アルマ帝国3
深い眠りへと落ちていく感覚と、自分の意識がどこにあるのか分からない不安定な場所。
……また、泣き声が聞こえる。
透き通った女性の悲しい声。
声の方へ駆けていくと、そこには長い白銀の髪をたなびかせた女性が、膝を抱えて座り込んでいた。
「あの……どうして泣いているのですか?」
恐る恐る声をかけると、彼女は顔を上げず、掠れた声で囁いた。
『悲しいの……。全てが、奪われてしまった』
私は戸惑いながらも、その女性の隣にそっと腰を下ろした。
あたりには、細かな氷の結晶がキラキラと舞い散っている。アルマ帝国のお城に似ているが、凍てつく死を感じる所ではない。幻想的で、命の輝きを感じる銀世界。
女性からはエアリーナさんやリアン様と同じ神聖な気配がする。
『始めて愛した人がいたの』
髪色と同じ白銀の瞳が、涙をためながら私を見る。
『でも駄目ね。住む世界が違いすぎたわ。信じていたのに……。あんなに、あんなに愛していたのに……!』
彼女から伝わるのは、裏切られた絶望と引き裂かれた悲しみ。
「辛いですね……」
私の言葉に、彼女が涙をためた白銀の瞳をこちらに向ける。
『……辛いわ。辛いの。だから、貴女の力を頂戴よ?これがあればまた私は雪の中を舞えるわ!』
「え?」
真っ白な手が私の首元に伸びてくる。
触れるか触れないか、その瞬間私は弾かれたように目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、冷たい氷の柱。
夢の余韻のせいか、体の震えが止まらない。
ベッドから体を起こそうとした、その時だった。
「……うなされていましたが、悪い夢でも見ましたか?」
すぐ傍から聞こえた低い声に、心臓が跳ね上がる。
驚いて振り返ると、ベッドの脇にラルフが立っていた。いつの間に部屋に入ってきたのだろう。その手には、温かいスープやパンののったお盆がある。
「ラルフ……。どうしてここに? 見張りが来るんじゃ……」
「少しの間なら、私がここを見張ることに不自然はありません」
彼は淡々と言いながら、お盆を枕元の机に置く。
相変わらず古金色の瞳は冷たい仮面を被っているようだけれど、私を見る眼差しは、やっぱりどこか揺れていた。
「食べてください。体力を失えば本当に死んでしまいますから」
「……ありがとう」
お椀を受け取ると、スープから立ち上る湯気が、凍えた指先をじんわりと温めてくれた。
一口すすると、素朴だけど優しい味が体中に染み渡っていく。
「パンは捨ててください。 良くないものが混ざっています」
その言葉に、バルディ宰相の話を思い出した。人の思考を奪うもの。私は恐る恐るパンを半分に裂くと、その半分をそっと布で包み隠した。
「ところで、ラルフ。さっき、白銀の髪の、とても綺麗な女の人の夢を見たの」
スープを飲みながら私が呟くと、ラルフの身体が微かに強張った。
「……そうですか」
ラルフは淡々と答えると、ベッドの端にそっと腰掛ける。
「白銀の髪と瞳を持つ女性には覚えがあります。何か言っていませんでしたか?」
「愛する人が奪われたと、泣いていて……。私の力が欲しいって、言ってた」
「っ!……勝手なことを」
ラルフは顔を歪める。
「儀式は4日後です。それまで、大人しくしていてくたさい」
「ラルフ、あなたは本当に私を……その、お父様に差し出すつもりなの?」
私の問いに、ラルフは答えない。
泣き出しそうな、それでいて全てを諦めたような横顔。
「大人しくしていてください、マリ様。……貴女がこれ以上傷つかない方法は、それだけだ」
私は服の上から、アルベルト様の金のペンダントをそっと握りしめた。
「ラルフ、私、諦めないよ」
「言うのは簡単です」
感情のない声で、答えると、彼は立ち上がる。
「では、私は行きます」
今度はガチャンという重い音ではなく、静かに扉が閉まる音が響いた。
一人になった部屋で、私はスープを飲み干し、手のひらの翠の紋様を見つめる。
「アルベルト様……」
ふとこぼれた名前。
寂しくなってしまう気持ちをぐっと押し込む。
(弱気になっちゃダメ。アルベルト様は絶対に助けに来てくれる。私はここでできる限りのことをしなくちゃ)
これでも数々の修羅場をくぐり抜けてきたのだ。私は気合を入れ直しながらじっと部屋を囲む青い氷を見つめていると、ある単純な事実に思い至る。
「……氷って、水だよね?」
水には記憶があると聞いたことがある。もし、凍りついていたとしても、この青い氷の声を聴くことができるかもしれない。
「……よし」
私は深呼吸をして、エレーナ様に言われた通り、恐る恐る自分の魔力を極限まで抑えながら、青く不気味な氷にそっと触れた。
その瞬間、冷気と共に、濁流のような情報が私の頭の中に直接流れ込む。
視界が歪み、この国の歴史が、まるで走馬灯のように頭を駆け巡っていく。
氷の精霊王の激しい悲しみ。
