四十七話 皇国の皇主猊下
フェメーラをヴェーセルグのところに置いて(女性一人を置いて帰るのは心配だったが、彼女がどうしてもブケファラン神に同乗したくないと言うので)、私は帝都に戻り、その後王都に帰った。
王宮でクローヴェル様に色々と報告する。クローヴェル様は自分の情報網で集めているからほとんどの事情をご存知だった。だが、さすがにフェメーラの計画はご存知無かった。それはそうよね。
「それは願っても無い話ですね。東西交易をどうしようかとは思っていたのですよ。帝都を衰亡させるわけにはいきませんからね」
クローヴェル様は喜んでいた。
「それにロンバルラン王国に隊商の受け入れ拠点を造れば、ロンバルラン王国の発展にも繋がります。コルマドール陛下も喜ぶでしょうし、南部との繋がりも強固になるでしょう」
ロンバルラン王国は国土も小さく、これまでは交易にもほとんど関わってこれなかった。そのための国力の小ささに悩んでいたのだ。交易拠点の整備で東西交易に関わる事が出来れば国力の増強に繋がるだろう。北部から南部に寝返った事で、麾下の諸侯からの信頼を失いかけていると聞く、コルマドール陛下の面目も立つに違いない。
クローヴェル様は手元の紙にさらさらとメモを取っていた。彼の書斎にはそういうメモや書簡が一杯だ。そうやって集めた情報を元に情勢を分析して、使者を出して書簡を届け、人を動かす。そうやって事態を動かしているのだ。
実際、帝都にいると色々な所にクローヴェル様の影を感じるのだ。グレイド様には頻繁に書簡が届き、指示が出されているらしく「夫婦揃って人使いが荒いんですから。貴女方は」とグレイド様がぼやいていた。社交でお会いした王族からも「クローヴェル陛下のお手紙で伺いましたが」などという発言が聞かれる。皇帝陛下もクローヴェル様のお手紙でイブリア王国の色々な事情を知っていらした。
相変わらずお身体は弱くて頻繁に風邪を引かれるし、体力も無い。ほとんどこの王都からも出ない。しかしそんな状態でありながら、様々な方法で帝都にまでその存在感を発揮しているのだ。自分の身で動く私の方がもちろん目立つだろうが、今の帝国を動かす影響力という意味ではクローヴェル様だって勝るとも劣らないだろう。
うふふふ。やっぱり私の目に狂いは無かった。この方を公子三人の中から選び取った自分を褒めてあげたい。メモした紙を見ているクローヴェル様の儚げな相貌を見ながら私は満足感に浸っていた。お見合いで出会ったあの頃、兄たちへの劣等感に苦しみ、暗く沈んでいたあのクローヴェル様はもうどこにもいない。ご自分の才能を見つけ出して発揮し、敵わないと諦めていた父や兄たちを従えて、今やあの頃には想像もしていなかった高みに上られようとしている。
「……まだ早いですよ」
私の心を読んだようにクローヴェル様が言った。私はびっくりだ。
「フェルセルム様はまだ諦めていません。巻き返しを考えています。勝った気でいると足元を掬われますよ。リュー」
クローヴェル様は微笑みながら顔を上げた。どうもやはり本当に私の考えを読んだとしか思えない。驚く私の顔を見て、私がそう考えた事さえ分かったようだ。苦笑して仰った。
「貴女の考える事は見ていれば分かりますよ。あんなに満足そうな顔で私の事を見ているのです。いよいよ皇帝になる時は近付いた、とでも思っていたのでしょう」
全くその通りだ。どうやら私はクローヴェル様には隠し事は出来ないみたいね。私は照れ隠しに言ってみた。
「フェルセルム様が巻き返すと言っても、大勢は決しているではありませんか。ここまで勢力差が付けば、フェルセルム様も愚かでは無いのです。上手く和平をするしか無いと思いますけど」
