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いつかのための心の準備

「では、父上は彼らがなぜ逃げてきたのか、ご存知ないのですか?」


「ああ、聞いていない。がっかりしたか?」


父上は少し申し訳なさそうに笑った。


「いえ、少し驚きましたが。父上は事情を知っているものとばかり思っていましたので」


「私が事情を知るということは、何かあった時にこの領地ごと危険に晒すことになりかねない。ジェフは侯爵家の人間だ。彼が逃げなければならないということは、相手は侯爵以上の爵位を持っているということなんだろう」


「………それは…、我が家では対処が難しいですね…」


僕の言葉に父上も頷いた。


「もし、その少女がただ農家の娘か何かで、単なるお前との身分差が問題なら、どこかの貴族に養女に迎えてもらえば解決したんだがな。マナーもきちんと身につけているし、教養もあると聞いている。


だが、我が家より爵位が上の家に逆らうことになるかもしれない問題に安易に首を突っ込む真似はできない…」


「…そうですね」


父上の言う問題というものが見えてきたが、それに対して今の僕にできることが全然見えない。


思わずため息が漏れた。


父上の今の話から、エメは侯爵家かそれ以上の位の家のご令嬢だったと思われる。なんらかの理由で王都から離れてこの地で隠れ住んでいるが、もし問題が解決すれば、元の家に戻るのだろうか。


そのいつかのために、ジュディさんはエメにいろんなことを教えてきたのだろうか。


いつかの時が来たら、エメは王都へ行ってしまい、この領地を継ぐ僕は、もう彼女に会うことはできなくなるんだろうか……。


いくつもの疑問と不安が襲ってきた。


「…彼らは今後どうするつもりなんでしょうか」


「平穏に暮らせるなら、それを変えるつもりはないんじゃないかと思っている。本人の口から聞いたわけじゃないからわからんがな。


ただ、王都からの追手が来たらここから出ていくとだけ聞いている」


エメのことはほとんど何も知らないが、それでいいと思っていた。貴族社会の煩わしい人間関係が嫌になったエメの母親の希望で、エメはあの森で静かに暮らすようになったのかと、そんな程度に考えていた。


それが、追手がかかるような問題を抱えていたなんて。


「問題を解決して、本来の生活に戻るということは…」


「ないだろう。相手と争わずに逃げるとしか聞いたことがない」


「そうですか………」


―――問題が解決してもしなくても、いつか突然会えなくなるかもしれない……


そう思ったら、その後の言葉が見つからなかった。



僕は膝の上に置いた自分の手を眺めていた。指を組んだり解いたりしていたら、右の手のひらにまだ少し赤みが残る傷跡が見えた。


―――そういえば、エメはこの手を包帯でぐるぐる巻きにしてくれたんだった。


あの(さなぎ)のようになった手を思い出して笑みが漏れそうになった。包帯が取れたときは、痛むか心配してそっと触れてくれた。森を歩くときは、いつも僕の手を引いてくれる。ラベンダー色のワンピースを着て階段を降りてきたときは、この手でそっとエメの手を取った。あの時のエメは、本当に綺麗で可愛らしかった―――


「リュウ、今回の休暇の残りはどうするつもりだ?」


父上の声にハッと我に返り、顔を上げた。エメのことを思い出していたら、父上がそこにいることを忘れていた。


「………?どう…、とは?」


「今のお前のスケジュールだと、その子に会う暇なんてないだろう。いいのか?」


「………彼女に会ってもいいのですか?」


父上から、エメと会えなくていいのかなんて言ってもらえるとは思っていなかったから驚いた。


「今話したことから、何が問題なのか、何に気をつけるべきか、お前が整理できたのなら会ってもいいと思っている」


「問題……」


「すぐに整理できそうか?」


「それは…、僕と彼女が過ごすことで、森に住む彼らの存在が王都に知られては問題なので、できるだけ人目につかないように気をつけることでしょうか」


「そうだな。他には?」


「もし王都からの追手が来た時、彼らとは無関係の立場でいなければいけないということですよね」


―――本当に無関係を装えるか、自信はないけれど…


僕の心の声を聞いたかのように父上は困ったように笑った。


「まあ、だいたいは理解できているんじゃないか。あとは実際にそのように行動できるかだろうな」


「………」


再び言葉に詰まる僕を父上は笑って立ち上がった。森が見える窓の前に立ち、外を見たまま話し始めた。


「そうできるかどうかという話はお前だけじゃない。私もだ」


「…父上も、ですか?」


「ああ、ジェフは長年の友人だ。彼が危険な目に遭った時に、正しい選択ができるか……迷うことはあるが、領主として自分がすべきことを何度も考えてきた。いざという時に間違わずに行動できるようにな」


眉間を押さえて難しい顔をして話していた父上は、小さくため息を吐いて僕の方へと向き直った。


「お前も、表立った関係は難しいことはわかったと思う」


それは理解した。僕は父上の言葉に頷いた。


「でもリュウ、お前が大切に思う相手なら、会えるうちに会ったらいいと思っている」


父上の表情が幾分柔らかくなっていた。「それで、」と父上は続けた。


「今後の予定はどうするんだ?少し減らすか?」


今回の休暇は、領主やシュライトン家当主の仕事を学ぶために、父上に様々な交渉や商談の予定を組んでもらっていた。


父上に同席させてもらうものから、僕だけ出席するものもある。この頃、ようやく父上の仕事についてわかってきたように思う。今回は実践的な経験を積む貴重な機会なのだ。


怪我をして一週間ほど動けなかったため、延期してもらえた案件も加わり、休暇の後半はかなり予定が詰まっていた。本当にエメに会えるのは、王都へ戻る当日だけになるかもしれない。


でも―――


「予定通りでお願いします」


「いいのか?」


「はい。まとまって学べるのはあと二年だけです。騎士団に所属したら、今ほど休みは取れませんから」


もちろんエメには会いたい。


すごく会いたい。


でも、自分がすべきことを放り出してエメに会いたいとは思わなかった。


いつかの時にどんな力が、どんな知識が必要かわからないけれど、その時のために、身に付けられるものは何でも得ておきたいと思った。

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