取らんといてよぉ〜結局、取っちゃった〜リヒトとわたしの10年
わたしには14歳のその雨の日の記憶がない。
「胸から上が無い幽霊が出るんだよ。
それ、リヒトなんじゃないかな?」
若センセイがわたしに言う。
中学生の雨の日
わたしは、
歩道にいたところを、
トラックに轢かれたのだという。
リヒトと一緒に。
跳ね飛ばされたわたしは、
病院で目が覚めた。
トラックの下になったリヒトは、
そのまま還らぬ人となった。
あれから10年経って、
わたしはもうじき25歳になる。
「実家を新築に建て替えたら、
なぜか出るんだよね。
顔が見えないからわかんないんだけどさ」
ここは仁科歯科医院。
口を開けたまま、
なんと言えばいいかわからず、
なにも話せず、相槌すら打てず、ただ聞いていた。
治療が終わり、
口を濯いでいたら、おえっとなる。
歯科衛生士さんの話を聞きながら、
視線の先の観葉植物に
埃がたまってるなぁ、なんて思う。
若センセイは、幽霊のことだけ言って、
黙って奥の部屋に消えていた。
昔から、訳のわかんない大人だった。
彼は、若先生と呼ばれてるけど、
仁科先生はもう高齢で引退してたし、
もう若くないから、
すでにあだ名のようなものだ。
あの日、
リヒトがわたしに告白するって、
わたしを呼び出したらしい。
クラスの子たちが言っていた。
だけど、まるで覚えてない。
あの日のリヒトの記憶だけ、
すっぽり抜け落ちているのだ。
――
十年前のあの日は、
朝から雨が降っていて――
教室でわたしの視線に気がついた海斗が言った。
「なにさ?」
「ん?海斗なんか、かわいいのつけてるなぁって思って」
「お前こんなん好きなの?」
ケイタイについているウサギのストラップを持ち上げる。
「やるよ。お前ににてるし」
「え? どこが?」
ウサギの耳がツインテールに見えないこともない。それか?
「目つき悪いとこ」
海斗がおどけた顔をする。
「いや、かわいいし、これも、実物のわたしも!」
「あはは、かせよ、ケイタイにつけてやるよ」
海斗は無理矢理、
わたしのケイタイにウサギのストラップをつけた。
リヒトは黙ってそれを見てた。
窓の外が霞んで見えないだけ。
別に特別じゃない――
中学時代の雨の日の教室。
――
布ナプキンを膝に広げながら、
わたしは思わずうつむいて声を出す。
「痛っ、いてて……」
「彩良さん、まだ古傷痛むの?」
ヒナちゃんが、眉を八の字にする。
「うん、雨の日はねぇ、
肩の骨つなぐのに手術した傷がね」
職場の同僚のヒナちゃんの入籍祝いに、
『ちょっとだけ贅沢ランチ』を奢っていた。
ノンアルシャンパンで乾杯する。
「てかさ、わたしより彩良さんの方が、
結婚してるようなもんじゃないの?
ずっと一緒に住んでるし」
「わたしが入り浸ってるだけだよ。
彼のマンション、駅に近くて便利だからね」
恋人の海斗とは幼馴染で、
中学まで家が隣同士だった。
家は離れたけど、
なんとなく高校、大学と一緒にいて、
今はほぼ一緒に暮らしている。
あの頃、リヒトは海斗の親友だった。
リヒトは、
仁科歯科医院の若センセイの甥っ子で、
両親が離婚して、2年の3学期に母親と、
この街に引っ越してきた。
小柄で、サラサラの茶色髪で、
ちょっと前までは女の子みたいに、
可愛かったんだろうなぁと思うような――
そんな男の子だった。
わたしは、その容姿と、
知らない土地から来た、海斗の友達という印象しか、
リヒトには持っていなかった。
――
「まだ、あそこの歯医者通ってるの?」
海斗が呆れたように言う。
「子供の頃から通ってるからね。なんとなく……」
枕を並べて、二人とも天井を見ている。
海斗の趣味で、寝る時は日本の星空が投影されている。
天井の凹凸を拾ってちょっと歪んだ星空だ。
「奥さんに逃げられてから、
若先生ちょっとおかしいって噂だよ?」
海斗が寝返りをうって、わたしの方を向く。
「そういえば、なんか手震えてるっぽい。
アル中のおっさんかなって感じはする」
天井で星が流れる。
地味な演出だ。
「おっさんか……昔はかっこよかったんだよな。
草野球でさ、バンバンホームラン打って……」
「海斗の"かっこいい"って、それ?」
「えっ? だめだった?