「リュー。貴女が同じ状況に陥ったなら素直に諦めるのですか?」
……そんな事はありえない。石にかじりついてでも逆転の方法を探してあがくことだろう。なるほど。フェルセルム様も私と同程度には諦めが悪そうだものね。
クローヴェル様は少し眉をしかめながら仰る。
「追い込まれたからこそ、フェルセルム様は手段を選ばなくなる事でしょう。ガルダリン皇国と手を組み、彼の国の軍隊を引き入れる事もあり得そうですね」
これまでもフェルセルム様はフーゼンの戦いの時や帝都防衛戦の時にガルダリン皇国を動かしてきた前科がある。あの時は間接的に唆す事しかしていないようだけど、今回は直接的に働きかけるかも知れないわね。
「ですが、いくら何でもそれは……。帝国に対する反逆になってしまいますわ」
「帝国そのものを手中にすれば後から何とでもなるという考え方もあります。ガルダリン皇国を抑えておく必要があると思いますね」
クローヴェル様はそう言うと、一枚の紙。どうやら折りたたまれていた書簡を手に取った。
「ちょっと手を打ってはあるのですが、少し予想外の展開になっていましてね。迷っているのです」
なんでしょうね。クローヴェル様は本当に迷っているらしく、手に持った書簡をクルクルと回しながら考え込んでいた。むー。何でしょう。まだるっこしい。
「何ですか? 私に関わる事ですか? 早く言ってください」
クローヴェル様はようやく決心したように、私の方に目を向け、手に持った書簡を差し出した。侍女のポーラがそれを受け取り、私に手渡す。何だろう?
「ガルダリン皇国に使者を出して、南部同盟と和親条約を結ぼうと提案したのです。南部同盟内部を通過する交易が増えているでしょう? それもあって今ならあちらも受け入れやすいかと思ったのです」
ガルダリン皇国は帝国を古帝国の地を占領する者として敵視していて、対等な国家として認めておらず、帝国全体とは和親条約や通商条約を結んではいなかった。しかし、実際問題として東西交易で通商関係は普通にあるので、帝国と皇国間での通商条約に類する取り決めはあるそうだ。それでいて通商を行ったまま、何度も何度も帝国に侵攻してくるのだから困ったものなのである。
帝国全体とは別に交易を多くしているクーラルガ王国やオロックス王国では、個別にガルダリン皇国と通商協定を結んでいるそうだ。イブリア王国もアルハイン公国時代から協定があり、使者を出す窓口はあったらしい。
今回クローヴェル様はその窓口を使ってガルダリン皇国に南部同盟との和親条約の締結を持ち掛けてみたのだそうだ。通商では無く和親としたのは、当面必要なのは通商の取り決めではなく、内戦へのガルダリン皇国の手出しを防ぐことだったからだ。
「そうしたら意外な返事が返ってきてしまいまして、ちょっと頭を悩ませているのですよ」
どうやらその意外な返事がこの書簡らしい。私は読んでみた。ガルダリン皇国は帝国とは似ているが違う言葉を話し、書く。私はガルダリン皇国の言葉は問題なく話せるし読める。教育のたまものだ。
どれどれ? と読んでみる。色々修辞が多く、勇ましい言葉も書いてあるが、そうねぇ。全体を要約すればこうなるわね。
「条約を検討するために交渉したい。交渉相手にはイブリア王国王妃イリューテシアを指名する」
……なんで私? なぜ私が指名されているのだろうか。困惑して私が顔を上げると、クローヴェル様も困ったようなお顔をなさっていた。
「どうも聖女と名高いイリューテシアと会ってみたいと。仰ったようなのです」
誰が聖女か。いや、聖女の虚名も利用すると決めたから聖女呼ばわりは許容するとしてもですよ。私の噂ってガルダリン皇国にまで届いているの?
