総理秘書室の幽霊職員、呪い返し無効の最強体質だと気づいたので官房長官を詰めます
永田町の朝は、嘘から始まる。
私が総理秘書室に配属されて十年になる。その間、名刺を渡した相手に翌日覚えられていたことは一度もない。会議で発言すれば空気が揺れるだけ。廊下ですれ違う議員秘書たちは、私の顔を見ても焦点が合わない。まるで壁の模様を見るみたいに、視線が滑って通り過ぎていく。
宮瀬紗英。それが私の名前だ。
秘書室のデスクは窓際の隅にある。隣の席との間にはプリンターが置かれていて、誰かがコピーを取りに来るたびに私の存在が遮られる。最初は気にしていた。今はもう、プリンターと一体化した備品だと思っている。
「宮瀬さん、今日の総理発言の要約、まだですか」
室長の戸塚が声をかけてくる。この人だけは私の名前を覚えている。正確に言えば、覚えなければ仕事が回らないから覚えているだけだ。
「三十分前にお渡ししました」
「あ、そうでしたっけ」
戸塚は自分のデスクを見て、確かにそこにある書類に目を丸くした。私が持っていったことすら記憶に残っていない。いつものことだ。
総理大臣、桐生隆一郎。国民支持率68%の男。テレビに映る姿はいつも堂々として、声に芯がある。国民は彼を「戦後最高の宰相」と呼ぶ。
嘘だ。
桐生隆一郎の実体は三人いる。月曜から水曜を担当する「壱号」、木曜と金曜の「弐号」、週末の公務に出る「参号」。顔は整形と特殊メイクで揃えてある。声は骨伝導デバイスで補正される。本物の桐生隆一郎は五年前に脳梗塞で倒れ、今も都内某所の個室で眠っている。
このことを知っているのは、官房長官の神谷、秘書室長の戸塚、替え玉三名、そして私だ。
なぜ私が知っているのか。簡単な話だ。替え玉の交代は秘書室の奥の小部屋で行われる。そこは私のデスクから三メートルの位置にある。彼らは私がいることに気づかない。十年間、ずっと。
「紗英ちゃん、今日も遅いの?」
携帯が鳴る。凛だ。姉の忘れ形見。今年で十三になる。
「ごめんね、八時には帰る」
「冷蔵庫にグラタンあるから温めておくね」
凛は料理がうまい。私が教えたわけではなく、姉の血だろう。姉は何でもできる人だった。政治家の秘書として将来を嘱望され、複数の大物議員から引き抜きの声がかかっていた。呪術にも通じていた。
そう、呪術。
永田町には三つの公然の秘密がある。一つ、予算の数字は財務省が最後に書き換える。二つ、派閥の力学は選挙の半年前に決まる。三つ、権力者は呪いで互いを縛っている。
三つ目だけが、一般には知られていない。
呪いには厳格なルールがある。
第一条。呪いは対象の本名を知る者だけがかけられる。
第二条。呪いは発動条件と解除条件を、かける側が事前に宣言しなければならない。
第三条。呪い返しは、呪いのルールそのものの穴を突いた者だけが行使できる。
この三条によって、永田町の呪術は均衡を保ってきた。誰もが誰かを呪える。だが誰もが呪い返される可能性を持つ。だから軽々しく呪わない。核抑止力と同じ構造だ。
姉は、この均衡を崩そうとして死んだ。
十年前の冬。姉は呪術の廃絶を訴えて、証拠を集めていた。ある夜、車が姉を撥ねた。運転手は記憶がないと言った。事故で処理された。凛はまだ三歳だった。
私は凛を引き取った。姉の戸籍から私の戸籍へ。名前だけが残った。姉がつけた名前、凛。
それからの十年間で、私は永田町の呪術の全容を知った。誰も私に気づかないから。会議室の隅で、廊下の端で、エレベーターの中で、権力者たちは私の前で平気で呪術の話をした。
私は記録した。日付、場所、発言者、内容。ノートは三十八冊になった。
だが動かなかった。凛を育てなければならなかったから。波風を立てれば、姉と同じ目に遭う。私は透明でいることを選んだ。凛が大人になるまでは。
今日、その均衡が崩れた。
夕方の秘書室。替え玉の「弐号」が小部屋から出てきたとき、官房長官の神谷が待ち構えていた。
「桐生総理。いや、弐号君か。君に呪いをかける」
神谷の声は平坦だった。淡々と条件を述べる。
「発動条件。君が総理として記者会見に立つこと。効果。会見中に本物の桐生隆一郎の容態が全国に配信される。解除条件。君が総理の座を私に譲ると宣言すること」
