四十九話 クローヴェル様の上洛
ガルダリン皇国の紋章は虎だ。
これは何故かというと、戦女神様を降臨させて戦った初代皇主は虎に乗って戦ったという伝説があるからだ。帝国の神殿には無いが、ガルダリン皇国の神殿では戦女神様には虎が付き物なんだとか。
城外の敵を追い払って戻ってきた戦女神様は「次は虎を用意しておけ!」と言い残して天に帰られた。無茶を言わないで頂きたい。虎なんか私だって実物を見た事無いわよ。どこに居るんですか!
ランべルージュ様がお帰りになると直ぐに、エメイラ猊下は目を覚ました。
「身体が痛いー!」
と叫んでいたけど、普通に立ち上がっていらした。若さよねぇ。
「なんなのじゃ! 何が起こったのじゃ!」
と、ボロボロになってしまったドレスを見ながら大騒ぎしていらしたエメイラ猊下だったが、彼女の侍女が涙ながらにエメイラ猊下にランべルージュ様が降臨なさった事情をお伝えすると、雷が命中したかのように硬直なさった。
「そ、それはまことか!」
私はニッコリ笑って保証してあげる。
「ええ。立派なお姿でしたよ。ランべルージュ様もご満足の様子でした」
嘘ではない。馬に乗って軍勢を率いる姿はまさに戦女神の化身という立派な姿だったし、軍勢を率いて大暴れ出来たランべルージュ様はご満悦だったし。
私の言葉を聞いて、エメイラ猊下は濃い青の瞳を見開き、次の瞬間ポロポロと涙を零した。
「・・・・・・・よ、余は偽物では無かった、大女神様の思し召しは間違いでは無かった・・・・・・・。あたしはちゃんと、戦女神様の化身だったんだ・・・・・・・」
そして跪いたエメイラ猊下は一心に戦女神様に祈りを捧げ始めた。彼女を囲むガルダリン皇国の者達も跪いて祈る。
エメイラ猊下は大女神様の思し召しを受けてから、両親の元から引き離され、それまで馴染んでいた生活を全て捨てて皇主としての生活と教育を余儀なくされたのだという。
同じように庶民から養女になった私は、親元から引き離される事も無く、教育も段々とゆっくりと始められた。今考えると、お父様は本当に私に配慮してくださった事が分かる。私があの時いきなり親元から離されて隔離されたら、王女になった事を後悔して、実家に逃げ戻っていたかもしれない。
しかしエメイラ猊下は逃げずに厳しい教育にも耐えた。それは、大女神像からの光を浴びた時の強烈な経験(大女神様のお声が聞こえたそうだ)。そして、両親が別れ際に泣きながらもしてくれた激励に応えたかったからだそうだ。
「貴女は戦女神様の化身なのだから、全ての人達のために頑張るんですよ」
その言葉に応えるために、懸命に頑張ってきたエメイラ猊下にとって、自分が戦女神様の化身では無いのではないかという疑いは、全ての根幹を崩してしまう重大なものだった。そんな筈は無いと言いたくても、実際に彼女が加護を授けた軍は負けているし、帝国軍は戦女神様に率いられていたというのだ。
偽者、皇主の資格無し。そういう誹謗中傷を否定するため、エメイラ猊下は私にどうしても会いたかったのだそうだ。大女神様の恩寵篤き聖女であれば戦女神様に会わせてくれるだろう。実際にお会いすれば、絶対に戦女神様は自分をお認め下さる筈だ。と考えていたようね。
まぁ、結果オーライという事で良いでしょう。この感じでは、私が戦女神様を呼ばなければ和親条約の締結は無かったと思われる。単にお呼び立てしたら私がランべルージュ様に怒られてしまう。ランべルージュ様が満足出来る状況になったのだから反乱さまさまだ。
ランべルージュ様もエメイラ猊下には気を遣っていたようだ。怪我して無かったもの。私が身体を貸した時には身体中打ち身だらけ痣だらけだったのに。扱いが違い過ぎるのではなかろうか。
私は二週間ほどそのままクリューガの街に滞在した。エメイラ猊下は皇都に部下を送り反乱の事を調べさせていて、その間私に滞在して欲しいと望んだのだ。
というか、私はエメイラ猊下に無茶苦茶懐かれたので帰らせてもらえなかったのだ。どうしてもいて欲しいと懇願され、和親条約だけで無く、通商条約、なんなら軍事協定を結んでも良いから交渉のために滞在しろと言われた。
まぁ、そういう事ならと、私は渋々滞在に同意した。各種条約が締結出来れば後々助かるのは確かだ。