「それはそうでしょう。巡礼者はガルダリン皇国からも山ほど来ています。それが聖都の大神殿で、神殿長のアウスヴェール様にさんざん『聖女イリューテシア』の素晴らしさを吹き込まれているのです。本国でも吹聴しているでしょうね」
なんですかそれは! どうも巡礼帰りの者たちから私の噂は庶民の間にも急速に広まっているらしい。私を讃える吟遊詩人の歌まであるそうだ。何やら私が遊牧民を打ちのめし大神殿で神殿を破壊し、竜に化けてガルダリン皇国軍を追い返し、帝都で死者を甦らせた、というトンデモストーリーらしい。ちょっと待ちなさいよ! 合っているようで合っていないわよ!
「それは兎も角ですね。交渉の相手には貴女が指名され、それ以外の者とは交渉しないと言い張っているのです。逆に言うと、貴女が行ってくれれば、それはこれまでガルダリン皇国が長く拒否してきた和親条約締結のチャンスなのですよ」
それは分かります。別に行くのは良いですよ? これまでいろんなところに飛び回って来たのだもの。今更労は厭わない。でも、何故クローヴェル様がそんなに迷っていらっしゃるのか?
「危険だからです。交渉はガルダリン皇国内でやらざるを得ません。もちろん護衛の軍を付けるつもりですが、貴女をガルダリン皇国内にまで行かせるのは危険過ぎると思うのですよ」
それは、事実上の敵国であるガルダリン皇国内まで行くのでは帝国内部を飛び回るのとはレベルの違う危険を覚悟する必要があるでしょうね。
それにしても……。
「どうして交渉はガルダリン皇国内で『やらざるを得ない』のですか?」
言っては何だが、こんな感じでも私は王妃だ。王妃が国交交渉の場に出るのなら、王妃である私の移動の労を無くすために、交渉をイブリア王国でやると主張してもいい筈だ。相手がガルダリン皇国の、例えば大臣であっても身分的には上である私の都合が優先されるべきだろう。
しかし、クローヴェル様は首を振った。
「相手の身分的に、どうしてもあちらに貴女が出向くしかありません」
は? ちょっと待ってくださいよ。それは交渉相手が王妃である私よりも上の身分であるという事ではありませんか?
例えばこの帝国で私より上の身分の方は、各王国の国王がいる。しかし、王妃と国王の身分差はほんの僅かだ。私は各国の国王陛下には跪かないし、彼らが私を一方的に呼び出すことも出来ない。そんな事をすればイブリア王国とその国の戦争になり兼ねない非礼な行為であると言って良いだろう。
それが出来るのは、帝国では皇帝陛下だけだ。皇帝陛下なら王妃である私を帝都に呼びつけても非礼であるとは言えない。私がいう事を聞くかどうかは別問題として。
……という事は? 相手は皇帝陛下と同等の身分であるという事ではないですか。
「そうです。リュー。あちらは、皇主猊下が自ら交渉に臨むという事です」
はー? 私は思わず大きく口を開けてしまった。はしたない。
「皇主猊下って! ガルダリン皇国の皇帝陛下にあたる方ですよね!」
「そうです。ですから王妃である貴女でも呼びつける事は出来ません」
それはそうでしょうよ。
ガルダリン皇国の皇主は帝国の皇帝陛下にあたる方だ。ガルダリン皇国も多くの諸侯領に分かれているが、竜首の王国のような王国は無く、皇主猊下に絶対的な権限があるのだそうだ。その辺は私たちが目指している帝国の新たな皇帝像に近いわね。
その権威の源は、大女神様から古帝国の地を託されたという伝説だそうで、だからこそ古帝国の後継者を名乗り、古帝国の旧領土にある帝国を敵視しているのだそうだ。でも、そんな神託を大女神様がするかしらね?大女神様って争い事はお好きでは無さそうだし、古帝国の後継者になんて興味は無さそうなんだけど。