ホームラン、いいじゃん?」
海斗が布団の中でわたしの手を握る。
「草野球ねぇ……
海斗、野球なんてやらないし、観ないのになぜ?
と思うわ」
「自分に無いものがいいんだよ」
海斗は繋いだ手を持ち上げる。
暗くてもわかる。
海斗のよく日焼けした肌と、生白いわたしの肌。
リヒトもわたしみたいに白かった。
あの頃は――
不意につないだ海斗の手に、力が入る。
「彩良、結婚しようよ」
海斗の目力が強い。
「なにか、不満なの?」
わたしは困ってしまう。
「彩良の方が俺に不満なんじゃないの?」
「不満なんて、なにもないけど」
「じゃあ、どうして、だめ?」
「今のままで、いいから」
「なら、せめて、ここに越してこいよ。
一緒に暮らそう」
わたしは、更に困った。
別に理由は無いのだ。
ただなんとなく、
この関係を変えたくなかった。
「明日も仕事だし、寝る」
わたしは天井を向く。
「スルーかよ」
海斗の大きなため息が耳にかかる。
わたしは無視して、目を閉じて、いつものルーティンに入る。
「とらないよ、とらないよ」
「それほんと、なんの呪文?
なんか怖いんだけど」
「ん?
よく眠れるおまじないだって、言ってるじゃん」
「効くなら、俺もするかな……」
「海斗には効果ないよ」
「うん、俺にはこっちの方が効く」
こんな時の海斗の唇は、
何年経っても不器用なままだ。
「好きだよ、彩良」
ゆっくりと、わたしに口付ける。
「知ってるよ。わたしもだよ」
「俺も……知ってるよ」
わたしは、目を閉じる。
――
翌週、
海斗が出張でいないのもあって、
わたしは実家に帰っていた。
真夜中にメッセージが入って、何事かとスマホを覗く。
仁科歯科医院……から?
――甥のリヒトの最後のことで聞きたいことがある。
こんな時間に、若センセイだった。
カルテの連絡先でも見たんだろうか?
ずっと大人だったくせに。
ホームランバンバン打ってたくせに。
今はただの酔っ払いのおっさんだ。
あぁ!
こんな時間に起きちゃったよ。
寝よ、寝よ。
目を閉じる。
《取らんといて、取らんといてよぉ》
誰もいない部屋の隅から、声が聞こえる。
もう、見なくてもわかる。
それは、黒い塊。
そして時々、
ベッドの下からコンコンと叩く。
「とらないよ、とらないよ」
わたしの呪文で、それは安心して静かになる。
わたしも、ぐっすり眠れる。
――
迷ったけど、
仕事が終わってから、
若センセイの呼び出しに応じた。
海斗には言ってない。
仁科歯科医院の大先生の家――
胸から上が無い幽霊が出るという、
若センセイの父親の家に連れて行かれた。
広い居間の高いところには、
ご先祖さまの写真がずらっと並んで飾ってある。
新築だけど、古い家だ。
いろんな顔がある。
威厳ある顔、若センセイにちょっと似た顔。
狐顔の人は若くして亡くなったんだろうか……
白黒写真なのに、何故か唇が赤くみえた。
「リヒトはなぜ、彩良ちゃんのストラップを握ってたの?」
出された、小さいペットボトルのお茶を飲む。
あのストラップは……
ただ、気まぐれに海斗がくれたものだった。
「わからない。わたしがあげたのかも。
記憶がないのはセンセイも知ってるでしょ?」
トラックに轢かれて重症を負った、
記憶のない中学生の女の子に、
誰も事故の話なんかしなかった。
海斗とも一度もしたことがない。
――今までは。
ちょっとむかつく。
「お家の人、いないんですか?」
「幽霊のせいでお袋が泣き通しで、
落ち着くまで、家族旅行中だよ」
「幽霊って、本当に出るんですか?」
「出るよ。何人も見てるんだ。
胸から下だけだから、誰だかわからない。