とはいえ条文などの交渉は官僚同士が打ち合わせて決める。私たちが出る幕はほとんど無い。特にイブリア王国側は私が勝手に承認するわけにも行かず、使者を立てて王都まで走らせてクローヴェル様やアルハイン公爵やエングウェイ様に相談しなければならなかった。
どうやらガルダリン皇国側の反乱は軍の一部と貴族の一部の暴走だったらしく、エメイラ猊下の側近が皇都に向かってすぐに鎮圧してしまったようだ。そしてエメイラ猊下に戦女神様が降臨した話は波のように走って皇国全土を覆い尽くしたそうで、彼女を拝むためにクリューガに国民が沢山やってきたほどだった。
そのような状態だから私は身の安全に怯える必要も無く、一日に一度お屋敷のバルコニーでエメイラ猊下と一緒に集まった民衆に手を振る簡単なお仕事をこなす他は、彼女とお茶ばかり飲んでいたわね。
エメイラ猊下は私と仲良くなると、笑顔も多くなり非常にお可愛らしく、私は何となく妹が出来たようで嬉しかった。もっとも、大国であるガルダリン皇国の皇主としての自覚もしっかりお持ちのエメイラ猊下だから、うっかり油断していると大変な事になる。
特に彼女は私から金色の力の詳細を聞き出そうとしてきたので大変だった。私が教えるわけには行かないと考えているのはお見通しらしく、はっきり正面からは聞いてこない。
「そういえば其方は戦女神様の事をどのようにして知ったのじゃ? イブリア王国には伝承か何か残されておったのかや?」
これにうっかり「いいえ。大神殿で調べました」などと答えると、エメイラ猊下は使いを出して大神殿で調べさせ、金色の力の詳細を知ってしまうかも知れない。私はおほほほほ、と笑って誤魔化して返答を避ける。
それからもあの手この手で聞き出そうとしてきたエメイラ猊下に、結局私はキッパリと言うしかなかった。
「今はまだエメイラ猊下にお教えするわけにはまいりません。私の夫が皇帝位に就き、帝国が安定してその時もまだ、帝国と皇国の関係が良好ならばお教えする事を考えましょう」
エメイラ猊下はむーっと唸ったが、彼女ほどの聡明さなら私の事情も考えもお見通しだろう。結局この時は引いてくれたのだった。
和親条約、通商条約、軍事協定の条項は両国の間で折り合いがついた。軍事協定には国境付近での軍事行動には事前に通知を出す事、国境を越えて暴れる山賊討伐に両国が協力する事。互いに視察団を派遣して軍を公開し合う事が盛り込まれた。
この時に、一応という感じで「両国が外国からの深刻な脅威にさらされた場合には共同で対処する」という項目が盛り込まれた。帝国とガルダリン皇国の深刻な脅威になり得る国家などお互い以外に無い。なかなか秀逸なジョークだわね、とこの時の私は思ったのだが、これが後に大きな効力を発揮することになるなど、この時の私は知る由もなかった。
肝心なのはこの条約は、帝国と皇国間の条約ではなく、南部同盟と皇国の間の条約だという事だった。なので現皇帝陛下や北部連合とガルダリン皇国の関係は改善されていない。それどころか、どうやら反乱を唆したのがフェルセルム様だと気が付いたエメイラ猊下は大変立腹していて、下手をするとクーラルガ王国への侵攻を命じそうな勢いだったわね(もちろん止めたわよ)。
もちろんだが、南部同盟がこのまま拡大して、帝国全土を呑み込んで、クローヴェル様が皇帝になった場合は、この条約は帝国と皇国の条約に成長する。この時点で私もエメイラ猊下もそのつもりだった。
ただ、内戦が長引くとガルダリン皇国がこの条約を足掛かりに介入してくる可能性もある。実際、エメイラ猊下はしきりに私に援軍を出そうかと言ってきた。内戦とクローヴェル様の即位に対する皇国の介入を許すと、即位後に帝国の政治に介入されかねない。私は断固として受け入れなかったわよ。
条約の条項が固まると、私は最終案にクローヴェル様の承認をもらうべく使者を出した。承認され次第、私が代理で署名して条約を発効させる。大女神アイバーリンの元で戦女神の化身と聖女が誓うのだから、蔑ろに出来ない条約になる事だろう。
ところが驚いた事に二千の軍勢と共にやってきたのはクローヴェル様本人とエングウェイ様だった。馬車から降りてきた二人を見て私は目を瞬いた。確かにクリューガの街は王都から丸一日馬車を走らせれば到着するのでそれほど遠くは無いが。
