第2話 まさか現実にバグキャラがいるのか
「なつめ、聞いてる?」
あかりの声で我に返った。学食のテーブル。目の前にはカルボナーラが冷めかけている。
「あ、ごめん。なんだっけ」
「だから、来週の飲み会。なつめも来るでしょ?」
好感度63。心の声:『絶対来てほしい。なつめいないと私が一番地味になる』
……おい。
「う、うん。行く行く」
好感度64に上がった。心の声:『やった。なつめがいると安心する。隣キープしよ』
さっきの本音は聞かなかったことにしよう。友情とはそういうものだ。
メガネを手に入れて三日が経った。
結論から言うと、このメガネは完全にチートだった。
乙女ゲームのやり込み勢として断言する。好感度が数値で見える。心の声が読める。この二つが揃えば、対人関係の攻略難度は劇的に下がる。
実験はすでに始めていた。
まず、ゼミの男子・田中。好感度28。
心の声:『桐島さん、話しかけてこないかな』
攻略理論その一。「相手の趣味に合わせた話題を自然に振る」。
田中のカバンにはサッカーチームのキーホルダーがぶら下がっている。
「田中くん、昨日の試合見た? 後半すごかったよね」
見ていない。なんなら後半に何が起きたかも知らない。だが乙女ゲーム八年の知見が教えてくれる。詳しくなくていい。「見た?」と聞くだけで、相手は自分の話ができる場を得る。
田中の目が輝いた。
「え、桐島さんサッカー見るの!? あのロスタイムのゴールやばくなかった!?」
好感度28から34に跳ね上がった。心の声:『まさかの共通の趣味!? 嬉しすぎる!』
共通の趣味ではない。六ポイント詐取した。ごめん田中くん。
次。攻略理論その二。「さりげない肯定で相手の自己重要感を満たす」。
ゼミの発表後、隣の席の女子に「説明うまいね、わかりやすかった」と言ってみた。好感度18から25に上昇。心の声:『えっ、桐島さんに褒められた。嬉しい。もっと頑張ろ』。
簡単すぎる。
まるでイージーモードだった。数値が見える。心が読める。相手が何を求めているか手に取るようにわかる。ゲームで何百回とやってきた好感度稼ぎを、現実でトレースしているだけだ。
三日間で、なつめの周囲の平均好感度は八ポイント上がった。
これはいける。
この調子なら、あのマイナス15の男だって——。
四日目。図書館。
篠宮蓮はいつもの窓際の席にいた。分厚いハードカバーを開いている。好感度はマイナス15のまま。心の声は相変わらず表示されない。
なつめは深呼吸した。
攻略理論その三。「共通の趣味から入る」。篠宮の手元の本が見えた。コニー・ウィリスの『犬は勘定に入れません』。海外ミステリの名作だ。これは知っている。配信で乙女ゲームのシナリオ分析をする時に、ミステリの構造を参考にしたことがある。
いける。共通の話題がある。セオリー通りだ。
「あの、それ『犬は勘定に入れません』だよね。私もウィリス好きで——」
篠宮が顔を上げた。
一瞬、その目が見開かれた気がした。
だが次の瞬間にはもう無表情に戻っている。
「……そう」
好感度表示。マイナス15からマイナス18に下がった。
下がった。
心の声がようやく表示される。たった一言。
『……うるさい』
なつめの頭の中で、攻略失敗のSEが鳴った。あのゲームオーバー直前に流れる不穏な和音が、鮮明に。
「あ、その、邪魔してごめん……」
「……別に」
篠宮は本に視線を戻した。もうなつめのことは存在しないかのように。
好感度マイナス18。心の声、再び非表示。
なつめは図書館を逃げるように出た。
おかしい。セオリー通りにやった。相手の趣味に合わせた話題。共通点の提示。柔らかいトーン。乙女ゲームなら確実に二、三ポイントは上がる場面だ。
なのに三ポイント下がった。
渡り廊下のベンチに座り、膝を抱えた。
田中くんには通じた。ゼミの女子にも通じた。なのに篠宮蓮にだけ、何ひとつ通じない。
ゲームでこんな攻略対象に出会ったことがない。いや、ある。あるにはある。
——好感度が下がる選択肢しか存在しないバグキャラ。
まさか現実にバグキャラがいるのか。
いや、違う。落ち着け。八年やってきたんだ。こういう時こそ基本に立ち返る。
なつめは帰宅後、自分の配信チャンネルを開いた。
アーカイブを遡る。三ヶ月前の動画。サムネイルには「好感度マイナスキャラ完全攻略ガイド」の文字。
再生する。画面の中の自分が、自信満々に語り始めた。
「マイナス好感度の攻略対象に出会ったら、まずやっちゃいけないことがあります。距離を詰めることです」
なつめは画面の中の自分を見つめた。
「マイナスってことは、相手はあなたに対して能動的に壁を作ってる状態なんですよ。そこに突撃しても好感度は下がるだけです。やるべきことは"近づく"じゃない。"存在を許容させる"こと。まず同じ空間にいることに慣れさせるんです」
……。
それ、今日の私に言ってます?
三ヶ月前の自分に完璧に論破された。図書館で声をかけたのは最悪の一手だった。セオリーを知っているはずの自分が、焦ってセオリーを無視した。
なつめはノートパソコンの前で頭を抱えた。
画面の中の自分はまだ続けている。
「マイナス好感度って、実は"嫌い"とイコールじゃないんです。嫌いなら数値はもっと低い。マイナス10からマイナス20の帯域は、言ってみれば"気になるけど認めたくない"ゾーンなんですよ」
気になるけど、認めたくない。
篠宮の一瞬だけ見開かれた目を思い出す。心の声は「うるさい」だった。でもあの一瞬、明らかに反応した。声をかけられて無反応なら好感度は動かないはずだ。
三ポイント下がった。それは、動いたということだ。
なつめはメガネを外して目を擦った。
裸眼の世界はぼんやりしている。好感度の数字も、心の声も見えない。昨日まではそれが普通だった。たった三日で、見えない世界がこんなに不安になるなんて。
メガネをかけ直した。
部屋には自分しかいないので、誰の好感度も表示されない。当たり前だ。
ノートパソコンの画面で、三ヶ月前の自分がまとめに入っていた。
「まとめます。マイナス好感度キャラの攻略は、三段階。第一段階、"存在の許容"。第二段階、"偶然の接点"。第三段階、"本音の開示"。この順番を絶対に間違えないでください」
第一段階。存在の許容。同じ空間にいることに慣れさせる。
篠宮がいつもいる場所。図書館——は失敗した。もう警戒されている。
別の場所が要る。篠宮と自然に同じ空間にいられる場所。
なつめはスマホを開き、大学の掲示板アプリを立ち上げた。バイト募集の欄を何気なくスクロールする。
指が止まった。
「古本屋・栞堂 アルバイト募集 週三日 時給1020円」
勤務地の住所を見た。キャンパスから徒歩十分。
そしてその下に、小さく。
「担当:篠宮」
なつめはスマホを握りしめた。
第一段階、"存在の許容"。
同じ空間に、自然にいること。
これはもう、応募するしかない。
セオリーではそうなっている。三ヶ月前の自分がそう言っている。
ただ——セオリー通りにいかなかったのも、さっき証明されたばかりだった。