彼女から力を奪い、力を奪おうとした人間のエゴ。
それによって大地から魔力が吸い尽くされ、アルマ帝国が世界から隔絶された氷の国へと変わっていった歴史。
そして――。
記憶の濁流の最後に、一つの映像が浮かび上がった。
若き日の皇帝の隣で、優しく微笑む一人の美しい女性。誇り高く慈愛に満ちた翠の瞳。そして、その腕には小さな命が抱かれていた。
「……やっぱりエレーナ様は、ラルフのお母様だ」
確信が胸を突いた。
彼女の翠の瞳は、先ほどまで私の目の前で今にも泣き出しそうに歪んでいた、ラルフと同じ眼差しだったから。
エレーナ様は、大精霊の呪いと皇帝の狂気に巻き込まれながらも、息子を、そしてこの国を救おうと地下で息を潜めている。
(ラルフ、あなたは沢山のものを抱えていたんだ)
氷から手を離すと、手のひらの翠の紋様がかすかに熱を帯びたように感じられた。
この国を縛る呪いの正体も、エレーナ様の優しさも分かった。ただ怯えて待つだけの時間はもう終わりだ。
「よし……名付けて、全部水に流そう作戦!」
私は小さく拳を握りしめた。
先ほど氷の記憶を探った際、この国を覆う不気味な青い氷が、この城だけでなく街の隅々にまで張り巡らされていることが分かった。
これこそが皇帝の「眼」であり、国民からも魔力を吸い上げる「管」なのだ。常に監視され、支配されている国。
――なら、元はただの『水』であるこの氷を、私の力で全部溶かして流してしまえないだろうか。
すべてを氷漬けにする呪いごと、大洪水でリセットする。人魚の力を使えないだろうか。
「フォンテがいてくれたらな……」
私だけではこの力の使い方を探るには限界がある。
そう思った瞬間、どこからか、微かに水が弾けるような音が耳に届いた。
――え?
「フォンテ……?」
誰もいないはずの氷の部屋に、私の呟きがぽつんと落ちる。
すると、天井のシャンデリアの隙間から、一滴の水滴がぽつんとベッドの上に落ちた。その水滴が、淡い光を放ちながら見る見るうちに小さな女の子の姿へと変わっていく。
“やーっと、来られたー!”
「フォンテ! どうして……!」
私は思わず声を上げた。
“水の大精霊だもの。水のあるところ、マリのいるところ、どこにだって行くんだから!”
いつものように元気いっぱいに胸を張るフォンテ。けれど、よく見るとその小さな身体はいつもより透き通っていて、背中の羽はボロボロに傷ついていた。私を探すために、相当な無理をしてここまで来てくれたのが一目で分かる。
「フォンテ、その羽……魔力も凄く弱くなってる……」
“ううん、平気平気! ……でも、この国は本当に酷いね。普通の精霊は一匹もいない。この土地の力を吸い取りすぎちゃってるんだよ”
「……皇帝が、人々の魔力を吸い上げているから?」
あの痛々しい装置を思い出して尋ねる。けれど、フォンテは悲しげに首を横に振った。
“皇帝と言うよりは……氷の精霊王のせいかな”
「氷の精霊王……」
夢の中で私の首を絞めようとした、あの白銀の髪の女性の姿が脳裏をよぎる。
“精霊王って言っても半端だけどね。あの子の呪いが、この国の全ての水を凍らせて、他の精霊たちの力まで全部独り占めにしちゃってるんだ。だから、ここへ入るだけでも消えそうになっちゃった”
フォンテは傷ついた羽をきゅっと抱きしめながら、私を真っ直ぐに見つめた。
“でもね、マリ。あの子がどれだけ氷で世界を閉じ込めようとしても、氷は元々、私たちの仲間である『水』なんだよ。マリがやろうとしてること、私も手伝う!”
「フォンテ……」
心強い相棒の言葉に、胸の奥の不安がすっと消えていく。私一人じゃ頼りなくても、フォンテと一緒だと何でもできる気がしてくる。
「ありがとう、フォンテ。まずは少しだけでも、私の力でその傷を癒やさせて。それから、相談したいことがあるの……」
私はフォンテをそっと両手で包み込み、静かに温かい魔力を彼女へと注ぎ込んだ。
それから、嵐の前の静けさのような時間が過ぎていった。
ラルフが言った通り、4日間、私はこの部屋から一歩も出されず、魔力を使うことも許されなかった。バルディ宰相が仕込んだパンは、毎食こっそりシーツの裏や布に隠し、スープだけで体力を繋いだ。
そして、運命の日。
ガチャン、と重々しい鍵の音が部屋に響き渡る。
現れたのは、儀礼用の豪奢な黒い軍服に身を包んだラルフだった。その表情はいつにも増して冷徹で、完全に感情を殺した鉄の仮面を被っている。
「時間です、マリ様。……行きましょう」
彼は私の手首を掴むと、拒絶を許さない力強さで歩き出した。
連れて行かれたのは、あの皇帝とバルディ宰相が待つ、儀式の祭壇。
廊下を進む間、ラルフは一度も口を開かなかった。けれど、私の手首を握る彼の指先が、かすかに、本当に微かに震えているのを私は知っている。
私は袖の中に隠した手のひらの翠の紋様を、そっと親指でなぞった。