いずれにせよ、ガルダリン皇国の皇主猊下が出てくる以上、私が交渉に出向くしかないし、必然的にガルダリン皇国に私が行くしかない。交渉の場所は流石に皇国の国都である皇都ではなく、国境からほど近い城塞都市が指定されているようだ。
しかしながらついこの間戦争をした相手なのだ。しかも、帝都防衛戦では私が竜を呼び出して、戦女神様を呼び出して大活躍したことは、やや不正確ながら帝国中に広まっている。当然ガルダリン皇国も知っていると思われる。
今回の交渉が、ガルダリン皇国の害になる私の排除のための罠だとすれば、安易に応じた私は火の中にノコノコ入って行くウサギのようなものだ。愚か過ぎる。
しかしながら、ガルダリン皇国と和親条約が結べれば、それは今後、クローヴェル様が皇帝になってからも隣国との関係の安定は大きな意味を持ってくることだろう。その絶好のチャンスを我が身を惜しんでふいにするのも、やはり愚かしい行為だと思われる。
だからクローヴェル様もお悩みになっていらっしゃるのだろう。私の安全の事を案じて下さっているのだ。
ちなみにクローヴェル様は、オロックス王国で私が暗殺されかかった事にはやはり激怒なさったのだが、カイマーン陛下から平謝りに謝る書簡と貢物が届いたので一応はお許し下さった。内心は分からないが。この件の事もあって慎重になっているのだと思われる。
でも、本当は行って欲しいと思っているのよね。それに私が危険を冒すだけの価値はある事だとは思う。私はクローヴェル様の後押しをするつもりで言った。
「ヴェル。私、行きますわ」
私が言うと、クローヴェル様の目が揺らいだ。彼が私を直視しないというのはあまり無い事だ。私が首を傾げていると、クローヴェル様は少し悲し気に感じるような口調で仰った。
「私は貴女のために皇帝になると誓ったのに、どうしても貴女に頼り、貴女に負担を掛けてしまいます。情けのない事です」
今更ですよ。私は笑った。
「私は、私の夢のためにやっているのです。ヴェルを皇帝にして、自分が皇妃になるのは私の夢なのです」
クローヴェル様は一度顔を伏せて、上げる。もう表情に迷いはなかった。
「そうでしたね。ではお願いします。リュー。見事ガルダリン皇国の皇主を説き伏せてきてください」
「分かりました。必ず和親条約を締結して見せますわ」
私は立ち上がり、座ったままのクローヴェル様の頭を抱き寄せる。
「私に命令出来るのは、この世でクローヴェル様ただお一人です。ですから自信をもって命令して下さいませね」
◇◇◇
私はイブリア王国軍三千を引き連れてガルダリン皇国との国境を越えた。ガルダリン皇国の国内に入った帝国の王妃は私が初めてだったとは後に知った。
護衛の兵の数はガルダリン皇国に指定された。最初は一千と言われたのだが、王妃を守るには過小であるとエングウェイ様が交渉してくれて、三千になった。
護衛隊長はエングウェイ様自ら来てくれようとしたのだが、そんな事をしたら王都のクローヴェル様が守れなくなるので私が止め、ロイド伯爵という方が来てくれる事になった。私も知っているが優秀な騎士である。
交渉場所は国境を越えて数時間にある城塞都市で「クリューガ」という街だ。イブリア王国との交易拠点でもあり、こちらも街の情報を沢山持っている上、いざという時にイブリア王国に逃げ込み易く国境から援軍を呼び易い位置でもある。
実はこの街は、ガルダリン皇国の皇都からは大体四日の位置にある。つまり、私が移動する距離より、ガルダリン皇国の皇主猊下が動く距離の方が長いのだ。
この事から考えて、私はかなりガルダリン皇国の皇主猊下に配慮されていると言って良いだろう。
クリューガの街に入り、街の奥にあるお屋敷に入る。この街を領する領主のお屋敷で、この屋敷の見取り図などもイブリア王国は保有している。いざという時の逃亡ルートまで事前に検討しておいた。
