北へ
ガタンと時折大きく揺れながら、私とアルベルト様を乗せた馬車が北へ北へと進んでいく。舗装されていない道では、時折お尻が浮くことがあり、そのたびに思わず声が出てしまう私を、アルベルト様は気遣ってくださる。
彼の優しい視線に、少し恥ずかしさを覚えながらも、心は温かくなっていった。
「本当に綺麗な馬ですね、翼の生えた馬を初めて見ました。それに角も」
馬車に乗りながら、感動を口にするとアルベルト様が静かに微笑んでくれる。
「翼があるということは、この馬は食べるのですか?」
「あぁ、もちろん。乗り手の魔力にもよるが、風の魔力の使い手が乗ると数百メートルなど瞬きする間だ」
それはすごいが、身体は付いていけるのだろうか。私は馬から吹き飛ばされる自分の姿を想像して身震いをした。
今回の派遣は王子と私が行くことは公にされていないため、煌びやかな王室の馬車ではなく、小貴族がよく使う、丁寧に彫られた模様が美しい小綺麗な馬車が選ばれた。
馬車の中は、静かで穏やかな雰囲気に包まれている。男性陣は動きやすいジャケットにベスト、シャツといった普段着で、この世界に来て初めてのラフな格好だからかいつもより緊張感が薄らぐ。
私も初めは同じ服を希望したが、アルベルト様とラルフにあっさりと拒否され、結局シンプルだが質の良い膝下の、襟元にフリルの付いた小綺麗なワンピースを着ることになった。
馬車にはアルベルト様と私が、ラルフとコルティアナという名のメイドは馬に乗って後を追っている。
コルティアナさんは、若草色の髪をまとめ可愛らしい見た目とは対照的に冷静で落ち着いた女性だ。時折、私の方をそっと見て微笑んでくれる温かな眼差しが心強い。
一国の王子との旅にしては同行人数が少ないが、ラルフやコルティアナさん、御者さんも相当な手練れらしい。
人は見かけによらないという言葉が、ここにいる皆を見て改めて感じる。
派遣先はヴェルナード王国の北に位置するピピアーノ高原。北の隣国との国境にもなるノルド川の少し手前にある乳産業が盛んな地域である。
夏は標高の高い場所で、冬は平地でプエという牛に似た動物と共に暮らしている。プエから搾乳したラッテや、それを加工したプロマ(食べてみたらチーズだった)は国の常食になっており、貿易の主流商品なんだそう。
前々から雨が降らず、プエの食べる草が減り出荷数が減っていたが、最近では出荷が途絶え、連絡すら取れない状態だ。他国とも関係する大事な商品ということで、今回アルベルト様が向かうことになった。
とは言っても、今回は状況把握だけで特別何かをするわけではない……はず。気負わずにと王様が出発前に声をかけてくださったが、期待しているとがっつり顔に書いてあったのは気のせいだと思いたい。
「ふぁ~」
馬車の一定の振動が心地よい眠気を誘う。
王都を抜けてから枯れ果てた大地に向かって思わず水を放とうとしたが、目立つからと全員に止められてしまいやることがない。
王子の前だというのに欠伸が出てしまい慌てて口を隠したが、対面に座るアルベルト様に見られ、彼は眉間にシワを寄せた。
「疲れたか?今夜泊まる村までは先が長いから、一眠りしてもらっても構わない」
「いえ、まだ大丈夫です」
「魔力の使い方が安定しないうちは、体力の消費も激しくなる。ラルフに聞いただろう? それなのに君は遠慮なく魔力を使うから、見ているこちらがヒヤヒヤする」
「ご心配をおかけしてすみません。でも、私ができることはやっておきたいんです」
休憩の際に小さな集落に停まる度、私は唯一できる魔法を使っていた。
魔法で水を出し、井戸に貯水する。
調査に出発するまでの一ヶ月間、魔法訓練を重ねてきたが、どれだけ頑張っても水を出すことしかできなかった。
両手を前に向けて念じれば、止めどなく水がジャバジャバと出てくるので、水道になった気分になる。私は人よりも魔力量が多いらしく、どれだけ使っても魔力が尽きる気がしない。
地味で一時の凌ぎにしかならないが、何時間も歩いて湖や川に水を汲みに行くよりはマシだろう。
その作業が数日間でもなくなれば、人々は他の仕事ができ、子どもたちも親と過ごす時間が増える。
ただ一つ問題があって、魔法を使い慣れていないせいで、先ほどアルベルト様が言っていた通り、とにかく疲れる。
「安心して眠るといい、次の村で一泊する。マリが寝ている間に通り過ぎることはないし、もしあったとしても君を起こすことを約束するよ」
何度か船を漕いでいる私を見て少し考える素振りを見せた後、アルベルト様は私の隣に移動してきた。
彼は私の頭にそっと手を添えると、自分の方に引き寄せたので、体を預ける形になってしまった。
「ア、アルベルト様!? 誰かに見られたら……!」
「見られないようにカーテンを閉めておこうか」
慌てる私とは裏腹に、アルベルト様は余裕のある笑みを浮かべて馬車のカーテンを閉めた。
閉め際に馬に乗るラルフと窓越しに目が合うと、彼はぎょっとした顔をしていた。あの顔は失礼じゃないか。
「さぁ、お休み。眠り姫」
さすが王子様、時々こうやって甘い言葉をかけて私をドキッとさせる。考えないようにしていたキスも思い出してしまい、心臓がうるさい。絶対に寝られそうにないが、私は観念してとりあえず目を閉じることにした。
視覚がなくなると急に体のダルさを感じ、意識はあっという間に深く沈んでいった。
―――――
馬車が急に止まった振動で、私は目を覚ました。もう目的地に着いたのだろうか。
御者が手綱を引き、二頭の馬が小さく鼻を鳴らしているのが聞こえる。アルベルト様がカーテンを開け、外の様子を伺った。
