きろって、天国でぶつぶつ言っていたに違いないの。それは娘の立場じゃわからなかったけど、チビちゃんがお腹で動く度に思う。この子が自分の力でたくましく生きてくれればそれでいいって。親がいなくなっても、悲しみを抱えても、ちゃんと自分の人生を切り開いていける強さを身に付けられるように育てるのが親の責任だって……気付いたの」


一息に言って視線を上げると、目の前にある可偉の瞳が小さく揺れた。


「……いつの間に、そんなことを考えるように……いや、チビがお腹に来たからか……」


「うん。チビちゃんのおかげ。……だけど、可偉が私を愛してくれるから、強くなれたんだよ」


その言葉に可偉はふっと表情を緩めて、詰めていた息を吐いた。


「可偉に大切にされて、愛される喜びを知ったから……こうして強くなれたの。

愛されて、お母さんにしてもらえたから、強くなれたのよ。

大切な人を亡くして悲しんでばかりじゃいられない。不安になってばかりじゃいられない。

チビちゃんがしっかりと生きていけるように強くならなきゃって思えるようになったのは可偉のおかげ」


ね?と最後に呟いて首を傾げたと同時に、可偉は再び私を抱き寄せた。


私のお腹を気にしながらも、強い力を込めて抱きしめてくれ、私の肩に顔を埋めた。


ふっと吐く熱い息に、私の体は震えた。


周囲からは私たちを訝しげに見遣る人たちの視線がいくつも向けられる。


『わー、抱き合ってる』


なんていう呟きも聞こえてきてドキドキするけれど、そんな様子に構うことなく可偉は大きく息を吐き出すと。


「ここが家の中なら、今すぐ紫を抱いてるのに……これ以上、惚れさせるなよ」


震える声で、私の耳元に囁いた。


「どんな紫も愛してるけど、強さも身につけて更にいい女になったらもう……俺は紫を家に閉じ込めてしまいたくなるだろ」


「ふふっ。安心して。チビちゃんが生まれたら、しばらくは家の中で育児に専念するしかないから」


可偉からの重苦しくて束縛交じりの愛情には慣れている。


どんな言葉を言われても笑って流せるようにもなったけれど、こうして愛されてると実感できる言葉を聞かされるとそれだけで嬉しい。


こうして抱きしめられる時ほど幸せを感じることはない。


できればずっと抱き合っていたいけれど、そういうわけにはいかない。


「可偉、そろそろハンバーグ食べに行こうよ。チビちゃんもむにゅむにゅ動いてお腹すいたーって言ってるから」


私は可偉の背中をぽん、と叩いて、くつくつ笑った。




☆☆☆




そして、私たちは予定通りおいしいハンバーグに舌鼓をうちながら、千尋くんの卒業式の時に撮った写真をデジカメで見ていた。


泣き顔ばかりの兄さんの表情に笑っている時、仕事で今日は顔を出せなかった姉さんから電話がかかってきた。


少し怒り気味の声の姉さんは、千尋くんと私のお腹のチビちゃんに葉山さんからプレゼントされた時計のことを聞きつけたらしく。


『うちの子たちにも平等に腕時計のプレゼントをしてって葉山理市に言っておいて』


と大声で言っていた。


千尋くんとチビちゃんと同様、父さんの大切な孫である姉さんの娘ちゃんたち。


もちろん葉山さんは彼女たちにも腕時計を用意してくれている。


「兄さんは今日姉さんに渡すつもりでいたんだけど、会えなかったから渡せなかったんだよ。従妹たちみんなおそろいで用意してくれているから安心して」


『あ、そうなの?さすが葉山理市。じゃ、もう一本追加って言っておいてよ』


「え?もう一本?」


『そう。紫のチビちゃんと同級生のいとこが産まれるから仲良くさせようねー』


「え?同級生って、もしかして……姉さん、赤ちゃんができたの?」


『ふふっ。そういうこと。じゃ、仕事中だからまた連絡するね。あ、くれぐれももう一本って言っておいてね』


ぷつり。


いきなり電話をかけてきて、いきなり切った姉さん。


彼女らしいと言えば彼女らしくて思わず笑ってしまう。


「チビちゃんに従妹がもう一人増えるんだって」


可偉とお腹のチビちゃんに聞こえるように呟いた。


その言葉を理解したのか、ぐるりと体をくねらせたようなチビちゃんの動き。


「私、すごく幸せだな」


私を愛しげに見つめる可偉に、そう言わずにはいられなかった。


父さんを母さんを思うと、悲しい気持ちがゼロになったわけではないけれど、それでもこうして愛する人、愛してくれる人に包まれて、私は強くなった。


チビちゃんを育てていくうちに、もっと強くなるはずだ。


そう、母は強し。


ジュージューという音とともに湯気をあげているハンバーグを食べると、あまりのおいしさに感嘆の声も出てしまう。


可偉のお皿の上のエビフライを、何くわぬ顔で食べる。


ぷりぷりとした食感がたまらない。


そんな私に負けじと可偉も私のハンバーグをフォークに刺すと、嬉しそうに笑った。


「熱いから気を付けてね」


そんなやり取りが、至上の喜び。


ずっと続いて欲しいと心から願い、今を生きる。


「このポテトサラダもおいしいね」


「ああ。だけど、紫が作ったポテトサラダの方がうまい」


「ふふっ。ありがと」


左手の腕時計をちらりと見ると。


文字盤がきらりと光ったような気がした。


今日は、なんて素敵な日なんだろう。





(第九話 完)



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