Mov.6 プリムラの輝き
「じゃあ、マラ5。4楽章頭からいこうか。」
『はい!』
市民会館の大ホールに、生徒たちの返事がこだまする。交響曲第5番、第4楽章アダージェット。修仁がこの世で一番美しいと言ってはばからないこの曲は、ハープと弦楽器のみで演奏される。静謐感に満ちた美しい楽章であることから、別名「愛の楽章」とも呼ばれる。中間部ではやや表情が明るくなり、ハープは沈黙、弦楽器のみで憧憬を湛えた旋律を出す。この旋律は、終曲でも使用される。もちろん、吹奏楽で行うので弦楽器の部分は他の楽器に置き換えられている。
3年生も全員受験を終えて帰ってきたこの日、演奏会当日までも残り少しの時間である。ここからは、市の協力もあり、本番まで毎日ホール練習が組まれていた。
「ビビった音出すんじゃないぞ?限りある時間の中で、君たちの音を空間に刻み込むんだ」
修仁にとって、この曲は自分をこの世界に引きずり込ませるきっかけになったもので、他の曲に比べてもどうしても力が入ってしまう。
しかし、この曲を吹奏楽にアレンジすることを修仁は最初躊躇っていた。この弦楽の美しさ、静謐感を果たして吹奏楽で表現することが出来るのか?そして何よりもこの子たちにはやはり難しすぎるのではないかと恐れを抱いていた。
しかし、それでもこの曲をチョイスしたのには理由がある。
この曲をプログラムに入れるかいれないか悩んでいたころ、ひなと真希が「私これ好き!絶対やりたい!」と部員達に想いを伝えてしまった。他の部員もこの曲に惚れてしまい全員一致でプログラムに入れると決定してしまった。普段から、部員のやりたいことは、仮に失敗することが目に見えていてもやらせてきた修仁は困り果てていた。こればかりは、いくら部員がやりたいといってもそうそう簡単に首を縦には振れない。
しかし、ひなの一言がそんな修仁の気持ちを一気に揺り動かした。あれは、いつものように準備室でマラ5のスコアとにらめっこしていた時だった。
「失礼しまーす」
「うーん・・・」
「せんせー」
「うーん・・・」
「・・・わっ!!!!」
「!????」
突然の大声に、修仁は驚き椅子から転げ落ちてしまった。
「ひ、ひな~脅かすなよ。」
情けない声を出しながら立ち上がり、埃のついたスーツを手で払う。
「ずっと呼んでるのに気付かない先生がいけないんでしょ!」
「ずっと?」
「ずっと。ねえ、先生まだ帰らないの?」
「ん?うーん。」
時計を見ると、もう9時を回っていた。
「うわ、もうこんな時間。ひな、早く帰りなさい。」
「質問の答えになってないよー。」
笑いながらそう答えるひな。彼女はどうやら受験勉強で、先生につかまっていたようだ。
「まだ、悩んでるんですか?」
言いながらひなは修仁の横に腰掛ける。
「うーん・・・。うん。」
「ねぇ、先生。私たちは、先生ほどオンガクのこととか詳しくないし、今先生が悩んでいることもちゃんとわかってないかもしれないけど、きっと私たちの事を考えて悩んでくれてるんだと思うのね。でもね、、、たまには私たちの事じゃなくて、先生がどうしたいかで決めてくれてもいいんだよ?偉そうなこと言いてごめんなさいだけど、、、でも!でもね、私たちは、せんせ・・・ううん、澤村修仁っていう人を信じているから。し、、、しゅうじさんが選んだことなら、それがどれだけ困難な事でも私たちは必死になってついていくよ!だって、みんなしゅうじさんの事大好きだから。それだけ、さよなら!」
顔を真っ赤にして、どたどたと慌てて準備室を後にするひなと、ぽかーんと口を開けて見送る修仁。
(先生がどうしたいかで決めて・・・か。)
机の上の上のスコアをとり立ち上がる修仁。
(・・・やってやろうじゃんか!)
