甘い香りに誘われて
よく晴れた朝、朝食を終えた僕は、また、会えないとわかっているのに、エメの部屋へと歩いていた。
パンケーキを用意してもらってからこの数日、エメはだいぶ食事を取れるようになってきたとシェフに聞いていたこともあり、会えなくても少しずつ元気を取り戻していることがわかって安心していた。
だから、ただエメの部屋が平穏であることを感じることだけでいいと思って、今日も客間に続く廊下を歩いていたのに___
廊下の窓から、いつもは持ち場に立っているだけの庭の衛兵達がウロウロしているのが見えた。野良犬でも入り込んだのだろうか?時々、入ってくることはあり、誰かに噛み付いては大変だと庭師が追いかけていることはある。
そんな程度に考えていたが、エメの部屋の前まで来ると、何か問題があったのは明らかだった。
いつもは必要な時しか開けられない扉が開けっぱなしで、衛兵達が平静を装いながらも、入れ替わり立ち替わり出入りしていた。
扉の前に立つ衛兵に、一応、尋ねてみた。
「何かあったのでしょうか?」
「貴殿には関係のないことです」
予想通りの返答をされた。そして部屋の中から漏れ聞こえてくる声が僕の耳にも届いていることの気づくと、取って付けたように僕に警告した。
「こちらは、王女殿下が過ごされる場所ですので、関係のない方は、周辺も含めて立ち入らないでいただきたい」
関係のない方――その一言に、僕はカチンときた。ほんの数日、扉の前で立っていただけの者に、彼女が部屋からいなくなったのにも気づけなかった間抜けな衛兵に『関係のない』だなんて言われたくない。
一日程度で急いで集められてここへ派遣されてきた者達だから、多少のエメや僕達への理解がなくても、型にはまった王女に対する態度だとしても、仕方がないと思ってきた。
でも、その衛兵の一言で、僕を抑えていたものがプツッと切れてしまった気がした。宰相の手先から救って預けた先も、エメにとって居心地のいい場所ではなかった。怖い思いをした後、悲しい思いをさせてしまっただろう。可哀想なことをした。
さっきの漏れ聞こえてきた話では、エメが部屋からいなくなったが、外部からの侵入の形跡はなく、エメが部屋から出ていく方法も見当たらない、ということだった。
――― こんな奴らよりも、絶対にエメを先に見つけてみせる。悪いが、この屋敷のことはよくわかっているんだ。
僕は踵を返すと、エメの行き先にだいたいの見当をつけて、大理石の床に必要以上に靴音を響かせて客間の前を後にした。
◇ ・ ◇ ・ ◇
エメの行き先の候補は、たった二つしかなかった。
一つは僕の部屋。
森からこの屋敷に運ばれた時は、まだ衛兵達が到着する前だったので、エメは自由に屋敷内を行き来できた。だから、ラリーが、僕のことを心配するエメを、僕の部屋へ連れてきてくれたらしい。
残念ながら、僕は意識がなかったから全く知らないのだが…。
それで一応、僕の部屋へ行く可能性もあるかと思うが、エメがいた客間からは遠く、一度来たくらいでは迷ってしまうのではないかとの心配がある。
それよりも簡単に辿り着ける場所は……
僕は、甘い香りがする厨房の前に立っていた。入り口からそっと覗くと、近くにいた料理人がパッと笑顔になって「坊ちゃん、お待ちしていましたよ!」と僕の腕を取った。そして、
「シェフ、坊ちゃん、いらっしゃいました!」
そう言ってグイグイと僕を厨房の奥へと引っ張っていった。
僕は予想が当たった安堵と、この歓迎ぶりに思わず笑ってしまった。
厨房の一番奥の方、大きな鍋やフライパンなどたくさんの調理器具をしまっている収納庫の入り口に来ると、その一角に、この場に不似合いな綺麗なクロスをかけ小さな花を生けた花瓶が飾られたテーブルがあり、クッキーやケーキなど色々な菓子とミルクティーのカップが並んでいた。
今ぐらいの時間はいつも、厨房では食後のティータイムのために菓子を用意をしているのを知っている。昔はこの時間を狙って、ここへこっそりやって来たものだ。厨房から屋敷の中まで甘い香りが漂い、それを辿ればここへくるのは難しくないだろう。
そこにエメが申し訳なさそうに座っていた。
「エメ、おいで」
叱られるのがわかってビクビクしている小さな子供みたいで可愛らしいエメに、僕は両手を差し出した。
エメは遠慮がちに立ち上がって僕の方へと寄ってきた。僕は彼女をキュッと抱きしめた。
「心配かけてごめんなさい…」
今にも泣き出しそうな弱々しい声で謝るエメのずいぶん薄くなった肩をさすりながら、彼女の頭にそっと口付けた。
「本当だよ。エメが食事を取れないと聞いて、どんなに心配したことか。こんなに痩せて…、辛かったね」
エメは僕の腕の中で顔を上げた。
「部屋を抜け出したことは、叱らないの?」
心配そうな顔に、僕は笑った。
「あの無愛想な衛兵達は慌ててたけど、僕はエメが行きそうな所は大体わかったからね」
僕が片目をつぶって笑うと、エメも僕につられるように小さく微笑んだ。
「ルゥが、嫌なことがあるとここに逃げてたって話していたでしょう。だから…」
「エメが僕のわかる所にいてくれて嬉しいよ。ありがとう」
「私達も、エメ様がこちらを頼って来てくださって嬉しいです。あとは坊ちゃんにお任せしますね」
横からシェフがそう言って、厨房へと戻っていった。
エメと二人になって、僕は改めてエメをそっと抱きしめた。
「エメ、心細い思いをさせてごめんね」
僕を見上げていたエメの瞳にみるみる涙が溜まっていった。それを隠すようにエメは僕の胸に顔を埋めて、肩を震わせ静かに泣き始めた。
ずっと一人で耐えてきたものを、少しでも受け止めてあげることができればと、僕はエメの涙が止まるまで、肩をさすり、背中を優しく叩きながら彼女を抱きしめていた。