弐号の顔から血の気が引いた。替え玉には呪術に対抗する力がない。神谷は弐号の本名を知っている。呪いは成立する。
「一週間の猶予をやる。次の会見までに答えを出せ」
神谷が去った後、弐号はその場に崩れ落ちた。私は三メートル先のデスクから、その一部始終を見ていた。
弐号が帰った後、私はしばらく動けなかった。
神谷が総理の座を簒奪すれば、永田町の呪術の均衡は完全に崩壊する。姉が命をかけて暴こうとした闇が、さらに深くなる。
携帯が鳴った。凛からだ。
「紗英ちゃん、グラタン冷めちゃうよ」
「うん、今から帰る」
電話を切って、息を吐いた。十年間、私は透明でいることで自分と凛を守ってきた。でも、このまま透明でい続けたら、守るべきものごと呑み込まれる。
姉の顔が浮かんだ。最後に会ったときの姉の言葉。
「紗英、あんたは目立たないけど、それって実はすごいことなのよ」
姉はあのとき、何を言おうとしていたのか。
翌朝。私は十年ぶりに、自分から声を上げた。
秘書室に入るなり、室長の戸塚に向かって言った。
「戸塚室長。私、宮瀬紗英です。今から官房長官室に行きます」
戸塚が目を丸くした。私が自分から何かを申し出るのは、配属以来初めてだった。
官房長官室のドアをノックする。十年間で初めてだ。
「どちら様」
神谷の声だ。
「総理秘書室の宮瀬紗英です」
ドアを開ける。神谷が怪訝な顔で私を見た。視線が一瞬揺れる。私の顔に見覚えがないのだ。
「宮瀬。ああ、秘書室の。何の用だ」
「昨日の件です。弐号への呪い。撤回していただけませんか」
沈黙が落ちた。神谷の目が細くなる。
「君、知っているのか」
「全部知っています。替え玉のことも、呪術のことも。十年分のノートがあります」
神谷は椅子の背にもたれた。それから薄く笑った。
「で、どうする。脅すのか。ノートを公開すると」
「いいえ。取引です」
「取引? 君ごときが、何を差し出せる」
「私の名前です」
神谷の表情が初めて動いた。
「この十年、永田町の誰も私の名前を覚えられなかった。あなたも今、初めて聞いたはずです。私は呪術のルール第一条の外にいる人間です。誰にも呪えない。つまり――」
私は一歩前に出た。
「私だけが、あなたに呪い返しができる」
第三条。呪い返しは、ルールの穴を突いた者だけが行使できる。
穴とはこうだ。第一条は「本名を知る者」だけが呪えると定める。だが私は、本名を知られていないのではない。本名を認識されない存在なのだ。名前を告げても、相手の記憶に残らない。ということは、私が呪いをかけたとき、相手は「誰に呪われたか」を認識できない。認識できない呪いに対しては、呪い返しの第三条を適用する前提が成立しない。
つまり、私の呪いには呪い返しが効かない。
「ブラフだ」と神谷が言った。だが声が震えていた。
「試しますか。発動条件。あなたが弐号への呪いを撤回しないこと。効果。あなたの全ての呪術記録が検察特捜部に届く。解除条件。弐号への呪いを今すぐ撤回し、総理の座への野心を公に放棄すること」
「待て。それは呪いではなく、ただの脅迫だ」
「呪いですよ。だって、私のノートは三十八冊あるのに、あなたは今まで一度もその存在に気づかなかった。これが呪術でなくて何ですか」
言い切った瞬間、自分の中で何かが弾けた。十年間、飲み込んできた声が喉を通って外に出た感覚があった。
神谷の顔から余裕が消えた。
「宮瀬、と言ったな。お前の姉は――」
「ええ。宮瀬凪。十年前に呪術の証拠を集めていて、車に撥ねられて死にました」
「あれは事故だ」
「そうですね。事故で処理されました。でも私のノートには、あの日の運転手に誰が呪いをかけたかも書いてあります」
完全な沈黙。
神谷は長い時間、私を見つめていた。それから大きく息を吐いた。
「撤回する。弐号への呪いは無効にする」
「それだけでは足りません。解除条件の全文を」
神谷は歯を食いしばった。しかし、呪いのルール第二条が彼を縛っていた。宣言した条件は履行しなければならない。
「総理の座への野心を、公に放棄する」
「記録しました。ありがとうございます」