そのまま、パソコンの置いてある窓側の席に移動した。この日、明け方まで音楽準備室の明かりが消えることはなく翌日には、各パートのロッカーに「交響曲第5番」と銘打たれた楽譜が納められていた。
「そう、そのクラリネットはもっと湧き上がるように、、、もっと、もっとだ!」
「フルート!1セント足りともピッチを崩すな!崩すくらいなら吹くな!」
「下品だぞ!サックス、もっと上品に!!!」
修仁の指示が飛ぶものの、どうにも音楽がまとまっていかない。そして、
「あ~あぁ、もう・・・ストップ!!!」
どうしようもなく、合奏を止める修仁。
「・・・ふぅ。いいかい?耳を澄ましてごらん。君達にも聞こえるはずだ。この曲には力がある。人の魂を揺さぶる力が。楽譜から、君たち自身が生み出した音から、その『声なき声』に耳を傾けるんだ。」
真希をはじめとした部員たちは、誰からともなく目を瞑る。修仁は知っているのだ。子供たちには無限の可能性がある。この学校の子たちはみな、素直なのだ。純粋そのものだ。多くを語る必要も強要することだって必要ない。自ら考え、最適な答えを導き出すことが出来る。この子たちならできる。
「もう一度、4楽章頭から。・・・そうだな、まごころを込めて、自分の大切な人が笑いかけてくれる。そんな喜びに満ち溢れた音で演奏してごらん。」
子供たちはそっと目を開け、しっかりと修仁の棒を見つめる。指揮棒の先がそっと震える。それに合わせて深くゆったりと息を吸う部員達。
『まごころを込めて』
この言葉を、自分たちの音で、音楽でしっかりと表現する。子供たちは気負わない。修仁の、自分たちの大好きな先生の指揮に、呼吸にそっと寄り添いながら、それぞれの喜びを表現していく。
(本当にこいつらは・・・)
そう、修仁が笑みを漏らすほど子供たちの能力は可能性に満ち溢れている。たった一言、たった一つのヒントで劇的に変化する。木管群が弦楽器のゆらめくように儚いフレーズを奏でるかと思えば低音部に充てたホルンとユーフォニウムが、声楽と見紛うような美しい音色を聞かせる。
中間部からクライマックスに向けてヴァイオリンを当てたピッコロは先ほどまでと同じ奏者かと思わせるほどにぴったりと音程をはめてまるで教会にでもいるかのように音が体を宙へと導いていく。
(あぁ・・・最高だ・・・)
『楽章の終わりは、空から降り注ぐ天使の梯子がゆっくりと消えて現実世界の夜に静かに戻っていくように。しっかりと夜の帳の余韻を残すんだ』
子供たちは、その修仁の言葉通りに楽章を締めくくる。そして修仁は静かに弧を描きその幕を閉じた。
途端!鋭く小さくその棒の先端をホルンに向ける。第5楽章の始まりだ。4楽章の余韻が残る中、ホルン、ファゴット、クラリネットが牧歌的に掛け合う。このファゴットの音型は、『少年の魔法の角笛』の「高い知性への賛美」から引用されている。
短い序奏が終わると、ホルンによるなだらかな下降音型が特徴の第1主題、低音によるせわしない第2主題が呈示され、これらに対位旋律が組み合わされて次第に華々しくフーガ的に展開する。
子供たちの顔はみな必死で、時折苦しそうな表情を浮かべている。
(このあたりがまだ中学生には難しい所か)
どれだけ苦しくても奏者はオーディエンスに対して苦しい顔を見せてはいけないというのが修仁の考え方だ。しかし、どの子の顔にも必死さは見えてもその眼は光り輝いている。なんとかこの交響曲第5番を自分のものにしようとする必死さなのだ。
(・・・まぁでもこれはこれで、ありか。)
再び第1主題が戻り、提示部が変奏的に反復される。第2主題も現れ、すぐ後に第4楽章の中間主題がコデッタとして現れるが、軽快に舞うような曲調となっている。この部分が終わると展開部に入り、引き続きフーガ的楽想が展開される。コデッタ主題が現れ、次第に力を増してクライマックスの後、再現部に入るが、第1主題はかなり変形されていて明確ではない。第2主題、コデッタ主題も再現され、ふたたび展開部最後に現れたクライマックスとなりそのまま壮大なコーダに入る。
「さぁ、歌え!!!喜びの歌を!!!」
修仁が叫ぶ。
(さぁこい!お前たちの魂を!その声を・・・叫べ!!!!)