オロックス王国で暗殺され掛かった時に、カイマーン陛下にされた忠告を真面目に受け取ったのだ。細心の注意を払って安全を確保する。今回は金色の力もまだ使っていないから、いざとなれば力を使って逃げられる。
カイマーン陛下には自ら人殺しをしないと誓ったが、それでも自分の身が危うい時には竜に変じてこの街を焼いてでも生き残るつもりではいた。最優先は私が生き残る事だ。死んだら聖女の評判など残っても仕方が無い。
お屋敷に入って客間に通される。そこでポーラを始めとする侍女達に身支度を整えてもらうと、私は会談が行われるホールに向かった。既に皇主猊下は到着しているからだ。
護衛の兵十五人に囲まれ廊下を進む。庭先にはイブリア王国の兵とガルダリン皇国の兵が交互に並んでいて、統一された作戦行動はどちらも不可能になっている。わざわざそういう取り決めになっているのだ。
私はイブリア王国の象徴色である水色のドレスを着ている、それに加えて南部連合各国の象徴色を宝石の色で表している。オロックス王国はルビーの首飾り、ザクセラン王国は桃色水晶のイヤリング、ロンバルラン王国はエメラルドの髪飾り、スランテル王国はアメジストの指輪。普通はこんな色とりどりの宝石をごちゃ混ぜに身に付けないので、私が南部連合の盟主なのよ! と主張している事は分かるだろう。
ホールの華麗な彫刻が色々施された白いドアが開き、私は警備の兵とお供の官僚貴族数人を伴って中に入った。天井には女神様、おそらくは戦女神ランべルージュ様が勇ましいお姿で描かれている。
その下に、護衛の兵士と官僚か大臣と思しき壮年の男性たちに囲まれ、一人の女性が金と赤のドレスに身を包んで立っていた。・・・・・・え?
流石に私は驚いた。
その女性は、いや、なんというか、女性というより、そう。子供だった。歳の頃は十二、三歳。顔にはあどけなさが残っている。髪は明るい茶色で長く、目は濃い青。かなりキツイ目付きをして顔には笑顔が無いが、なかなか可愛い顔をしている。将来は凄い美人になるだろう。
まさか、この娘が?
「なぜ跪かぬ!」
私が正面に進み出ると、彼女は叫んだ。どうも間違い無さそうだ。
「皇主猊下でいらっしゃいますか?」
彼女はニヤッと笑って叫んだ。もちろんガルダリン皇国語だが私は分かるから問題無い。
「如何にも! 我はガルダリン皇国二十二代皇主、エメイラ一世なるぞ!」
・・・・・・それはいくら何でもあまりにも予想外だった。
ガルダリン皇国の皇主の姿は、帝国では謎に包まれている。帝国の送った使節が謁見する事もあるのだが、必ず高い皇主座に座り、周囲を御簾で囲われている上、直接声を掛ける事も無いのだとか。
なのでガルダリン皇国の皇主が年若い女性であっても誰も気が付くことは出来なかっただろう。当然だが今回の会談で、私はガルダリン皇国の皇主がどんな人間だかも知らずに来たわけである。
それにしてもそんな謎に包まれたガルダリン皇国の皇主がどうしてまた皇都から遠く離れたこんなところまでやってきて、堂々と私の前に姿を現したのだろうか。
「さぁ! 跪くがよい!」
皇主エメイラ猊下は叫んだのだが、残念ながらここで私が跪く訳にはいかない。私は王妃だから階位的には彼女の方が上なので、本来は跪くべきだが、私は近い将来皇妃になる予定だ。ここでエメイラ猊下の前に跪いてしまうと、後々までこの時の序列を引き摺ってしまう可能性がある。
なので私はにっこりと笑い、優雅にスカートを広げて膝を沈めた。ただ、言語はガルダリン皇国語を話した。本来は帝国語を話して通訳させるべきだが、あえて先方の言葉を話す事で敬意を表し、ここで譲ったのである。