私は頭を下げて官房長官室を出た。廊下を歩く足が震えていた。
デスクに戻ると、戸塚が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「宮瀬さん、どこ行ってたの」
「官房長官室です」
「へえ。何しに?」
「呪いを返しに」
「はは、冗談きついなあ」
戸塚は笑って、自分の仕事に戻った。
夜。帰宅すると、凛がリビングで宿題をしていた。テーブルにはグラタンが置いてある。今日はちゃんと温かい。
「おかえり、紗英ちゃん。今日は早いね」
「うん。ちょっと、大きな仕事が片づいたから」
凛が顔を上げた。何かを感じ取ったのか、不思議そうに私を見る。
「紗英ちゃん、なんか今日、顔が違う」
「そう?」
「うん。なんていうか、ちゃんと見える。いつもより」
私は笑った。十年ぶりに、腹の底から笑った気がした。
「ちゃんと見える、か」
グラタンを食べながら、ノートのことを考えた。三十八冊。姉が始めた仕事を、私は十年かけて引き継いでいたのだ。気づかないふりをしていただけで。
凛が言った。
「ねえ、紗英ちゃん。お母さんってどんな人だった?」
「強い人だったよ。正しいと思ったことを、絶対に曲げない人」
「紗英ちゃんもそうだよ」
「私は違うよ。十年も黙ってたんだから」
「でも、黙ってても続けてたんでしょ。何かを」
凛の目は姉に似ている。まっすぐで、ごまかしが効かない。
「うん。続けてた」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
十三歳の言葉が、三十八歳の胸に刺さった。
食器を洗いながら、窓の外を見た。永田町の方角に、国会議事堂の明かりが見える。あの建物の中で、今も誰かが誰かを呪っている。
でも、もう透明ではいられない。名前を取り戻した以上、私は呪える側に立った。そして同時に、呪われる側にも立った。
携帯が鳴った。知らない番号だ。
「宮瀬紗英さんですね。お姉さまの件で、お話があります」
声は若い女性だった。名前は名乗らなかった。
「単刀直入に申します。お姉さまは亡くなる前夜、あなたに呪いをかけました。『誰にも認識されない』という呪いを」
息が止まった。
「発動条件は、宮瀬凪が命を落とすこと。効果は、宮瀬紗英の存在が他者の認識から滑り落ちること。そして解除条件は──宮瀬紗英自身が、権力者に対して本名を名乗ること」
受話器を持つ手が震えた。
今朝。私は官房長官室のドアを開けて、こう言った。
「総理秘書室の宮瀬紗英です」
姉の最後の言葉が蘇る。
──紗英、あんたは目立たないけど、それって実はすごいことなのよ。
あれは励ましではなかった。告白だった。姉は自分が殺されることを予感して、妹と姪を守るために、私から名前を奪ったのだ。十年間の透明は、姉が命と引き換えに遺した鎧だった。
そして今日、私はその鎧を自分の意志で脱いだ。
呪い返しが効かない最強の体質──それはもう、私のものではない。
電話の向こうで、女性が静かに言った。
「お姉さまが残した資料があります。明日、国会図書館の地下閲覧室で」
電話が切れた。
凛の寝息が聞こえる。私はリビングの灯りを消して、三十八冊目のノートの最後のページを開いた。
今日の日付を書く。その下に一行。
「宮瀬紗英。本日より、透明をやめる。姉さん、十年間ありがとう」
ペンを置いた。明日からは呪える側であり、呪われる側でもある。姉の護りなしで、永田町に立つ。
寝室に入る前に、凛の部屋を覗いた。毛布を蹴飛ばして眠っている。直してやりながら思う。この子を守るために透明でいた十年は、無駄じゃなかった。でも、この子を守るためにこそ、もう透明ではいられない。
「おやすみ、凛」
返事はない。当たり前だ。
明日から、永田町は少しだけ騒がしくなる。
布団に入ろうとしたとき、玄関のインターホンが鳴った。
時計を見る。午前一時十二分。
こんな時間に。凛を起こさないように廊下を歩き、モニターを覗いた。
息が、止まった。
神谷が立っていた。スーツ姿のまま、カメラの正面で薄く笑っている。
「こんばんは、宮瀬紗英さん。──なぜでしょう、帰り道ずっとあなたの名前を反芻していましてね」