「どうなさったのですか? クローヴェル様が来るなんて」
私が首を傾げながら出迎えるとクローヴェル様は苦笑し、エングウェイ様は渋面を作った。
「貴女がなかなか帰って来ないので迎えに来たのですよ。それと、私もガルダリン皇国の皇主猊下にご挨拶をしたかったのです」
エングウェイ様が付け加える。
「相変わらず能天気ですな。王妃様。北部との対立が風雲急を告げている今の状況で、王妃様が何日も皇国にいるという情報が帝国内にどういう噂となって流れるか、考えてみて下さい」
確かに、敵国と見做されているガルダリン皇国に、私が長く滞在しているのは、事情を知らなければ、またぞろ何を企んでいるのかと帝国中が疑心暗鬼で大騒ぎになる事だろうね。
要するにお二人は私をこれ以上皇国に居させるのは好ましくないと判断して、連れ戻しにいらしたのだ。皇主猊下の要請を振り払って帰国するのが難しい私の事情も考えてくれたのだろう。
それと、もう一つは次の皇帝クローヴェル様と、イブリア王国の国王代理であるエングウェイ様にとってガルダリン皇国皇主との面識は大きな意味があるという事もあるだろう。特にクローヴェル様は皇帝となりガルダリン皇国の皇主であるエメイラ猊下とは対等の関係を築いていかなければならない。直接の面識があるのと無いのとでは関係性に大きな違いが出るだろう。
しかして、クローヴェル様とエングウェイ様はエメイラ猊下にご挨拶をしたのだった。次期皇帝のクローヴェル様は立ったまま頭を下げ、エングウェイ様は跪いて。
お二人の顔を見たエメイラ猊下は目をまん丸にした。言葉遣い以外は庶民っぽさを残しているエメイラ猊下だが、それにしてもあからさまに驚いていた。私の夫と義兄が来た事は知っている筈なのに、驚き過ぎではなかろうか。
「お初に御意を得ます。イリューテシアの夫でありイブリア王国国王であるクローヴェル・ブロードフォードと申します」
クローヴェル様のご挨拶にも口を開けたまま反応が出来ない様子だった。顔が真っ赤だ。なんでしょう? なんとなくその反応は気に入らないのですが。
エングウェイ様とも挨拶を交わし、少し歓談した後、一度クローヴェル様たちは正式な会談の準備の為に下がられた。二人が側近に囲まれて出て行くと、エメイラ猊下は私に向かって叫んだ。
「な、なんじゃあのイケメン二人は!」
エメイラ猊下は頬を赤く上気させて目をキラキラと輝かせていた。私は思わずのけぞってしまう。
「わ、私の夫であるクローヴェル様と義兄であるエングウェイ様ですよ」
「そんな事は分かっておる! あの美男子ぶりはなんぞ? 兄弟と言うたな? 他にも兄弟はいるのか? 兄弟全員あんなに美形なのか? 其方はそれに囲まれておるのか? ずるいではないか!」
エメイラ猊下は皇主として社交に出る度に、どうやら皇主の配偶者の地位を狙っている諸侯の子息に囲まれるらしいのだが、彼女の審美眼を満足させるような美男子に恵まれていないらしい。それがお眼鏡に適う物凄い美男子が、突然二人も目の前に現れたので興奮しているようだ。
「……クローヴェル様は私のですし、エングウェイ様も妻がいて愛人も三人いますよ」
「ずるいではないか!」
エメイラ猊下は地団駄を踏んだが、そんな事で悔しがられても困る。そもそもクローヴェル様でさえ二十五歳で、エメイラ猊下より十以上年上ではないか。エングウェイ様に至っては三十前だ。親子でもおかしく無いほどの差がある。
条約締結交渉の場でもエメイラ猊下の視線は二人から離れず、お顔はデレデレしていた。無茶苦茶面食いねこの娘。こんな政治の場ではもう少し威厳のある態度でいて欲しいものだわ。
無事条約は締結されたので、私たちはクリューガの街を辞去しようと思ったのだが、エメイラ猊下は「泊っていけ! なんなら二、三日!」と引き留めてきた。私もクローヴェル様も困ってしまったが、流石に彼女の侍女や側近が叱ってくれて、私たちは無事に帰国の途に就く事が出来た。
クローヴェル様は苦笑していたが、エングウェイ様はモテた事に満更でもなさそうな顔をしてらしたわね。まったくもう! 男は若い女に目が無いんだから! 奥様に言いつけてやるんだからね!