「お初に御意を得ます。初めまして、エメイラ猊下。イブリア王国王妃イリューテシアでございます」
跪かなかった事にガルダリン皇国の者たち、エメイラ猊下の側近と思しき男性たちが色を成してざわめくが、エメイラ猊下の方はムッとした顔はしたものの、怒りはしなかった。ふむ、まだ子供だけど、度量はあるようだし、皇主としての自覚もあるんだわ。
「まぁ、良い。其方が『あの』イリューテシアなのか?」
「あの」がどんなニュアンスなのか分からなければ迂闊に頷けない。私は笑顔のまま、頬に手を当てる。
「どのような評判が猊下の耳に届いているかは分かりませんが、私がイリューテシアで間違いございませんよ?」
私がそう言うとエメイラ猊下が青い瞳を輝かせた。どことなくその瞳の色がクローヴェル様を思わせるわね。
「そうか! では其方が『紫髪の聖女』なのじゃな⁉」
ちょっと、アウスヴェール様。ついにガルダリン皇国の皇主猊下にまで聖女呼ばわりされちまいましたよ。どうしてくれるんですか。
しかしながら否定も出来ない。噂されているのは事実だし、私はこの虚名も利用するともう決めている。
「はぁ、そうですね。そう呼ばれることも無きにしもあらずでございますね」
「では! 其方に頼みがあるのじゃ!」
……私はここに和親条約の交渉に来た筈なのに、皇主猊下に頼みごとをされてしまっている件。どういうことなのか。私の困惑など輝く笑顔で押し流して、エメイラ猊下は叫んだ。
「余を戦女神たるランベルージュ様に会わせて欲しいのじゃ!」
興奮するエメイラ猊下は彼女の側近たちに止められ、私と引き離された。それはそうよね。どう考えてもあれは本来の和親条約の交渉とは関係の無い、エメイラ猊下個人の要望だ。
皇国の皇主猊下が、帝国の王妃に頼みごとをする。これ自体が大変問題のある事だ。なぜなら頼み事は基本的にはギブ・アンド・テイク。要望に応えてもらったら謝礼が必要だ。つまりエメイラ猊下が私に頼みごとをするには、相応の謝礼を約束しなければならない。
ガルダリン皇国の者たちにしてみれば、帝国の王妃に頼み事なんかしたら、どんな代償を要求されるか分かったものではない、と考えざるを得ないだろう。私もそんな要望などとりあえずは聞かなかった事にして、用意されていた席に着いた。エメイラ猊下は向かい合って座る。他の者は全員立っていた。
エメイラ猊下は軽く侍女か側近に怒られたらしく、しょんぼりしていたが、席に座ると表情を引き締めて顔を上げた。そうしているとその凛とした態度は大国であるガルダリン皇国の皇主であるという威厳に満ちて見える。
とりあえず、私の横にいる官僚貴族と、エメイラ猊下の傍にいるやはり官僚と思しき男性が話し合いを始める。既に何度か使者の往来があって、条約案のひな形のようなものは出来上がっているのだ。
内容としてはそう大したものではない。ガルダリン皇国と、イブリア王国と南部同盟諸国は国交を結び、敵視し合うのを止めるという約束を結ぼう、というだけの事だ。しかしながら、これまではそれすら結ばれていなかったため、ガルダリン皇国は事前の通告も無しに攻め込んで来ていた。それに比べればかなりの関係の改善になる。
この和親条約では互いに定期的な使節の派遣と、国境を越えての警戒行動の禁止が盛り込まれた。これまではしばしば国境を越えて偵察隊が互いに侵入し、トラブルの元になっていたからだ。これを禁止するという事は国境線を詳しく確定するという事でもある。国境の画定は互いの国家を認め尊重するという事と同義である。
これまで、我が帝国を「古帝国の地を占拠している連中」と見做していたらしいガルダリン皇国が、どうして我が帝国をちゃんと国家と認め、和親条約を結ぶ気になったのか?