「どうした?」
「前方に倒木がありまして、道を塞いでいます。何者かが意図的に置いた可能性もあります」
御者の言葉に、アルベルト様の表情が険しくなる。ラルフとコルティアナさんはすぐに馬を降り、警戒しながら倒木に近づいていった。
「アルベルト様、私も手伝います」
思わず口に出してしまったが、彼は即座に首を横に振る。
「マリ、ここにいなさい。君に危険が及ぶことは避けたい」
その一言に反論する余地もなく、私は馬車の中で待つことにした。外ではアルベルト様とラルフが倒木を調べ、周囲を警戒するよう指示を飛ばしている声が聞こえる。
「……なにか動いた?」
コルティアナさんの緊迫した声が響き、すぐにラルフの鋭い叫びが続いた。
「伏せろ!」
馬車の中で体を縮めると、矢が風を切る音、そして何かで弾かれる音が連続して聞こえた。息を呑み、全身が強ばる。外のやり取りを聞き取ろうとしても、心臓の音がうるさくて何も聞こえない。
非現実な出来事に、頭が追いつかなかった。私は目をぎゅっと閉じ、耳を覆いながら、早く終わるようにと祈ることしかできなかった。
どれほど時間が経ったのかわからない。やがて静けさが戻り、馬車の扉が開く音がした。そっと目を開けると、アルベルト様が戻ってきていた。
「大丈夫だ、マリ」
彼の声は驚くほど穏やかだった。私が怯えているのを悟ったのか、彼はそっと私の肩に手を置き、安心させるように微笑む。
「襲撃者たちは、貧困に追い詰められた者たちだった。ここ一帯は比較的安全な場所だと思っていたんだが……」
アルベルト様はそう言いながら、静かに私の手を取って握った。その温もりに、少しだけ安心感が広がる。
「怖かっただろう? 大丈夫か?」
彼の優しい声が、まるで私の心の中を見透かすように響く。無理に笑みを作るが、身体の震えはどうしても止まらない。
馬車が再び動き出し、ゆっくりと進み始める。
アルベルト様は何も言わず、ただ私の隣で静かに手を握り続けてくれた。その優しさに、私はただその温もりを感じることしかできなかった。
やがて馬車が止まり、私は静かに外へ降り立った。 心が落ち着かず柔らかな草が足元に広がっているのを感じても、先ほどまでの興奮や無邪気な感情は影を潜めていた。
ピピアーノ高原に到着したようだ。涼しい風が肌を撫で、王都とはまるで違う、清らかな空気が漂っている。それでも、周囲の静寂には不安を覚えた。
「マリ様、周囲に気を配ってください。皆から離れないように」
背後からラルフの低い声が響く。振り向くと、彼の鋭い緑の瞳が私をじっと見つめていた。道中、何度も倒れかけて迷惑をかけたこと、そして襲撃事件への彼の緊張感が、その視線から痛いほど伝わってくる。
「……気をつけます」
小さく答える私に、ラルフは「そうしてください」と白い手袋をはめた指で眼鏡を直しながら冷たく言葉を返した。
その瞬間、アルベルト様の穏やかな声が間に入る。
「ラルフ、それくらいに。彼女だって努力している。村の人々は、マリに感謝していたじゃないか」
アルベルト様の言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。それでも、彼の優しい視線を受け止める自信はなく、私は目を伏せた。
そのとき、そっと肩に触れるような温かい声が耳に届いた。
「無理をしている顔をしていますよ。少し休んで、体を労わってくださいね」
振り向くと、コルティアナさんが優しく微笑んでいた。その笑顔は、まるでこの場の冷たい空気を溶かすようで、ぎゅっと縮こまっていた胸の痛みが少しだけ和らぐ。
「……ありがとうございます」
その言葉しか返せなかったけれど、彼女の気遣いが心に染み入るのを感じた。
そんなやり取りをしていると、アルベルト様とラルフの表情が同時に険しくなるのが見えた。
「それにしても、静かすぎる」
「はい。虫や動物の気配が全くありません」
私も周囲を見渡すが、一面の緑の草原に動く影はなく、風がそよぐ音だけが聞こえる。そして、遠くに見える村の方を見ると、夕暮れ時にもかかわらず、家々に灯りが灯る気配がない。人の気配も感じられず、不気味なほど静まり返っている。
「あの村に泊まる予定だったが、今夜は野営を考えた方が良さそうだ」
「承知いたしました。では、今から結界を張ります」
ラルフが短い呪文を唱えると、薄茶色の光が私たちを包むようにドーム状の結界を作り上げた。その結界の中にいると、少しだけ安心できる。
「夜は冷えるな、温度を調整しよう」
ラルフに続き、アルベルト様も静かに呪文を唱える。彼の体から柔らかな光が広がり、結界の中がじんわりと暖かくなった。
その魔法の優しい暖かさに触れると、少し心が落ち着が、ふと冷静になると、周囲の静寂と自分の無力さが胸を締め付ける。
この世界の人々は、当然のように魔法を使い、精霊と共に生きている。それに比べて私はどうだろう。少しでも彼らの力になりたいと願いながらも、結局は助けられるばかり。
草の香り、見渡す限りの広大な高原、頬を撫でる風――その全てが、自分が生きてきた世界ではない、異世界にいるという現実を改めて突きつけてくる。
「マリ様、大丈夫ですか?」
コルティアナさんの優しい声に、ハッと顔を上げた。
「……はい、大丈夫です」
そう答えるしかなかった。自分の無力さを認めつつも、この世界でどうにか前を向いて生きていく――その決意だけが、今の私を支えているのだと思う。
[プエ]