まぁ、結果的には完全に敵国だったガルダリン皇国と和親条約、通商条約、軍事協定を結び、事実上の同盟関係になることが出来たのである。実に実りの多いガルダリン皇国訪問だったと言って良いだろう。特にエメイラ猊下とは私は個人的友誼を結び、クローヴェル様も理由は兎も角気に入られたのだ。これでこれまでのように一方的に敵視され、前触れもなくガルダリン皇国が侵攻してくるような事は無くなったと思う。クローヴェル様が皇帝になってから条約を進化させ、お互いの国都に大使館でも置いて関係をより親密にして行ければ戦争はさらに遠のくだろう。
私はやれやれと満足感に浸っていたのだが、帰国して数日後、お疲れの取れたクローヴェル様がご自分の執務室に私とアルハイン公爵、エングウェイ様を呼び出した。
何の用でしょうね? クローヴェル様が改まって私たちを呼び出す理由がよく分からなかった。私とだけ話すなら王宮で晩餐の時にでも話せば良いだけだ。わざわざ私とお義父様とお義兄様を呼び出すのだから、国王陛下としてのお話があるという事なのだろう。しかし、このタイミングで国王陛下として公的な話をしなければならない理由が何かあったかしらね? 私は疑問に思いながらも指定の時間にクローヴェル様の執務室に向かった。
国王執務室の会議室にはアルハイン公爵とエングウェイ様がもう来られていた。お二人は自分の部下の貴族官僚を連れていたし、クローヴェル様の補佐の貴族官僚もいるので会議室はかなり満杯だった。内々の話の時は人払いがなされ、三人以外は侍従や侍女だけという事も珍しくない。つまり、今回のこれは公的な話であるという事だ。
クローヴェル様はまだ来ていない。ここはクローヴェル様の執務室なのに、もったいぶって最後に入室する。これも国王陛下なら普通かもしれないが、飾らないお人柄のクローヴェル様としては異例である。これもおかしい。
私は異例尽くめな事にちょっと緊張してきた。見ると、アルハイン公爵もエングウェイ様も表情を固くしている。私たちの様子を見て、貴族官僚(諸侯も含む)の表情も引き締まってきた。
そしてようやくクローヴェル様が入室される。いつも柔らかな素敵な笑顔のクローヴェル様が、笑みを消して鋭い表情を浮かべていらっしゃる。妻である私も初めて見る表情だ。この人にこんな顔が出来たのね、という感じだ。私たちは立ち上がってお辞儀をしてお迎えした。
クローヴェル様は少し高く作られている国王専用席にお座りになると、私たちを鋭い瞳で睥睨した。全員が息を呑む。これは只事ではない。でも、私は何の異変の報告も受けてはいないのよね。何があったのだろう。
しかし、クローヴェル様は静まり返った会議室で大きくはないが張りのあるお声でこう仰ったのだ。
「先日、ガルダリン皇国との和平が成り、後顧の憂いは完全になくなりました。私はこの事で、ついに時は満ちたと判断しました」
クローヴェル様は全員を、特に私を強い視線で見つめてはっきりと仰った。
「私は、軍勢を率いて帝都に向けて上洛します」
「!」
私は思わず立ち上がった。会議室は大きくざわめく。
手が震え、唇が震えてうまく声が出せない。軍勢を率いての上洛。それはつまり……。私を見ながらクローヴェル様は僅かに口元に笑みを浮かべた。
「私は帝都に軍を率いて入城し、次期皇帝であると宣言をします。そしてそのまま皇帝になるつもりです。ここには帰りません」
三百人以上の軍勢を率いて帝都に入場する事は許されていない。それ以上の軍勢を帝都に入れることが出来るのは、皇帝陛下の許可を得た者か皇帝陛下だけだ。クローヴェル様は皇帝陛下の許可を得る気など無い。それはつまり、新たな皇帝となって帝都に入場するという意味だろう。
帝国の過半を制した上に、南部同盟各王の上に立つクローヴェル様の権威は、いまや皇帝陛下を上回る。その実力を以て皇帝陛下の命を無視し、帝都に入城し、皇帝陛下に譲位を迫って皇帝の座に登るつもりなのだ。