おそらくその疑問は、目の前で私をうずうずした顔で睨んでいるこの少女が知っている事だろう。やれやれ。どうもこうも厄介事の気配がするわよ。彼女はなんと言ったのだっけ? 「ランベルージュ様に会わせろ」と言ったんだったわね。
……戦女神ランベルージュ様か。会わせるには金色の力を使って私の身に降臨していただけば良いのだろうけど、ちょっと、あんまりそれはやりたくないのよね。
戦女神様は誇り高い。帝都防衛の時のように私が真に窮地に陥り、お助けを心から願っていれば、私の身体と体力の多大な犠牲と引き換えにご降臨下さり、助力してくださるだろうけど、単に人に会わせたい、などという理由で呼び出したらザーカルト様をしごいた時のように、凄く怒って無茶苦茶な事をするかも知れない。
この少女はどう考えてもザーカルト様よりは軟弱だろう。そんな少女が戦女神様の期待に応えられるとは思えない。戦女神様が本気で怒ったら何が起こるか分からない。
しかしながらどうやらこの様子だと、エメイラ様は和親条約は口実で私に会うために、わざわざ皇都からここまでやってきているようだ。狙いは私にランベルージュ様を呼び出させることだろうね。どうしてそんなにランベルージュ様に会いたいのかは分からないが、この調子ではおそらく、戦女神様とお会いする事を和親条約の締結とバーターにしてくるものと思われる。
お互いの側近同士の話し合いが終わり、条約の内容が最終的に書面にされて私とエメイラ猊下に提示される。聞いていた通りだったので私は頷いて了承する。エメイラ猊下も一通り読んで頷いた。これで二人でこの書面にサインを書いて、一部ずつ保管する。そして二人で大女神アイバーリンに誓えば条約は締結される。
つまり条約を締結する最終的な決定権は私とエメイラ猊下が持っているわけだ。ここでエメイラ猊下は絶対に戦女神様と会わせろと言ってくるだろう。言わせてはならない。猊下ほどの立場の人が「条約と引き換えに要求を呑め」と言ってきた場合、私が受け入れればイブリア王国が譲った事になって、和親条約が対等な立場で結べなくなってしまう。
拒否すればしたで、エメイラ猊下の要求を却下したことで和親条約は締結されず、わざわざ皇都を出てこんな国の端っこまでやって来たエメイラ猊下の顔に泥を塗ることになる。大規模な戦争は必至の状況になってしまうだろう。北部との内戦が大詰めを迎えている今、それもどうしても避けたい。
なので私は機先を制する事にした。
「エメイラ猊下は、ランベルージュ様に何か御用があるのでしょうか? ここでご降臨いただくのは難しゅうございますが、私が承って後日お伝えしてもようございますよ?」
これなら、エメイラ猊下の顔を潰さずに断れるし、エメイラ猊下から要求した事にもならないだろう。和親条約は締結したいのでなるべく穏便に行きたいところだ。
しかし、エメイラ猊下はきゅっと眉根を寄せた。
「なぜじゃ! 其方は聖女であろう! 実際に戦女神様を我が軍との戦いで呼び出したとも聞いておる!」
帝都近郊での防衛戦の話だろう。どうやらその報告で、私がランベルージュ様を降臨させた事を知ったらしい。私は困惑顔の笑顔を見せながら言った。
「女神様にご降臨いただくには色々手順や準備がございます。そう簡単ではございません」
嘘ではあるが嘘ではない。こんな敵地のど真ん中で力を使い果たすわけにもいかないし、戦女神様が怒り狂うこと確定な場面で呼び出すことも出来ない。それなりの場面でなければ。
エメイラ猊下はうぬぬぬっと唸った。どうもさっきから表情に考えている事が出過ぎている。そう。貴族っぽくないのよねこの娘。
エメイラ猊下はやはり貴族らしからぬ大声で叫んだ。
「なぜ其方が戦女神を呼び出せるのじゃ! 戦女神様をお呼び出来るのは余だけの筈じゃ!」
私はびっくりした。え? エメイラ猊下も戦女神様を呼び出せるの? エメイラ様も金色の力の持ち主なの?しかし、エメイラ様はゴショゴショと付け加えた。
「まだ呼び出せた事は無いが……」
なんだそうか。私はホッと息を吐いたのだが、その様子が気に入らなかったのだろう。エメイラ猊下は今度は立ち上がって吠えた。
「じゃ、じゃが! 余は神託で選ばれたのじゃ! 戦女神の化身として!」
意外な言葉に私は目を丸くしたのだった。
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