わかっていた現実
バターとミルクを扱う店は、市場の一筋隣の商店街にある。エメがジュディさんと買い物に来た時の話を聞きながら歩いているうちに、また気持ちが明るく、楽しくなってきた。
店の前に着くと、エメは小さく深呼吸をしていた。買い物は一人でしたいと言う。緊張している様子もまた可愛かった。
「僕はここで待ってるから。本当に一人で買いに行ける?」
「ええ、頑張ってみる」
「困ったことがあれば、すぐに呼んで」
「うん、ありがとう。行ってくるね」
エメはそう言って店に入っていった。
すると、程なくして近くにいた男が僕の肩をがっしりと掴み、酒臭い息で喋りだした。
「いやあ、金も地位もある坊ちゃんは、遊び放題でいいねぇ。いずれは良いところのお嬢さんを娶るんだろう。それまでは別嬪な子を選び放題なんだから、羨ましい限りだよ」
酔っ払いの戯言だとわかっていても、言いようのない不快感に襲われた。僕に対する嫌味はどうでもいい。エメが僕の金や地位に寄ってきたように言われたのが許せなかった。
でも、ここで喧嘩なんかしたら、エメに迷惑がかかるだけだ。僕は、その酔っ払いが掴んだ手から逃れると、ただ奥歯を噛み締めた。
店の中にいるエメを今すぐ連れ出してここを離れたいのを堪えて、もう少しだけ待つと、彼女が店から出てきた。
「お待たせ。ルゥ、大丈夫?顔色悪いけど…」
「あ、ああ、大丈夫だ。欲しいものは買えた?」
「ええ、買えたわ。待っていてくれて、ありがとう」
エメの笑顔を見ても、さっきの酔っ払いの言葉がぐるぐる回って僕の笑顔は引きつってるんじゃないかと思った。
これまでも同じような嫌味を言われたことは何度もあったが、聞き流してきた。それが今日はどうにも腹が立ち、心を落ち着かせることができずにいた。
◇ ・ ◇ ・ ◇
店を離れ、馬を取りに戻る道を歩いていた。ここに着いた時の浮かれた気持ちは消え、何を話していいかもわからず無言で歩いた。
商店や市場の通りから外れると、人通りは減り、周りは静かになった。
「……ルゥ?」
僕の少し後ろを歩くエメが、遠慮がちに声を掛けてきた。
「何、エメ」
僕は自分の声の冷たさに驚き、エメの方を振り返ることができなかった。
「ルゥ、何か嫌なこと、街で言われた?」
「別に」
「………そう」
会話は続かず、またしばらく二人とも無言で歩いた。
「……あのね、」
再びエメがおずおずと話し始めた。
「やっぱり…なんの身分もなく、しかも森なんかで暮らす私がルゥの…、リュウ・シュライトン様の傍に居たら、街の人達は好奇の目でしか見ないでしょうから、貴方は嫌な思いしかしないと思うの」
「エメが僕に『様』だなんて付けないでくれ」
エメとこんな話をしたい訳じゃないのに止まらなかった。僕は足を止めず、地面に言葉をぶつけるように続けた。
「それに、自分を蔑むような言い方はしないでくれ。エメは僕の大切な恩人だ。なのになんでそんな言い方……、僕はエメの傍にいたらいけないの?僕とはもう会いたくないっていうこと?待ってるっていうのは嘘だったの?」
僕は何を言いたいんだか、自分でもよくわからなかった。誰に、何に怒っているんだろうか。少なくとも、エメに当たることではない。謝らなければと思ったが、先にエメが話し始めた。
「会いたいと思ってた。待ってるっていうのも、私の心からの気持ちよ」
「それなら、」
「でも、もう会うことはないと思ってた」
「えっ………」
そのきっぱりと言い切った言葉に驚いて立ち止まり、振り返った。エメも立ち止まった。しかし、下を向いて顔は見えなかった。
「…もう、会うことは…ない?………どうして?」
エメの言葉を繰り返す自分の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。エメは視線を地面に落としたまま、静かに話し始めた。
「だって、貴方の隣に立つためには、それに釣り合う家柄と教育を受けていることが必要でしょう。私にはどちらもないの」
「そんなことは僕_」
「ルゥは気にしなくても、貴方の家の方は気にされるわ」
「それは…、僕が…なんとか_」
「なんとかって?私なんかが傍に居たら、きっと不快に思われる。私が貴方のことをお慕いしていると思われたら、会うのを止められるでしょう。貴方の将来は、シュライトン家の、この領地の将来ですもの。貴方の周りが、それぞれの立場で真剣に止めようとするのに、どうやって抗うの……」
だんだんと言葉に感情がこもり、最後は涙声で消え入りそうだった。
僕がまだ漠然としか考えていなかった問題について、エメは既に考え、彼女なりの答えを出していた。
―――僕とはもう会うことはない、という結論を。
今になって、ようやく気がついた。なぜエメが三日前――僕が森の小屋を出る時、あんなに涙を流したのか。僕の馬車を見送るのに、背伸びしてまで手を振ってくれたのか。
僕は、怪我が癒えたらすぐにでも会いに行くつもりだったから、単純にエメにとっては誰かを見送るのが初めてで過剰に寂しがっているだけかと思っていた。
エメは、いつからその結論に至っていたのだろうか。一緒に過ごしている間も、それを心の奥に隠していたのだろうか。いつも明るく振る舞い、僕にはそれを悟らせることはなかった。
そんなエメの気持ちを想像したら、今の彼女の態度も表面だけを見てはいけないと感じた。
「………エメ、この間、僕が森から帰る時、僕と会うのが最後だと思ったから、あんなに別れを惜しんでくれたの?」
エメは、ハッと顔を上げた。必死に堪えていた涙が瞳から溢れ、次々に頬を伝っては落ちていった。




