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嫌いじゃないと好きは違うよね?
生物研究室を出た私は、何度もこの言葉を自分に問い掛け、良からぬ感情を打ち消そうとした。
皆川は私をからかっているだけだ。
きっと誰にでも甘い言葉を囁いたり、気があるようなそぶりができるのだ。
だって自分が人並み以上のルックスを持ち合わせていると知っているから。
きっとそうだ。
私が特別ってわけじゃない…
勘違いして傷つくのだけは避けよう。
自己暗示をかけるように、何度も何度も自分の心に言い聞かせた。
でも、皆川のことが頭からずっと離れなかった。
教室に戻ると先週と同じように電気がついていた。
「また忘れ物?」
私は中にぽつんと座っていた木部くんに、ちょっと笑いながら尋ねた。
「今日は違うんだ。」
木部くんも少し笑ってる。
「待ってたんだ、瀬田さんのこと。」
一瞬ドキッとした。
「まだ鞄あったから一緒に帰ろうと思って。」
「でも、サッカー部の人達といつも帰ってるんじゃないの?」
「いや、みんなバス通で俺電車だからいつもひとり。瀬田さんも電車でしょ?」
「うん。でも…」
「あ、ごめん、迷惑だった?」
木部くんは急に不安そうな顔をした。
「ううん。全然、そんなことないよ。」
私は全力で否定して笑顔を見せた。
「よかった。」
木部くんは凄く嬉しいそうに笑う。
この人の笑顔には勝てない。
言うまでもないことが、木部くんはこの笑顔を私だけに見せてるわけじゃない。
無邪気な笑顔で人を引き付けている。
そのことを彼はたぶん自覚していないのだろう。
木部くんが笑うとみんなつられて笑ってしまう。
私もそのひとりだ。
学校を出て、二人で駅までの道を歩いた。
木部くんは私のしょうもない話にも笑ってくれてたから、気まずさは感じなかった。
私もよく笑っていた。
辛いことがあるってわけじゃないけど、何となく私はいつも虚しいさを感じている。
学年トップの成績をとっても、友達と遊んでいても。
その感じからいつも抜け出せなくて、息苦しい。
でも、木部くんといるとそんな虚しいさは感じなかった。
なんでだろう?
木部くんが持つ明るい雰囲気に飲み込まれているからかな。
電車に乗ると、こっちを見る視線に気づいた。
うちの高校と違う制服。
木部くんもその視線に気づいた。
「…あれ?真島?」
「やっぱり、ハルだよね!?」
どうやら中学の時の友達らしい。
しかも相当仲良さそう。
その真島と言う友達の視線がこっちに向けられた。
「…彼女さんですか?」
私は慌てて首を横に振った。
「…友達…だよね?」私は一応、木部くんに聞いてみた。
それは私達の関係が友達といいきれるほどなのか微妙だったから。
木部くんは優しく頷き、真島くんに耳うちした。
すると、真島くんはにんまり私を見て笑った。
木部くんは気のせいか顔が少し赤い。
私は何を耳うちしたのかすごく気になったが、すぐに最寄りの駅に着いてしまった。
木部くんと真島くんは、まだ先の駅らしい。
私はじゃあね、と軽く手を振り電車を出た。
満月に成りかけの月が、私の住む町の住宅街を照らす。
ひとりになって今日あったことを思い起こすと、まず皆川の顔が浮かんだ。
いま木部くんと一緒にいたばかりなのに…
そのことが、なんだか凄く悪いことに思えて胸が苦しくなった。
家に着き、玄関で思い切り"ただいま"と言ってみた。
普段絶対言わない。
真っ暗な家の中からは、当たり前のことながら返事は返ってこない。
私の母は夜から働きに行く。
水商売をしているわけではないが。
でも何をしているのかも、よく分からない。
父親は、私が中二の時に死んだ。
急に職場で倒れて入院し、あっという間に私と母を残してこの世をさった。
そしてその日から私は、母に一切わがままを言わないと心に誓った。
リビングにはいつものように千円札が一枚、食事用のテーブルの上に置いてあった。
私はそれには触れず、2階の自分の部屋に向かった。
部屋に入って電気もつけずに、ベッドに倒れ込む。
ベッドの横の窓から入る月明かりだけが、部屋をほんのり照らしている。
しばらくぼーとしていたが、思い立ったように窓の外を覗いた。
確か2階だったような…
2階ってほぼ真っ正面じゃん…
しかもベランダあるし。
と思ったら、私が見ていた部屋に急に明かりがついた。
中に見えたのは背の高い男性のシルエット。
ネクタイを緩めながら窓際に近づいてくる。これじゃあなんか私が覗きをしてるみたいだ…
…やめよう。
そう思い、窓のカーテンを閉めた瞬間、外から窓が開けられる音がした。
「瀬田」
聞き間違えであって欲しいと思った。
でもその声の主から、私は絶対逃れられない。
カーテンを開けると、向かいのマンションのベランダに皆川がいた。
煙草を指に挟みこっちを見ている。
私は仕方なく窓を開けた。
「また会ったね。」
皆川は爽やかに言い放つ。
何?嫌がらせ?
「俺の私生活でも気になった?」
「自惚れないでください。」つい思ったことが口に…
皆川は笑って、煙草を吸った。
煙草の煙を何となく目で追ってみたが、瞬時に空に紛れ消えていった。
この煙みたいに、私の皆川に対する何かよく分からない感情も、空気に紛れ消えていけばいい。
「瀬田…寂しくないか?」
「…え?」
唐突に言われたその言葉に、私は不思議なくらい敏感に反応した。
「寂しかったら、俺ん家来いよ。」
皆川は真剣な顔つきだった。
「遊びに来いって意味でな?別に嫌ならいいけどさ。」
そう言って皆川は静かに笑った。
比べるのもおかしいが、皆川と木部くんの笑い方は対照的だ。皆川は私の心を見透かしてるような、そんな笑い方をする。
それが時々怖くて、私はこの人と正面から向き合えない。
「先生…」
「ん?」
「…何でもないです。」
「そう。」
聞き返さないんだ。
言いたいことも、聞きたいこともたくさんあった。
でも黙っているほうが自然に思えた。
私の部屋の窓と皆川のマンションのベランダとの距離は、ちょうど私が皆川に感じ距離感と似ていた。
遠からず近からず、会話が辛うじて出来る程度。
私は皆川に、軽く「おやすみなさい」と言い、窓を閉めた。
電気を点けてない真っ暗な部屋。
物音ひとつしない静かな家だが、自分の鼓動だけがやたらうるさい。