そう。南部同盟の盟主であるだけではなく、トーマを従え森の民と同盟を結び、累代の敵国だったガルダリン皇国とまで手を結んだクローヴェル様は歴代の皇帝陛下と比較しても最大の勢力を誇っていると言っても良いだろう。その彼が皇帝の座を望んだ時、今の皇帝陛下が拒絶出来るとは思えない。今更皇帝陛下が北部側に付き、クーラルガ王国、クセイノン王国と共同して対抗してきても、今や実力も権威もクローヴェル様の方が上なのだ。
現皇帝陛下の次代を待つのではなく、上洛して皇帝の位を譲らせて実力で帝位に就く。そういう宣言なのだ。
すごい! 私は感動に瞳を潤ませながらクローヴェル様を見つめた。
当然だが、クローヴェル様に軍を率いて上洛していただいて、帝国中に「クローヴェル様こそ次期皇帝である」と知らしめるという構想は私も持ってはいた。そのための準備も着々と進めていたのである。今や王都から帝都の道は南部同盟の勢力圏内だ。いつでも実行に移せる準備は整っていた。
しかし私が考えていたのは、軍を率いて上洛しても軍勢は帝都近郊に駐留させ、帝都に存在感を見せつけてプレッシャーを掛ける事で帝都での次期皇帝レースを有利に進める事だった。これまでは皇帝陛下に逆らう事は、皇帝陛下を北部側に追いやる行為であるから、まだ時期尚早だったのだ。
しかしながら今ではもう皇帝陛下の不興を買う事はそれほど恐ろしくは無いことだ。ならばもう実力で帝都に乗り込んで皇帝陛下を追いやって実力で登極しても良いのではないか? クローヴェル様はそう考えたのだ。私にはそこまでは思い切れなかった。やはり頭のどこかに現皇帝陛下を敬う心があったからだろう。
現皇帝陛下はまだまだお元気で、クローヴェル様が次期皇帝に決定しても、跡を継ぐまでには何十年も掛かるかも知れない。そんなには待てない。待つつもりはない。クローヴェル様は軍を率いて帝都に乗り込むことでそう天下に宣言するつもりなのだ。
おおおお、私は震えた。クローヴェル様は決断力も覇気もある方だと知ってはいたけど、これほど明確に帝位への野心を露にするとは!
会議室の中はざわめいたが、アルハイン公爵とエングウェイ様は顔色も変えない。真剣だが穏やかな表情でクローヴェル様を見つめている。
「アルハイン公爵とオスリッチ伯爵には王国の統治を頼みます。私が皇帝になった暁には公爵に王位を譲ります」
オスリッチ伯爵はエングウェイ様の事だ。クローヴェル様の言葉に二人は立ち上がって頭を下げる。しかしアルハイン公爵は静かな声で言った。
「ありがたいお話ですが、謹んで辞退させていただきます。できればそのお話は息子に」
「そうですか。ではオスリッチ伯爵に頼みましょう」
「拝命いたしました」
これでイブリア王国の王位はアルハイン家に譲られることが決まった。私も異存はない。私たちのブロードフォード家はこれから皇帝位を代々継いで行く家となるのだ。クローヴェル様の跡はレイニウスが継いで皇帝になる。王国をアルハイン家に譲ると明言したのは、その事を宣言するという事でもある。これまで世襲では無かった皇帝位を世襲に。各王国の調整役だった皇帝を文字通り帝国の絶対的な地位にする。
「一週間後には出立します。ここを出る時は兵二千を連れ、スランテル王国で兵を整え各国の兵も含めて少なくとも三万以上の軍勢を編成します。その兵力を率いて帝都へ入城。逆らう者は打倒すのだと覚悟してください」
全員がクローヴェル様に頭を深く下げ、クローヴェル様の上洛が決定したのだった。
私は興奮していた。いよいよ念願の皇帝位にまであと少しなのだ。三万の兵を率いて帝都へ入城して、皇帝位を奪い、その権威で以て北部連合に恭順を要求。拒絶すれば攻め滅ぼす。そうすれば帝国は遂に、クローヴェル様の元に統一されることになるのだ。