俺はリヒトだと思うんだけど、
彩良ちゃんはどう思う?」
どうって……
責めるような口調でもなく、
わたしは戸惑う。
「こっちの部屋なんだ」
手を引かれる。
ずっとわたしの口の中を掻き回してきた、
大人の男の手。
そこは、
客室に使われてそうな、小さな部屋で、
ベッドだけが置いてある。
そう、
幽霊なんて、
どうせ、
女を呼び出す口実だ。
無精髭の頬を見る。
わたしは、この人が嫌い。
ずっと大人だったくせに、
今はこんな目でわたしを見る。
子供だったわたしのことは、
視界にも入らなかったくせに……
若センセイの手が伸びて、
わたしの首の後ろにまわる。
鼓動が、
激しくなる。
嘘……だ。
本当は、わたし、
ずっとこの人のこと見ていた――
綺麗な彼女とか、
綺麗な奥さんとかが、
いつも隣にいる大人の男の人……
ゆっくりと、
ベッドに横たわる……
目を閉じる。
手のひらが、妙に生ぬるく、ぺたりと湿っている。
安っぽいトニックシャンプーと、
隠しきれない加齢臭が混ざった匂いがして、
急に、息苦しくなった。
かつて遠くから見つめていた大人の男が、
今はただの、
余裕のない哀れなおっさんになって、
わたしを押しつぶそうとしている。
あれ?
ちょっと、これどうなんだろと、
その気色悪さを考え始めた――
まさにその時、
――でた!
胸から下の幽霊!
白いシャツと濃い色のズボンの身体が、
高いところにぼんやり浮いて見えた。
わたしを押し倒していた若センセイは、
腰でも抜けたのか、
動かず、口をぱくぱくするだけだ。
やっぱり情けねぇ。
奥さんに逃げられるだけある。
わたしはすっくと、
立ち上がった。
「顔が見えなきゃ、
誰かわかんないよ!
あなたは誰なの?
恨みがあるなら、顔を見せて!」
かすかに、
潮の匂いがした。
《恨みなんてないよ》
目の細い狐顔が浮かびあがる――
「あっ、居間の写真の!」
《うん。
気づいてくれたんだね……》
わたしに向かって、
生白い手をふわりと伸ばしてきた。
身を引いて、逃げたくても、
身体が動かない。
『バチッ』と音がして、
わたしから影を引き剥がすみたいに、
ずるりと、
黒いモノを掴んだ。
「あっ!」
その一瞬、わたしはあの日の雨の中にいた。
――……といてぇぇぇ
黒いモノが、
最後に、小さく叫んだ。
《連れていくよ……こんな想いは》
狐顔の幽霊は
少し哀しそうに笑う。
その唇がほのかに
紅く浮かび上がる。
彼は、
黒いモノを大事に抱えて――
そのまま、
すぅっと消えた。
潮の香りが
微かに空気を揺らした。
若センセイは、しばらく壁を見たまま動かなかった。
その姿は本当にただのおっさんだった。
「なんだ? リヒトじゃなかった?」
「そうだよ、リヒトなわけないよ」
わたしは、
知ってた。
胸から下の幽霊が、
リヒトじゃないって。
だってリヒトは――
ずっと、
わたしのそばにいた。
《取らんといて、取らんといてよぉ》
ただ、そう繰り返す、黒い塊になって。
「とらないよ、とらないよ」
夜になるといつも繰り返す呪文。
なにを取らないでなの?
黒い塊に、なんど問いかけても、返事はなかった。
ずっとわからなかった――
若センセイとわたしはすっかり、
毒気が抜けて、
言葉少なにお互いの家に帰った。
――
仁科家の人たちは、
すぐに家族旅行から帰って来た。
わたしは、
お坊さんが供養のお経をあげに来る日に招かれた。
幽霊さんは、若くして海で亡くなった人だそうだ。
戦時中で、ちゃんとした弔いができなかったらしい。
ずっと、何十年も前の人だ。
「ほとけさんと、話したって?