第2楽章で幻のように現れて消えた金管のコラールが、今度は確信的に再現される。一気にacchelがかかり速度を上げていく。
「そうだ!もっと、もっとだ!!!」
華々しく煌く下降音型から一気にクライマックスを迎える。残響が光の粒のようになってホールの中に煌いている。
「・・・」
「・・・どうした?」
「・・ヒック・・・ヒック」
所々で、泣き声が聞こえる。
「ど、どうしたおまえら?何泣いてんだ?」
「・・・しくて・・・悔し・・」
「はぁ?」
「悔しくて仕方ないんです!」
これには修仁も驚いた。中学生が、10年ちょっとしか生きていないアマチュアの中学生が、マーラーの5番を吹ききれるレベルの中学生が、悔しくて泣いている。
「本当だったら、演奏しているのが私達じゃなかったら、きっともっとすごい曲のはずなのに・・・先生の指揮に私たちまだ全然ついていけてない・・・そう考えたら、悔しくて・・・」
本当にこいつらは、、、修仁はわけのわからない嬉しさから思わず大声で笑ってしまった。今度は生徒がビックリだ。
「せ・・せんせ?」
「あーはっはっはっは、、、悪い悪い、いやぁ嬉しくてうれしくて。なぁ千代」
隣では千代がうなずき、飛び切りの笑顔を見せている。
「いいかい?君たちのその悔しさがあれば必ず今度の演奏会は成功する!これは間違いない。俺が保証する!」
子供たちは「なんで?」と首をかしげるが構わず修仁は続ける。
「そしていいかい?2つ!2つだけ君たちは誤解しているよ」
「1つは、君達以外が演奏したらもっとすごい曲になるという部分」
指揮台からそっと降りてなおも続ける。
「そして、もう一つは俺の棒にまだ全然ついてこれてないという部分」
修仁は優しく生徒に微笑みかける。
「いいかい?まず、この楽譜は君たちの事を考えて作った楽譜だ。君たちが最高のパフォーマンスを発揮できるようにね。だから、君たちが実力を発揮できていないならそれは君たちのせいではなく僕の力不足だ。そして、君たちは十分僕の指揮に答えようとしてくれている。もう少し練習が必要だけれど、足りていないわけじゃない。」
ゆっくりとメンバーに近づきながらそう語る修仁。穏やかな、とても澄んだ瞳で子供たちを見つめる。
(本当に・・・こいつらは。決意が鈍ってしまったじゃないか)
穂神に来てから、修仁は一度もぶれたことが無い。部員達との約束もひとつ残らず実行してきた。その男が、ここにきて揺れている。そして、
「君たちが、、、その、望むなら・・ばの話だが」
うつむきながら恥ずかしそうに言葉を発する。部員たちは、今まで見たことがないほどにどもる修仁を見て、これはどうしたことかとお互いに顔を見合わせている
「もし、もしもだぞ?よければ、今度の定期演奏会で、、、」
「こ、今度の定期演奏会で・・・」
【バンッ】とその時椅子が倒れる音がした。全員の視線がそちらに向く。どうやら、真希が立ち上がった時に椅子がぶつかったようだ。
「先生!本番も指揮を振ってください!!!」
その言葉と共に、全員が席を立ち『お願いしますっ!』と頭を下げた。
「い、いや・・・その・・・」
『お願いしますっ!』
「こ、光栄です?」
「・・・ぷっ・・」
「ぷぷ・・くく・・」
「・・ぷ・・・は・・・や・・やったああああああああああああ!」
「え、ええ???????」
大喜びする子供たちと、困惑する修仁。そして、にこにこと笑いながら「よかったね」と話す千代。
どうやら、生徒たちはどこでこの話を切り出そうかタイミングを計っていたらしい。しかし、まさか修仁から切り出されるとは思っていなかったようで、「本当に生徒たちはうれしかったみたいですよ」と帰り際に、千代から修仁へ伝えられた。
本当なら、この場で指揮を振ることによって修仁の立場は一層追いつめられるだろうし、場合によっては「彼女」に居場所を悟られてしまう恐れもある。しかし、どうしてもこの目の前に咲き誇る子供たちを正当な評価を受ける場所へと昇華させてあげたい気持ちの方が強くなってしまったのだ。
(自分の生きている意味がここにあるのなら・・・俺は全力でやるだけだ。)
今日もまた、眠れぬ夜を過ごすことになるであろうホテルの一室で今一度自分の存在を確かめる修仁だった。