私は王宮に引き上げて意味も無く歩き回り、レイニウスやフェレスティナのところにも行って二人を可愛がった。クローヴェル様が皇帝になればこの二人は皇帝の子供。皇子と皇女になる。特にレイニウスは次期皇帝になるのだ。
そして王宮に帰ってきたクローヴェル様に走り寄って抱き着いて、苦笑する彼の手を取って即席のダンスを踊ってしまった。彼は付き合ってくれながら言った。
「随分と嬉しそうですね」
「それはそうですよ! 遂に、私たちの夢が叶う時が来たのですからね!」
すると、クローヴェル様は柔らかく笑いながらも少し目を細めると言った。
「まだ早いです。最後の最後まで油断は出来ません」
私は踊る足を思わず止めてしまった。確かに、まだ完全に勝負がついた訳では無い。油断は禁物だ。
「フェルセルム様はまだ諦めていませんし、皇帝陛下もさすがに皇帝位を奪われようとしても、平和の方を望むのかどうか分かりません」
皇帝陛下は地位には執着しない性質に思えるが、彼は兎も角、側近や取り巻きの諸侯も同じく考えるのかどうかは分からない。皇帝陛下の譲位を承知しない場合、彼らを粛清する必要が生じるかも知れないだろう。
でも、そのために三万以上というかなりの大軍を率いて行くのだ。この軍勢があれば帝都は実力で陥せるし、北部連合が総力を挙げて迎撃に来ても撃ち破れるだろう。もちろん私も力を出し惜しみせずに使い、フェルセルム様と対決するつもりである。事がここに至っては、私はもう血を流すことを恐れない。クローヴェル様を皇帝に押し上げるためなら自分の手で人を殺すことも辞さない。
しかし、クローヴェル様はそんな私の決意を見透かしたように言う。
「貴女には先に帝都に飛んでもらいたいのです」
私は驚いた。私も当然、鎧姿でクローヴェル様をお守りしながら軍勢と共に帝都へ向かうつもりだったからだ。しかしクローヴェル様は私の右手を両手で包みながら、私の目を見つめる。
「皇帝陛下に譲位を説得してください。私が力で以て皇帝位を奪うのは今後の事を考えると良くありません」
「え? でも、流石に皇帝陛下がそのような事を認めるとは思いませんが……」
「皇帝陛下は誰よりも帝国の将来を案じている方です。私には分かります。私が帝都を軍勢で陥落させるような事態は帝国を混乱させ、衰亡させます。あの方はそんな事はお望みになりません。むろん、単に私が要求したのではダメでしょう。ですから貴女に行って陛下を説得してほしいのです」
……なかなか難しいお願いをされてしまった。私はまだまだお元気な皇帝陛下に譲位を迫るには、軍事的な圧力が必要で、そのための軍を率いての上洛だと思っていたのだ。それを、私が単身で飛んで先に譲位を根回しするなんて。
「リュー。帝都が混乱し、帝国の力が弱まれば、困るのは結局皇帝になる私たちです」
クローヴェル様のお言葉に私は彼のお顔をあらためて見直した。紺碧色の瞳。くすんだ金髪。そして女性的な麗しい輪郭と顔立ち。出会ってからほとんど変わらないそのお顔だが、表情にはある種の厳しさと、威厳が浮かぶようになっている。
そう。もう彼は皇帝になった後の事も考えているのだ。皇帝となった先、そのまた先まで見据えたお顔をなさっていた。とっくに皇帝としての心構えを持っている。そういうお顔だった。皇帝に相応しいお顔だわ。
私は思わず彼の頬にキスをしてしまった。愛おしい旦那様。私の誇らしい夫。私の自慢の皇帝陛下。
「分かりました。ではお先に帝都へ向かい、帝都を平らげてヴェルをお待ちしています」
「ありがとう。あと少しです。あと少しで私たちの夢が叶います。油断せずに行きましょう」
そして私たちは抱きしめ合って、熱いキスを交わしたのだった。
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