あんた勇気あるねぇ。
供養してもらえてないって出てくるのは、
よくあるんだよなぁ。
最近は違うけど、昔の人ほどそういう気持ちが強いのかねぇ。
このお経は効果はあるらしいよ。
わしは、まったく視ないけどねぇ」
つるつる頭のお坊さんは、
カラカラと笑った。
写真に気づいてよかった。
寂しさの中に沈めたままじゃなくて、
よかった。
わたしは手を合わせた。
お坊さんのお経は心地よく、とても良い声だった。
――
あの時――幽霊さんが、
わたしに触れた時。
バチって音がした時、
わたしは、すべてを思い出していた。
雨の音が聞こえた。
あの日の雨だ――
傘を差して、雨の中リヒトと二人、
コンビニ前の歩道に立っていた。
わたしを呼び出しただけで、
リヒトはなかなか口を開かなかった。
「ストラップ……」
やっと発した言葉は、
雨足が強くなって、良く聞きとれなかった。
「ストラップ? あげるよ。
わたし別にいらないもん」
リヒトに近づくと、傘同士が当たった。
「いらないなんて言わんでよ。
ぼくは、これが欲しかった。
海斗が気に入っていつも持っていたから……」
わたしはケイタイからストラップを外そうとした。
濡れたのと海斗の馬鹿力で、キツくつながっていた。
傘を持っているのもあって、なかなか取れない。
「お願い、取らんといて……」
「ストラップ、取らなきゃあげられないし!」
「海斗を取らんといて」
わたしは顔を上げる。
リヒトは青白い顔していた。
なのに、
吹きつける雨に濡れた唇だけが、
やけに赤い。
「リヒトは海斗しか仲良い友達いないもんね。
別に親友をとったりしないよ。
ただ、家が隣りなだけ」
これ、
全然わたしへの告白じゃないじゃん。
わたしは苛立った。
「お前は、なんもわかっとらん!」
リヒトが水たまりを踏んで、ぱちゃりと音がした。
雨が傘を叩き続ける。
「なにがよ?」
「男の心をさらってく女や」
リヒトが傘を落とす。
わたしは、咄嗟に身を引いた。
「リヒト、なに言ってんのかわかんないよ」
リヒトがわたしのストラップを強引に掴む。
「僕がどんなに、海斗のこと……」
そう、わたしへの告白じゃない。
むしろこれは……
ライトの光が視界いっぱいに広がった。
見えるもの全てがものすごい速さでぐるぐる回って、
記憶が無くなった。
それが、
中学生の雨の日の、
わたしとリヒトの最後だ。
――
わたしは、
歯医者を変えた。
仁科歯科医院は、
間もなく、閉院した。
そして、
わたしは、海斗のプロポーズを受けた。
海斗はいきなり、
「やったぁ! やったぞ! 俺は幸せだー!」
腕を突き上げて大騒ぎしだして、
道ゆく人の視線がすごく恥ずかしかった。
――男の心をさらってく女
「そうかぁ……そうだったんだね」
帰りに、
ふと、つぶやいて、
少し泣いた。
――
新居への引越しのため、
実家の部屋を片付けた。
黒い塊は10年わたしの部屋にいた。
――取らんといて、取らんといて
あの声はもう聞こえない。
狐顔の優しい人が連れて行ってしまった。
だけど――わたしは話しかける。
アレがいた場所に。
「結局、とっちゃったね。
……ごめんね」
「ねぇ、リヒト。
ずっと、わたしのとこにいても、いいんだよ?」
窓の外で、風が洗濯物を揺らしている。
どこかで子供の笑い声がした。
「リヒト、ねぇ……」
春の午後の光が、
ベッドのあった場所を柔らかく照らす。
わたしの言葉は、誰にも届かず、
ただ、
何もない部屋の中に浮かんで、
消えた。




