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第1話 現実に、セーブポイントはない


「好感度35以下でこの選択肢を選ぶ人、正気ですか? 即バッドエンドですからね」


夜十一時、六畳ワンルーム。

桐島なつめはマイク片手に画面へ向かって断言した。


配信チャンネル「なつめのガチ攻略」。登録者三万二千人。

乙女ゲームの最適解を冷徹に解説する攻略配信者として、なつめはそこそこの信頼を得ている。


「いいですか皆さん、恋愛は確率論です。正しい選択肢を正しいタイミングで選べば、好感度は必ず上がります。才能なんか要りません」


コメントが流れる。


『なつめさんは現実でもモテそう』

『攻略の鬼』

『結婚してくれ』


なつめは画面の外でひきつった笑みを浮かべた。


現実では男子と目が合うと視線を逸らす。会話が三往復を超えると呼吸が浅くなる。合コンに誘われたことすらない。

恋愛理論の実戦経験は完璧にゼロである。


配信で見せる切れ味鋭い攻略マシンと、現実の桐島なつめの間には、太平洋くらいの溝がある。

コメント欄がこの部屋を見たら全員チャンネル登録を解除するだろう。流しには二日前のマグカップ。壁際にはクリアした乙女ゲームのパッケージが山と積まれ、いちばん上のやつは醤油のシミがついている。


「それでは、次回も最適解でお会いしましょう。おやすみなさい」


配信を切る。

画面が暗転して、すっぴんの自分が映った。目の下にクマ。髪はボサボサ。さっきまで恋愛を語っていた人間の顔ではない。


「……恋愛は確率論、ね」


言った本人が一番信じていない。



翌日の帰り道、普段は通らない路地を歩いていた。講義が早く終わり、なんとなく知らない道を選んだだけだ。


古道具屋があった。

「硝子屋」と達筆で書かれた看板。店の前に古い時計やランプが無造作に並ぶ中、赤い革のメガネケースが目に留まった。


妙に気になった。というか、目が離せない。

手に取った瞬間、革の表面がほんのり温かかった気がした。気のせいだと思いたい。


店の奥から白髪の店主が現れた。穏やかな笑顔で、年齢がまったく読めない。


「お客さん、"見たいもの"がある顔をしてるねえ」


「え、いや、別に何も——」


「そのメガネ、よく似合うよ。あなたには」


勧められるまま開けた。べっ甲風のクラシカルなフレーム。レンズに度は入っていないようだ。


かけてみた。


瞬間、視界が塗り替わった。


店主の頭上に半透明のウィンドウが浮かんでいる。ゲームでしか見たことのないUIだ。


名前:不明

好感度:31

心の声:『おや、見えるのか。なかなか筋がいい』


「は?」


なつめは三歩後ずさった。足元の古時計を蹴飛ばしかけた。


「な、なに今の」


「おやおや、随分はっきり見えるみたいだね」


店主はにこにこしている。好感度が31から33に上がった。


心の声:『楽しくなってきた』


「勝手に楽しくならないでください! 何ですかこのメガネ!」


「さあ。ずっとうちにあるんだけど、持ち主を選ぶみたいでね。気に入ったなら持っていきなさい。代金は——そうだな、面白い話を聞かせてくれたら、それでいい」


意味がわからない。

でもメガネを外すとウィンドウは消えた。かけ直すと、また浮かぶ。


好感度。心の声。


乙女ゲームのUI。本物の、好感度システム。


やり込み歴八年、攻略動画で何百時間もこの数字と向き合ってきた。見間違えるわけがない。これは、間違いなくステータス画面だ。


「……いただきます」


気づいたら店を出ていた。メガネをかけたまま。

通行人の頭上にウィンドウが次々と流れる。知らない人の好感度は0から5。心の声は『暑い』『腹減った』『帰りたい』。モブそのものだった。


すれ違ったサラリーマン。好感度2。心の声『このあとビール飲みたい』。

犬の散歩をしているおばさん。好感度4。心の声『あら、若い子。メガネ似合うわね』。4から5に上がった。ありがとうおばさん。知らない人の好意が、こんなに温かいとは思わなかった。


なつめの心臓がうるさい。

八年間、画面越しに見てきた世界が現実に重なっている。



翌朝。大学。


メガネをかけて講義室に入ると、見慣れたキャンパスが別世界になった。


友人の佐伯あかりが手を振っている。


好感度62。

心の声:『なつめだ、今日もかわいいな』


——え、62?


「なつめー! おはよ! あれ、メガネ変えた? 似合うじゃん」


「あ、うん……ちょっと気分転換で」


好感度が63に上がった。

心の声:『雰囲気変わった? いいじゃん。なんか楽しそう』


知らなかった。あかりがこんなに自分のことを好いてくれていたなんて。


周囲を見回す。ゼミ仲間が40台。よく話す男子が28。心の声『桐島さん今日も静かだな、話しかけていいのかな』。隣のクラスの顔見知りが15。

数字が並ぶ。全員、ゼロじゃない。


自分は空気だと思っていた。誰にも認識されていないと、ずっと信じていた。


全然違った。


話しかけていいのかな、なんて思ってくれてた人がいた。こんなに見てもらえていたのに、私はずっと下を向いていたのだ。


メガネのレンズの奥で、少しだけ視界がにじんだ。


——そのとき。


図書館に続く渡り廊下の向こうから、一人の男子が歩いてきた。


篠宮蓮。同学年。いつも図書館にいるのは知っているが、話したことはない。無愛想な横顔。イヤホンを片耳だけつけて、誰の顔も見ていない。


好感度が表示された。


マイナス15。


なつめは二度見した。


数字は変わらない。マイナス、15。今まで見たどの通行人よりも低い。面識もないのに。


心の声を読もうとした。


表示なし。


空白。何も聞こえない。好感度の数値だけが赤く浮かんで、その下は真っ白だ。


篠宮はなつめの横を素通りした。視線すら寄越さない。長い足が渡り廊下を横切って、図書館の自動ドアに吸い込まれていく。風に乗って、微かにコーヒーの匂いがした。


なつめは立ち尽くした。


春の渡り廊下に、桜の花びらが一枚落ちた。そんなのは関係ない。マイナス15。その数字だけが頭の中を占領している。


八年間、何百本もの乙女ゲームを攻略してきた。好感度マイナスのキャラクターにも何度だって出会ってきた。


だが、心の声が表示されない攻略対象は、一度もなかった。


「……何、あの人」


メガネの向こうで、マイナス15の赤い数字だけが静かに光っている。


昨夜の配信で偉そうに言った自分の声が、脳裏に蘇った。


——マイナス好感度のキャラクターは攻略しがいがありますよ。だってマイナスってことは、無関心じゃないってことですから。


あの言葉が現実で自分に返ってくるとは思わなかった。


なつめはメガネのフレームに触れた。指先がかすかに震えている。


好感度マイナス15。心の声、非表示。

乙女ゲームで言えば、最高難度の隠しキャラだ。


ゲームなら、ここでセーブを取る。

難易度の高い攻略対象の前では、必ず保険をかける。失敗したらロードすればいい。何度でもやり直せる。


でも。


現実に、セーブポイントはない。

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